ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

ドキュメンタリー

● 東海テレビに「あっぱれ!」 映画:『ヤクザと憲法』(東海テレビ制作)

 2015年3月30日(1年前)深夜に東海テレビで放映したドキュメンタリーを、数日前にポレポレ東中野で鑑賞した。クチコミや雑誌記事等で話題となっていたせいか満席であった。

 ヤクザは社会のガンであるとよく言われる。ほうっておくと次々と隣りの細胞を蝕み、患部を広げ、あるいは血液に乗って転移し、体全体を駄目にする恐れがあるから、早めに発見して切除するに限る。ガンが悪性新生物と呼ばれるのと同様、ヤクザ=悪の権化という見方である。
 この見方に沿って、昨今のヤクザ対策すなわち暴力団対策法や暴力団排除条例は制定され、マスコミ報道もなされている。清原元プロ野球選手の覚醒剤使用や激化している山口組の分裂抗争などの報道を見ても、ヤクザ=悪の権化というイメージを視聴者にいっそう強く植え付けるものとなっている。
 だが、「紋切り型」は思考停止のスタートである。
「ヤクザは悪の権化だ。怖い。庶民は近づかないに限る。警察にまかせておけばいい。警察が一掃してくれるのに期待しよう。自分たちとは関係ない」
 そこから先は思考停止となり、想像力は遮断される。
 すると、人々が見失うのはヤクザの「実質」である。「実態」ではない。ヤクザ・暴力団と呼ばれている人々の素顔が見えなくなる。
 いったい、どういう人たちがヤクザになるのだろう?
 なぜヤクザになったのだろう?
 どうしてヤクザで居続けるのだろう?
 ヤクザでいて幸せなんだろうか?
 更正することは可能なのだろうか? 
 どんなことを考えて生きているんだろう?

 単純に考えても、ヤクザでいることで得することよりも損することのほうが圧倒的に大きいだろう。一般市民からは嫌われ恐れられ排除され、警察からはマークされ、対立するグループあれば常時身の危険にさらされ、当節ではたいした贅沢もできない(資金繰りに困っているヤクザ事務所は少なくない)と聞く。そのうえ、家族ができたら家族にも不利が生じる。愛する我が子が「ヤクザの子供」として周囲から扱われることになる。就学、就職、結婚、友達づきあい等々、いろいろなことに負荷がかかる。「子供を自分のような立派なヤクザに育てたい」と思う親はまずいないだろうから、結局ここでも社会との摩擦に悩むことになる。
 それでもヤクザになりたい、居続けたいと思うのはなぜだろう?
 それとも、ヤクザになるしかない、ヤクザで居続けるより道はないというのが、正味のところなのだろうか?
 としたら、それは何故だろう?

 このドキュメンタリーをつくった東海テレビのプロデューサー阿武野勝彦は次のように制作理由を語っている。

「暴力団排除条例以降、ヤクザと接触ができなくなり、実態がつかめない」「ヤクザは地下にもぐり始めている」「ヤクザのかわりに半グレやギャングなど面倒な連中が蔓延してきた」
 この番組のディレクターは最近まで事件・司法担当記者で、捜査関係者からそんな話を聞いていました。テレビドラマや映画などで描かれるヤクザは縄張りをめぐって抗争を繰り返す輩たちで、拳銃を所持し、地上げに介入し、覚せい剤を密売する犯罪集団…。しかし、現実はそうではなさそうだ…。ディレクターは、暴力団対策法、続く、暴力団排除条例以降のヤクザの今を知りたいと考えました。
 「取材謝礼金は支払わない」「収録テープ等を放送前に見せない」「顔のモザイクは原則しない」。これは、私たちがこの取材の際に提示する3つの約束事です。しかし、この条件に応えるヤクザはいません。彼らにとって、姿をさらしても、何の得もないし、警察に睨まれたくないのです。
 そんな中、大阪の指定暴力団「東組」の二次団体「清勇会」に入ることになりました。


