ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

フィオレンツァ・コソット

● ソプラノ・ドラマティコ・タジリタ :オペラCD ベルリーニ作曲『ノルマ』(シルヴィオ・ヴァルヴィーゾ指揮)

キャスト
ノルマ:エレナ・スリオティス(ソプラノ)
ポリオーネ:マリオ・デル・モナコ(テノール)
アダルジーザ:フィオレンツァ・コッソット(メゾソプラノ)
オロヴェーゾ:カルロ・カーヴァ(バス)
ローマ聖チェチーリア国立音楽院管弦楽団&合唱団
シルヴィオ・ヴァルヴィーゾ(指揮)
収録:1967年8月、9月(ローマ)

 人間の声質はそれこそ百人百様であるが、歌唱においてはいくつかの類型に分けられる。
 分かりやすいのが声の高さ(声域)による分類で、男ならバス、バリトン、テノール、女ならアルト、メゾソプラノ、ソプラノである。
 それ以外にも、声の大きさや太さや重さによって細分する伝統がある。
 ソプラノ歌手を例にとると、その声質を軽いほうから重いほうへ、代表的な有名歌手と代表的なオペラの役柄と共に並べると、以下のようになる。
  • レッジェーロ(あるいはスーブレット) = キャスリーン・バトル in 『ドン・ジョヴァンニ』のツェルリーナ
  • コロラトゥーラ = エディタ・グルベローヴァ in 『魔笛』の夜の女王
  • リリコ = ミレッラ・フレーニ in 『ボエーム』のミミ
  • リリコ・スピント = レナータ・テバルティ in 『アイーダ』のタイトルロール(主役) 
  • ドラマティコ = ビルギッド・ニルソン in 『トリスタンとイゾルデ』のイゾルデ

 もちろん、声質は加齢と共に変わっていく。若い頃は軽い声質でコロラトゥーラの役を得意としていたソプラノが、年齢を重ねるとともに、次第に声質がその体重と共に重くなり、リリコやスピントの役までレパートリーを広げるということはよくある。世紀の名歌手グルベローヴァなんか、まさにその典型である。彼女の場合、喉を痛めないように生涯にわたって徹底的な自己管理をはかってきたのが効を奏したらしい。
 歌唱ドラマであるオペラでは、登場人物の性格や役回りと、その役を演じる歌手の声質とは、一定の傾向性を持ってリンクしている。アイーダのように、エチオピアの女王でありながら敵国エジプトの奴隷にされ、同じ武将ラダメスをめぐってエジプトの王女と熾烈な争いをし、最後は地下牢でラダメスと愛し合いながら死んでいく――という滅多やたらない劇的な生涯を歩んでいるヒロインを演じるのに、キャスリーン・バトルの鈴が転がるごとき軽やかで明るい声で歌われては到底ドラマにならない。逆に、ツェルリーナのような愛らしく素朴で男にだまされやすい村娘を演じるのに、ビルギッド・ニルソンの空気を震わす大砲のごとき強靭な声は(ロシアの女兵士のような外見は別としても)リアリティに欠ける。
 当然、作曲家もオペラを作っているときから、それぞれの役の声質をあらかじめ定めて、その声質や声域に合うよう、その声質が十分な演劇的かつ音楽的効果を発揮できるよう曲(歌)を書いている。それこそ、特定の才能あふれる一人の歌手のために、その歌手の声質や声域を念頭において曲を書く(役をつくる)ということすら、かつてはよくあったのである。
 ベルリーニの『ノルマ』がまさにそれで、当代きっての人気ソプラノであったジュディッタ・パスタを念頭において、ノルマは造型された。
 ジュディッタ・パスタ(1797-1865)の声質は、ソプラノ・ドラマティコ・タジリタ。上記の分類には入っていない。この声質の歌い手は極めて稀(100年に一人の逸材とも)なのである。それこそ、『ノルマ』が人気がある作品であるにもかかわらず簡単には上演されない理由のひとつであり、また、最高の「ノルマ歌い」がなかなか世に現れない最大の理由でもある。
 
 いったいどんな声質か。
 ソルティが所有している、あるソプラノ歌手の「ヴェルディ・アリア集」のCD(東芝EMIより1988年発売)の解説書の中で、高名な音楽評論家の高崎保男がとてもうまいこと表現している。
 
