緑色の神の少年 002 池上彰氏は、難しいことをわかりやすく説明する達人である。
 この本も、加速度的に複雑さを増すかに見える現代世界の状況について、素人が大まかな見取り図を描くことができるよう、わかりやすく、ポイントを絞って、伝えてくれている。たいした手腕である。
 

 江戸時代の百姓は、世界のことなど何も知らなくても生きていけた。
 産業革命もアメリカ独立戦争もフランス革命もナポレオンもリンカーンの奴隷解放宣言も、まったく知らなかったろう。
 鎖国や教育制度の欠如により知る機会が限られていたこともあるけれど、知る必要も感じなかったろう。日々の生活にはなんの影響もないし、知ったところでなんの役にも立たないからだ。
 大切なのは、天候であり、作柄であり、領主や代官の意向であり、村の掟であり、自分と家族を養うための日々の食い扶持である。遠いアメリカの片隅の農園で、一人のアフリカ人奴隷が解放されたからといって、長州藩に住む一人の水呑百姓にとって何がどう変わるというのか。
 長いスパンをとって、深く深く追求すれば、そこに「風が吹けば桶屋が儲かる」式の因果関係を見つけてくることは可能かもしれない。
 だが、世界はあまりに広く、情報の伝達はあまりに遅く、人々は伝統と信仰の中で素朴なままであり、時間はゆっくりと生活の中を流れていたので、因果の網は誰の目にも触れられることなく、世界のはるか底のほうで、蜘蛛が巣を張るよりもはるかにゆっくりとしたペースで、あちらに一本こちらに一本と、全体像も見えぬランダムさで編まれていたのである。
  
 今では「風が吹けば」は冗談でもこじつけでもない。それどころか、ブラジルの蝶の羽ばたきが北京で嵐を起こす(バタフライ・エフェクト)時代である。
 交通機関と通信手段の発達、情報を手にする機会と自由(=権利)の獲得、グローバリズム、金融資本主義の席巻、そしてIT。
 世界は今やWWWという電子の網ですっかり覆い尽くされて、それぞれの地域が、国が、民族が、宗教組織が、企業が、個人が、この網のどこかに蜘蛛の餌食となった羽虫のように幾重もの利害関係の糸によってからめとられているものだから、網の一点から生じた振動はぴんと張りめぐされた糸の連絡をあらゆる方向に即座に伝わって、発信点から距離を増すごとに振幅を増しながら、網全体に影響を及ぼさずにはいない。
 因果の網がついに浮上し、因果法則は驚くべき速さで実現する。
 
 「世界」と「日本」と「一日本人」とが、現代ほどダイレクトにつながっている時代、そしてそれを一個人がビビッドに意識しうる時代はなかろう。

 世界の大問題について知らないということは、「恥をかく」とか「かかない」とかというのんきな問題ではない。自分に影響を及ぼし、自分の行動範囲を制限し、自己決定のための前提条件を知らないうちに設定しまた変更し、自分の人生を操作し、死活にかかわるような力を持つ「状況=構造」について、無視を決め込むということなのである。

 もちろん、あえて無視を決め込むという選択もある。
 世界がどうあろうと、一個人がやることは結局、「食べて、寝て、働いて、遊んで、まぐわうことだけ」というのは、江戸時代の百姓も現代日本の中小企業の一社員も、何ら変りもないからである。実際、そんなふうにして生きている人間もいっぱいいる。
「世界の大問題について頭を悩ますより、とりあえず仕事を見つけろよ」とか「子供の世話でいっぱいで、そんな高尚なこと考えているヒマはない」とか「世界の問題を知ったところで、一個人に何ができる」とか、ごもっともなご意見だってある。

 おそらく、経済にも政治にも歴史にも疎い自分がこういった類いの本を読むのは、世界の大問題について何もできないとしても、少なくとも、自分が捕らえられている罠について知らないでハッピーに過ごすよりは、たとえ無力感や不安や絶望におびやかされようとも正味のところを知っておきたいという、ある意味倒錯した性質からなのであろう。
 都合のいい偽りよりは不都合な真実を。