 カメラは、東海テレビのスタッフが清勇会事務所にはじめて入って行くところから回りだす。
 住宅地の中にある窓の少ない堅牢な造りの3階建てのビル。道路に向けて取り付けられた巨大な監視カメラ。外階段を上がって2階にある事務所の入口は、ぶ厚い鋼鉄製の扉で厳重に守られている。中に入ったとたん目にするのは、巨大なグロテスクな木彫りのオブジェ。
 カメラと共に侵入しはじめて目にする現実のヤクザ事務所の光景になんだかドキドキする。映画に出てくる暴力団事務所のセットに似ているような、似ていないような。ソファセットがあって、観葉植物があって、テーブルの上に灰皿があって、事務机があって、電話があって、机の上に現金の入った茶封筒があって、壁に‘読売新聞の’カレンダーがあって、中年の腹の出た目つきの鋭いおっさん達がタバコをぷかぷか吹かしていて、立派な会長(親分)の部屋があって・・・・・。どちらかと言えば、昔ながらの不動産屋の事務所に似ている。明らかに違うのは、壁に掲げられた墨痕鮮やかなる「任侠道」の木のパネル。
 カメラが奥に入ると、部屋住みの舎弟たちが居住する畳の部屋があって、布団があって、服役中の組員に差し入れられていた文庫本や漫画がいっぱい詰まった本棚があって、お勝手があって、風呂があって、洗濯物が干してあって・・・・・。このへんは体育会の合宿所みたいだ。
 大阪という土地柄もあるのだろうか。想像したよりもずっとざっかけない庶民的な雰囲気である。
 この事務所を中心に、半年ほどのヤクザの生活の断片が映し出される。そして、数名の組員の素顔が垣間見られる。

 清勇会が取材をOKしたのは、それなりの理由があってのこと。
 バブルの頃の石田純一はたまたJリーグの初代チェアマン川淵三郎を髣髴とさせるお洒落で二枚目の親分は、スタッフを自室に招き入れ、資料を見せる。それは、全国の組関係者から収集した「ヤクザとその家族に対する人権侵害の事例」である。子供の入園が拒否された、銀行口座がつくれず子どもの給食費が引き落とせない、生命保険に入れない、刑事事件の弁護を断られた・・・。
 撮影中にも、自動車事故に遭った組員の一人が通常通り自動車保険の請求をしたところ、警察が出てきて詐欺容疑で逮捕されるという一幕がある。また、日本最大の暴力団山口組の顧問弁護士が登場するが、彼は自ら被告になった裁判やバッシングに疲れ果て引退を考えている。
 こうした事態に憤り、世に訴えたいというのが取材許可の背景にあるようだ。
「俺たちヤクザに人権ってないのか!」

 もちろん、カメラに映されたものは、一面に過ぎない。本当にまずいところは撮影許可が下りないし、組員たちも口を閉ざす。
 たとえば、「この事務所に銃は置いてないんですか?」「あれ、今のシノギですよね? もしかしてクスリですか?」「いま茶封筒に入れた札束は賭けの配当ですか?」等々。
 スタッフもむろん、彼らが答えられないと分かっていて尋ねている。正直に肯定されたら、今度は自分たちが法的に困った立場になるだろう。
 その意味では、このフィルムが映しているのは地球の側を向いた月の半面である。陰になった部分は隠されている。テレビ放映を前提として制作されている以上、放送できないものはここでは省かれている。撮影の段階でも、編集の段階でも。
 なので、これがヤクザの真実の姿だとか、ヤクザもつき合ってみれば普通の市民と変わらないとか、ヤクザにも人権があるのだから差別はやめようとか、安易に結論づけることはできない。このフィルムだけからヤクザの実質を云々するのは、あまりに軽率、あまりにナイーブだろう。

 しかし、見ようと思ってみれば見えてくるものがある。
 フィルムの中でのスタッフによる説明や注釈は、過去にあった実際の事件のあらましやヤクザの組織構成についてなど、一般とは異なる独特の世界の背景理解を視聴者に促し、鑑賞上の混乱を避けるための最低限のものに限られている。つまり、スタッフの意見や主張は表面には出てこない。せいぜいがタイトルで示唆されている「ヤクザの人権について問題提起してみましたが、どうでしょう?」くらいである。他の多くのすぐれたドキュメンタリー同様、これをどのように見て、どう思い、どう判断するかは視聴者に任されている。
 我々は何を見なければならないのだろう?

