ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

ヘンリー・ジェイムズ

● そこに何が見えますか? 映画:『回転』(ジャック・クレイトン監督)

1961年アメリカ。

 原題はThe Innocents(無垢な者たち)
 原作はイギリスの文豪ヘンリー・ジェイムズ(1843-1916)の人気小説『ねじの回転』。
  ジェイムズ作品は、この小説以外にも、ニコール・キッドマン主演『ある貴婦人の肖像』(1996)、ヘレナ・ボナム・カーター主演『鳩の翼』(1997)、ユマ・サーマン主演『金色の嘘』(2000、原題は『黄金の盃』)などが映画化されている。総じて、イギリスの上流階級(有閑階級)の日常を舞台とした人間模様を丹念に品よく、しかし意地悪いほど辛辣に描いている。ソルティの最も好きな作家10人のうちの1人である。
 
 『ねじの回転』は、上質のホラー(怪談)&心理サスペンスで、読み始めたらラストまで一気に持っていかれるほど面白い。難解で、高踏的で、事件らしい事件も起こらず、スティーヴン・キングのような派手なストーリー展開を求める人にとっては「冗長で退屈」なジェイムズの作品群にあって、群を抜いた読みやすさ、ストーリー性、手ごろな長さ、すなわち一級の娯楽作品となっている。おそらく、最も多くの外国語に翻訳され、最も読まれているジェイムズ小説だろう。
 ソルティは大学生の時に原典および新潮文庫で邦訳を読んで、ダイヤモンドのような硬質な文体と卓抜な構成、ゴシックホラーとしての完成度に圧倒された。
 
 この小説の、あるいはヘンリー・ジェイムズという作家の最大の特徴は、「曖昧性」「秘密めいた匂い」にある。
 明らかな事実、シンプルでわかりやすい筋書き、登場人物の行動の心理的裏づけ、だれもが納得ゆく(少なくとも理解できる)結末・・・・こういったものをわざと回避することによって、作品にある種のヴェール(紗)をかける。煙幕を張る。最後にはすべてが白日の下に晒されてスッキリ、という読者が一般に期待するような通常の終わり方をよしとせず、いろいろな筋が謎のうちに曖昧にぼかされたまま、筆が置かれる。
 結果として、ジェイムズの小説は多義的な解釈が可能となり、常に論争の的になる。同じ一つの現象を、ある批評家は「A」と言い、ある作家は「B」と解し、ある読者は「C」と読み、ある研究者は「D」と唱える。で、喧々諤々の論争が始まる。
 論争など無意味だ。そこに正解などない。
 少なくともジェイムズ自身は自分の書いたものの解説をしなかった。曖昧のままほうっておくことが、最初からの彼の狙いだったのだろう。
 そうすることによって、議論を巻き起こし、作品に何か深い意味があるかのように思わせ、読者や批評家の関心を惹きつける、いわば手品師の目くらましのような高等テクニックだったのか。種を明かせば「なあんだ」で興味を失ってしまうことが分かっているから、わざと種を明かさずに「もったいぶった」書き方をしていたのか。
 そうとばかりも言えない。
 
 ジェイムズの小説を読む者は、それを自分なりに解釈することによって、結局「自分」を発見することになる。「A」と解釈した者は、(ジェイムズではなく)おのれの中に「A」という傾向や属性を持っているから、そのように解釈したわけである。同様に、「B」「C」「D」と解釈した者は、それぞれの内面に無意識的にせよ意識的にせよ、「B」「C」「D」を抱えているから、そう読んだ(読めた)のである。
 つまり、ジェイムズの小説は、各々が内面を知るためのリトマス試験紙みたいなものである。

 学生時代、『ねじの回転』や彼の短編集を読んで、その構成や文章の完成度とはあまりに対照的な、ストーリーそのものの「曖昧性」「不完全さ」に戸惑った。真相(=作者の意図)を知りたいと思い、ジェイムズ研究で有名な日本の評論家が書いたものを読んでみた。
 びっくりたまげた。まったく自分が想像しもしなかったような読み方(解釈)をしていたのだ。
「この小説のどこを、どう読めば、そんなふうに読めるのか???」
 同じ小説を読んで、こうも違った解釈があり得るとは思いも寄らなかった。
 自分も若かったので、「いや、これは違うだろう。自分の解釈のほうが妥当だろう。より作者(ジェイムズ)の真意に近いだろう」と心の中で思ったが、今となってみれば、自分もその評論家も同じ穴のムジナ。まんまとジェイムズの手の内に落ちたのであった。

