ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

ブラームス

● 三鷹の夜は更けゆく :チェンバー・フィルハーモニック東京 第21回演奏会

日時 2017年6月11日(日)19:30~
会場 三鷹市芸術文化センター風のホール
曲目
  1. モーツァルト : セレナード12番 ハ短調 K.388 《ナハトムジーク》
  2. ブラームス : セレナード第2番 イ短調 op.16
  3. シェーンベルク : 浄夜 op.4(1943年改訂版)
指揮 木村 康人

 アマオケの演奏会は土日の午後2時開演が普通なので、日曜の午後7時半開演(終演9時20分)という設定はいかにも唐突である。
 しかしプログラムを見れば納得がいく。「夜」をコンセプトにした曲を揃えたのである。
 セレナードとは「小夜曲」のことで恋人や女性を称えるために演奏される曲を言う。ナハトムジークはドイツ語でまんま「夜の音楽」である。(モーツァルトは「アイネ・クライネ・ナハトムジーク  ト長調K.525」のほうが断然有名である)

 にしてもプログラミングが粋である。
 曲順に「古典派」⇒「ロマン派」⇒「後期ロマン派(現代音楽さきがけ)」と音楽史的配列になっているとともに、曲調も同じ夜であっても「宵の口」⇒「夜更け」⇒「深夜から黎明」といった時間推移を感じさせる。演奏を聴きながら、非常に中味の濃い一夜を過ごした気分になった。
 編成も面白い。
 一曲目が管楽器(オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴット)のみの八重奏、二曲目がヴァイオリンなし(!)約30名、三曲目は弦楽器のみ約30名。つまり、オケの主役とも言えるヴァイオリンが登場するのは休憩後の最後の一曲だけ。この編成の違いから生み出される音色の彩こそが、まさに夜の推移を描写する。それすなわち、恋人たちの愛の推移である。

 チェンバー・フィルハーモニック東京は、2006年創立の音楽愛好家と音楽大学出身者の若手主体による室内オーケストラ。ニューヨーク・スタイルというのがモットーだそうだ。
 同行したアマオケに所属している友人の説明によると、ニューヨーク・スタイル(NYスタイル)とは「開演時刻前からすでに演奏者がステージ上に待機している形」を言うのだそうだ。分かりやすく言えば、‘演奏者が登場するのを客が待つ’のではなく、‘客が揃うのを演奏者が待つ’ということか。休憩後の三曲目がまさにNYスタイルであった。時間の節約になるのは確かである。
 演奏レベルはとても高い。音大出身者が集まっているだけある。小編成でも音に深みと陰影があり、ソロパートは危なげのない自在なものであった。プロとアマの中間といった印象を持った。

 一曲目はモーツァルト印の小品。憧れの人への切ない思いやときめき、夕暮れの庭での心躍る語らい、恋の成就、誤解から来るちょっとした諍い、仲直り・・・・・といった‘青い’恋人たちの恋愛風景が、どちらかと言えば無邪気な(前近代的な)ノリで描かれている。

 二曲目はブラームス印の名品。はじめて聴いたが、とても良く出来ていて美しい。4つの交響曲よりも良いかもしれない。ブラームス印とは、「鬱々とした哀愁から唐突な歓喜へ」という流れを指す。ブラームスはロマン派の人であると同時に典型的近代人なのだと思う。孤独と憂愁を抱える近代的自我が、出口を探して逡巡している様が思い浮かぶのだ。
 その意味で、夏目漱石に近い気がする。漱石は最終的に「則天去私」という出口に到達したらしいが、ブラームスはどうだったのか。
 第4楽章ではピッコロの愛らしくも華やかな響きを加えて、まぎれもなく歓喜の境地が歌われている。
 しかし、美しいけれどそこにやはり陶酔はない。忘我はない。
 
 シェーンベルクの「浄夜」は、ソルティの好きな曲の一つ。この曲の存在を知ったのは、はるか昔に地方のゲイバーで隣り合った男が在郷楽団のメンバーで、クラシック音楽の話をしている際に「この曲は素晴らしいよ」と教えてくれたのである。その夜が‘浄められた’かどうか覚えていないが(笑)、翌日CDを買って聴いた音楽は確かに素晴らしかった。
 この曲はドイツの詩人リヒャルト・デーメル(1863-1920)の同タイトルの詩に感動したシェーンベルクが、詩の内容を音楽で表現したものである。
 その内容が凄い!
 
