ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

ポール・オースター

● 本:『幽霊たち』(ポール・オースター著)

1986年発表。
1989年新潮社より邦訳(柴田元幸訳)発行。

 オースター2作目である。
 『幻影の書』を読んで感じたオースターの肝(‘かき’の肝臓みたいだ)は、ここでも共通している。
 すなわち、「幻影の人生」である。

まずはじめにブルーがいる。次にホワイトがいて、それからブラックがいて、そもそものはじまりの前にはブラウンがいる。
 
 何となく英国のマザーグースの詩を思い起こさせる一風変わった書き出しで本書は始まる。
 私立探偵ブルーは、謎の男ホワイトからある依頼を受ける。ある男(ブラック)の住むアパートの向かいのアパートの部屋に陣取って、ブラックの行動を24時間監視し、逐一報告してほしいと。
 心安く引き受けたブルーであったが、ほとんど一日部屋から出ず、机に向かって書き物しているブラックの孤独で単調な生活に付き合ううちに、心の中の歯車が次第に狂いだしてくる。
 物を深く考えたことのない、自分の心の底を覗いたことのない、現実的で散文的なブルーが、「正体の知らない他の男の私生活をただ監視する」という目的も理由も終わりも見えない奇妙な行為をしているうちに、自らもまた孤独になり、アイデンティティの危機に陥っていき、確かに思えた生の基盤が揺らいでいく。
 
 読みながら、いろいろな他の小説家や作品のことが連想されてくるのが、面白い。
 マザーグースから始まって、まずレイモンド・チャンドラーのハードボイルド小説。硬派な私立探偵というキャラクターからの連想である。
 次に、ハーマン・メルヴィルの傑作中篇『筆耕バートルビー』。目的のない単調な仕事を延々とやることが生活のすべてとなった男の置かれた境地という点で似ている。
 次に、カフカと安部公房。不条理で寓意的な設定、孤独の中に閉鎖された人間の脆弱性と狂気、関係疎外といったところが通底している。
 謎が深まっていくにしたがい、エドガー・アラン・ポーの『ウイリアム・ウィルソン』が浮かび上がってくる。依頼人のホワイトとブラック、あるいは監視されているブラックと監視しているブルーは実は同一人物(ドッペルゲンガー)なのではないかと思われてくるのだ。
 
 最後の最後、ついにブルーは何もかもかなぐり捨てて、ブラック(あるいはホワイト)と対峙する。
 物語のクライマックス。緊張の一瞬。
 ブルーは問う。

 それで俺は――俺は何のためにいたんだ? 息抜きのギャグか?
 違う、ブルー、私にははじめから君が必要だったんだ。君がいなかったら、私にはやりとげられなかっただろうよ。
 何のために俺が必要だったというんだ?
 自分が何をしていることになっているか、私が忘れないためにさ。私が顔を上げるたびに、君はあそこにいた。君は私を見張り、私をつけ回し、決して私から目を離さず、錐のようにその視線を私の中に食い込ませていた。いいかね、ブルー、君は私にとって全世界だった。そして私は君を、私の死に仕立て上げた。君だけが唯一変わらないものなんだ。すべてを裏返ししてしまうただ一つのものなんだ。

 意味不明である。
 ブルーとはなんだったのか。
 ブラックは何をしていたのか。
 ホワイトの正体は?
   たとえば、ブラックは実はホワイトで、自分自身の監視をブルーに頼みつつ、ブルーについての物語を書いていたとか、ブラックとブルーの関係は小説家と編集者との関係を模しているとか、ブルーとは芸術家をして創作活動に従事せしめる‘着想’の擬人化であるとか、解釈は様々つけられるけれど、オースターの真意がどこにあるのか、はっきりとは指摘できない。
 
 しかし、最後の最後にソルティが深い類似を感じた作品なら上げられる。
 それは、本邦の松浦理英子のデビュー作『葬儀の日』(1978年発表)である。
 内容をくわしく覚えていないが、葬儀における哭き女と笑い女の宿命的な対決を描いたあの不思議な作品に、深いところで響きあうものがある。
 
 こんなふうに、いろんな作家のいろんな作品の記憶を呼び起こすものだから、まるで他の鳥の羽で体を飾り立てたイソップ童話のカラスのような感触がある。集められた部品をひとつひとつ取り除いてしまったら、あとには何も残らないような・・・。
 それが‘幽霊’の正体か。

 と言っても、オースターが盗作しているとか、オリジナリティに欠いているとか言っているのではない。
 創作物というのは、そもそもそういうものなのではないか。
 いや、表現主体(自我)というのは、そもそもそういうものなのではないか。
 ‘自分’というのは、過去に出会った‘他者’の寄せ集めである。オリジナリティがあるとしたら、その寄せ集めの種類と配合とレイアウトに存するのだろう。

 この作品からソルティは諸法無我を感じたのである。






 





● オースターデビュー 本:『幻影の書』(ポール・オースター著、新潮文庫)

