ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

トロヴァトーレ

● ハイC 効果 荒川区民オペラ第19回公演:『イル・トロヴァトーレ』

トロヴァトーレ荒川ポスター


演目 ジュゼッペ・ヴェルディ作曲『イル・トロヴァトーレ』
日時 8月12日(日)14:00~
会場 サンパール荒川(大ホール)(東京都荒川区)
指揮 小崎 雅弘 
演出 澤田 康子 
出演 
 レオノーラ:森 美津子(ソプラノ) 
 マンリーコ:小笠原 一規(テノール) 
 ルーナ伯爵:佐野 正一(バリトン) 
 アズチェーナ:河野 めぐみ(メゾソプラノ)
 フェランド:比嘉 誉(バス)
合唱  荒川オペラ合唱団
管弦楽 荒川区民交響楽団

 昨年の『蝶々夫人』は素晴らしかった。荒川区民オペラの実力を知った。
 今年はソルティの大好きな『トロヴァトーレ』。このオペラのためなら30度越えの外出もなんのその。

 公演は土日の二日間で主要な役はダブルキャストであった。11日は昨年見事な蝶々夫人を歌いかつ演じ、客席の紅涙白涙絞り尽くした西本真子がレオノーラを歌う。食指が動いた。が、主にイタリア中心に海外での活躍目立つ森美津子のレオノーラ(12日)も気にかかる。新進気鋭のテノール小笠原一規のマンリーコも聴いてみたい。なんといってもこのドラマチックなオペラの随一のクライマックスは、3幕2場で母親を敵方に捕らえられ猛り狂ったマンリーコの放つ、決めのハイC(高いド)ロングトーンなのだ。若い声帯がモノをいうのは間違いない。
 そんなわけで、今回は12日(日)を選んだ。ケチケチしないで両日行けばいいんだが、それやってしまうと、ダブルキャスト公演はすべからく両方とも見たくなってしまう。

 指揮は昨年同様、小崎雅弘。
 まず、のっけからオケが鳴らしてくれる。メリハリが効いて、思いっきりが良い。そう、多少の失敗など恐れず果敢に打ち鳴らしてこそ、このドラマに必須の情熱と興奮、そして臨場感をもたらす。時は中世、場所はスペイン、背景は王位継承をめぐる熾烈な戦い。鳴らさんでどうする!
 昨年に続き、小崎はオペラ指揮者としての類まれな力量を見せつけてくれた。

 出だしの男たちの合唱&フェランドの歌唱も素晴しい。比嘉誉は朗々と良く響く低音で、陰惨で薄気味悪い物語へと観客を誘い込むのに成功した。
 ここまでは文句ないスタート。

 が、どうしたことか。
 そこから勢いが失速していく。
 レオノーラ役の森美津子登場。調子が今一つで声が響かない。アリア「穏やかな夜」を無難に歌い終えたが、感動には至らず。もっとも、イタリア語の発音の見事さとドレスを美しく見せる洗練された身のこなしは本場で鍛えられた賜物であろう。優雅そのもの。
 続いてルーナ伯爵の佐野正一。最高音は半音下がり目だったものの、最初から最後まで声と演技を見事にコントロールして、役柄を保ち続けたのは立派。
 舞台外から聞こえてくるテノールの美声は小笠原一規。ソルティの持っている『トロヴァトーレ』CDの比較で言えば、パヴァロッティやディ・ステファノのようなイタリアの突き抜ける青空のごときあっけらかんとした(悪く言えば脳みそがちょっと軽い感じの)テノールではなくて、やや暗めの湿り気のあるテノールである。ユッシ・ビョルリンクのような。『リゴレット』のマントヴァ公爵なら前者だろうが、流浪の民の哀しみと暗さを抱える中世の吟遊詩人(トロヴァトーレ)には小笠原の声はふさわしい。
 1幕終場、一人の女をめぐる二人の男(本人達は知らないが実の兄弟である)の文字通りの鞘当て。三重唱の恋愛バトルが繰り広げられる。
 歌い手の声量の問題か、オケの音が大きすぎるのか、会場の音響効果のせいか、原因は分からないが歌手の声がオケに消されがち。これでは歌を楽しめない。ドラマにも入り込めない。
 歌とオケのバランスが良くない。 

