収録日 1978年12月9日
劇場 ウィーン国立歌劇場
キャスト
指揮 カルロス・クライバー
演出 フランコ・ゼッフィレッリ
演奏 ウィーン国立歌劇場合唱団&管弦楽団
歌手 カルメン : エレーナ・オブラスツォワ(メゾソプラノ)
ドン・ホセ : プラシド・ドミンゴ(テノール)
エスカミーリュ: ユーリ・マズロク(バリトン)
ミカエラ : イゾベル・ブキャナン(ソプラノ)
36年前の公演。
自分がまだオペラにもクラシックにも洋楽にもまったく興味がなかった中学生の時に、はるか遠くのオーストリア(当時まだ庶民が簡単に海外旅行できる時代ではなかった)で、このように質の高い感動的な『カルメン』が上演されていたのか・・・と何だか不思議な気になる。そう、日本にオペラブームが訪れるのは10年先である。
むろん、中学生の自分もカルメンはさすがに知っていた。
だが、それはメリメの『カルメン』(高校に入ってから新潮文庫で読んだ)ではない。ピンクレディーの『カルメン77』であった。当時はピンクレディー全盛だったのである。
ピンクレディーのカルメンからメリメのカルメンを知った。ビゼーのカルメンを知ったのは社会人になってオペラを聴くようになってからである。
もっともビゼーの『カルメン』に出てくるいくつかの有名なメロディーは、子供の頃からあちこちで耳にしていたのだろうが・・・。
いい舞台というのは、時を越えて新しいものだなあというのが実感である。
舞台がまるで先日上演されたばかりのように‘生き生き’している。
その‘生き生き’が36年前の歴史的名演という堅苦しい肩書きを軽々と打ち砕いて、‘いま、ここ’のドラマに視聴者を向き合わせてくれる。
この‘生き生き’を作っている一番手がドン・ホセを演じるプラシド・ドミンゴ。
やっぱりすごい歌手だ。
この頃はまだ80~90年代の‘世界三大テノール’と呼ばれるほどのクラシックファン層を超えた圧倒的なスター性はなかったと思うが、主役のカルメン(=エレーナ・オブラスツォワ)を完全に喰っている。オブラスツォワだって相当いい歌唱と演技をしているのだが、終幕が近づくにつれて、この舞台、この作品、この小説の主役はカルメンでなく実はドン・ホセだったのだと、視聴者は理解する。
原作を読んだのははるか昔なのでよく覚えていないのだが、この小説の真のねらいは、自らに正直な奔放で野性的な女性(=カルメン)を描くことにあったのではなく、そんな女性に惹かれて人生を狂わせてしまった真面目で不器用な男(=ドン・ホセ)を描くことにあったのだろう。
つまり、恋の狂気がテーマなのである。
恋の狂気--。
ドン・ホセとカルメンの関係は、時を越え国を越え、いずこでも見られるものだ。
恋人に捨てられた男(あるいは女)が、その事実を受け止めることができず、ストーカーのようになって、自らの生活も人生も仕事も評判も棒に振って、恋人に執着し続ける。挙句の果てに、相手を‘自分だけのものにするために’殺めてしまう。
こういったニュースはそれこそ毎日のようにどこかで起こっている。
ドン・ホセは現代に即して言うならば、ストーカーであろう。
その恋の狂気をドミンゴが実に素晴らしく演じかつ歌っている。
ラテン男(スペイン生まれ)の血のためだろうか、舞台が進行するにつれてドン・ホセがドミンゴに乗り移っていき、歌手ドミンゴの姿が消えていく。あたかも憑依のように、幕間のカーテンコールでもドミンゴは演じている人物から抜けることができずに、ドン・ホセの陰鬱な表情と物狂おしいオーラーのままで、観客に対峙している。
このドミンゴの神がかった演技に感化されて、自然とオブラスツォワの演技も本物になっていく。「俺を裏切るなら殺してやる」というドン・ホセの言葉(歌)と執念を宿した黒い瞳の不吉なまなざしにおびえて、舞台上のカルメンは演技でなしに怯えているかのようだ。
そして、このドミンゴの血の中に潜んでいたラテン男の執念深い気質を、見事に引っ張り出したのが、ゼッフィレッリの演出とカルロス・クライバーの指揮である。
クライバーの音楽は、人の心の中に理性に隠れて潜んでいるものを引っ張り出してしまうような麻薬性あるいは官能に満ちている。