ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、寺社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

マイケル・ダグラス

● ハリウッドの流行? 映画:『恋するリベラーチェ』(スティーブン・ソダーバーグ監督)

 2013年アメリカ。

枝付き燭台

 原題はBehind the Candelabra(枝付き燭台のかげに)
 枝付き燭台とは右の写真のような蝋燭立てである。この映画の主人公である実在の人気ピアニスト、リベラーチェ(1919-1987)が自らのピアノに枝付き燭台のデザインをあしらったところから来たタイトルである。同時に、枝付き燭台によって象徴される成功した大スターのゴージャスできらびやかな表の生活の背後に隠された、ファンの知らない裏の顔を描く、という意味合いもあろう。
 映画の原作は、リベラーチェの秘書兼恋人であったスコット・ソーソンの同名の回想録。

 リベラーチェの活躍した時期は1950年代から80年代前半にかけてであるが、あまり日本では知られていない。自分もこの映画ではじめてリベラーチェという名前(と存在)を知った。80年代に日本中の女性をとりこにしたリチャード・クレーダーマンの貴公子然とした風貌と物腰にくらべると、派手でこれ見よがしで金ピカ趣味のリベラーチェは当時の日本人には受け入れ難かったのかもしれない。80年代後半のバブルの頃ならまだしも・・・。

 天才ピアニストで観客を楽しませることにかけては一流のエンターテイナーであったリベラーチェの秘密とは、①ゲイであったこと(若い男をとっかえひっかえしていた)、②エイズで亡くなったこと、であった。
 エイズ罹患は本人の生きている間はひた隠しにされていた。亡くなった後に司法解剖が入って明るみに出されたのである。と同時に、彼がゲイであったことも、生前から大枚はたいて必死に秘密を封じこめてきたマネージャー達の奮闘もむなしく、世間に知られるところとなった。この時代(80年代)、「エイズで死んだ芸術家=ゲイ」は鉄板の方程式だったからである。

 映画はしかし、セクシュアリティの問題、カミングアウトの問題、エイズの問題には深く入り込まずに、リベラーチェとスコットの二人の男の関係――出会い、熱愛、伴侶、すれ違い、亀裂、破局――に焦点を絞って、純粋な恋愛ドラマとして描いている。
 その意味では、もしこれが有名な男性(or女性)スターとその付き人である女性(or男性)の恋愛模様を描いたストーリーだったとしたら、まったくのところ陳腐なものになったであろう。男同士の恋愛という設定だからこそ、まだ語る価値がある。
 つまり、異性間であろうと、同性間であろうと、人が人を好きになり、必要とし、求め合い、永遠の愛を願い約束し、しかるにそこに到達するのは極めて困難であり、結局孤独に立ち戻らなければならない――という愛の輪廻は変わらない。それがこの映画から学びうるテーマである。

 リベラーチェを演じたマイケル・ダグラス。『蜘蛛女のキス』(1985年)のウィリアム・ハートに比肩できるような見事なオカマ演技である。やっぱり、この俳優は反体制のヒッピー出だけある。
 恋人のスコットを演じるは、名優マット・デイモン。リベラーチェに愛される金髪碧眼のドリアン・グレイばりの美青年から、ヤクにはまり嫉妬と絶望に苦しむ見捨てられた恋人までを、何ら気負いなく違和感なしに演じている。
 二人が仲睦まじげにからんでいるシーンでは、これが『ウォール街』の強欲な投資家と『ボーン・アイデンティティ』の凄腕の暗殺者とはまったく思えない。
 一昔前なら、こういった(ホモセクシャルの)役を演じることは、アメリカの男優にとって「清水から飛び降りる」ほどの勇断、というかまったくの愚挙であり「ありえない」ことだった。それが今や、ヒース・レジャーとジェイク・ジレンホールが『ブロークバック・マウンテン』(2005年)でケツを掘るカウボーイを演じ、フィリップ・シーモア・ホフマンが『カポーティ』(2005年)を演じ、ショーン・ペンが『ハーヴェイ・ミルク』(2008年)を演じ、コリン・ファースが『シングルマン』を演じ、レオナルド・ディカプリオが『J・エドガー』(2011年)を演じ、もちろん直近では『チョコレート・ドーナツ』(2012年)でのアラン・カミングの力演がある。
 ハリウッドの男優たちはこぞってゲイの役をやりたがっているようである。



評価:B-


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● イーストウッド、ついに同性愛を撮る! 映画:『ヒアアフター』(クリント・イーストウッド監督)

 2010年アメリカ映画。


 クリント・イーストウッド監督の最新作『J・エドガー』は今秋アメリカで公開、日本では年明けに封切られるそうだ。FBIの初代長官だったジョン・エドガー・フーヴァーを描いた伝記らしいが、話題の中心となっているのは、どうやらフーヴァー長官は同性愛者(クローゼット)だったらしく、側近のクライド・トルソンとの長年にわたる恋愛関係が映画の中でふれられていることである。(なんだかどこかの大国の大統領と首相の関係を思わせる)

 クリント・イーストウッド、ついに同性愛を撮る!
 