 通常、ソプラノ・ドラマティコ・タジリタとよばれるこれらのソプラノの声には、18世紀ナポリ派オペラの伝統をひく華麗で軽快な装飾歌唱を可能にする軽やかな運動性(18世紀にはカストラート歌手が、19世紀初めの時期にはコロラトゥーラ・ソプラノがそれを担当した)と同時に、19世紀後半以後のイタリア・オペラでその音楽のよりドラマティックな表現力を担うことになる、もっと力強く分厚い響きをもったソプラノ・ドラマティコ、ないしはリリコ・スピントの特性とが同居していて、いいかえればこれらのオペラのプリマ・ドンナはスポーツカーの敏捷さとダンプカーの重量とを兼備することが要求されるのである。(ゴチックはソルティ付す)
 
 スポーツカー(=コロラトゥーラ)とダンプカー(=ドラマティコ)。
 まったく相反した2つの声質を兼ね備えた奇跡の声がソプラノ・ドラマティコ・タジリタなのである。
 驚いたか!
 何を隠そう、上記の解説が付された「あるソプラノ歌手」こそ、至高のプリマ・ドンナにして究極の芸術家たるマリア・カラスである。カラスは絶滅危惧種であったソプラノ・ドラマティコ・タジリタで、それがカラスをあれほどまでに偉大にし、またカラスの『ノルマ』がいまだに――彼女の後を追う人気実力兼ね備えた幾多のプリマ・ドンナがキャリアの頂点に満を持して挑戦してはいるものの――他の追随を許さない高みに一人輝いている理由なのである。
 カラスの類い稀な才能には、もちろん舞台姿の美しさや神がかった演技力、音楽に対する感性の鋭さ、完全主義の努力家といったこともあるには違いない。が、ドラマに起伏をもたらし、登場人物に強烈なリアリティをもたらし、観客の心を鷲づかみにし、劇場を興奮の坩堝と化すことができた最大の勝因は、感情表現の驚くべき豊かさ、深みを可能ならしめた、あの奇跡の声にあるのは疑い得ない。
 
 カラス以降に出現した歌手でソプラノ・ドラマティコ・タジリタと言い得るのは、ハンガリー出身の美貌のシルヴィア・シャシ(1951- )と、カラスと同じギリシャ出身のこのエレナ・スリオティス(1943- )であろう。二人とも「カラスの再来」と騒がれた。
 この奇跡の声は、本来物理的(肉体的)に不可能な条件(=声帯の使い方)に拠っているためか、喉を容易に痛めることにつながり、歌手としての全盛期は残念ながら短い。カラスの全盛期はせいぜい10年あまりだったし、シャシュやスリオティスは名が売れて世界の桧舞台に立ち、やっと来日公演という段になった時には喉に不調の兆しが見えていた。全盛期はせいぜい5、6年といったところではないか。
 スリオティスの紹介文にはいまも「彗星のごとく現れた」と書かれていることが多いが、同時に「彗星のごとく消えていった」のである。
 
 1967年に出ているこのCDは、スリオティス全盛期(24歳)の記録である。
 彼女の歌声を聴くと、作曲家が想定した本来の声(=ソプラノ・ドラマティコ・タジリタ)で歌われるノルマが、いかに迫力あり、いかに陰影に富み、いかに劇的迫真性を音楽にもたらすことかを、そして、聖なる巫女・嫉妬に狂う女・母親・友誼厚き姉・族長の娘といった多様なキャラクターそれぞれの心理をいかに深く彫り出しながら、いかに一人の人間として見事に統合されるかを、実感する。人間が持つ聖と俗、強さと弱さ、愛と嫉妬、怒りと許し、迷いと決断、信頼と疑い、羞恥と誇り・・・。一見矛盾するかのような、しかし誰もが持っている二面性は、まさに矛盾する二つの声の魔術的結合によって浮き彫りにされるのだ。
 オペラとは、歌の芸術であるとともに、声の芸術なのである。
 