 二人の人間が、寒々しい木立を歩む。
 月が共に進み、二人は月に見入る。
 月は高い樫の木の上に掛かり、
 遮ぎる雲一つない天の空に
 黒い梢が達している。
 女の声が語る。
  
 子どもができたの。でも、あなたの子じゃない。
 
 (当夜配布のプログラムより引用。訳は指揮者の木村康人による)

 ガビーン!
 
 男の心の声が聞こえるようだ。

 女の告白は続く。

 知らない男に抱かれた。
 それで私は良かった。
 でも今こうして人生の報いを受け。
 あなたに、ああ、あなたに出会ってしまった。

 しばしの動揺と沈黙の後、男は答える。
 「君と僕との間を流れる愛は、すべてを浄化する。だから、その子を産んでおくれ。僕の子として育てよう」

 男は彼女の身重な腰に手を回した。
 彼らの吐息が風の中で抱擁を交わす。
 
 どうだろう?
 「過ちを告白する妊婦」と「女を許し父となるのを引き受ける男」。すべてを超えて結ばれる二人。愛の前に不可能はない。
 昼メロのような、80年代大映ドラマのような、レディースコミックのようなエグさと下世話さである。事前にプリントアウトした詞を同行した友人♂に見せたら絶句していた。
 この詩によってデーメルは何を訴えたかったのだろう? シェーンベルクはどこに感動したのだろう?
 すべてを恋人に告白する女のいじらしさか。
 過ちを犯した女を許す男の度量の広さか。
 罪を引き受けることで贖われる男の闇の暗さか。
 罪を浄めるほどの高みに達しうる愛の力か。
 
 わからない。
 しかし、ソルティは欧米人の作ったこの詩にあまりにも有名な二人の姿をダブらせる。
 言うまでもない。大工のヨハネとその妻マリアである。
 処女懐胎というナンセンスを退ければ、ヨハネとマリアに起ったことは上記の詩の男と女の間に起ったことと同じである。夫以外の男の子供(ローマ兵?)を孕んでしまったマリアは、お人よしで忍耐強い夫ヨセフに告白する。
 「子どもができたの。でもあなたの子じゃない」
 驚きと混乱と苦悩。しばしの沈思黙考のあと、ヨセフは答える。
 「いいよ。生んでおくれ。神の子として育てよう」
 かくしてキリストの誕生である。
  
 敬虔なクリスチャンから総攻撃受けそうな解釈である。が、ブッダと義母の不倫を受け入れた仏教徒ソルティに怖いものはない(笑)。
 実際にデーメルやシェーンベルクがこの詩に聖書をかぶらせたのかどうかは分からないが、次の一節を読むと、明らかに《救い》がテーマになっているのを見て取れる。
 
 君は僕に光をくれた。
 僕自身をまさに子供のようにしてくれたんだ。
 
 過ちを犯した女を許すことで罪障ある自分も救われる。単純に‘度量の広い男像’に自己陶酔しているわけではないのである。(デーメルとシェーンベルクの下半身事情が推察される。)
 
 ついでに、ソルティの中のリアリスト(皮肉屋)は、この詩の女にかしこさを読む。
 女は絶好のタイミングを見計らって告白したのだと思う。
  満月の夜。(男の排卵日)
  月明かりの下。(白い肌の輝き)
  露出の高い衣装。(おそらく胸の谷間くらいは見せている)
  誰もいない森。
  ・・・・・あとは言わない、二人は若い。
 
 ひとたび音楽が始まると、こういった解釈や妄想はどうでもよくなり、弦楽器の織り成す甘美な調べに心は持っていかれる。まさに忘我の極地。

 シェーンベルク「浄夜」は、‘物語’から生まれ‘物語’に依るけれど、出来上がった音楽は‘物語’を超えて‘音楽’という快楽官界に聴く者を連れていく。そここそは、すべての時代のすべての「~派」の違いを超えて存在する、音楽愛好家の聖地である。