 そのことを知ったとき、「ああ、やっぱりな」と自分は思った。
 「やっぱり」というのは、クリント・イーストウッドが実はゲイだったとか、ゲイになったとか、作品を通して間接的にカミングアウト、とかというのではなくて、「この人、いつかは同性愛をテーマに撮るのではないか。」と以前から思っていたからだ。「それまで生きていられるかな?」とも。
 無事(?)間に合ったわけである。

 クリント・イーストウッドのイメージを一言で表すとしたら、十中八九の人は「男の中の男」と言うだろう。その作品は「男の映画である」と。
 マカロニウエスタンで人気に火がつき、ダーティーハリーで国際的スターになった俳優として、イーストウッドは映画の中でのイメージそのままに、アメリカを代表する男優として、その風貌においても言動においても「男の中の男」像を保ち続けてきた。グレゴリー・ペックやジェームズ・ステュアートのような理想の父親像とはまた違うが、チャールトン・ヘストンやハンフリー・ボガードに並んで古き良きアメリカの「男」を体現する一人と言える。
 監督として彼の描く世界もまた、男の小道具で満ちている。
 敵との戦い、勝利の苦味、敗残者の悲哀、プライド、見栄、野望、意地、連帯、暴力、アウトロー、一匹狼、車、タバコ、酒、拳銃、狩り、ボクシング、仕事への誇り、弱き女を守ること、共和党員・・・。
 西部劇の巨匠ジョン・フォードの正当な継承者と言えるだろう。あるいは、パパ、ヘミングウェイの。
 
 自分は、こういう世界が苦手だし関心もないので、もったいないとは分かっているが、ジョン・フォードはほとんど観ていない。日本でならさしずめ北野武だろか。映画史に残る映画作家であることは間違いないが、どうもあの暴力世界にはついていけない。
 日本とアメリカの理想の「男」像には、もちろん違いがある。
 日本の「男の中の男」というと、任侠の世界にその典型がもとめられてしまうのは不思議なことである。高倉健、菅原文太、本宮ひろ志の漫画を思い起こせば十分だ。ヒーローでも正義の味方でもなく、世間的には日陰者、社会的にはハミダシ者であることが「男」であるとしたら、やくざや暴力団や右翼にあこがれる若者がいてもおかしくはない。
 まあ、道を外さずに、マグロ漁船にでも乗ってほしいものである。この節、演歌歌手になるのも石原軍団に入るのももう難しいだろうから。


 閑話休題。

 ジョン・フォードや北野武はレンタルしてまで観ようとは思わない自分も、どういうわけかクリント・イーストウッドは気になって、すべての作品とは言わないが、時々思い出したように上映館に足を運んでしまう。
 一見、「男の映画」には違いないのだが、妙に文学的とでもいうのか、自らを相対化する深みのようなものが感じられて、惹かれるのである。
 最初に鼓動を感じたのは、『ホワイトハンター ブラックハート』(1990)だった。これは、先進国の白人の「男」(イーストウッドが演じている)と現地の黒人達との相対性の苦味を描いた傑作である。そのとき、このままいけば、「男」である自分自身をやがて相対化していくだろうという予感を持った。
 その予感は『マディソン郡の橋』(1995)で見事に裏切られて、しばらくクリント作品から遠ざかった。
 2003年『ミスティック・リバー』は衝撃的であった。主人公は3人の少年、それぞれの成長を描いた物語だが、うち一人は少年時代に男に誘拐されて、レイプされてしまうのである。
 女をレイプしても「男」でいられる。男をレイプしても「男」でいられる。しかし、男にレイプされたら、もはや「男」ではいられない。その瞬間から一切の男の小道具が彼の手からは奪われてしまう。アメリカのようなマッチョの社会にあっては、社会的な死の宣告に等しい。「男」の崩壊・・・。
 2004年『ミリオンダラー・ベイビー』では、イーストウッドはジェンダーの崩壊というテーマを自らに課した。成功した。
 2008年『チェンジリング』ではまた新たなチャレンジ。母性である。
 続く『グラン・トリノ』は、自身が主役を張って、タイトル通り男の小道具をめいっぱい用意して、一見「男の映画」に逆戻りしているように見えるのだが、登場人物のアジア系の少年~園芸や料理が好きで、気が弱くてやさしい~はおそらくゲイだろう。役中のクリントは、隣家に住むこの少年を「男」に鍛えようと懸命にコーチする。そこがゲイの男がヘテロのふりをしようと努力する映画『イン&アウト』(フランク・オズ監督)を想起させて笑えるところであるが、つまり、「男」というのはこうやって作り上げられていくものだという種明かしを、クリントは描き出しているのである。映画の最後では、ダーティーハリーを髣髴とさせるよう銃撃戦になるかと思えば、さすがにもはやそのリアリティのなさは自身許さなかったのだろう。「男」としてのプライドは保ちながら、捨て身の作戦に打って出る。(観ていない人のために結末は書かない) クリントが自分自身の演技としてできるのはこれが限度であろう。そこを超えたら、培ってきたすべてのイメージが壊れてしまう。
 ここまで来たら、あとはそのものずばり「同性愛」をテーマにするだろう。もちろん、自分でない男優を使って。そう思った。
 なぜなら、同性愛とは、「男」を相対化する装置にほかならないからだ。

