9月6日(土)中野ゼロで開催された日本テーラワーダ仏教協会主催の月例講演に参加した。
今回の講演はずいぶん刺激的で面白かった。
歳をとると、どうしても講演の最中に眠くなる。いったん椅子に座ると日常の疲れが浮上してきて、それを癒そうとするモードに体は自動的に入る。また、昨今はパワーポイントとプロジェクターを使ったスクリーン映写講義がどこでも主流だが、それは人を眠くさせる。画面を見やすくするために会場をいくぶん暗くせざるを得ないし、スクリーンに映った文字を読むのに目が疲れる。結果、睡眠モードに突入する。
案の定、講演の始まった最初の30分ほどは座席で目をつぶって、うつらうつらしていた。
しかし、スマナ長老が「思考」の構造の説明に入ったあたりから、俄然、意識は覚醒し、集中力は高まり、目はランランとしてきた。
まず、スマナ長老はこう断言する。
「思考が人生を作り出します。」
これは精神世界で人口に膾炙する黄金律の一つである。
有名なところでは、アメリカの作家ナポレオン・ヒル(1883- 1970)の『思考は現実化する』(Think and Grow Rich)が思い浮かぶ。「日常何をどう考えているのかが、その人の未来や運命を大きく左右する。だから、自らの思考に注意せよ」といったものである。
さして、目新しい言説ではない。
が、ナポレオン・ヒルは「願望実現」の秘訣という意味で、これを言ったのである。スマナ長老の(仏教の)意図するところは、これとはだいぶ異なることがおいおい明らかにされる。
スマナ長老は仏教的な思考の構造の説明に入っていく。
ここからが面白い。
思考には三つの層があるという。
第一層 私たちが普段気づいている思考や感情(表面思考)
第二層 私たちがたまに気づく思考や感情。いわゆる「無意識」(背面思考)
第三層 その人が持って生まれた基礎となる思考や感情(基礎感情または潜在煩悩)
これをコンピュータのプログラムに喩えると、
第一層 アプリケーションソフト(文書作成、表計算、IE、メールソフトなど)
第二層 基本ソフト(WINDOWS、MAC OSなど)
第三層 BIOS(バイオス)
最も深いところにある潜在煩悩(第三層)は、その人のカルマを深いところで形成している、本人を含め周囲の誰からも気づかれることのない思考や感情の層であり、生まれ変わっても持ち続けるのだという。
この潜在煩悩は、たまに目覚めることがあるが、そのときは相当危険なのだという。(トランスパーソナル心理学で言うところの「スピリチュアル・エマージェンシー」という概念に相当するのかもしれない。)
たまに、「わけもなく人を殺したくなった」と言って実際に何の恨みも利害関係もない相手を殺害する人間が現れたり、「なぜあんな立派な人があのような卑劣な犯罪を犯したのか皆目見当もつかない」といった事件が世間を騒がしたりするが、それはこの潜在煩悩の覚醒によるものだという。それは当人の把握していないカルマが起こした事象なので、本人も周囲の人間も専門家も、この種の事件には納得のいく説明を与えることができない。また、潜在煩悩が覚醒する時を予測することは誰にもできない。
この三つの思考の層は、独立しているのではなく、互いにフィードバックしている。
表面の思考は、背面の思考(無意識)に影響を与え、背面の感情の変化は基礎感情(潜在煩悩)に影響を与える。背面で起こった感情は、表面の感情を刺激し、それに反応して表面の感情は新たな思考や妄想を作り出す。日常生活で我々が軽い気持ちで思考したことは、感情を刺激し、それが背面レベルに影響を与え、潜在レベルにもなんらかの形で蓄積される。
一つの層で起こった思考や感情の波は、他の二つの層に伝わって、そこで何らかの変容を起こして、再び最初の層に還ってくる。
思うに、その行ったり来たりの波及効果の積み重ねがある一定の傾向をつくって、その人の性格、人生、カルマを作っていくのであろう。
興味深いのは、第二の層である背面思考いわゆる無意識がもっとも活発に働くのは夜寝ているときであり、それゆえに、それがどんな性質のものか本人が知ることができるのは、朝目覚めた瞬間だという。
つまり、朝目覚めた刹那の感情や気分というものが、その人の背面思考(無意識)の質を表している。