 2場はジプシーのねぐら。槌音まじえた活気ある合唱で始まる。
 アズチェーナ役の河野めぐみは、細い身体で頑張っていたと思う。おそらく数あるオペラの役の中で間違いなく難役トップテンに入るであろうアズチェーナに、体当たりで臨んでいた。この役をリアリティもって歌いかつ演じられるメゾソプラノは世にそういないと思われる。とくに感情を抑えがちで淡泊な日本人には難しい。その意味で敢闘賞ものだった。
 ただ、衣装が良くない。河野の細くて美しい両足を見せてしまう丈の短いスカートをどうして履かせたのか。あのモデルのようにスレンダーな若々しい足が見えては、マンリーコ(小笠原)の母親にも、ジプシーの老婆にもまず見えない。スカートの丈なんかどうにでもできるはずなのに、なぜ隠さなかったのか。
 まさか客席の殿方へのサービス?←セクハラ発言でした。容赦🙇🙇🙇

 演出も昨年同様、澤田康子。
 奇を衒わないオーソドックスな演出だった。合唱の多いこのオペラでは、いきおい集団シーンが多い。合唱団のメンバーは有志の荒川区民だろうから、プロに対するような難しい注文はつけられまい。そこを考慮すれば、妥当な演出だったと言えよう。3幕1場の兵士たちの合唱「兵士のラッパは高鳴り」で合唱隊が足踏み行進しながら横一列に並ぶシーンは、客席にいるであろう出演者の親類縁者へのサービスという意味も含めて、愉快であった。区民オペラならではの味である。

 客席の反応は昨年の『蝶々夫人』に較べると硬かった。『トロヴァトーレ』を観るのははじめてという人が多かったのかもしれない。『蝶々夫人』や『カルメン』に比べれば知名度は低いし、筋も複雑で、あらすじを一回読んだだけでは理解し難い。幕間でも、戸惑いがちな表情や言葉が周囲に見られた。
 こういう場合、開演に先立ち、物語の時代背景やあらすじに関するレクチャーがあっても良いのではないか。舞台衣装を着けた歌手たちを登壇させて、たとえば演出家が登場人物の人間関係や置かれている立場を講談のように面白おかしく説明する。そうすれば、観客は物語に入りやすくなるし、客席と舞台との距離も縮まる。のっけからいい雰囲気が生まれよう。区民オペラなればこそ、そういった庶民的な試みが期待されても良いのではなかろうか。

トロヴァトーレ荒川


 「このまま終わったら、ちょっと残念だなあ」というソルティの思いを見事に吹き飛ばしたのは、やっぱり3幕2場のマンリーコのカバレッタ「見よ、恐ろしい炎を」であった。

 小笠原一規のハイCは満場を圧倒した。

 しかも2度も!
 しかも2度目のアンコールのほうが、カバレッタは自由なエネルギーに満ちて流麗だったし、決めのハイCも力強く長かった。
 一度目は何事が起ったのかよく理解していなかったような客席も、二度目は完全に圧倒され、万雷の拍手と「ブラボー」の叫びでもって小笠原を讃えた。
 客席が湧きたち、場内のボルテージが上がった。

 オペラは面白いものである。
 このハイCが他の歌手を焚きつけたようであった。
 舞台が俄然、熱気を帯び始めた。

 4幕1場のレオノーラの美しいアリア「恋はバラ色の風に乗りて」は絶品だった。今度は声も良く出ていて、テクニックは完璧、悲痛なれどあくまでも叙情豊か。これが国際レベルの歌手の本領と納得の出来栄え。続くミゼレーレの苦悩と怖れの表現も彫りが深く、舞台は悲哀の色で塗りこめられた。嬉しいことに、ソルティの好きなカバレッタ「私より強く愛する者が」も歌ってくれた。
 悲痛から、苦悩と怖れを経て、強い意志と自己犠牲の覚悟に至るこのレオノーラの「娘から母への」変身場面を、森はほとんど声だけで表現しきった。
 つまり、目に見えて大仰な動きや演技は一切なしに、感情の変化を伝えてしまう。むろん、でくの坊のように突っ立ているわけではない。むしろ高度な演技力というべきだ。抜きんでた声と歌の表現技巧あれば、抑えられた動きのほうがかえって豊かに感情を表現し得る、聴き手に伝え得る、という格好の見本。能の演技に通じるような感さえ持った。