 そして、『ヒアアフター』である。

 クリントの作品をどうしてもジェンダーの視点がらみで観てしまう自分にとって(これもジェンダーバイアスか)、この作品の一番の見所は、マット・デイモンが霊媒師を演じているところにある。むろん、ジェンダーがらみで見なくても、この作品は、他のイーストウッド作品同様、とても丁寧に作られていて、しみじみとした感動が広がる佳作である。
 マット・デイモンは、戦争映画で主役を演じるは、ボーンシリーズで不死身のヒーローを演じるは、まさに昔のクリント・イーストウッドになぞらえるような男優である。その意味で、ここでのマットをクリント自身とダブらせることが可能であろう。(実際は、俳優としての二人の資質はずいぶんと異なる。マットは、たとえばベン・アフレックやショーン・ペンにくらべると、「男」を不思議と感じさせない。だから、霊媒師役をやっても大きな違和感がないのだ。演じられる役柄がイーストウッドより断然広いのだ。クリントが霊媒師を演ったらコメディにしかならないだろう。)

 マットが演じる男ジョージは、才能ある霊媒師であり、イタリア料理を習い、毎晩寝る前に詩を聴き、イギリスの生家に見学に行くほどのチャールズ・ディケンズのファンで、朗読会に行けば感動にふるえる。
 どうだろう?
 霊媒師、料理を習う、詩を聴く、ディケンズのファン、朗読会。
 まったく、男の小道具にそぐわないラインナップ。クリントの映画の主役にまったくふさわしくない男である。
 ジョージは、霊媒師という職業に嫌気がさして廃業し、建設現場でヘルメット(男の小道具である)をかぶって働いているのだが、リストラされてしまう。残された道は、霊媒師としての自分を受け入れることだけだ。
 彼はそこで旅に出る。イギリスに。そう、アメリカというマッチョな国からいったん離れることなしには、「男」をおりられないのである。
 イギリスで、彼を追ってきた少年のため仕方なく霊媒したのをきっかけに、ジョージは自らのありのままの資質を受け入れる心の準備を始める。そして、自らの理解者~津波から生きのびた女性、死後の世界(Hereafter)を垣間見て、それを世間の偏見に屈せず伝えることを決意した女性~との運命的な出会いがあって、物語は終わる。
 「男」をおりたからといって、「ゲイ」になるわけでも、「女」になるわけでも、女性と関係がもてなくなるわけでもない。イーストウッドにとっては、その重い鎧を脱ぐのがとてつもなく難しかったのだと思う。高倉健の例を出すまでもないが、出演作によって作られてしまったイメージ(虚像)と、本当のありのままの姿(実像)とのギャップによって生じるプレッシャーは、一般人にははかりしれない。素顔のクリントは実はこのジョージに近いのではなかろうか。 


 男の子が成長するとは、一般に「男」になることであった。
 アメリカやラテン国家などのマッチョ社会では、そのプレッシャーはとても大きい。だから、UNAIDS(国連エイズ合同計画)は、男と性行為を持っていても自らを「ゲイ」と認めることをしない「男」達へのエイズ啓発のために、MSM(Men who have Sex with Men)という造語をわざわざ作ったのである。むろん、ゲイと名指されることは、一直線に「男」から転落することであるからだ。
 「男」をおりること、「男」でなくなることは、とてつもない恐怖を伴っているのだ。