 部屋住みの青年がいる。まだ19歳である。ヤクザに憧れて東組本家の門を叩いたところ、清勇会に預けられたという。事務所の電話番、掃除や買い物などの雑用を、水を得た魚のように喜々としてやっている。話し出してすぐに分かるが、何らかの発達障害を疑わせる。当たり前に考えれば分かるようなことができなくて兄貴分に叱られてばかりいる。その彼がたどたどしい言葉でカメラに向かって熱弁する。「ヤクザが変わり者だからといって排除するのではなくて、人と違うところがある者とそうでない者とが両方存在できるほうがいい」といったようなことを真剣な面持ちで言う。
 観る者は思うのだ。教室の中で彼はどんな存在だったのだろう? 学校は彼にとって居心地良かっただろうか? 親はなぜ十代の息子がヤクザの道に入るのを阻止しなかったのか? 教育機関は、福祉は、何をしていたのか?

 ヤクザの事務所に電話が入る。某政党からの投票のお願いだ。電話に出た組員は、卑屈なほど丁重に答える。「はい。みんなに(投票するように)言っておきます」
 いまさら暴力団と某政党との癒着を言いたいわけではない。ヤクザも選挙に行くことに驚いているわけでもない。
 スタッフがそこにいた組員一人一人に問いかける。「あなたも選挙に行きますか?」
 肯定の返答が続く中、一人の組員が答える。「行かない。自分は選挙権がないから」
 一瞬わけが分からず絶句するスタッフ。「それはどういう意味ですか?」
 どう見ても日本人(関西人)の組員が答える。「国籍のことがあるから。帰化しない限りできない」
 在日のこの男が前述の部屋住みの青年の面倒を親のように見ている。
 
 ある組員は妻子と別れてヤクザになった。貧乏の家に育った彼はもともと工場で働いていたが、労働環境のあまりの酷さに窮して、どうしようもなくなった。
「誰も助けてくれなかった。どうにもしようもなくて追い詰められていた時に、声をかけて救ってくれたのが親分だった」
 
 フィルムでは触れられていないが、やはり考慮に入れるべきは部落差別問題だろう。
 東組の本部がある大阪市西成は、かつて被差別部落の多いところであった。(「ふらっと人権情報ネットワーク」記事参照)
 差別がいかに人の心を踏みつけ、萎縮させ、屈折させ、蝕み、絶望や自暴自棄に追いやっていくか。環境の劣悪さがそこに住む人にどれほど不健全な影響を及ぼすか。
 被差別部落出身のノンフィクションライター角岡伸彦はこう述べている。
 
 以前、関西の大手ヤクザ組織を取材したことがある。会長の話によれば千人以上いるメンバーのうち、半分以上は部落出身者だという。この比率は、いかにも多い。もっとも、年齢が若くなればなるほど部落出身のヤクザは少なくなる。これは就学、就労の機会がここ数十年、部落民にも開かれた結果であろう。一方、在日韓国・朝鮮人のヤクザは若い世代でも減っていない。在日に対する差別が、いまなお厳しいことの証左である。
 
 部落出身のヤクザが多いと書いたり発言したりすると、「誤解を生むからやめてくれ」と言われることがある。冗談ではない。なんらかの背景や理由があるから、人はヤクザになるのであって、それを見ずして「差別反対、暴力はいけません」「部落はけっして怖くありません」などと言うのはきれいごとに過ぎない。
(角岡伸彦著『はじめての部落問題』、文藝春秋2005年刊)