幻影の書2002年刊行。
2008年新潮社より邦訳刊行。

 近所の古本屋で最初に目に入って手に取った本。
 純文学系の棚にあったのだが、裏表紙の内容紹介を読むとミステリーのような感じがする。
 

何十年も前、忽然と映画界から姿を消した監督にして俳優のヘクター・マン。その妻からの手紙に「私」はとまどう。自身の妻子を飛行機事故で喪い、絶望の淵にあった「私」を救った無声映画こそが彼の作品だったのだから・・・。ヘクターは果たして生きているのか。

 まず、何十年も前に行方不明となった才能ある映画監督の作品研究を始めたことがきっかけで、不可解な事件に巻きこまれていく男の物語(第一人称の回想録)という点で、1998年「このミステリーがすごい!第1位」に選ばれたセオドア・ローザックの『フリッカー、あるいは映画の魔』との類似を思った。
 『フリッカー(以下略)』は、白黒時代のB級怪奇映画の奇才マックス・キャッスル監督の失踪の真相と作品に秘められた謎を探り出そうとする主人公が、芸術による世人の洗脳を企む宗教組織(絶滅したはずの異端カタリ派の末裔)に拉致され、大洋の小島に監禁され、そこで同じように何十年も監禁されていたキャッスル監督に出会う――という奇抜にして重厚にして壮大な物語。著者の類いまれなる創造力と奔放なる想像力とが、緻密な構成と正確で深い映画知識とで担保された確たるリアリティに支えられ、読み手を物語世界に強い磁力で引き摺り込み陶酔させる。宗教とミステリーを絡ませたものでは『薔薇の名前』(ウンベルト・エコー著)に匹敵する傑作であり、映画とミステリーの結びつきを主要なトリックとしたものでは、あれを超える作品はそうそう現れないだろう。
 ポール・オ-スターは日本でも人気の高い有名作家である。いくつかの作品は映画にもなっているし、彼自身も何本か映画を撮っている(ソルティ未見)。『フリッカー』ほどでないにしても、それなりの質の高さと面白さを期待しても良かろう。
 オースーターデビュー(馬の名前みたいだ)となった。

 読み始めてすぐ気づくのは、この作家のストーリーテーリングの上手さ。スティーブン・キングばりの語りの才、構成の卓抜さ、読み手の生理と快楽のツボを心得たエンターテナーぶりである。数ページに一回は、ハラハラドキドキワクワクするシーンを持ってくる。パーティーでの醜態、交通事故、銃をはさんだ深夜の男女の緊迫した出会い、ポルノチックな場面、飛行機恐怖症の克服、それ自体が独立した物語として楽しめそうなヘクター・マン監督の逃避行中の風変わりなエピソードの数々・・・e.t.c
 単純に娯楽小説に徹すれば、この作家はもっと売れるのは間違いない。
 が、やはり根が詩人で評論家のオースター。ただの娯楽作品では終わらない。終わらせられない。
 この作品も一見ミステリー風の装いを呈している。初めに提出された謎は最後にはきちんと解明される。
 が、謎が解決してすっきりするわけではないし、人生に絶望していた主人公が運命的な出会いをした女性と結ばれて再び希望を見出してハッピーエンドとなるわけでもないし、『フリッカー』のように何らかの罠が最後に主人公を待ち受けていたというホラー映画風の「落ち」がついているわけでもない。
 そもそもミステリーか?という点で言えば、消えた監督の謎や行方について主人公が推理する場面があるわけでもない。 
 正確を期するならば、この作品は「巻き込まれ型ミステリー風の人生小説」といった趣である。
 では、オースターの提出する「人生」とは何か。
 一言で言えば「喪失」である。
  ヘクター・マン監督は、自らの軽薄で奔放な女性関係がもとで結婚相手と元恋人の両者を喪い、映画監督としての職と名声と輝かしい未来を喪い、正体を隠すために自らの本名を喪い、ようやくめぐり会えたパートナーとの間に生まれた子どもを喪い、失踪後も世間に発表する意図なしに秘密裡に作っていた数本の映画フィルムを喪い、最後には自らの命を喪う。
 主人公デイヴィッド・ジンマーは、飛行機事故で妻と息子を喪い、絶望から職(大学の教師)を喪い、力づけようとしてくれる仲間たちをアルコールによる失態から喪い、自分を絶望から浮上させてくれた映画監督を喪い、その作品を喪い、もう一度生きる希望を与えてくれた恋人を喪い、最後には――自分自身をも喪う。
 すべての謎に一応の解決を示した最後の最後に、語り部である主人公はこう記す。

もしこの本が事実出版されたあかつきには、親愛なる読者よ、これを書いた男はとっくに死んでいると確信していただいていい。
 ここにいたって、読む者ははじめて、今まで読んできたエンターテイメント性たっぷりの胸踊る不思議な物語が、死者の手によって書かれたものであることを知る。我々は、50代で病死した人間の「墓からの声」に長々付き合ってきたのである。
 こんなふうにオースターはすべてを無に帰す。
 すべてを幻にしてしまう。
 ここにいたって、『幻影の書』という、内容からはまったくはずれているようなタイトル(『幻影のフィルム』ならまだわかるのに・・・)の意味が理解される。
 「幻影の書(The Book of Illusions)」とは「幻影の人生」の意なのであろう。
 
 オースターの他の作品も読んでみたくなった。



 
 
 

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