 終演後、会場を出たら日曜のきよらかな夜が広がっていた。


 



 

● 精巧にして生硬 : 首都大学東京管弦楽団スプリングコンサート

 
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日時 2017年5月27日(土)14:00~
会場 パルテノン多摩大ホール(東京都多摩市)
曲目
  • チャイコフスキー/歌劇『エフゲニー・オネーギン』よりポロネーズ
  • ライネッケ/フルート協奏曲 作品283 
  • ブラームス/交響曲第2番 ニ長調
指揮 増井 信貴
フルート独奏 吉岡アカリ

 立川駅から多摩都市モノレールに乗って多摩センター駅に向かう。

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 首都大学東京管弦楽団は2回目となる。前回はピアノ協奏曲の独奏者・三輪郁の素晴らしい音色に、コンサート全体がもっていかれたような感があった。今回はフルート協奏曲である。どうなることやら。
 会場は8割がた埋まった。

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 華があり活気もある一曲目は、コンサートの開始におあつらえ向きである。団員たちの若さゆえの華と活気がそのまま演奏に注ぎ込まれて上々の滑り出しであった。
 二曲目のカール・ライネッケは北ドイツの音楽家。作曲家であると同時に、ピアニスト、教育者としても活躍したそうだ。ロマン派の最盛期からその終焉までの時代を生きた彼の曲は、まさにロマン派の香りが馥郁と漂っている。徹頭徹尾、叙情的。
 フルート協奏曲というのを生で聴いたのははじめてであった。フルートは、人の声質で言ってみればコロラトゥーラ・ソプラノに近いものであろう。軽やかできらびやかで技巧的で美しい。吉岡アカリ(女性ではありません。♂です)のテクニックは実際見事なものであった。普段このオケの管トレーナーをつとめているためもあろう。オケとの相性も悪くない。
 漫画『美味しんぼ』(原作:雁屋哲、作画:花咲アキラ)で、寿司のネタとシャリのバランスについての話がある。高級のトロと中級の酢飯の組み合わせよりは、中級のトロと中級の酢飯の組み合わせのほうが結果的に美味しく感じるといった話である。それと同じで、協奏曲というのは独奏者とオケのバランスが大切なんだなあと知った次第である。

 最後のブラームスは熱演にして好演であった。「ブラボー」も出たし、拍手も大きかった。どうしてアンコールに応えなかったのか不思議である。
 
 それはさておき、これでブラームスの全交響曲(4つ)を生で耳にしたのであるが、「精巧にして生硬」という印象を持った。楽曲の構成や和声やオーケストレーションなど技巧面ではケチのつけようのない高みにいる。それは間違いなかろう。ベートーヴェンを見事に吸収している。この点では、噛めば噛むほど味わいが増してくるスルメのように、ブラームスの交響曲は聴く回数を増すほどに、新たな発見のあることだろう。通好みというのも分かる。
 一方で、生硬で面白みにかける。ブラームスはロマン派の代表選手のように言われるけれど、全然‘ロマンティック’ではない。チャイコフスキーやサン=サーンスやマーラーと比べると歴然である。
 その原因としてソルティが実感するのは、「ブラームスの交響曲には‘起承転結’の‘起’と‘承’だけがあって‘転結’がない」。
 楽章の中に用いられている主題を聴けば、それは明白であろう。メロディ展開として、‘起’と‘承’が提示されたあと‘転’に行くかと思ったら、行かずにまた‘起・承’に戻るのである。‘起・承’が何度も繰り返される。繰り返すごとに豊かに緻密になってゆくオーケストレーションは天才の名に恥じないものである。が、‘転’がないことが聴く者に視野の広がりをもたらさない。
 主題の場合と同様、楽曲全体にも‘転’がない。ところが、第4楽章に‘結’はある。たとえば、交響曲第1番と第2番の第4楽章は、ベートーヴェン第5番や第9番同様、「歓び」を歌っている。「苦悩」から「歓び」へ。‘結’らしい‘結’である。
 しかるに、‘転’がない‘結’は、聴く者からすればいかにも唐突であり、生硬であり、作曲者の内的必然性から生まれたのではなく、形式を整えただけというふうに聴こえる。つまり、最終的に「歓び」に至った心的履歴が了解されない。
 では、‘転’とは何だろう?
 ソルティが思うに、それは「忘我」であり「他者」ではないか。
 「自分」とは異なる「何者か」に圧倒的に惹きつけられ、支配され、打ち壊され、陵辱され、自己を明け渡す経験ではないか、と思うのである。営々と積み上げてきた「自己(=起・承)」が、他者の出現によって不意に崩壊し、大いなる愛のうちに溶解する。すべてが許される。
 その場合の「他者」は、神であったり異性であったり同性であったり子供であったり自然であったり神秘体験であったり・・・・いろいろであろう。
 「歓び」が生まれるとしたら、そのアダージョ的な溶解のたゆたいの縁から日常へと立ち戻り、古き自己(=起・承)を新たな目で見つめなおしたときの清新さから来るのではなかろうか。
 ブラームスの音楽には忘我が見当たらない。
 むろん聴く者にも忘我を許さない。 

