ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

フィオレンツァ・チェドリンス

● 3つのトスカ、あるいは失われた声

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 世界文化社から出ている『DVD決定盤 オペラ名作鑑賞』シリーズ第10巻は、プッチーニの名作『トスカ』である。

 「トスカと言えばカラス、カラスと言えばトスカ」と言うくらい、マリア・カラスのトスカが頭に耳に目に胸にこびついているソルティ。多くのオペラファンも同様であろう。
 ヴィクトール・デ・サバータ指揮、ジュゼッペ・ディ・ステーファノ、ティト・ゴッビ共演の1954年録音のレコードにおけるトスカ、最盛期のカラスの舞台姿を唯一観ることができる1958年パリ・オペラ座における第2幕のみのトスカ(指揮はジョルジュ・セバスティアン)、そして、声と容姿の衰えが顕わになってはいるものの実人生の苦悩が反映された入神の演技で観る者を圧倒する1964年ゼッフィレリ演出のトスカ(指揮はジョルジュ・プレートル)。この3作によってカラスのトスカは永遠となった。
 なので、どんなトスカを観てもカラスと比較してしまう。多くのオペラファン同様に。
 カラスが生涯最も多く歌い、最も華々しい成功を納め、オペラ史的価値も高く、彼女自身最も歌うのを好みかつ得意としていたのがベッリーニの『ノルマ』であるのは間違いないだろう。が、カラス自身の性格や生涯を思うとき、「歌に生き、恋に生き」た情熱の女トスカこそカラスの分身という気がする。とりわけ、1954年のレコード(CD)はオペラ芸術のみならず、クラシック音楽史上のみならず、ミケランジェロの『ピエタ』やダ・ヴィンチの『最後の晩餐』に並ぶ、人類の芸術史における最高傑作の一つであると思う。トスカ(カラス)が登場する第一声「マーリオ」の声に背筋がゾクッとしない者、第2幕のカラスとゴッビの緊迫感たっぷりの応酬に息をつめない者がいるとは思われない。

 そんな『トスカ』であるが、ソルティはあまりこのオペラが好きではない。
 陰惨でSMチックで後味が悪い。
 何と言っても、主要人物3人がみな酷い死に方をするのである。スカルピアはトスカに刺殺され、マリオは死刑囚として銃殺され、トスカは塔からひらりと身を投げる。とても大団円とは言えない。音楽もところどころ甘く美しいメロディがあるものの、全体的にはスカルピアのモティーフに代表されるように、暗く不吉で聴く者を不安と緊張で締め上げるものである。
 出血の拷問シーンあり、SEXを目的とした恐喝シーンあり、殺人シーンあり、死刑シーンあり、身投げシーンあり・・・・。背景がナポレオン時代のローマゆえ、これくらい当然といえば当然なのだが、これほどサディスティックなオペラもあるまい。『蝶々夫人』と言い、『トゥーランドット』と言い、プッチーニはその趣味の持ち主だったのではあるまいか。
 ソルティは別に潔癖でも上品ぶっているわけでもないが、日常から逃避せんがために観る(聴く)オペラに‘残虐’など欲しくないので、あえて観よう(聴こう)とは思わない。
 が、このシリーズの『トスカ』だけはとても見逃せない内容なのである。 

 3つの『トスカ』の陣容は以下の如し。
 
① 2006年アレーナ・ディ・ヴェローナ上演(ライブ)
  • トスカ : フィオレンツァ・チェドリンス
  • カヴァラドッシ : マルセロ・アルバレス
  • スカルピア : ルッジェーロ・ライモンディ
  • 指揮 : ダニエル・オーレン
② 1961年シュットゥットガルト国立歌劇場上演(ライブ)
  • トスカ : レナータ・テバルティ
  • カヴァラドッシ : ユージン・トービン
  • スカルピア : ジョージ・ロンドン
  • 指揮 : フランコ・パタネ
③ 1939~40年製作 映画『トスカ』
  • トスカ : インペーリオ・アルヘンティーナ(歌:マファルダ・ファーヴェロ)
  • カヴァラドッシ : ロッサーノ・ブラッツィ(歌:フェルッチョ・タリアヴィーニ)
  • スカルピア : ミッシェル・シモン
  • 指揮 : フェルナンド・マンチーニ
  • 監督 : カレウロ・コッホ
  • 助監督 : ルッキーノ・ヴィスコンティ、ロッテ・ライニガー   

 戦前、戦後イタリアオペラ黄金期、2000年代に作られた3つの『トスカ』を、映画と室内劇場と野外劇場の3つの異なった形態で、それぞれに最高の布陣を擁した傑作を、家に居ながらにして見聞きできる幸運に感謝するほかない。
 世界文化社、監修の永竹由幸、「いい仕事したなあ~」