 障害のある青年(そうとは限らないと一応言っておく)、ブラック企業の被害者、在日朝鮮人、部落出身者・・・・・。こういった者たちが集められているヤクザ事務所とはいったいなんだろう?
 日本社会の「負」の終着駅か。
 病巣部か。
 福祉の網に引っかからなかった者たちの最後のセーフティネットか。
 
川と芥


 知り合いにいくつもの難病を抱えた人がいた。その人は不自由極まりない、いつ倒れても不思議ではない体で、障害者支援の活動に身を捧げていた。左目はガンに侵され失明し、右目の視力も良くはなかった。
 あるとき、医者が言った。「左目をそのままにしておくとガンが転移する可能性があるから、眼球摘出したほうがいい」
 その人は手術を断ったのだが、その理由をこう教えてくれた。
「左目があるおかげで、ガンが広がらないで済んでいます。左目を取ってしまったら、きっと今度は右目をやられるでしょう。そしたら全盲になるでしょう。左目は自らを犠牲にして、防波堤のように他のところを守ってくれているのです」
 この言葉が医学的にどれだけ妥当性があるのかどうかは知らない。だがそれは、何十年もの間、いくつもの難病を持ちながら専門医の余命宣告を裏切って奇跡的に生き伸びてきた者の知恵だったのは間違いない。その人にとってガンは闘うべき悪ではなかった。命の防波堤だったのである。

 ヤクザは社会のガンだと言われる。病巣部という点ではその通りであろう。
 だが、それを実質も知らず、因果関係も見ず、結果も考えず、善後策も講じず、何の考えもなしに切除してしまった時に、いったい何が起こるだろう?
 清流の中の岩でできた自然の堰には、枯葉や生き物の死骸などの芥が集まる。堰を壊すと、芥は川全体に広がって清流を一気に汚す。同じように、やくざ組織を切除すれば、そこに吸収され「同類相食む」抗争ゆえにカタギ社会への流出を免れていた「負の怨霊」は、社会全体に広がることになろう。放たれた怨霊は、市民に憑依することだろう。市民のヤクザ化が始まるだろう。否、前述のプロデューサーの言葉が示しているとおり、それはすでに始まっている。
 そしてまた、ヤクザを「悪」とする紋切り型の言説が氾濫する裏で、我々はいま本当に憂えるべき・阻止すべき事態の進行を見過ごしているのではないか。闘うべき「巨悪」を見逃しているのではないか。国家権力の巨大化と、それを企む連中とを。(そのうちに「暴力団を一掃するために自衛隊を出動させます」と言う政治家が出てくるやもしれない)


 フィルムの最後のほうで、事務所内をただ漠然と映しているカットがある。
 暇な午後らしく、組員たちは思い思いにあちこちに座って、退屈そうに煙草をふかしている。最初のうちスタッフとの間にあった「壁」も半年の取材ですっかり消えたようで、何ら構えることなく、緊張することなく、無防備な表情を晒している。あたかも母親の帰りを待っている留守番の中学生のような。
 そのカットを観たときに、事務所の入口の分厚い鉄の扉の意味を理解したのである。
 あの分厚い鉄の扉は、あの巨大な監視カメラは、この窓の少ない堅牢な作りの建物は、「砦」なのだと。対立するグループや警察の急襲から彼らを守る「砦」であるばかりでなく、どこにも居場所のない彼らがかつて自分に冷たかった「世間」から身を守り立て籠もるための最後の「砦」なのだと――。



評価:B+

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 
 
 

● 映画:『山谷(やま) やられたらやりかえせ』(佐藤満夫、山岡強一監督)