 続く、ルーナ伯爵とレオノーラの緊張感走る二重唱も、牢屋内でのマンリーコとアズチェーナのもの悲しくも美しい二重唱も、文句つけようのない出来。ここでようやく、途中まで先走っているかに思えたオケの才気が、歌唱と絡み合った。オケの音量が気にならなくなった。両者は混然と溶け合って、ヴェルディが降臨した。

 主役4人がやっと舞台に出揃ったかと思うと、痛切極まりないレオノーラの死、マンリーコの処刑と続く。
 あとは、固唾をのみ、身を乗り出して、復讐の幕が落とされるのを目撃するのみ。
 終幕後は、「ブラボー」と喝采の嵐。

 今年も荒川区民オペラはやってくれました。
 歯車がかみ合うまで時間がかかったのはどうして?
 いささか気にはなるけれど、まあ、終わりよければすべて良しということで。

 今回は小笠原のハイCに乾杯(完敗)!


















 
   
 


● オペラ(映画):ヴェルディ『アイーダ』(METライブビューイング)

 銀座松竹。

 昨年12月にニューヨークメトロポリタン歌劇場で上演されたオペラの映像化。
 幕間のあわただしい舞台転換の様子や歌い終えたばかりの出演者へのインタビューを盛り込んでいることもあって、ライブ感が伝わってくる。編集でカットされていないので、当夜のメトの観客達が体験したのと同じ時間割(休憩時間も含め)で最初から最後まで一曲見聞きすることができる。これは生の舞台をあとから遠隔地で映像で見る時に生じざるを得ない落差を最小限にとどめ臨場感を出すうまいやり方だ。


 『アイーダ』と言えば、バブルの頃に東京ドーム(!)で見たフィオレンツァ・コソットのアムネリスを思い出す。
 いくら古代エジプトの宮殿を舞台にしたエキストラ数百人のスペクタル大作だからと言って「東京ドームはないだろう」と今では思うが、ある意味面白い時代であった。オペラにとっての命とも言える「マイクロホンを使わない歌手の生の声」を犠牲にしてまで、ゴージャスと成金趣味(たしか本物の象が出てきたような覚えがある)を追求した結果は、案の定惨憺たるものであったが、びっしり埋まった外野席の一角(お隣では親子連れがポップコーンをほおばっていた)から、はるか遠い舞台にうごめく豆粒ほどのアイーダやラダメスにまじって、コソットのアムネリスはなおも強烈であった。マイクロホンを通した偽の声であっても、顔の表情などまったく分からない遠距離であっても、コソットの歌と演技は観客の耳目を聳たせる磁力に満ちていた。千両役者とは彼女のような人を言うのだろう。

 そもそも自分とオペラとの出会いもフィオレンツァ・コソットであった。
 NHKの教育テレビ(芸術劇場?)で放映した藤原歌劇団上演『イル・トロヴァトーレ』(ヴェルディ作)をたまたま見たのである。1987年のことだ。
 このとき復讐に燃えるジプシー女アズチェーナを演じたのがコソットであった。
 これにはまったく度肝を抜かれた。自分がそれまでオペラに持っていたイメージを完全に覆された。それまでオペラは、演技者としてはデクノボウの太った歌手達がくだらない筋書きに沿って退屈な歌を応酬するものと思っていた。芝居的要素は添え物に過ぎないと。
 コソットはとんでもない名女優であった。一挙手一投足にアズチェーナの魂が宿っていた。目の前で処刑された無実の母親の復讐に燃える娘であり、過って実の息子を殺めた母であり、誘拐した仇の息子を愛してしまう母であり、その息子の死と共に復讐を成就させた女であり。こんなに難しい役どころを驚くほどのリアリティと生命力をもって舞台上に描き出す。一度聴いたら忘れられない大砲のようにとどろくメゾソプラノは、ブラウン管を通してさえ脳天直撃であった。

