ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

フランコ・ゼッフィレッリ

● いぶし銀 オペラDVD:ジュゼッペ・ヴェルディ作曲『ラ・トラヴィアータ(椿姫)』(プラシド・ドミンゴ指揮)

上演日時 2002年2月
劇場   ジュゼッペ・ヴェルディ劇場(イタリア、ブッセート)
演出   フランコ・ゼッフィレッリ
出演   ヴィオレッタ(ソプラノ):ステファニア・ボンファデッリ
      アルフレッド(テノール):スコット・パイパー
      ジェルモン(バリトン):レナード・ブルゾン
アルトゥーロ・トスカニーニ財団管弦楽団&合唱団

  椿姫を演じた女優で、もっとも有名なのはサラ・ベルナール(1844-1923)であろう。スクリーンでのグレタ・ガルボも忘れがたい。
 オペラ歌手では、やはりマリア・カラスにとどめをさす。
 1955年ミラノ・スカラ座でのライブ録音(カルロ・マリア・ジュリーニ指揮)は、アルフレッドにカラスと相性のいいジュゼッペ・ディ・ステーファノ、ジェルモンに44歳という若さで世を去った名バリトンのエットーレ・バスティアニーニを配し、「体液が干されるほどの」歴史的名盤として知られている。このときの演出家は、フランコ・ゼッフィレッリの師であり(もしかしたら‘アニキ’でもあった)ルキノ・ヴィスコンティである。まさにオペラが輝いていた時代である。
 カラスが椿姫を歌った映像は残っていないので、録音とスチール写真から舞台を想像するしかないのであるが、それでも入神の演技と観客を平伏圧倒したであろう凄まじい存在感を窺い知るのは難しくない。
 DVDの時代になって、椿姫を演じるソプラノの美貌がものを言うようになった。アンジェラ・ゲオルギューは実に大人っぽく、エレガントで、憂いを秘めた椿姫を演じている。「高級娼婦」というにピッタリの感がある。名女優として誉れ高いナタリー・デセイは、歌詞の一つ一つ、表情や動きの一つ一つに実に細やかな配慮をして、恋に生き恋に死んだ一人の哀しい女を描き出すのに成功している。
 そして、このボンファデッリ。
 とにかく美人である。
 「美しい」というそのことだけで舞台にリアリティをもたらしてしまう。純情な青年アルフレッドに慕われて当然、と観る者は納得してしまう。
 誤解がないように言えば、ボンファデッリは歌も見事である。あたたかみのあるクリーミィーな声質に、安定感ある高音、テクニックも演技力も揃っている。天が二物も三物も与えたような歌手である。
 アルフレッドのスコット・パイパーは張りのある輝かしい声と天性の人懐こい眼差しが、人を魅了する。(第一印象は「アルフレッドというより館の下男」)
 しかし、このDVDの一番の魅力は、ジェルモンを歌っているレナート・ブルゾンである。
 レナート・ブルゾンは80年代によく聴いた。実際の舞台にも(『ナブッコ』だったかな)接した。折り目正しい、正統的な歌い手というイメージがあった。ただ、面白くはなかった。タイトルロール(主役)を演じるだけの華もなかった。「性格暗そう」と思った。
 同じバリトンなら、同時期に活躍したピエロ・カプッチッリのほうが華があり、面白かった。
 今回しばらくぶりにレナート・ブルゾンの歌唱に接して驚いた。
「こんなに深みのある演技、こんなにメリハリある入魂の歌唱ができるようになっていたのか・・・」
 ひとたび成功すると、その時点で成長がストップしてしまう歌手が多い中で、レナート・ブルゾンの円熟は本物である。実人生のさまざまな体験やそれを通して得た視点の深まりが、ジェルモンという役を解釈する上で生かされている。
 それは舞台経験を重ねただけのベテラン歌手が、聴衆を感動させるテクニックや呼吸をマスターして、それを思うがまま駆使しているというのとは、明らかに次元が異なる、本物の名唱である。
「だてに歳を重ねていないなあ」

● ブラーヴァ、チェドリンス! オペラDVD:プッチーニ作曲『蝶々夫人』(ダニエル・オーエン指揮)