 『ねじの回転』こそは、ジェイムズの「曖昧性」「秘密めいた匂い」がもっとも巧みに、もっとも効果的に打ち出された小説である。幽霊譚、すでに亡くなった人間による手記、という恰好の設定を得て、それらが全編に横溢している。
 結果、読み終わった後に‘解釈したくなる欲求’、‘その解釈を誰かに聞いてもらいたくなる欲求’に襲われる。その解釈こそは、読み手自身の欲望や抑圧の投影なのである。リトマス試験紙というより、心理テストのロールシャッハテストに近い。
 何に見えますか? 

ロールシャッハテスト


 1961年公開のこの映画、原作に忠実に作られている。
 イギリスの田舎の古い屋敷や美しい庭園の風情、登場人物のイメージ、ストーリー展開やセリフ回し、幽霊が登場するシーンのおぞましいまでの不吉感・・・・・・どれも原作を知る者にとって、これ以上にない見事な映画への移管ぶりである。カラーでなく、モノクロ撮影にしたことも画面の緊張感を高め、ストーリーの非現実感(=幻想性)を増幅する効果を上げている。

 上流階級の紳士に雇われて、田舎の美しい屋敷で、彼が後見する二人の幼い子供(マイルズとフローラ)の家庭教師をすることになったミズ・ギデンズ(=デボラ・カー)。可愛い兄妹になつかれて、家政婦のグロース夫人とも仲良くなり、はじめのうちは楽しく明るい日々を過ごしていた。が、屋敷内に‘いるはずのない’不吉な人影を見たことがきっかけとなり、だんだんと屋敷や子供たちの不自然さに気づく。グロース夫人に詰問したところ明らかになったのは、以前の使用人クイントと家庭教師ジョスルの間にいびつな愛憎関係があり、二人は屋敷内であいついで変死を遂げたとのこと。生前の二人が子供たちに「何かおぞましい」影響を与え、亡くなった今も「悪」へと引きずり込もうと企んでいるのを確信したギデンズは、子供たちを守るために一人悪霊たちと闘う決心をするのであった・・・・。

 家庭教師役のデボラ・カーの演技が秀逸である。『王様と私』『地上より永遠に』あたりが彼女の代表作だろうが、こんなに上手い女優だとは思わなかった。つつましやかな物腰のうちに凛とした美しさがあり、責任感ある子供思いの大人の女性という一面と、性的抑圧に置かれている想像力たくましい牧師の娘という一面を、見事に融合させた人物造型をつくっている。
 霊的現象が続き、子供たちがどうにも自分の思い通りにならないストレスの中、ギデンズが次第に精神的に追い込まれ、前の一面があとの一面へと傾斜してゆき、次第に常軌を失ってゆく過程を、リアリティ豊かに、鬼気迫る迫力で演じている。しかも、原作の持つ「曖昧性」を壊すことなく、ギデンズだけに見える幽霊が「現実なのか」、それとも彼女の「妄想なのか」、両義性を宿した巧みな演技で、観る者の想像力を刺激する。
 デボラ・カーはオスカーに縁のない名女優として有名だったそうだが、この演技でオスカー取れないとは・・・。

 この小説をはじめて読んだ時、自分はそこに「ホモセクシュアルなもの」を嗅ぎ取った。亡くなった使用人クイントは、マイルズ少年に‘何か邪悪なこと’を教えていたらしいのだが、それが同性愛ではないかと思ったのだ。オスカー・ワイルドの裁判に見るように、当時(19世紀)のイギリスなら、間違いなくそれは‘邪悪’だったから・・・。
 もちろん、自身の内面にあるものを作品に投影したゆえの解釈である。
 が、一生妻帯しなかったヘンリー・ジェイムズはどうやらホモセクシュアルな傾向を持っていたらしい。恋男に書いた恋文が最近見つかったというニュースを目にした。
 また、この映画の脚本を書いているのは、あの‘歩くカミングアウト’『ティファーニで朝食を』『冷血』で有名な作家トルーマン・カポーティである。
 制作者が確信犯的にそのあたりを意識しているのは間違いなかろう。