 やっぱり、ストイックな男だったのか・・・。 


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● ド・レ・ミ・ファ・ミ・レ・ド♪ :アリエッタ交響楽団第8回演奏会

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日時 2月5日(日)14:00~
会場 和光市民文化センター・サンアゼリア大ホール(埼玉県)
曲目
  • ディッタースドルフ/コントラバスとヴィオラのための協奏交響曲 ニ長調
  • ブラームス/ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲 イ短調 作品102
  • (アンコール)モーツァルト/アイネ・クライネ・ナハトムジークK525より第3楽章メヌエット
  • (アンコール)L.M.Fアルベニス/タンゴ
  • ブラームス/交響曲第1番 ハ短調 作品68
独奏
  • 小杉由香子(コントラバス)
  • 小林弦太(ヴィオラ)
  • 神山里梨(ヴァイオリン)
  • 森義丸(チェロ)
指揮 大市泰範
入場 全席自由500円

 アリエッタは昨年に続き2度目。
 あれからもう一年が経つとは!

 自分はいったいこの一年間何をしていたのだろう?
 春はどこへ行った? 夏はどこへ消えた? 

 健忘症のような気持ちになる。
 老化により記憶力が減退するに連れて、時の経つのが早くなるのだろうか?
 

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 ・・・という感慨を抱えながら東武東上線の和光市駅に降り立った。
 やはり街を歩く人々は若者や子供連れが多い。若う市だ。
 開演1時間前にサンアゼリアに到着。
 しばらくすると雨がぱらついてきた。

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 今回の呼び物は、オケを彩る4つの弦楽器――ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス――の饗演である。しかも、普段は脇役に徹するコントラバスとヴィオラが主役カップルとなる協奏曲に興味津々。
 ディッタースドルフという作曲家ははじめてだが、同じ名前の競走馬がいる。いつも高いオッズがつけられているところからみると、あまり人気はないらしい。作曲家のディッタースドルフのほうも影が薄いのだが、これはひとえに同時代の同国に生きた、あまりにも有名、あまりにも天才な音楽家のせいであろう。ディッタースドルフ(1739-1799)はヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの17年前にウィーンに生まれ、8年後に亡くなっている。
 当時はヴァイオリニストとしても名を馳せたようで、
ディッタスドルフ(第1ヴァイオリン)
ヨーゼウ・ハイドン(第2ヴァイオリン)
モーツァルト(ヴィオラ)
ヴァンハル(チェロ)
という奇跡の弦楽四重奏を組んだこともあったそうだ。ちなみに、ヨハン・バプティスト・ヴァンハルは、ディッタースドルフの弟子である。
 
 コントラバスとヴィオラのための協奏交響曲は、腹の底にずんっと響くようなコントラバスの低音の魅力が味わえて面白かった。便秘に効きそう(笑)。奏者は若い女性だった。体より大きな相棒を抱えて、拍手に応えて舞台に出たり袖に引っ込んだりする様子が大変そうであった。
 この曲の第一楽章には『カエルの歌』が出てくる。「ドレミファミレド ミファソラソファミ」ってやつ。『カエルの歌』はもともとドイツ民謡だったのだ。
 世界の民謡・童謡というサイトによれば、他にもスメタナ『わが故郷より』、チャイコフスキー交響曲第2番『小ロシア』、バッハ『シンフォニア 第13番』にも同じメロディーが使われているらしい。この中で一番古いのはバッハだ。
 バッハがカエルの生みの親?

