2011年刊行。
昔から自分を惹きつけてやまないお伽噺の一つに『ハーメルンの笛吹き男』がある。
約束していたネズミ捕りの報酬が貰えなかった仕返しに、町中の子供たちを笛の音で躍らせてどこかにさらって行った男の物語である。
この話のどこがそれほど自分を惹きつけるのかはっきりしないのであるが、似たようなテーマを扱ったピーター・ウィア監督の映画『ピクニック at ハンギング・ロック』(1975年、オーストラリア)もやはり同じような感慨を身内に興す。もっとも、後者で神隠しにあうのは少女たちであり、ネズミ捕りに当たるような人物は出てこない。
神隠し。蒸発。行方知れず。失踪。
これらの言葉が持つ、不可思議と恐怖と幾分ロマンティックな響きが、妙に琴線に触れる。日常からの逃避願望なのだろうか。山への単独行はこの延長上にあるのかもしれない。
そう言えば、千葉県茂原で2ヵ月半ものあいだ行方不明になっていた女子高生の事件も興味をそそられる。発見された場所が神社の境内であったということが、まさに「神隠し」という昔からの言い回しを想起させる。
『ハーメルンの笛吹き男』は1284年ドイツのハーメルンで実際に起きた130人の子供の失踪事件の伝承をもとに作られたものである。この不思議ではあるけれど単純な事件が、年代を経るごとに脚色されていく。誘拐魔としての笛吹き男(パイド・パイパー)がまず登場し、次にこの笛吹き男はネズミ捕りでもあったという変貌を遂げる。この過程には、中世ヨーロッパにおける遍歴芸人に対する差別と、収穫した穀物を襲うネズミの群れに対する人びとの恐怖心とが潜んでいることを解明したのが、阿部謹也の『ハーメルンの笛吹き男 伝説とその世界』(ちくま文庫)である。
自分が子供の頃に読んだ『ハーメルンの笛吹き男』はグリム童話だったと思う。そこでは、他の子供達に遅れをとった盲目と足の不自由な子供二人があとに残され、大人たちに仔細を語る役を果たしている。連れ去られた子供たちがその後どうなったか知る由もない。
ただ、物語はこんなふうに終わっていた。
「ハーメルンを山一つ超えたジーベンビュルゲン(トランシルヴァニア)のある村で、異国の言葉を話す人々がいつからか現れて暮らしている。」
前段が長くなった。
筒井功の『新・忘れられた日本人』は、日本の辺界の人と土地を訪ね、埋もれた歴史や語られざる風習や虐げられた人々の姿を、丹念な調査と地道な取材と豊かな想像力とで紙面に甦らせた民俗学的記録である。
著者は民俗研究家であって学者ではない。書かれたものは、研究としての客観性、正確さを保ちながらも、小説のような味わいがある。つまり文学的である。
文章のうまさ、わかりやすさは言うまでもないが、調査・取材の対象となる人々との距離のとり方が、科学的(=冷たく事務的)でもなく、扇情的(=差別意識が透けて見える往年のサンカ研究家の三角寛のよう)でもなく、かといって過度に同情的(=お涙頂戴or社会問題として一石を投じたい)でもない。絶妙の距離間と言っていい。
一方、虐げられた人々に対する筒井のあたたかく哀切なるまなざしは、十分に感得される。それが基音として通底しているこの本は、珠玉の短編小説集といった趣きを呈している。
語られるのは次のテーマである。
第1章 サンカが過ごした最後の日々
茨城県のある山村で箕直しによって生計を立てていた一家の物語
第2章 奥会津・三条村略史
400年以上存在し昭和59年に消滅した奥会津の僻村の来歴
第3章 ある被差別部落の誕生と消滅
高知県のある村に明治以後に一時だけ生まれ消えていった部落の物語
第4章 「説教強盗」こと妻木松吉伝
昭和の始めに世間の耳目を集めた説教強盗の波乱の生涯と出自
第5章 葬送の島、葬送の谷
丹後半島のある漁村で昭和17年まで行われていた変わった葬式の記憶
第6章 朝鮮被虜人の里の400年
秀吉の朝鮮侵略(文禄・慶長の役)の際に連れて来られた朝鮮の陶工たちがつくった里の栄光と受難
どの一篇をとっても面白く味わい深い。
説教強盗のことや朝鮮被虜人からなる陶器の村のことなどくわしく聞いたことがなかったので、誠に勉強になった。京都北端の伊根湾にあるという舟屋の光景も、そのうち見に行きたいものである。
舟屋とは、海ぎわに建つ二階家の一階部分が「駐船場」になっている家屋のことである。倉庫のようながらんどうの一階が漁船の収納庫になっているので、ちょっと離れたところからだと家は水の上に浮かんでいるように見える。そういう舟屋が湾を囲んで、すき間なく軒を連ねている。そのような特異な景観を望める場所は、国内ではここ以外にはないらしい。
このうち、自分が一番興味を掻き立てられ、一読遠いところまで心が連れて行かれたのは、第2章である。