 第一声から、聴く者はスリオティスの声のみならず歌い方もまたマリア・カラスに酷似していることにびっくりする。むろん、表現力ではカラスに到底及ばないけれど、声の美しさ(特に高音の)ではカラスより上である。同じことは、ずいぶん前にシャシュのアリア集を聴いたときにも感じた。
 スリオティスやシャシュがどこに行っても「カラスの再来」と騒がれ、本人たちもそれを意識しすぎたために、歌い方までもが物まねっぽくなってしまったのだろうか。
 おそらくそうではなかろう。
 往年の名歌手ローザ・ポンセル(1897-1981)の歌う「カスタ・ディーバ」(『ノルマ』のもっとも有名なアリア)をはじめてCDで聴いたときに、カラスの歌との相似に驚いた記憶がある。
「カラスのノルマは彼女のオリジナルじゃなくて、ポンセルを(おそらくは二人の共通の師である指揮者セラフィンを介して)まねたのか」と思った。
 ポンセルは、修行中の若いカラスが尊敬し憧れていたアメリカのソプラノで、カラス以前最高の「ノルマ歌い」であった。残っている録音やレパートリーから想像するに、やはりソプラノ・ドラマティコ・タジリタと言えるのではないかと思う。
 誰が誰のまねをしたと言うのではなく、ソプラノ・ドラマティコ・タジリタが『ノルマ』を歌うと、自然と同じような歌い方・歌い回しになるのではないだろうか。それくらい、作曲者ベルリーニは初演のジュディッタ・パスタの声質を理解していたということではなかろうか。
 
 このCDは、全盛期のスリオティスによるソプラノ・ドラマティコ・タジリタのノルマが良質の録音状態で聴けると共に、昭和天皇もファンだったという歴史的名歌手マリオ・デル・モナコのポリオーネ、若く瑞々しく張りのある声のフィオレンツァ・コソットのアダルジーザも揃って聴けるという、まぎれもない名盤である。

p.s. マリア・カラス以降のソプラノ・ドラマティコ・タジリタの最大成功者は、現役のディミトラ・テオドッシュウらしい。(ソルティはまだ彼女のノルマを聴いていない) カラスやスリオティスと同じギリシャ出身というのが面白い。 
 
 

● コソット、絶賛!! オペラDVD:ヴェルディ作曲『イル・トロヴァトーレ』(ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮)

収録日   1978年5月1日
劇場    ウィーン国立歌劇場
指揮&演出 ヘルベルト・フォン・カラヤン
オケ    ウィーン国立歌劇場管弦楽団
合唱    ウィーン国立歌劇場合唱団
    
 外出してたまたま通りかかった公立図書館で見つけた。他にも結構豊かなオペラのライブ映像の品揃えがある。早速利用者登録してレンタルした。

 カラヤンの『トロヴァトーレ』はスタジオ録音なら1956年のマリア・カラス共演が有名である。カラスのレオノーラは実に格調高く、優雅で、哀切に満ちている。これを超えるレオノーラはまだ(おそらくは)現われていないだろう。
 だが、この盤は他の共演者が残念である。ルーナ伯爵を歌ったロランド・パネライ、アズチェーナを歌ったフェドーラ・バルビエリはいずれも第一級の素晴らしい歌唱であるが、カラスと比較したときに凡庸な印象を受ける。マンリーコ役のジュゼッペ・ディ・ステファノは、カラスとの相性が良く、性格そのままの情熱的で破天荒な歌唱と艶のあるのびやかな美声とで、カラスと渡り合っている。

 『トロヴァトーレ』はソプラノ(=レオノーラ)、メゾソプラノ(=アズチェーナ)、テナー(=マンリーコ)、バリトン(=ルーナ伯爵)の4声がほぼ同等量の出演シーンと魅力的な歌(アリア)と演技場面とを与えられている稀有な作品である。タイトル・ロール(主役)は一応テナーが演じるマンリーコだが、実際には4人の歌手の誰が主役になってもおかしくない。だから、4人の歌手が高レベルで見事に揃ったときの破壊的な威力は他のオペラの非ではない。同時に、幕切れ後のカーテンコールで4人の中で誰が一番の喝采をもらえるかでその日の主役が決まるという、出演歌手にとってはチャレンジングな、聴く者にとってはこの上なく面白い作品なのである。

 カラヤンは1962年ザルツブルグ音楽祭の『トロヴァトーレ』のために次の4人を選び、大成功を博した。
   レオノーラ ::レオンタイン・プライス 
   アズチェーナ:ジュリエッタ・シミオナート
   マンリーコ :フランコ・コレルリ
   ルーナ伯爵 :エットーレ・バスティアニーニ

 当時集めることのできた最高の布陣であろう。それができたところに帝王カラヤンの権力の凄さが表れている。
 このライブはCDになっていて、4人の名歌手の火花の散るような見事な歌の競い合いと、物語が進むにつれ興奮の坩堝と化していく会場の様子を、圧倒的臨場感のうちに聴くことができる。4人のうちの誰の頭に月桂樹を乗せたものか見当がつかない。(結局、カラヤンの総取りか。)
 ライブ録画のないのが実に悔しい。