 一方、この映画ではミス・ギデンズの性的抑圧がかなり濃厚に描き出されている。聖職者の娘として厳しく躾けられ、羽目をはずすことなく(男を知らず)四十路を迎えたオールドミスが、襟元・袖口まできっちりとボタンを閉めた一分の隙のないドレスを着て、クイントとジョスルのみだらな逢引の妄想に取りつかれる。邸内で彼女が目にし、それをきっかけに不安に襲われる事物が、「塔」や「鳩」であるのは暗示的である。つまり、それらはフロイト的にいえば男根の象徴だからだ。
 欲求不満の抑圧の強いオールド・ミスが神経を病んで妄想にかられて起こした悲惨な事件。
 そういったトニー・リチャードソン監督『マドモアゼル』風の読み方も可能なのである。

 えっ? これもソルティの内面の投影だって?
 ほっとけ。
 

評価:B-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 

●  ダーク・ボガード礼讃! 映画:『召使』(ジョセフ・ロージー監督)

 1963年イギリス。

 ず~っと観たいと思っていた『召使』が家の近くのTUTAYAに入荷した。念ずれば通ず。
 ここの店のラインナップはちょっと面白い。溝口健二作品がかなり充実していて10本くらいある。ウルトラマンシリーズの演出で名を馳せた一方で、性をテーマとするエキセントリックな作風で今もカルト的な人気がある実相寺昭雄監督のATG時代の作品『無常』『曼荼羅』『哥(うた)』などもある。誰が入荷担当なのか知らないが、かなりマニアックな、同好の士にはうれしい目利きがいたものである。
 しかも、旧作レンタルはこれから100円と来た。10本借りても1000円である。ますます夜更かししてしまいそう。

 期待にたがわず、風変わりな面白い作品であった。ジョセフ・ロージーはやっぱり変わっている。
 『緑色の髪の少年』(ブログ記事参照→http://blog.livedoor.jp/saltyhakata/archives/5310636.html)もそうであったが、表面上にあるストーリーの後ろに隠されたテーマやモチーフのあるところが、作品に独特の曖昧さともどかしさと秘密めいた匂いとを与えている。それはともすれば「いかがわしい」と名指されてしまいそうだが、ロージー作品の持つ格調の高さと洗練された映像表現によってきわどいところで汚名を免れている。(「いかがわしい」は汚名か?) 
 観る者は、一つ一つのシーンやショットに隠された意味を、暗号を解読するように探る楽しみに引き込まれるのである。
 もっとも、表面上のストーリーだけで納得してしまうことも可能だ。
 この作品も、たとえば、「他人の世話になることに慣れすぎてしまった青年貴族が、有能で狡猾な召使の手玉に取られて墜落していく物語」と観たとおりに解釈することもできる。そこから、上流階級の腐敗というテーマを引き出すこともできれば、英国の階級社会の歪みとその是正の必要というプロパガンダを導き出すこともできる。ロージー監督が「赤狩り」でアメリカを追われているだけにこの解釈は好まれやすいと思われる。あるいは、虐げられた下層階級による上流階級や階級社会に対する隠微な形での報復と取ることもできよう。あるいは、キリスト教徒ならこう読むかもしれない。悪の化身である召使ヒューゴが、主人であるトニーの善良にして清らかなる魂を穢して、己れと同等の位置すなわち地獄まで引きずり落とす物語、と。
 こんなふうにいろいろな読み方を可能にさせる、見方によっていろいろな解釈ができる余地を残しているところが、この作品の魅力である。(他のロージー作品もたぶん同じだろう)。その点で、ロージーの作品は英国の大作家ヘンリー・ジェイムズに似ていると思うのである。