これを聞いて合点がいったのは、自分自身(ソルティ)、昔から朝目覚めた瞬間が一日のうちで最悪(最低)の気分であることが多いからである。二日酔いではない。なにか「非常にもの悲しい、ブルーな気分」に覆われて目が覚めることが多い。特に憂鬱の原因となるような具体的な悩みもストレスもないのに――である。
この気分は、頭を枕につけた状態で5~10分くらいすると靄のように消えていくのが通常である。学校のこと、仕事のこと、今日やるべきこと、いま心を占めている事象(喜怒哀楽)が、ウワッと気団のごとく頭に(心に?)入り込んできて、最初のブルーな感情をどこかに追いやってしまうのである。そこから一日が始まる。
あるいは、目覚めてから読経するのがここ数年の日課となっているのだが、それによってブルーな気分は払拭され、「過去のこと、先のことを思い煩うなかれ。目の前の一日をしっかりと生きればよい」と平常心を纏う。そこから一日が始まる。
そうしてみると、自分の無意識(背面)、潜在煩悩(基礎)は、かなりリスキーな性質のものなのかもしれない。
くわばら、くわばら。
さて、スマナ長老は進める。
「すべての生命は、貪(欲)・瞋(怒り)・痴(無知)をさらに刺激する方法で思考します。すべての生命の本能は貪・瞋・痴です。」すなわち、我々の思考とは常に「煩悩」を増やすものでしかない。
であれば、フィードバックシステムによって、表面の思考は他の二つの層にも影響を及ぼすのであるから、生命が生きること(=思考すること)は、「存在」をより悪い状況へ転化させることでしかない。
「すべての生命はほうっておくと自動的に不幸になります。」ここが、ナポレオン・ヒルの思考論とは異なるところだ。「願望実現」という(世間的に見れば)ポジティブな思考でさえ、それが欲である以上、結局は不幸の引き金にすぎないと言うのである。
仏教はそこにどう介入するか。
答えは単純である。
背面感情(無意識)、とくに基礎感情(潜在煩悩)には、我々は直接接触することができない。それらをコントロールすることも、変えることもできない。
だが、第一層の表面思考(意識的な思考)は認識し、接触し、コントロールすることができる。我々が「なんとかできる」のはこの層に対してだけである。
意識的な感情(思考)を制御することが「鍵」です。第一層の汚れが取り除かれ澄んでくるにしたがい、フィードバックシステムによって、第二層、第三層の汚れも取り除かれ、次第に澄んでくる。無意識や、潜在煩悩の強い力によって、表面に現れる思考や行為がネガティブにコントロールされる危険も減ってくる。
では、どのように意識的な思考(感情)を制御するか。
その1 サティ(念)の実践は究極の方法である。
つまり、ヴィパッサナー瞑想を実践せよ。
「思考」が現れた途端に、それに気づき、「欲なら欲」「怒りなら怒り」「嫉妬なら嫉妬」・・・と心の中で実況中継する。これをすることで、「思考」が身口意(行為・言葉・感情)に及ぼす破壊的な影響をダムのごとく抑えることができる。
その2 汚れた思考(貪・瞋・痴)をその都度正しい思考に置き換える。
汚れた思考が起こってきたら――というより、ほとんどの思考は貪・瞋・痴であり、汚れているのだが――「思考」が起こってきたら、すぐにそれを強制終了させ、負の流れを生まないような「正しい思考」に置き換える。たとえば、
1.ブッダや阿羅漢など、聖者のことを念じる。
2.ブッダの九徳を念じる。
3.仏法を学ぶ。
4.慈悲の瞑想を行なう。
古来、いろいろな宗教や宗派において、祈りや念仏やお題目や真言やらの言葉を唱えることが推奨されてきた意味は、実はここにあるのかもしれない。
すなわち、祈りや真言それ自体が持つ力によって「願いを叶える」とか「奇跡を起こす」というのは勘違いであって、大切なのは、すくなくともそれらを一所懸命唱えているあいだは、煩悩を増幅させる「思考」をストップさせることができる、ということなのかもしれない。
もしそうだとしたら、煩悩が生じたときにすぐさま、数学の問題を解くのもあり?
ちなみに、「ブッダの九徳」とは以下の通り。
世尊は、
①阿羅漢であり、
②正自覚者であり、
③明行具足者であり、
④善逝であり、
⑤世間解であり、
⑥無上の調御丈夫であり、
⑦天人師であり、
⑧覚者であり、
⑨世尊である。
ブッダに、私は生涯帰依したてまつる。
サードゥ、サードゥ、サードゥ