 ほかに迷惑をかけないのなら、いくらでも「男ごっこ」をしていてくれればよいと思う。
 だが、長年プレッシャーにさらされた「男達」は、長じてその抑圧を他者に向けることで鬱憤をはらそうとする。「男」ではない者たちに。別のグループ(文化、組織、派閥、チーム)に属する「男達」に。
 とりわけ、もっとも強いプレッシャーに置かれるのは、「男」を演じざるを得ないクローゼットの同性愛者であろう。彼らが勤勉と忍耐のあげくに組織の頂点に立ち、権力を手にしたとき、どんな抑圧を周囲にもたらすことか。(ロシアの今後が恐ろしい・・・。あくまで勘に過ぎない。念のため。)

 男とは何か。男の成長とは何か。
 クリント・イーストウッドが生涯考え続け、描き続けてきたのは、つまるところ、そこなのだろう。

 そういった意味では、彼の映画はジェンダー映画なのである。 

 ここから先(Hereafter)、どこに行くのか。
 それは、次回作を観るまでなんとも言えない。
 これまでの流れから推測すると、同性愛を否定的に、批判的に描くような野暮はしないであろう。実際、クリント自身、「同性婚」を擁護する発言をしているらしい。共和党員であることを考えると、面白いひねりである。
 何より楽しみなのは、フーヴァー長官の役をレオナルド・ディカプリオが演じているということだ。ディカプリオにとっても、『太陽と月に背いて』以来のソドミーもの(笑)である。もはや美少年とも美青年とも言い難くなったレオ様。どんなラブシーンを見せてくれるのだろうか?


 一つ予言をする。
 これでレオ様は念願のオスカーを手に入れるだろう。

P.S. マット・デイモンの次作『リベラーチェ』もゲイカップルもので、ピアニスト役のマイケル・ダグラス(!)とのラブシーンがあるそうだ。アメリカの「男」は揺れてるな。



評価:B+

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
         「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
         「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 
         「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」
         「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」
         「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
         「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 
         「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
         「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」
         「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 
         チャップリンの作品たち   


C+ ・・・・・ 退屈しのぎにはちょうどよい。レンタルで十分。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
         「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 「ロッキー・シリーズ」

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。 「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
         「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。もう二度とこの監督にはつかまらない。金返せ~!!




 

● アルゼンチン・シンドロームはあるか? 映画:「チャイナ・シンドローム」(ジェームズ・ブリッジス監督)

1979年アメリカ映画。

十代の頃、テレビで観ているはずである(淀川長治さんの日曜洋画劇場あたり濃厚)が、内容はすっかり忘れていた。化学調味料(いわゆる○○の素)を使いすぎた中華料理を食べて具合が悪くなるアメリカ人続出、いわゆる「中華料理店シンドローム」とごっちゃになっていたくらい、すっかり忘れていた。
原発問題がテーマということで話題復活。探してみたら、ちゃっかりお奨めコーナーに陳列されていた。

まず、制作=マイケル・ダグラスに驚く。
調べてみたら、もともと監督志望だったらしく、この作品より前にあの有名な『カッコーの巣の上で』を制作している。オスカーを獲った『ウォール街』や色物サスペンス『氷の微笑』『危険な情事』の印象が強いので、"ちょい悪バブル親爺"のイメージがあったが、年齢からするとヒッピー世代なのだ。この映画の中でも、フリーのカメラマンという役柄のせいもあるが、ロンゲの、いかにもヒッピー上がりの反体制意識むきだしの風貌で登場してくる。実像は、そっちなのだな。もちろん、反原発派だ。

ジャック・レモン『お熱いのはお好き』、ジェーン・フォンダ『バーバレラ』もなつかしい。脇もベテランでしっかり固められていて、役者が揃うと映画は面白いなあ~。
ジェーン・フォンダはこのとき42歳のはずであるが、まだ十分に美しい。今で言うなら、ニコール・キッドマン風の正統派美女。ロジェ・ヴァデムがもう少し長生きしていたら、ニコールも彼の女性遍歴の1ページを飾っていたのかもしれない。

チャイナ・シンドロームとは

原子炉核燃料のメルトダウンによって、核燃料が溶け落ち、その高熱により鋼鉄製の圧力容器や格納容器の壁が溶けて貫通し、放射性物質が外に溢れ出すこと。溶融貫通またはメルトスルーとも呼ばれる。米国の原子炉がメルトスルーを起こしたら、高温の核燃料が溶けて地中にのめりこみ、地球の裏側にある中国にまで突き抜けて達する事態になるのではないかということから、チャイナシンドロームという。もちろん、地理上は米国の裏側は中国ではないし、地球を貫くようなことは現実には起こらず、ジョークの一種である。(「知恵蔵」より)



評価:B-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!






 
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