 『召使』を観ていてどうしても連想してしまうのは、ジェイムズの傑作小説『ねじの回転』である。舞台は同じイギリスの上流階級の屋敷、天使のように美しく純粋な屋敷の子供たちに悪影響を及ぼす邪悪な召使たちの幽霊。女家庭教師の奮闘もむなしく、子供たちはついに悪の手に染まって・・・・。
 『ねじの回転』もまた、その解釈を巡って昔から喧々囂々たる議論がなされてきた作品である。作者の意図はなんなのか? 召使たちはいったい子供たちに何を教えこんだのか? そもそも霊などいなくて、すべては家庭教師の妄想ではないのか。
 ある意味、最後まではっきりと真相を示さず、読者に想像の余地を与えて終わるところに作者のたくらみはあるのだろう。『エヴァンゲリオン』が主人公碇シンジたちが置かれている世界の状況をあえて謎のままにしてストーリーを進めることで「引き」を作っているように、すべてが明るみに出て読み解かれてしまったら、ファンの好奇心も満足して、作品から離れてしまう。(それにしても『エヴァ』は「引き」が長すぎて、かえって「どうでもよくなってしまった」。傑作として終われるタイミングを逸してしまったように思う。)

 『召使』でロージーは何を隠したのか。
 語られない、表だって語ることのできない何が画面に織り込まれているのか。
 手がかりとなるシーンがある。

 それまでうまくいっていたトニーとヒューゴの主従関係が、ある夜の出来事をきっかけに壊れてしまう。トニーが婚約者ヴェラと外出している隙をねらって、ヒューゴは愛人である女中のスーザン(トニーには妹と偽って紹介していた)と、トニーの部屋のベッドで愛し合う。外出を切り上げて帰宅したトニーらは、召使二人の関係を知ってショックを受ける。スーザンと「できて」いたトニーは、そのこともヴェラに知られることになり、二重三重のショックである。
 トニーは怒鳴りつける。
「二人ともこの家から出て行け!」
 ヒューゴが出て行ったあとのトニーは腑抜けになってしまう。家も散らかり放題、酒びたりの日々が続く。ヴェラとの関係もなぜか修復しようとしない。
 酒場から帰ったトニーは、重い足を引きずって屋敷の階段を上り、以前スーザンの使っていた女中部屋に入り、スーザンの使っていたベッドに身を投げて、布団を掻き抱く。まるで恋しい相手を求めるように。
 と、カメラはベッドの脇の壁に貼ってある写真をなめ上げるように映していく。そこには、隆々たる筋肉を誇示している裸の男たちの写真が貼ってある。

 このシークエンスは一瞬で終わってしまうので、見逃してしまう人、意味に気づかない人が多いだろう。
 だが、これはトニーの秘められたセクシュアリティを指し示す重要な(重要か?)シーンであろう。
 もちろん、関係のあったスーザンの部屋に淋しいトニーの足が向かうのは不自然ではない。スーザンの使っていた部屋の壁に裸の男達の写真が貼ってあるのも、下品で自らの欲望に忠実なスーザンであってみれば別段おかしなことではない。(屋敷を出て行ったあともそのままになっていることをのぞけば。)
 しかし、このシーンでこれらの写真をアップで映し出すロージーの意図はあからさまである。
 ありていに言えば、トニーはバイセクシュアルあるいはかなり色濃いホモセクシュアルであろう。トニーは、美男の召使ヒューゴに世話されること(=自分の意志をあずけること)に何よりの快楽を見出している。だから、ヒューゴを嫌った未来の妻であるヴェラが何を言おうとも、ヒューゴを手放そうとしない。ヒューゴが屋敷を出て行ったあと、ヴェラとよりを戻そうとすればできたはずなのに、そうすれば屋敷も元通りきれいに片付くのに、ヴェラに自分の世話を任せることだってできたはずなのに、トニーはあえてその選択をしようとしなかった。
 トニーは、ヒューゴに恋しているのである。トニーにしてみれば、ヒューゴとスーザンの関係を知ったことは、スーザンの裏切り以上に、ヒューゴに裏切られたことがこたえたと思われる。
 一方、召使のヒューゴはどうか。
 トニーから向けられる恋慕を利用して、屋敷や財産をのっとろうとたくらんでいるのか。トニーを破滅させることにたちの悪い快楽を見出してるのか。たんに自分とスーザンが自由に振舞える居場所をキープしたいだけか。おそらく、他の屋敷に奉公しているときにもスーザンと組んでやってきたように。
 そこはよくわからない。
 しかし、どうもヒューゴ自身もトニーとの異常な(笑)関係にとり憑かれているように見える。それは恋愛感情というよりも、自分より上流の、自分より若い男を思いのままにできるサディスティックな欲望に酔っているのかもしれないが。(そう見えてしまうのは、ダーク・ボガート自身にゲイの噂がつきまとっているためもあるだろう。)