 ①の見どころ・聴きどころは、何と言ってもタイトルロール(主役)のフィオレンツァ・チェドリンスである。同じアレーナ・ディ・ヴェローナの『蝶々夫人』ではその喨喨たる美しき声と的確な演技にシャッポを脱いだが、ここでも見事な歌と芝居の融合が見られる。野生的な美しさに溢れ、情が濃くて気性が激しい。トスカというよりもカルメンに近い感じがするが、とても魅力的である。西洋女性はやはり着物よりドレスである。スカルピア役のルッジェーロ・ライモンディも難癖のつけようない見事な歌唱と堂々たる演技。マルセロ・アルバレスは色男を演じるには太り過ぎだが、声はイケメン。野外の広大なスペースを生かしたセットや演出も見物である。

 ②は、マリア・カラスと並び称された往年の名花レナータ・テバルティの非の打ちどころない立派な歌唱が聴きもの。すべての音域においてむらのない良く通る豊麗な響きは、さすが巨匠トスカニーニをして「天使の声」と言わしめただけのことはある。これだけの声はそうそうにない。歌い手の容姿を重んじる映像時代にあって失われたものは、まさに「声」なのだとあらためて感じる。チェドリンスもメトの女王アンナ・ネトレプコも、少なくとも声の威力においてはテバルティの比ではない。
 ソルティは、テバルティの舞台姿を今回始めて観たのだが、演技も上手くて驚いた。と言っても、昨今はやりのリアルを追求したアカデミー賞的演技ではない。あくまで音楽に合わせた、無駄のない抑制された動きである。しかも、品がある。陰惨極まりないストーリーを彼女の存在が高貴なものにしている。登場人物にリアリティを与え生命を吹き込んだカラスとはいささかアプローチは異なるものの、これはこれで歴史に残る名唱、名演であろう。
 敵役のジョージ・ロンドンも、下手すると下品なSMオヤジに墜してしまうスカルピアを、ロココ風の気品を保ちながらスタイリッシュに歌い演じている。
 総じて、節度のある舞台である。

 ③の映画『トスカ』こそ、この巻のみならず、シリーズ全体における最大のボーナストラックと言っていいだろう。   
 あの偉大なる映画監督にして舞台演出家ルッキーノ・ヴィスコンティの『トスカ』である。むろん、彼は助監督としてクレジットされているに過ぎないが、映像を見れば、まぎれもなくこれがヴィスコンティの映画であることが判る。つまり、‘本物の’香りがする。その「本物性」は、若きヴィスコンティがかぶれた当時のイタリア映画界を席巻したネオリアリズム(たとえば、『自転車泥棒』や『戦火の彼方』)に由来するのではなく、何代も続くミラノの名門貴族の家柄ゆえの「本物性」である。結局、ヴィスコンティは若気の至りで社会主義者を気取ったりしたこともあったけれど、生涯出自からは逃げられなかったのである。
 オペラ『トスカ』の映画化は、二つの点で興味深い。
 一つは、舞台(オペラ)だと説明不足になってしまうがゆえに荒唐無稽に思える設定が、背景が丹念に描きこまれることでそれなりの必然性と理由を与えられ、リアリティを確保できる。たとえば、なぜスカルピアは画家のカヴァラドッシが脱獄者アンジェロッティを匿っていると目星をつけたのか、なぜトスカは恋人カヴァラドッシの処刑に立ち会うことが出来たのか、オペラを観るだけではよく分からない。それこそ、物語を効率的に進めるためのご都合主義に思えてしまう。
 それが映画だと、社会背景や裏事情や事件の推移や物語の舞台となる建物の構造も含めて描かれるので、それぞれのエピソードに‘もっともらしさ(整合性)’が付与される。カヴァラドッシが処刑されるローマの聖アンジェロ城の構造が飲み込めてはじめて、トスカが処刑現場に立ち会い物陰から様子を伺うことができた事情が飲み込める。
 もう一つは、ローマの風景描写である。室内のみのオペラの舞台からカメラが街に出ることによって、物語の背景となったナポレオン時代のローマの空気が伝わってくる。石畳を駆ける馬の蹄の音、ローマ郊外の田舎家(トスカとカヴァラドッシの愛の巣)、貧しい群衆、傲岸な宮廷の人々、電燈のない薄暗い街並み・・・。「なるほど、こういう時代の話であったか」と今更のごとく了解する。
 ここではスカルピアの描き方が興味深い。権力を笠に着て倒錯した欲望を満たすサディストという典型的悪役イメージとは違って、権力機構の中で自らのやるべきことを冷酷と知りながら遂行せざるをえない官僚の無力さを漂わせている。スカルピアを単なる「悪」として描くのはヴィスコンティの意図ではなかったのかもしれない。

 トスカは恋人マリオを助ける代償としてスカルピアに体を提供することをいったんは承諾するものの、やはりどうしてもそれはできず、操を守るためにスカルピアを殺害する。そのクライマックスで名曲中の名曲『歌に生き、恋に生き』を歌う。ミもフタもない言い方をすれば、「体を売るか売らないか」で悩む女心の歌である。
 どう考えたって、品ないでしょう?
 ②のテバルティの舞台のように、ある程度の格式を保ってバランスを取るのが、このオペラ上演の正解ではないかと思う。




 






● ブラーヴァ、チェドリンス! オペラDVD:プッチーニ作曲『蝶々夫人』(ダニエル・オーエン指揮)