昭和59年かぎりで消滅してしまった福島県金山町本名字三条も、その来歴や住民の昔の暮らしを語る文献を全く欠いた村の一つであった。少なくとも400年は存在していた奥会津の僻村は、どんな記録も残さず、いまでは地図の上からも消えたのである。本章は、わずかな手がかりから、この村のかつての姿を想像しようとする試みである。
筒井は昭和52年の夏に只見川支流にイワナ釣りに向かう際に通り過ぎた三条の様子を記憶に辿る。
そこは見たところ10戸たらずの、ささやかすぎるくらいの集落であった。気づいたかぎりでは、みな茅葺きの屋根で、曲がり屋と直屋(すごや)があった。それらが未舗装の道をはさんで左右に並んでいた。
山中深くに孤立した集落というのは、ほかで暮らす者たちの注意を引かずにおかないものらしい。「なぜ、わざわざ、あんなところに」という疑問がわくからであろう。
筒井は、様々な資料を手がかりにこの村の成り立ちや暮らしぶりを探っていく。
○ 暮らしは何で立てていたのか(産物)
○ マタギ(職業的猟師)が定住した集落だったのか
○ 椀、盆、木鉢、木皿、銚子などをつくる木地集落だったのか
○ 箕作りをしていた記録は何らかの被差別の歴史を暗示しているのか
○ 全戸とも栗田姓であった理由は何か
○ 落人伝説(たとえば平家の)があてはまるのか
そして、
○ 近隣の村人達とは語彙も抑揚もかなり異なった「三条のウグイス言葉」なるものを使っていた意味は何か
もうおわかりであろう。
まさにグリム童話の『ハーメルンの笛吹き男』の末尾を彷彿とさせる。
マタギ説、木地師説、落人伝説を説得力ある論証によって一つ一つ消去していく筒井の推理は、地形を手がかりに飛翔する。
三条の起源を考えようとするとき、村の北方にそびえる御神楽岳(1387メートル)の存在が大きな鍵をにぎっているのではないか、これがわたしの推測である。
御神楽岳は、会津にとっても越後にとっても、きわめて古くからの信仰の対象である聖山であった。
信仰の山には、いや応なしに参拝者が集まる。御神楽岳にも、いつとも知れないころから、南北二つの登山道が開かれていた。いま南側を例にとると、只見川筋から山頂までは直線距離でも一〇キロはある。標高差で千メートルを超す。とても一気に登れるものではない。これを一日で往復するとなると、かなりの足達者でないと難しいだろう。山に通じない参拝者には、案内人も必要になる。
そうであるなら、途中に休憩や宿泊ができる建物が欲しいところである。それは緊急の際の避難所にも、案内人のたまり場にも使える。三条は、そのような事情によって成立した集落ではなかったか。
このあたり、読んでいてワクワクしてくる。
金田一耕助ばりの推理は続く。
御神楽岳信仰は、実は越後から始まった可能性が強い。その何よりの理由は、新潟県の津川盆地や蒲原平野からは同岳が眺望されるのに、会津の方は、どこからも山容を拝することができない点にある。
そして・・・
もし右の通りであるとすれば、御神楽岳という聖山の存在によって生計の糧を得る生き方も、越後側から始まったことになるだろう。そうして御神楽岳信仰が南側の会津にも波及する、そちらへ移住して登山道の途中に村を構える者が出てくることは、ごく自然のなりゆきである。この推測は、三条住民のあいだで語られていた、越後からの移住伝承にもよく合う。また。「三条のウグイス言葉」の由来も、説明できることになる。
う~ん。お見事。
『猿回し 被差別の民俗学』でも唸ったが、人間というものがよくわかっている。共同通信の記者をやっていただけある。世間知らずの学者ではこうはゆかない。
民俗学に必要なのは、「人間」に対する知識なのだとつくづく思う。
三条は、もと御神楽岳の山腹に開かれた宗教集落であり、もっぱら山稼ぎに頼る暮らしに変わったのは信仰が衰えてのちのことであった、これがわたしが想像によってたどり着いた結論である。
筒井の推理はここで終わっているが、あえて言明を避けたのだろうと思うところを自分が続けてみよう。
400年前、御神楽岳への篤い信仰を抱いていた数十名からなる一団(講)が、越後から山を越えてやってきた。
故郷を離れた理由は知る由もない。
新しい土地に到着し、自分たちの村を拓く。
さて、なんという名前をつけようか。
一番有り得そうなことは、自分たちが元々いた場所、すなわち故郷の名前をそのまま付けることである。たとえば、アメリカに移住した清教徒が、ニューヨークやニューイングランドを築いたように。19世紀末にロサンゼルスに移住した日本人がリトル・トーキョーを築いたように。
三条――。
この名前が何よりの状況証拠なのではないだろうか。
と、張り切って推理したところで、くだんの村はとうに消え失せているのであった。