 さて、この解読が正しいのかどうかはわからない。
 自分のセクシュアリティや価値観にひきつけて、かなり偏向しているのは承知している。
 だが、この観点で作品を見直したときに、普通ならば見過ごしてしまうちょっとしたセリフや間合いやシーンが意味深いものとして立ち現れてくるのに気づくだろう。
 たとえば、トニーとヒューゴが最初に出会うシーン。トニーはヒューゴに料理以外の何を頼みたかったのか。あの微妙な間合いの意味は何か?
 たとえば、トニーとヴェラの間を引き裂くようなヒューゴの振る舞いの意味は?
 たとえば、帰ってきたヒューゴとトニーの唐突と思える関係の変化。いきなり、ノックもなしにパジャマ姿のヒューゴの寝所に飛び込むトニー。紳士とはとうてい思えない振る舞いである。(いつからそんなフレンドリーになったのか?)
 たとえば、同じ食卓でまったく同じ服装をしてディナーを取りながら二人が語るシーン。二人ともにあった軍隊での「経験」とは何か?
 たとえば、二人が隠れんぼうしているシーン。猫なで声を出しながら隠れ場所に迫ってくるヒューゴの接近に、官能に打ち震えるようなトニーの表情の意味は?(そもそも大の男が二人、隠れんぼうしていること自体が怪しいけれど・・・。)

 召使を演じるダーク・ボガードは、丁重至極な典型的な英国の召使から、その皮をはいだところに現れるセックスアピールぷんぷんたる野卑な下層の男、トニーを支配しているつもりで自らも快楽の虜となり関係にはまり込んでいく複雑な心理、それらをあますところなく表現している。

 現在ならば、こうした隠喩表現は要らないだろう。主人と召使のゲイセックスは、腐女子もといヤオイちゃんたちの熱狂的に愛好するテーマの一つであり、映像表現においてもなんらタブーは存在しない。日本でもイギリスでも。
 もし、いまロージーがもう一度『召使』を撮ったら、どんな作品になるだろうか。
 秘すべきもの、隠すべきものが存在しないがゆえに、ロージー独特の曖昧さともどかしさと秘密の匂いが失われて、センセーショナルではあるけれど、つまらないもの、味気ないものになるのだろうか。



評価: B+


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!




● 好きな作家を10人挙げよ 本:「感謝だ、ジーヴス」(P.G.ウッドハウス著)

好きな作家を10人挙げよ、と言われたら下のようになる。(順不同)

チャールズ・ディケンズ ・・・・「大いなる遺産」 「デービッド・コッパーフィールド」
ジェーン・オースティン ・・・・・「高慢と偏見」 「エマ」
ヘンリー・ジェイムズ  ・・・・・「鳩の翼」 「ねじの回転」
オスカー・ワイルド   ・・・・・「サロメ」 「ウィンダミア夫人の扇」
E.M.フォースター  ・・・・・「眺めのいい部屋」 「モーリス」
カズオ・イシグロ    ・・・・・「私を離さないで」 「日の名残り」
コナン・ドイル     ・・・・・「バスカービル家の犬」 「ボヘミアの醜聞」
G.K.チェスタトン  ・・・・・「ブラウン神父の醜聞」 「ブラウン神父の秘密」
アガサ・クリスティ   ・・・・・「そして誰もいなくなった」 「アクロイド殺し」

そして、P.G.ウッドハウス、である。

なんと日本の作家が一人も入っていない。
なんと全員、イギリス作家である。ヘンリー・ジェイムズはアメリカ生まれで、最後にイギリスに帰化したが、作風から言っても、作品に取り上げた舞台から言っても、イギリス作家とみていいだろう。

もっと若い頃なら、このリストに、

三島由紀夫
トルーマン・カポーティ
トーマス・マン
江戸川乱歩
エドガー・アラン・ポー
橋本治
大江健三郎

あたりが加わって、10個の枠をめぐってしのぎを削ったことだろうが、これらの作家は今では、若い時代に、若いが故にかかった流感みたいな存在になってしまった。人生いろいろあって、年をくって、世間を知って、いまだに読んで面白い、繰り返し読みたいと思うのは、上記10人だ。

それにしてもなぜイギリスなんだろう?