バッハ

パッパ・・・
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 ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲ではチェロ特有の多重螺旋的な輝かしい音色が堪能できた。チェロってとても人間的。
 交響曲でも感じるのだが、ブラームスはいつも第3楽章が光っている。つまり、舞曲的なメロディーにおいて、水を得た魚のように、彼自身の個性や才能が発揮できているように思う。それにくらべれば、ベートーヴェンに倣ったと思われる他の楽章は、構造的に、あるいはオーケストレーションにおいてどれほど優れていようとも、「音楽のための音楽」「交響曲のための交響曲」という印象を拭いきれない。
 たとえば、モーツァルトやベートーヴェンやマーラーやチャイコフスキーの交響曲を聴くと、作曲家のひととなりが手に取るように窺える。好きか嫌いか、友人になれそうかなれそうにないかは別として、彼らの個性が曲の中にありのままに表現され、聴き手に否応なしに伝わってくる。彼らにとって、明らかに作曲は自己表現の手段なのだ。
 一方、ブラームスの交響曲あるいは協奏曲からは、「ブラームスがいったいどんな人間だったのか」がいまいち見えにくい。自己表現の要素が、ブラームスにあっては希薄な感じがするのである。
 まあ、上記の音楽史上ダントツ個性派の4人(ワーグナーを加えて五人組を形成)に較べれば、たいていの作曲家はそう見えてしまうかもしれない。今回もメインのディッタースドルフとブラームスを超えてソルティを感動に至らせたのは、弦楽独奏者4名+コンサートマスターによるアンコールのモーツァルトであった。
 やっぱり、桁違いの才能だ。前者二人が持って生まれた才能と刻苦勉励して身につけた技巧によってようやく達することができた地点から、モーツァルトは作曲を開始している。

 後半のブラームス1番は、よくまとまっている上に迫力があった。指揮の大市泰範はスマートな才能の持ち主で音楽的感性が高い。次回、大市&アリエッタは《第九》に挑戦するそうで、楽しみである。 
 
 才能といえば、今回ソリストをつとめた4人の若手演奏家のプロフィールを見ると、みな幼少(10歳以前)から楽器を始めている。やはり、そのくらいから始めないと身につかないんだなあ~。
 ソルティの子供の頃(40年以上前)、ヴァイオリンを習っている子供なんか周囲に一人もいなかった。山の手の両家の子女がやるもんだという認識だった。庶民の子供はよくてピアノ、たいていは算盤を鳴らしていた。(ソルティは6歳時分に1年ほどピアノ教室に通った)。
 平成の子供たちはピアノは愚か、ヴァイオリンもバレエも普通のお稽古事の一つなのだろう。うらやましいかぎりだ。
 でも、ちょっとだけとは言え幼少期にピアノを習ったことは、メリットをもたらした。職場の老人ホームで歌レクをやるときに、さすがに伴奏まではできなくても、童謡のメロディーくらいならオルガンで弾けるのである。メロディーを音階(ドレミ)にすることができるからだ。
 
 ド・レ・ミ・ファ・ミ・レ・ド
 


 
 

● ブラームスの子守唄 東京セラフィックオーケストラ第12回定期演奏会

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日時 1月21日(土)14:00~
会場 ルネこだいら大ホール(東京都小平市)
曲目
  1. ブラームス/大学祝典序曲 ハ短調作品80
  2. メンデルスゾーン/ヴァイオリン協奏曲 ホ短調作品64
  3. バッハ/ヴァイオリンソナタ第1番よりシチリアーノ(アンコール)
  4. ブラームス/交響曲第4番 ホ短調作品98
  5. シベリウス/アンダンテ・フェスティーヴォ(アンコール)
管弦楽 東京セラフィックオーケストラ
ヴァイオリン独奏 加藤えりな
指揮 横島勝人
入場 全席自由1000円