 初めて聴いたのが『トロヴァトーレ』であったことも今思えば幸いした。
 トロヴァトーレほどオペラの歌の醍醐味が凝縮されて輝いている作品は滅多にない。ソプラノ、メゾソプラノ、テノール、バリトンというオペラの代表的な四声が同じくらいの出番を持ち、代わる代わる見事なアリア(見せ場)を披露してくれる。四声が、ソプラノ×テノール、メゾ×バリトン、メゾ×テノール、ソプラノ×バリトン・・・というふうに様々に組み合わせられて、声質の違いによる二重唱の面白さをバランス良く味わえる。しかも第二幕の幕開けのジプシー達のコーラスに象徴されるように合唱もまた素晴らしい。第三幕のテノールの有名なアリア「見よ、燃える炎を」では、クライマックスの高い「ド」(ハイC)が決まるかどうかという手に汗握る興奮が待っている。こんなに面白い、聴きどころ満載のオペラは他にない、と今でも思っている。
 最初に聴いたのが『トロヴァトーレ』でなかったなら、しかもコソットでなかったなら、そのあとオペラにはまることもなかったかもしれない。


 そういうわけで、アズチェーナやアムネリスを聴くたびにコソットの歌唱と引き比べてしまうのである。

 今回のアムネリスは、オルガ・ボロディナという名のロシア出身の歌手。METでは常連のベテランらしい。
 これが素晴らしかった。コッソトほどインパクトのある声ではなくアクも強くないが、歌も演技も一級品。尊大で嫉妬深いが根は純真なエジプト王女アムネリスの複雑な心の内を、歌っていることを忘れるほどの迫真の演技で描き出し、演じていることを忘れるほど見事な歌唱で聴き手に伝えることに成功していた。
 このアムネリスに比べれば、二枚目にして大スターのロベルト・アラーニャのラダメスも、これがメト初出演だという新星リュドミラ・モナスティルスカのアイーダも、ところどころ見事な歌唱を見せてはいたものの、全幕を通して判断した時に一貫性のある人物造型ができているとは言い難く、見劣りがした。(とは言え、一流の歌唱であることは疑いを得ない。)

 ファビオ・ルイージの指揮は歯切れが良く、ダレがない。METのオーケストラはコンピュータのように正確でクリアで流麗である。 

 もう一つ。
カラスCDジャケット 『アイーダ』と言えば、1951年メキシコ公演のマリア・カラスである。
 スカラ座にデビューして間もないまだ20代のカラスが、マリオ・デル・モナコのラダメスを相手にアイーダを歌っているライブ録音が幸運にも残っている。
 このときカラスは第二幕「凱旋の場」のクライマックスの大合唱の最後に離れ業をやってのけた。登場人物全員による大合唱と管弦楽のフォルティシモの分厚い壁を楽々と突き破り、3点変ホ音(ソプラノでも出ない人が多い超絶高音)を朗々と響かせたのである。会場の大興奮ぶりが録音(CD)からも伝わってくる。何度聴いてもゾクゾクする。
 この音はヴェルディの書いた楽譜にはない。カラスはメキシコの観客へのサービスとしてやったのである。むろん、「スカラにカラスあり」と記銘させたかったのであろう。 
 以来、『アイーダ』を聴いていてこのシーンが近づくに連れて、「このソプラノはやってくれまいか」と期待してしまうのである。

 若い日のカラスほどの圧倒的な声量、力強い高音、胆力、負けん気、プリマドンナ魂を持ったソプラノがいつの日か現れないかと期待する。それがオペラという麻薬に溺れてしまった人間の描く夢想なのである。  
 

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