上演日 2004年7月10日
会場  アレーナ・ディ・ヴェローナ(イタリア)
演出  フランコ・ゼッフィレッリ
配役  蝶々夫人:フィオレンツァ・チェドリンス 
    スズキ :フランチェスカ・フランチ
    ピンカートン:マルチェッロ・ジョルダーニ
    シャープレス:ファン・ポンス
    ゴロー:カルロ・ボージ
オケ&合唱 アレーナ・ディ・ヴェローナ管弦楽団&合唱団
衣装  ワダ・エミ


『蝶々夫人』のクライマックスは主役の蝶々さん(ソプラノ)が登場する瞬間にある。
――と言った人がいるが、これは至言であると思う。
 他のオペラでもヒロインたるプリマドンナの最初の登場シーンは全幕中の‘花’であり、観客が期待と興奮をこめて固唾を呑んで見守るシーンであり、その日の舞台の出来を予感できるシーンである。『ノルマ』しかり、『トスカ』しかり、『椿姫』しかり、『ルチア』しかり。ソプラノの発する第一声の美しさ、声量、発声、感情の込め具合(役になりきっているか否か)、そして華々しく登場したソプラノのオーラーと存在感と表情や物腰――こういった要素を観る者(聴く者)は歌い出して数分のうちに分析し、評価し、判定する。
「おっ、今日は見に来て良かった」
「このディスクは当たりだ」
「ちょっとがっかりだったな」

 歌い出しの第一声で聴く者をたちどころに金縛りにしてしまい、舞台にあっという間にリアリティをもたらし、ほかの共演者のレベルを底上げし、劇場を感動と興奮の坩堝にしてしまう歌手と言えば、もちろんマリア・カラスが筆頭に上げられよう。カラスが歌い始めた途端、オペラは単なる有名歌手の歌合戦であることをやめて、人生と人間の真実を伝える壮大にして深遠なドラマへと飛躍するのである。
 1955年録音の『蝶々夫人』(カラヤン指揮、ミラノ・スカラ座管弦楽団)でも、カラスはその第一声から一途な恋にすべてを捧げる決意をした15歳の少女になりきっている。その一途さ、純粋さが、いずれは大人社会の軽率と不純に裏切られて悲劇に終わるであろう、自らを滅ぼすことになろう、ということを聴く者に予感させるに十分な表現の幅のある歌唱である。同時に聴く者はその筋書きを前もって知っているがゆえに、なおのこと、年端の行かない少女がなにも知らずに幸福に酔う姿を痛ましいものに感じて、胸がかきむしられるのである。
 そこにプッチーニは、途方もなく美しい言葉とメロディーを持ってくる。


 海の上にも、大地にも、すっかり春の息吹が感じられる。
 私は日本一、いいえ世界一、幸せな娘。
 聞いて、みなさん。
 私は愛に誘われて、やって来ました。
 
 このオペラのはじまりは、まさに蝶々さんの登場する瞬間である。それまでのピンカートンとゴローのやりとりも、ピンカートンとシャープレスのやりとりも、蝶々さんの登場を光彩陸離たるものにするための退屈な余興でしかない。
 最初の登場シーンにおいて、悲劇に終わる物語のすべてが凝縮され萌芽されているがゆえに、そして、とろけるように滑らかで官能的で、かつ蝶々さんの純真さと一途さを余すところなく伝えてくれるメロディラインゆえに、ここは全曲のクライマックスであるとしても過言ではないと思う。

 チェドリンスの蝶々さんは、この登場シーンにおいて、瞬く間に、アレーナ・ディ・ヴェローナの巨大な聴衆を、そしてその10年後自宅のソファで夕食をとりながらDVDを見ている自分を虜にした。
 舞台に姿を現す前から聞こえてくる、圧倒的な声の力強さ、美しさ、のびやかさにまず感嘆する。
 お付きの女性たちに囲まれて着飾った蝶々さん(=チェドリンス)が左右に開いた障子から姿を現した瞬間、ちょっと口元に笑みがこぼれるのは仕方ない。どう見たって15歳の日本娘には見えないのは仕方ないにしても、日本髪に結って着物を着たチェドリンスは、蝶々さんというより、大奥取締り春日局である。
 しかし、好きな人と結ばれる喜びに打ち震える少女の声と表情とをもって、チェドリンスが上記の言葉を繰り出すとき、特に「私は愛に誘われて」の部分で高音が鐘の響きのように会場を震わすとき、この舞台の成功と歌手としてのチェドリンスの実力のほどを確信するのである。
 春日局を蝶々さんに見せてしまわせるマジックこそが、オペラの魅力であり、歌の力である。
 あとは、ただただ幕間まで夕食に箸をつけるのを忘れて、モニターに見入ってしまった。