 新年アマオケ2発目はヨハネス・ブラームス。
 チャールズ・ダーウィンあるいはカール・マルクスと見まがうようなご立派な髭をたくわえた貫禄たっぷりのポートレート(上掲)が有名であるが、この頃(19世紀後半)の西欧のインテリはこぞって髭を生やしていたように思われる。誰が誰だか見分けがつかない。
 ブラームスの若い頃のポートレートを見ると、結構なイケメンである。もちろん、髭はない。

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 相当モテただろうと思うのだが、ブラームスは生涯独身であった。フリーメイソンの会員であったこととも関係しているのかもしれないが・・・・・ソルティの勘だが、ブラームスはゲイだったのではないかなあ。ウィキによれば、ある女性と婚約しながらも、「結婚には踏み切れない」と一方的に破談にしたこともあるとか。
 そしてまた、彼の作った曲に漲る憂愁の色が、なんとなくチャイコラヴェルや古賀政男のメロディに通じるものを感じるのである。晩年に作曲した『クラリネット五重奏曲』なんか特にその(どの?)気配濃厚だ。
 まあ、ブラームスも聞きはじめばかりなので、これからの研究(?)テーマとしよう。
 
 東京セラフィックオーケストラは、2004年9月に設立した楽団。
 セラフィック(Seraphic)とは、最も階級が高い天使(=熾天使、してんし)のことを言う。「誰の手も届かない程の高みを目指そう」という想いが込められているらしい。意気軒昂である。

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 さて、演奏は・・・・・・・

 実は、ソルティ眠くて仕方なかった。
 前夜はどういうわけか3時間しか眠れなかった。午前3時に目が覚めて、頭がスッキリ。「これ幸い」と社会福祉国家試験の勉強をした。明け方になって枕に頭をつけたものの、やはり目が冴えて眠れない。「これ幸い」と瞑想をして、朝を迎えた。午前中は用事があって出かけた。
 
 小平駅の近くで昼食を取ってホール入りし、「さあ、聴くぞ」と構えたとたん、寒気と共に眠気が襲ってきた。
 それでも、一曲目の『大学祝典序曲』は活気のある華やかな曲で、よく知っているラ講(=旺文社大学受験ラジオ講座の)メロディも出てくるので、起きていられた。
 二曲目のヴァイオリン協奏曲の流麗なソロの調べが流れると、半睡半覚状態に陥ってしまい、あとは「誰の手も届かない程の高み」をたゆたっていた。

 今回は文字通り「ブラームスの子守唄」になった。
 仕事と両立しながらの数ヶ月の受験勉強の疲れが出てきているのだろう。本番目前にちょうど良い癒しのときを持てた。
 ようやっと頭がすっきりしてきたアンコールの『アンダンテ・フェスティーヴォ』は、よく弦が鳴っていて見事であった。
 この曲は、ドヴォルザーク『新世界』第4楽章第1主題、あるいはベートーヴェン『喜びの歌』とよく似ている。早稲田大学応援歌の『紺碧の空』(古関裕而作曲)の冒頭にもちょっと似ている。ナンシー関流に相似マトリックスをつくると、こうなる。

上を向いて歩こうSUKIYAKI(中村八大)
ベートーヴェン『皇帝』第1楽章第1主題
ブラームス交響曲第1番第4楽章第1主題
 ↓ 
喜びの歌(ベートーヴェン)
アンダンテ・フェスティーヴォ(シベリウス)
ドボルザーク『新世界』第4楽章第1主題
紺碧の空(小関裕而)



 

● 黄金のリボン : ウィーンの音楽を楽しむ会(ギュンターフィルハーモニー管弦楽団56回演奏会)

日時 2016年12月3日(土)18:00~
会場 杉並公会堂大ホール
曲目
  • モーツァルト/交響曲第32番 ト長調 K..318
  • ベートーヴェン/ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.61
  • ブラームス/交響曲第3番 ヘ長調 Op.90
  • アンコール バッハ/無伴奏ヴァイオリン パルティータ第3番 BWV1006 第3曲 ガヴォットとロンド
ヴァイオリン:奥うらら(ハノーファー州立歌劇場・コンサートマスター)
指揮:重原孝臣
入場無料

