収録日 2001年7月
劇場 チューリッヒ歌劇場(スイス)
キャスト
マクベス ・・・・・トーマス・ハンプソン(バリトン)
マクベス夫人 ・・・パオレッタ・マッローク(ソプラノ)
バンクォー ・・・・ロベルト・スカンディウッツィ(バス)
マクダフ ・・・・・ルイス・リーマ(テノール)
管弦楽&合唱 ・・・チューリッヒ歌劇場管弦楽団&合唱団
指揮 ・・・・・・・フランツ・ヴェルザー=メスト
演出 ・・・・・・・デイヴィッド・パウントニー
イタリアオペラなので本来なら『マクベット』というタイトルが正しい--イタリア語では女性の名前はア行で、男性の名前はオ行で終わる--のであろうが、言わずと知れたシェークスピアの傑作、誰が気にしようか。
この悲劇の主役は、しかし、タイトルとは別にマクベス夫人である。
シェークスピアが意図したかどうかは知らないが、原作においても、舞台にかけても、映画化しても(たとえば黒澤明『蜘蛛巣城』)、そしてこのオペラにおいても、圧倒的に魅力あるのはマクベス夫人である。
烈女という形容がこれほどふさわしい役柄は、他にあまりないのではないか。主君暗殺に怯む夫のケツをたたき、「あんた金玉ついてんの!」とさらなる謀略をけしかけ、罪悪感に苦しむ夫を「情けない」と叱咤する。それでいて、幕が変わると、唐突に自らが罪悪感の虜となって狂気の淵に追いやられる。この極端から極端へのダイナミックな変貌こそ、マクベス夫人の最たる魅力であろう。
「いったい幕間に何が起こったのだろう?」
と、この芝居に接するといつも考える。
そこがもっともらしく説明されていないからこそ――たとえば、殺害した王とバンクォーの亡霊を見たとか――かえって人間心理の複雑さを表現しているように受け取られ、このキャラを魅力的にし、この芝居を成功に導いたのであろう。
記録に残っているマクベス夫人では、やはりマリア・カラス(1952年ヴィクトール・デ・サバタ指揮ミラノ・スカラ座ライブCD)と山田五十鈴(映画『蜘蛛巣城』)が両横綱であろう。この二人を超えるマクベス夫人はそうそう出て来まい。
このライブ収録DVDにおけるパオレッタ・マッロークのマクベス夫人は、両横綱には到底及ばないものの関脇くらいの位置には十分つける出来栄えである。よく通る力強い声、本職のシェークスピア役者並みの演技、マクベス夫人におあつらえ向きな気の強そうな面構えと美貌、胸の谷間もあらわなダイナマイトボディ、どれをとっても過不足ない。歌声は、高音域でびんびんと鋼のように強靭に鳴り響き、中音域でふとマリア・カラスを想起させるくぐもった陰影に富んだ音色がある。適役と言うべきだろう。
このマクベス夫人に劣らぬ出来栄えを見せたのが、マクベス役のトーマス・ハンプソン。
こちらも容姿・演技・歌唱の三拍子が見事に揃った理想的なマクベスである。とりわけ、容姿の魅力に効し難いものがある。ハンサムな上に表情が豊かであり、恰幅もよく、黙っていても語っていても、動いていても止まっていても、絵になる男である。その点では、プラシド・ドミンゴに似ている。が、ハンプソンのほうがナイーブで繊細なタッチが濃厚である。だから、マクベスを‘野心に振り回され破滅した英雄’というもともとの役柄を超えて、もっと現代的な、それこそ精神病理学の文脈で説明されるような‘人格障害’の一患者像として描き出す範疇にまで到達している。
そしてそこにこのライブの演出の意図はあるように思われる。
おそらく、この芝居の進行している舞台背景は精神科病院あるいは医療刑務所である。
マクベスもマクベス夫人もバンクォーも三人の魔女たちも、そこに収容されて治療を受けている患者である。マクベス役の男とその妻であるマクベス夫人役の女は、何らかの犯罪を犯し、ここに護送されてきた夫婦であり、精神に異常を来たして、自分たちが「マクベス夫妻」だと思い込んでいる。(もしかしたら娑婆にいるときに‘夫の勤め先の社長殺し’でも企てたのかもしれない)。
周囲の医師も看護師も看守たちも、ほかの収容者たちも、治療のためか真相を探るためかは知らぬが、二人のその妄想につきあって芝居をしている。
これは「‘マクベス’という名の囚人たちの妄想劇」なのである。
自分はそんなふうに勝手に読んで楽しんだのであるが、デイヴィッド・パウントニーの意図はどの辺にあったのだろう?