 1985年。

 『ゆきゆきて、神軍』(原一男監督、1987年)と並ぶ伝説的なドキュメンタリー映画である。

 尋常な映画ではない。
 まず二人の監督、佐藤満夫は撮影中に、あとを継いだ山岡強一は撮影完成後に、日本国粋会金町一家――いわゆる暴力団の手にかかって亡くなっている。なんの誇張も修飾もなく命がけの撮影だったのである。
 二人が殺された理由はまさにこの映画の中心テーマに関わる。
 安価で大量の使い捨て労働力が手に入る山谷(寄せ場)を牛耳って、日雇い労働者を搾取することで私腹を肥やそうとする大手建設会社、その手先である手配師や暴力団に対して、地域の労働者たちが連帯し闘い抜いた姿を描いたものなのである。
 その点で、正直この映画のタイトルは誤解を招く。「やられたらやりかえせ」では「目には目を」のハムラビ法典と変わりない。単なる無法者の仁義なき戦いを想像させる。自分も見るまではそう思っていた。
 しかし、山谷の日雇い人夫たちのやったことは、争議団を結成してビラを配ったり行政や相手企業と団体交渉したり組合をつくったりの、れっきとした労働運動なのである。大勢で手配師を取り囲んで吊るし上げる、暴力団の情宣車をひっくり返し火を放つなど、手荒な部分はあるものの、全体的に言えば「まっとうな喧嘩」である。暴力団同士の血で血を洗う抗争とはわけが違う。


 80年代半ばと言えばバブル突入。日本人が浮かれていた頃である。
 軽いこと、明るいこと、万事を浅いノリで受け流すことが時代の空気であった。重くて、暗くて、深刻なテーマや人は敬遠された、どころか馬鹿にされた。(そんな時代の空気をいち早く読んで「軽・明・浅」のモードを身に付け大衆を煽動したのが、タモリでありユーミンではなかったか。自分が基本的にこの二人を好きになれないのは、この時代の記憶があるからだ。)
 そんななか、日雇い労務者はフリーターと名称を変えた。労働運動は「ダサい、かっこ悪い、うざったい」の代表になった。
 バブル期の日本人のどれだけが、そのとき山谷で起こっていたことを知っていただろうか。興味を持って追っていただろうか。
 自分は知らなかった。おそらくマスコミも、立て続けに二人の監督が殺されるという異常な事件を大きくは取り上げなかったのではないか。


 とにもかくにも、久方ぶりに見る熱い映画であった。
 熱さの一因は、もちろん、命を賭した制作者の情熱がフィルムに漲っているからである。あるいは、亡くなった監督の念が焼き付けられているからである。観ているうちに、過去の出来事という気がしなくなる。臨場感がすさまじい。
 出演者のパワーも熱い。このような「本気」の大衆を今や日本のどこに見ることができようか。反原発デモにないのはまさにこの熱さなのだ。管理社会がそこに住む人々から奪った熱さ――やみくもに生きる意志――がここにはある。
 熱さはまた上映会場にあった。
 上映されたのは中野にあるPlan-Bという施設である。30年も前の山谷をテーマにした映画にそれほど人が集まるとは思っていなかった。いたとしても、左翼系活動家か労働問題に関心ある市民運動家で、中高年ばかりと思っていた。
 若い人が多かったのである。
 というより、20~70代くらいまでこれほど幅広い年代が男女問わず揃っている上映会は昨今珍しい。
 そして、観客たちは――自分も含めて――スクリーンに流れている物語を受身的に観ているのではなかった。スクリーンと客席との間に、気の交換とも言える不思議な対話があった。積極的視聴がなされていた。上映終了後に起こった拍手はなによりの証拠である。優れたドキュメンタリーとは、そういうものなのだろうか。
 
 この作品は、山谷での闘いを軸に据えながら、戦中・戦後の日本の様々な問題が盛り込まれている。路上手配と暴力支配、強制連行、被差別部落問題、在日朝鮮人問題、精神病院での虐待、先行的保安処分、地域排外主義、下層差別、台頭するファシズムの芽・・・・・。
 見ようによっては、詰め込み過ぎで脈絡がない。消化不良を起こす。初めて知ることばかりで免疫のない人は、知恵熱を出すかもしれない。日本の暗部に呆然となるかもしれない。
 このフィルムは常に待っているのだ。
 全編を咀嚼できる人間との出会いを。


評価:B+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

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