 ギュンターフィルハーモニー管弦楽団は、1980年ウィーン・フィルのホルン奏者ギュンター・ヘグナー氏との協演を機に結成されたオケで、ウィーンの音楽、ウィーンの響きをこよなく愛する人々の集まりとのこと。これまでの演奏会プログラムを見ても、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、シューベルトなど、ウィーンとゆかりの深い古典派の曲が圧倒的に多い。
 団員の平均年齢はOBオケと並ぶくらい高めである。
 が、音はぜんぜん違った。
 OBオケのほうは分厚くて粘りある「スライム風」であるが、こちらは精巧できらびやかなガラス細工のお城のような典雅で華奢な音である。これが「ウィーンの響き」というやつなのだろうか。
 OBオケ同様、演奏には安定感があり、大人っぽい落ち着きがある。
 演奏後の挨拶で、昨年89歳の団員が引退したとか言っていた。オケは長く楽しめる道楽なのだな。うらやましい。
 
 今回の協演者である奥うららは、5歳からヴァイオリンをはじめ、東京芸術大学音楽学部を卒業。ドイツのヒルデスハイム市立劇場およびハノーバー国立歌劇場のオーケストラ団員(コンサートマスター)として活躍してきた。アンコール前のご本人の弁によると、「音楽好きの母親あって今の自分がある」。五嶋みどりを思わせる。
 金色のラメのドレスを着ていたせいもあると思うのだが、その演奏はあたかも、ヴァイオリンから放たれた音が金色に輝くリボンとなり、波打ちながら空間を伸びてきて、蜂蜜のような甘い香りをしたたらせながら、聴く者の身体に柔らかく巻きつくかのようであった。特に、ヴァイオリニストとしての積年の思いと母親への感謝の込められたアンコール曲は、とても素晴らしく、至福の時間を過ごさせてもらった。

 ブラームスの交響曲3番は「聴くのははじめて」と思っていたのだが、第3楽章が始まって、「ああ、知ってる!」と心の中でうなづいた。
 
「これ、ブラームスだったのか」
 
 家に帰って調べてみると、このメロディーは、1961年の米仏合作映画『Goodbye Again(さよならをもう一度)』(1961)で使用されたほか、フランク・シナトラが『Take My Love』というタイトルでポップスとしてカバーしている。ソルティは映画のほうは観ていないから、おそらくシナトラの歌を幾度も耳にしていたのだろう。
 たしかに、時代を超える印象的なメロディー、せつなさと美しさに満ちた名曲である。
 ブラームスは、尊敬する大先輩ベートーヴェンを意識しすぎて交響曲第1番を完成させるのに20年以上費やしたと言われる。第1番が傑作なのは間違いないけれど、ブラームスの本領というか、オリジナルな個性が発揮されているのはきっとこっちなんだろうな。
 これからブラームスを追って、確かめてみよう。

 杉並公会堂の正面にはブルーのクリスマスツリーが夜空に輝いていた。

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● ベートーヴェン交響曲第10番 :アセンブルド・アイ・オーケストラ第10回演奏会

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日時 2016年8月20日(土)14:00~
会場 三鷹市芸術文化センター・風のホール
指揮 橋場友彦/石井毅彦
曲目
  1. ワーグナー:歌劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』より第1幕の前奏曲
  2. チャイコフスキー:幻想的序曲『ロメオとジュリエット』
  3. ブラームス:交響曲第1番 ハ短調 作品68
  4. アンコール ブラームス:ハンガリー舞曲集作品10

 三鷹芸術文化センターを訪れるのははじめて。
 風のホールは、いわゆる‘シューボックス型’の機密性の高い直方体の空間。625席は、個人的にはクラシック音楽を聴くには手頃な広さと感じる。音響も良い。
 全席自由なので2階の右手壁際に陣取った。客入りは6~7割くらいか。

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 Assembled I Orchestra(AIO)は、かつて都立高校の管弦学部を卒業したメンバーによって2007年に発足し、現在は学生オケやアマチュアオケに在籍する様々な演奏者が構成するオーケストラです。(公式ホームページより)