 チェドリンス、ブラーヴァ!
 
 ゼフィレッリの演出も、ワダ・エミの衣装も、共演者の歌と演技も(スズキとシャープレスが人間味あって良かった)も、どれも素晴らしく、最高水準の『蝶々夫人』である。ヴェローナで生(ライブ)で見たら(聴いたら)、生涯忘れられない夜になったであろう。


● 道元と聖フランチェスコ 映画:『禅 ZEN』(高橋伴明監督)

 2009年角川映画。

 曹洞宗開祖、道元の生涯を描く。
 丁寧なつくりで映像も美しい。好感持てる作品に仕上がっている。
 役者は、誠実で真摯で清潔感ある「人間」道元を演じる主役の中村勘太郎も良いが、一番弟子にして生涯の友であった寂円を演じるテイ龍進が素晴らしい。印象的な表情といぶし銀のような渋さで映画全体を引き締めている。西宮出身というから在日○世ということだろうか。これからの活躍も楽しみなバイプレイヤーである。
 女郎あがりの尼おりんを演じる内田有紀は頑張っていると思うが、やはり現代的過ぎるし清潔すぎる。春を売って生きていくしかない女の腐れ感が表現し切れていない。田中裕子や大谷直子なら出せただろう。今の若い女優でそれができる人が思い浮かばん。

 伴明監督が意識したかどうかは分からないが、この映画はアッシジの聖フランチェスコの半生を描いたフランコ・ゼッフィレッリ監督『ブラザーサン・シスタームーン』(1973年)に似ている。
 悟りを開いた若者が賛同者を得ながらコミュニティ(宗派)を作っていく。既存の伝統的な宗教組織からの弾圧を受けて苦しむ。仲間の一人が性欲に苛まされて脱落(還俗)する。最後は遠路を旅して時の権力者(『ブラザーサン』ではアレック・ギネス演じるローマ法王、『禅』では藤原竜也演じる執権北条時頼)に面会し、自らの教えの正当性を保証してもらう。
 そっくりである。(もっとも『ブラザーサン』はゼッフィレッリのイケメン趣味横溢で同じ趣味を持つ観る者をして煩悩を喚起せしむるのであるが・・・。)

 それだけに道元の悟りのシーンにひと工夫欲しかった。

 一心不乱に、というか心身脱落で座禅を組む道元はついに悟りを得る。
 このときの表現を映像化するのは確かに困難である。「悟った~!」と、浮力の原理を発見したアルキメデスのように喜び勇んで走り回るのも悟達者として品位に欠けるし、表情や立ち居振る舞いやオーラーだけで観る者に分からせるには役者は本当に「悟る」しかあるまい。
 伴明監督、CGによる蓮の花の開花を使ったのである。蓮の花の開花はどちらかと言えばクンダリーニの上昇を意味する比喩である。悟りそのものとは関係ない。
 『ブラザーサン』では、十字軍の戦闘から負傷して帰還したフランチェスコが、回復の目覚めとともに窓辺に遊ぶ小鳥を見て悟りを開く。これは見事な悟りの瞬間の描写だとこの映画を観るたびに思う。ドノヴァンの美しい音楽に助けられているとは言え・・・。

 興味深いことに、道元(1200-1253)とフランチェスコ(1182-1226)はほぼ同時代に生きた。両者とも貴族の出である。
 いや、道元だけでなかった。法然(浄土宗)、栄西(臨済宗)、親鸞(浄土真宗)、日蓮(日蓮宗)も鎌倉初期に次々と出現したのであった。
 

評価:B-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


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