上演日 2004年7月10日
会場  アレーナ・ディ・ヴェローナ(イタリア)
演出  フランコ・ゼッフィレッリ
配役  蝶々夫人:フィオレンツァ・チェドリンス 
    スズキ :フランチェスカ・フランチ
    ピンカートン:マルチェッロ・ジョルダーニ
    シャープレス:ファン・ポンス
    ゴロー:カルロ・ボージ
オケ&合唱 アレーナ・ディ・ヴェローナ管弦楽団&合唱団
衣装  ワダ・エミ


『蝶々夫人』のクライマックスは主役の蝶々さん(ソプラノ)が登場する瞬間にある。
――と言った人がいるが、これは至言であると思う。
 他のオペラでもヒロインたるプリマドンナの最初の登場シーンは全幕中の‘花’であり、観客が期待と興奮をこめて固唾を呑んで見守るシーンであり、その日の舞台の出来を予感できるシーンである。『ノルマ』しかり、『トスカ』しかり、『椿姫』しかり、『ルチア』しかり。ソプラノの発する第一声の美しさ、声量、発声、感情の込め具合(役になりきっているか否か)、そして華々しく登場したソプラノのオーラーと存在感と表情や物腰――こういった要素を観る者(聴く者)は歌い出して数分のうちに分析し、評価し、判定する。
「おっ、今日は見に来て良かった」
「このディスクは当たりだ」
「ちょっとがっかりだったな」

 歌い出しの第一声で聴く者をたちどころに金縛りにしてしまい、舞台にあっという間にリアリティをもたらし、ほかの共演者のレベルを底上げし、劇場を感動と興奮の坩堝にしてしまう歌手と言えば、もちろんマリア・カラスが筆頭に上げられよう。カラスが歌い始めた途端、オペラは単なる有名歌手の歌合戦であることをやめて、人生と人間の真実を伝える壮大にして深遠なドラマへと飛躍するのである。
 1955年録音の『蝶々夫人』(カラヤン指揮、ミラノ・スカラ座管弦楽団)でも、カラスはその第一声から一途な恋にすべてを捧げる決意をした15歳の少女になりきっている。その一途さ、純粋さが、いずれは大人社会の軽率と不純に裏切られて悲劇に終わるであろう、自らを滅ぼすことになろう、ということを聴く者に予感させるに十分な表現の幅のある歌唱である。同時に聴く者はその筋書きを前もって知っているがゆえに、なおのこと、年端の行かない少女がなにも知らずに幸福に酔う姿を痛ましいものに感じて、胸がかきむしられるのである。
 そこにプッチーニは、途方もなく美しい言葉とメロディーを持ってくる。


 海の上にも、大地にも、すっかり春の息吹が感じられる。
 私は日本一、いいえ世界一、幸せな娘。
 聞いて、みなさん。
 私は愛に誘われて、やって来ました。
 
 このオペラのはじまりは、まさに蝶々さんの登場する瞬間である。それまでのピンカートンとゴローのやりとりも、ピンカートンとシャープレスのやりとりも、蝶々さんの登場を光彩陸離たるものにするための退屈な余興でしかない。
 最初の登場シーンにおいて、悲劇に終わる物語のすべてが凝縮され萌芽されているがゆえに、そして、とろけるように滑らかで官能的で、かつ蝶々さんの純真さと一途さを余すところなく伝えてくれるメロディラインゆえに、ここは全曲のクライマックスであるとしても過言ではないと思う。

 チェドリンスの蝶々さんは、この登場シーンにおいて、瞬く間に、アレーナ・ディ・ヴェローナの巨大な聴衆を、そしてその10年後自宅のソファで夕食をとりながらDVDを見ている自分を虜にした。
 舞台に姿を現す前から聞こえてくる、圧倒的な声の力強さ、美しさ、のびやかさにまず感嘆する。
 お付きの女性たちに囲まれて着飾った蝶々さん(=チェドリンス)が左右に開いた障子から姿を現した瞬間、ちょっと口元に笑みがこぼれるのは仕方ない。どう見たって15歳の日本娘には見えないのは仕方ないにしても、日本髪に結って着物を着たチェドリンスは、蝶々さんというより、大奥取締り春日局である。
 しかし、好きな人と結ばれる喜びに打ち震える少女の声と表情とをもって、チェドリンスが上記の言葉を繰り出すとき、特に「私は愛に誘われて」の部分で高音が鐘の響きのように会場を震わすとき、この舞台の成功と歌手としてのチェドリンスの実力のほどを確信するのである。
 春日局を蝶々さんに見せてしまわせるマジックこそが、オペラの魅力であり、歌の力である。
 あとは、ただただ幕間まで夕食に箸をつけるのを忘れて、モニターに見入ってしまった。

 チェドリンス、ブラーヴァ!
 
 ゼフィレッリの演出も、ワダ・エミの衣装も、共演者の歌と演技も(スズキとシャープレスが人間味あって良かった)も、どれも素晴らしく、最高水準の『蝶々夫人』である。ヴェローナで生(ライブ)で見たら(聴いたら)、生涯忘れられない夜になったであろう。


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