ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

フランコ・ゼフィレッリ

● ソウルメイト 映画:『ジェイン・エア』(フランコ・ゼフィレッリ監督)

1996年フランス、イタリア、イギリス、アメリカ合同制作。

 シャーロッテ・ブロンテ(1816-1855)原作の英国上流社会‘かいま見’小説。
 と言うとまるで「家政婦は見た」みたいだが、貴族の館に勤めることになる主役のジェイン(=シャルロット・ゲンズブル)の職業は家庭教師である。そして、市原悦子と派遣先の主人が恋に陥ることはまずないが、ジェインは風変わりな館の主人であるロチェスター(=ウィリアム・ハート)と恋に陥る。
 原作発表当時(ヴィクトリア朝)は、この女主人公の造型は「これまでにないもの」として世間に衝撃を与え、多大な反響を呼んだらしい。家庭教師として自立し、主人と対等に会話し、最後には身分を越えた恋を貫いて、火災で障害をおったロチェスターのもとに走るジェインの姿は、当時としては異色だった。また、ジェインは美人ではない。これも当時の小説としてはあまりないことだった。フェミニズムのはしりと言えるのかもしれない。(フェミニスト=不美人という意味ではない、念のため。)
 だが、いま我々がこの小説を読み、この映画を観るときに、こういったことはほとんど関係ない。ジェインのような女主人公はいたるところに見つけることができよう。ジェインの言動や決断に新鮮な衝撃を受ける現代人はいないだろう。
 それでもなぜこの小説がいまもかく読み継がれ、これまでに4回も映画化されるほど人々の心を捉えているのか。
 それは一つには最初に書いた英国上流社会‘かいま見’の面白さである。
 世界中のどこにもない英国貴族社会独特の伝統、風習、しきたり、豪華、優雅、邸宅、庭園、マナー、ウィットや皮肉に満ちた会話、装束、骨董品、つやびかりする家具調度・・・・。といった現代一般庶民の手の届かない世界を‘かいま見’る楽しみ。監督のフランコ・ゼフィレッリは、あの貴族監督ヴィスコンティの助手をつとめていただけあって本物志向である。安心して‘かいま見’の快楽に身を投じられる。
 いま一つの理由は、言うまでもなく、恋愛小説としての「ジェイン・エア」である。
 ジェインとロチェスターの間には、身分の違いだけでなく、いくつもの障壁が立ちはだかっていた。一度はあきらめた恋であった。その障壁を乗り越えて--ご都合主義の部分もあることは否めないが--ついには結ばれる二人を見ていると、「赤い糸」とか「魂の絆」とか「ソウルメイト」という言葉が浮かんでくるのである。
 現代人が希求しているのはこれなのだろう。
  
 最近、SMAPの稲垣吾郎が半同居人であるヒロくんのことをカミングアウトして話題になった。ヒロくんは妻子もち50代の会社経営者、週に二日は稲垣の自宅マンションの専用部屋に寝泊りする仲だという。二人が知り合ったのは都内のワインバーで、「ワインと共に友情も深まっていった」・・・。
 インタビューでヒロくんはこう答えている。「彼ほど一緒にいて違和感なくなじめるというのは、奇跡的かもしれないですね」
 稲垣は言う。「ヒロくんは精神的な恋人みたいなもの」
 SMAP関係者は言う。「二人はソウルメイト」

 ソウルメイトが異性であるとは限らないのである。


評価:B-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」  

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 

● 若きアイーダ♪ オペラDVD:ヴェルディ作曲『アイーダ』(フランコ・ゼフィレッリ演出)

DVDアイーダ2001
収録日 2001年1月27日
劇場  ジュゼッペ・ヴェルディ劇場(ブッセート、イタリア)

キャスト
 指揮  マッシミリアーノ・ステファネッリ
 演出  フランコ・ゼフィレッリ
 演奏  アルトゥーロ・トスカニーニ財団管弦楽団&合唱団
 歌手  アイーダ   : アディーナ・アーロン(ソプラノ)
      アムネリス  : ケイト・オールドリッチ(メゾソプラノ)
      ラダメス   : スコット・パイパー(テノール)
      アモナズロ  : ジュゼッペ・ガッラ(バス)

 ヴェルディ没後100周年の命日に上演されたライブ記録である。
 演出家のゼッフィレッリと無名の若手歌手たちのワークショップとして企画され、その終了公演として上演された、と解説にある。
 だから、出演歌手陣は、本場イタリアの伝統あるヴェルディの名を冠する劇場で、ヴェルディを記念する催しで、目の肥えた本場の観客たちの前で歌うには、考えられないくらい若い。
 普通のオペラゴアーの感覚では、アイーダもアムネリスもラダメスも、いいとこ30~40代の脂の乗り切ったベテラン歌手が歌うものという印象がある。顎にたるみのあるいい年したおばさん二人が、下腹の出た脂ぎった中年男を取り合って、恋のバトルを繰り広げる。それも止む無し、というのが普通なのである。これらの役柄を歌って大向こうをうならせるだけの力量を獲得するには、やはりそれなりの歳月と経験が必要であるし、名の知れた劇場ほど失敗は許されないから、安全パイを選択したがる。無名の若い新人に主役級を任せるなんて冒険はそうそうできない。無名では観客も呼び込めない。
 そういうわけで、年功序列システムはオペラ業界にも健在なのである。(桁外れの才能と実力のある若者はのぞいて) 
 そんなわけで、若い『アイーダ』を観たことがなかった。

 なんとも新鮮である。
 そう、『アイーダ』の主たる登場人物は、若いのである。
 アイーダもアムネリスもラダメスも、おそらくは20代の若者である。
 これは青春の物語なのだ。青春の夢と野心と恋とプライドと挫折と死の物語なのである。このライブを見て、何より目を開かれるのはそこである。
 このDVDには、付録としてゼフィレッリがオーディションで選ばれた歌手たちに演技をつける様子が収録されている。
 ゼフィレッリはアムネリス役の歌手に演技をつけながら言う。
「アムネリスは処女だ。彼女にとってこれは人生はじめての恋で、ファラオの王女として欲しいものは何でも手に入れてきた彼女の人生はじめての挫折なのだ。」
 これまで『アイーダ』を観てきて、アムネリスが処女かどうかなんて考えたこともなかった。
 無理もない。ジュリエッタ・シミオナートやフィオレンツァ・コソットやドローラ・ザジックが処女かどうかなんて、誰が考えようか。

 だが、『アイーダ』の主役たちは若者なのである。
 エジプト将軍としての栄誉、ファラオの王座よりも、エチオピアの奴隷との破滅的な恋を選ぶラダメス。
 エジプト女王としての地位や権力や豪奢な生活も、ラダメスへの叶わぬ恋の前には「なんの意味も持たない」と悟ったアムネリス。
 祖国を喪い、家族や同胞を虐殺され、エジプトの人質に捕られて王女としてのプライドもずたずたにされ、それでもラダメスとの愛に希望を見出すアイーダ。
 これは青春の無鉄砲、青春の情熱と純粋さの物語なのである。

 このライブの素晴らしさは、出演歌手の予想以上の歌唱と演技の質の高さもさることながら、この作品の持つ本質(=青春群像)を再認識させてくれたところにある。


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