 78年になって遂にライブ録画登場である。
 自ら求めるオペラの理想を追求し演出まで支配したカラヤンは、いったい誰を選んだか。
   レオノーラ ::ライナ・カバイヴァンスカ 
   アズチェーナ:フィオレンツァ・コソット
   マンリーコ :プラシド・ドミンゴ
   ルーナ伯爵 :ピエロ・カップッチッリ
 やっぱり溜め息の出るような豪華な布陣である。
 カラヤンが歌唱レベルの高さはともかく、映像化ということを意識したのは間違いない。若く逞しいプラシド・ドミンゴ(日本ではまだ知られていない頃だ)と優雅で女優のように美しいライナ・カバイヴァンスカの恋人ぶりは、ハリウッド映画のよう。ピエロ・カップッチッリの堂々たる雄雄しいたたずまいも、その王者のような風格ある歌唱同様、印象的である。3人の歌手の歌も演技も風貌もまったく申し分ない。
 しかし、突き抜けているのはやはりコソットだ。
 最盛期の声と肉体であることを除いても、コソットの歌唱と演技は神がかりである。
 あるオペラ歌手について「歌は素晴らしいが演技はダメ」とか「演技は上手いのに歌がちょっとな・・・」と評することはある。コソットにはそれが効かない。「歌も演技も素晴らしい」――というか歌と演技がまったく切り離せない。歌唱がそのまま演技であり、演技が歌唱に編みこまれている。音楽、歌唱、演技の三位一体は完全である。
 コソットの出てくる場面で、観る者はザルツブルグから、あるいは自宅の居間から、スペイン山間のジプシーの住む岩窟に瞬時にしてテレポートする。目の前にいるのはもはや歌手でもなく女優でもなく、母親を目の前で火炙りにされ、かつ我が子を誤って火にくべてしまったという、恐ろしいトラウマを背負った一人の女である。コソットが所狭しと舞台を動き回るとき、彼女の周りに見えるのは現世では決して拭いされようのない心の闇なのである。いかなる心理学者より、いかなる精神分析医より、コソットはアズチェーナを理解している。その意味で、筋書きが荒唐無稽でリアリティに乏しいとよく言われるこのオペラを、コソットは一人現代的でリアルなものにしている。
 彼女の神技を前に、指揮者があのカラヤンであることすら忘れてしまう。

 ライブ映像の時代に生まれて良かった。 

 


● オペラ(映画):ヴェルディ『アイーダ』(METライブビューイング)

 銀座松竹。

 昨年12月にニューヨークメトロポリタン歌劇場で上演されたオペラの映像化。
 幕間のあわただしい舞台転換の様子や歌い終えたばかりの出演者へのインタビューを盛り込んでいることもあって、ライブ感が伝わってくる。編集でカットされていないので、当夜のメトの観客達が体験したのと同じ時間割(休憩時間も含め)で最初から最後まで一曲見聞きすることができる。これは生の舞台をあとから遠隔地で映像で見る時に生じざるを得ない落差を最小限にとどめ臨場感を出すうまいやり方だ。


 『アイーダ』と言えば、バブルの頃に東京ドーム(!)で見たフィオレンツァ・コソットのアムネリスを思い出す。
 いくら古代エジプトの宮殿を舞台にしたエキストラ数百人のスペクタル大作だからと言って「東京ドームはないだろう」と今では思うが、ある意味面白い時代であった。オペラにとっての命とも言える「マイクロホンを使わない歌手の生の声」を犠牲にしてまで、ゴージャスと成金趣味(たしか本物の象が出てきたような覚えがある)を追求した結果は、案の定惨憺たるものであったが、びっしり埋まった外野席の一角(お隣では親子連れがポップコーンをほおばっていた)から、はるか遠い舞台にうごめく豆粒ほどのアイーダやラダメスにまじって、コソットのアムネリスはなおも強烈であった。マイクロホンを通した偽の声であっても、顔の表情などまったく分からない遠距離であっても、コソットの歌と演技は観客の耳目を聳たせる磁力に満ちていた。千両役者とは彼女のような人を言うのだろう。