 20~30代の若いオケである。
 特徴の一つは――過去の演奏会記録を見る限り――アマオケがよくやるように外部のプロ指揮者に依頼して指導および演奏会の指揮を任せるのではなく、同年代のオケのメンバーの一員が指揮者を兼ねているところ。橋場友彦はAIOのホルン奏者であり、石井毅彦はファゴット奏者である。この点が、おそらくこのオケの長所と短所の両方を生んでいるように思った。
 長所はもちろん、指揮者とオケのメンバー間の信頼と親密さと普段からの意思疎通の深さとから生まれる一体感(まとまり)、自由で伸び伸びした雰囲気である。萎縮のない音の響きは最大の魅力である。
 一方、音を合わせて楽譜どおりきれいに演奏するレベル以上のことが期待されるときに、仲間うちの同年輩の指揮者にはよほどの才能が必要と思われる。楽譜を読み込む力はもとより、オケを構成する楽器一つ一つの特徴や各演奏者の性格や癖を把握して、それらを適切に調整しながら、作曲家の意図なり曲想なり指揮者としての野心(試み)なりを表現していかねばなるまい。すなわち、高度のコーディネート力が必要になってくる。
 また、オケのメンバーのほうも、まったくの他者である外部の指揮者の指導を受け共演することで、気の知れた仲間うちの安心感ある(悪く言えば‘ナアナアの’)雰囲気の中で知らず知らず身についてしまった殻を破って、新しい自分・新しい音・新しい世界観を得ることができる。そこにオケとしての進化はある。
 一例だが、演奏された3曲すべてにおいてメリハリが不足しているように思った。ハリ(張り=強さ)は若いだけに十分ある。どの曲も大向こうをうならせる迫力があり、フィナーレは圧巻であった。だが、メリ(減り=弱さ)が不足しているため、表情・陰影・繊細さという点ではまだまだ成長途上と感じた。最初から最後まで「押して押して押しまくる」の一本調子になって、聴いている耳が麻痺してしまい、しまいには「眠ってしまった」。とくに1曲目と3曲目でその傾向が強かった。
 ちょっと辛口になったが、全体としては非常によくまとまっており、これといった瑕疵も見当たらず、良い演奏会であった。中でも、女性のティンパニー奏者が、曲想をよく理解した大胆かつ切れ味鋭い演奏をしていて印象に残った。

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 ブラームスの第1番は、「ベートーヴェンの第10交響曲」と呼ばれるほどの名曲中の名曲。
 確かに、完成度は名曲の名に恥じない。とりわけ第4楽章は、楽聖の傑作群と比べても遜色ない素晴らしさである。アルペンホルン風の愛の旋律が朗々と山間を渡り、木魂して消え入ったあとの一瞬の静寂(しじま)。そこから、あの雄雄しく輝かしい弦楽器による第一主題が姿を現す瞬間こそ、この交響曲のヘソであろう。
 実にカッコいい。
 この第一主題、ベートーヴェン第九の「歓喜の歌」に似ていると言われる。が、ソルティはむしろベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番『皇帝』の主旋律(坂本九の「上を向いて歩こう」)+「歓喜の歌」といった印象を持つ。似ているから、二番煎じだから、オリジナリティに欠けるからダメなんて評価はまったくの見当違いと誰でも首肯するであろう、音楽史に残る名旋律である。
 とはいうものの、この曲自体は間違っても「第九」を超えるという意味での「10番」ではない。世界観の深遠さに関して言えば、ブラームスの1番はベートーヴェンの5番や9番には到底かなわない。湖と海くらいの違いはあろう。
 ベートーヴェンに比すべき交響曲作家は、やっぱりマーラーだと思う。
 

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 三鷹芸術文化センターのすぐそばに太宰治と森鴎外(林太郎)の墓のある禅林寺がある。
 ちょうど良い機会だから帰りに寄ってみた。
 二人の墓はほぼ真向かいに位置する。玉川上水での入水自殺後、鴎外を尊敬していた太宰自身の遺志により建てられたという。是が非でも芥川賞を手にするため選考委員の川端康成にくだくだしく鬱陶しい手紙を送りつけた太宰治である。明治の文豪のそばに葬られて、さぞや得意満面なことであろう。(鴎外にとってはいい迷惑かもしれないが・・・。)
 そんな意地悪なことを考えながら墓地にたたずんでいたら、どしゃぶりになった。
 太宰ファンの不興を買ったか・・・。


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土砂降りや ゲージュツ家らも 夢のあと
  



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