1. イギリス人のユーモアが好きだから。
2. 階級社会(特に上流社会)を垣間見る面白さがあるから。
3. どんな時でも冷静で自分スタイルを失わないイギリス人を「あっぱれ」あるいは「滑稽」と思うから。
4. イギリスならではの風景や慣習に惹かれるから。
 たとえば、霧と煙に包まれたロンドン、石畳を走る辻馬車、どこまでも続く緑なす田園、優雅なカントリーハウス、午後のお茶、謹厳実直な執事たち、噂好きのオールドミスたち、ガーデニングに精を出す主婦、世間知らずの牧師(ブラウン神父は別)、パブリック・スクールetc.

自分の数え切れない前世のうち、かなり濃厚なそれはイギリス人の時だったのかもしれない、と思う。
だが、何より自分が好きなのはイギリス人のユーモア感覚だ。これはしびれる。

ユーモアというのは、自らを客観視するところに生まれると言う。
絶体絶命のピンチ、思わず赤面する恥辱的な事態、にっちもさっちもいかない四面楚歌、急を要する危機的状況。そんなとき、人は緊張し、我を忘れ、顔はこわばり、体はガチガチ、目の前のことしか考えられなくなる。
まさにその瞬間、ふと自分からはなれ、第三者の目で自分の心と置かれている状況を観察して、自分自身を笑いとばし、状況を楽しむ。少なくとも、状況を受け入れる。
そこで口をついて出る言葉が、ユーモアとなるのだ。
だから、ユーモアは冷静さと対になっている。

そう、イギリス小説と言ったら、ユーモアと階級社会と言っていい。

10人の作家の中で、一番最近(ほんの3年前に)知ったのがウッドハウスである。
これは痛恨だ。こんなに面白い作家をなぜもっと早く知らなかったのだろう。イギリスでは皇室御用達の国民的人気作家だというのに・・・。

数年前から国書刊行会から森村たまきさんの訳でウッドハウスコレクションが出るようになって、今ちょっとしたブームになっている。特に、ちょっと脳みそは足りないが気のいいご主人バートラム・ウスター青年と、頭脳明晰で有能な執事ジーヴスの物語は、少女マンガ化されるほどの人気沸騰ぶり。自分もためしに一冊図書館で借りたが最後、あとは立て続けに10冊ばかり読んでしまった。
それくらい、文句なしに、掛け値なしに、圧倒的に、面白いのである。
こんな面白い本が今までわが国の本屋の一画を占めていなかったのは、ほとんど犯罪と言っていい。
ウッドハウスを読まずに「イギリス人とユーモア」を語るなかれ、ってくらいである。

中身はどの作品をとっても変わりは無い。
カントリーハウスを舞台にした、恋と陰謀と勘違いと主人公のドジが織り成すドタバタ喜劇(スラップスティック)である。読んだ本のタイトルをメモでもして残しておかないと、次に借りるとき、その本を読んだかどうか分からなくなってしまうほど似たり寄ったりだ。
水戸黄門と同じ、偉大なるワンパタン。
むろん、それでいいのである。
そして、黄門様の印籠の役目を果たすのが、ジーヴスの冴え渡る知恵である。


階級社会の面白いところは、本来なら一流大学を出て学者や政治家になってエリートコースを歩いていてもおかしくないほどの頭脳の持ち主が、下流階級に生を受けたばかりに、ちょっと脳みその足りない気のいい青年貴族の執事としての一生を終える、それで満足する、というところであろう。

社会的にはもったいない人材の不登用であるが、ジーヴスは置かれた境遇に愚痴の一つもこぼさない。ほんの1ミリ片方の眉の端を上げるだけである。

すぐには変えることが困難なものにぶつかったときの、もっとも高貴な人間の態度のとり方。
それがユーモアなのかもしれない。





























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