 そもそも自分とオペラとの出会いもフィオレンツァ・コソットであった。
 NHKの教育テレビ(芸術劇場?)で放映した藤原歌劇団上演『イル・トロヴァトーレ』(ヴェルディ作)をたまたま見たのである。1987年のことだ。
 このとき復讐に燃えるジプシー女アズチェーナを演じたのがコソットであった。
 これにはまったく度肝を抜かれた。自分がそれまでオペラに持っていたイメージを完全に覆された。それまでオペラは、演技者としてはデクノボウの太った歌手達がくだらない筋書きに沿って退屈な歌を応酬するものと思っていた。芝居的要素は添え物に過ぎないと。
 コソットはとんでもない名女優であった。一挙手一投足にアズチェーナの魂が宿っていた。目の前で処刑された無実の母親の復讐に燃える娘であり、過って実の息子を殺めた母であり、誘拐した仇の息子を愛してしまう母であり、その息子の死と共に復讐を成就させた女であり。こんなに難しい役どころを驚くほどのリアリティと生命力をもって舞台上に描き出す。一度聴いたら忘れられない大砲のようにとどろくメゾソプラノは、ブラウン管を通してさえ脳天直撃であった。

 初めて聴いたのが『トロヴァトーレ』であったことも今思えば幸いした。
 トロヴァトーレほどオペラの歌の醍醐味が凝縮されて輝いている作品は滅多にない。ソプラノ、メゾソプラノ、テノール、バリトンというオペラの代表的な四声が同じくらいの出番を持ち、代わる代わる見事なアリア(見せ場)を披露してくれる。四声が、ソプラノ×テノール、メゾ×バリトン、メゾ×テノール、ソプラノ×バリトン・・・というふうに様々に組み合わせられて、声質の違いによる二重唱の面白さをバランス良く味わえる。しかも第二幕の幕開けのジプシー達のコーラスに象徴されるように合唱もまた素晴らしい。第三幕のテノールの有名なアリア「見よ、燃える炎を」では、クライマックスの高い「ド」(ハイC)が決まるかどうかという手に汗握る興奮が待っている。こんなに面白い、聴きどころ満載のオペラは他にない、と今でも思っている。
 最初に聴いたのが『トロヴァトーレ』でなかったなら、しかもコソットでなかったなら、そのあとオペラにはまることもなかったかもしれない。


 そういうわけで、アズチェーナやアムネリスを聴くたびにコソットの歌唱と引き比べてしまうのである。

 今回のアムネリスは、オルガ・ボロディナという名のロシア出身の歌手。METでは常連のベテランらしい。
 これが素晴らしかった。コッソトほどインパクトのある声ではなくアクも強くないが、歌も演技も一級品。尊大で嫉妬深いが根は純真なエジプト王女アムネリスの複雑な心の内を、歌っていることを忘れるほどの迫真の演技で描き出し、演じていることを忘れるほど見事な歌唱で聴き手に伝えることに成功していた。
 このアムネリスに比べれば、二枚目にして大スターのロベルト・アラーニャのラダメスも、これがメト初出演だという新星リュドミラ・モナスティルスカのアイーダも、ところどころ見事な歌唱を見せてはいたものの、全幕を通して判断した時に一貫性のある人物造型ができているとは言い難く、見劣りがした。(とは言え、一流の歌唱であることは疑いを得ない。)

 ファビオ・ルイージの指揮は歯切れが良く、ダレがない。METのオーケストラはコンピュータのように正確でクリアで流麗である。 

 もう一つ。
カラスCDジャケット 『アイーダ』と言えば、1951年メキシコ公演のマリア・カラスである。
 スカラ座にデビューして間もないまだ20代のカラスが、マリオ・デル・モナコのラダメスを相手にアイーダを歌っているライブ録音が幸運にも残っている。
 このときカラスは第二幕「凱旋の場」のクライマックスの大合唱の最後に離れ業をやってのけた。登場人物全員による大合唱と管弦楽のフォルティシモの分厚い壁を楽々と突き破り、3点変ホ音(ソプラノでも出ない人が多い超絶高音)を朗々と響かせたのである。会場の大興奮ぶりが録音(CD)からも伝わってくる。何度聴いてもゾクゾクする。
 この音はヴェルディの書いた楽譜にはない。カラスはメキシコの観客へのサービスとしてやったのである。むろん、「スカラにカラスあり」と記銘させたかったのであろう。 
 以来、『アイーダ』を聴いていてこのシーンが近づくに連れて、「このソプラノはやってくれまいか」と期待してしまうのである。

 若い日のカラスほどの圧倒的な声量、力強い高音、胆力、負けん気、プリマドンナ魂を持ったソプラノがいつの日か現れないかと期待する。それがオペラという麻薬に溺れてしまった人間の描く夢想なのである。  
 

記事検索
最新記事
月別アーカイブ
最新コメント
ソルティはかたへのメッセージ

ブログ管理者に非公開のメッセージが届きます。ブログへの掲載はいたしません。★★★

名前
メール
本文