ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

マシュー・ポレンザーニ

● モンロー風ヴィオレッタの功罪 オペラライブDVD:ヴェルディ『椿姫』(佐渡裕指揮)

収録:2003年、エクサンプロヴァンス音楽祭(フランス)
キャスト
ヴィオレッタ: ミレイユ・ドランシュ(ソプラノ)
アルフレード: マシュー・ポレンザーニ(テノール)
ジョルジョ・ジェルモン: ジェリコ・ルチッチ(バリトン)
指揮: 佐渡裕
演出: ペーター・ムスバッハ
管弦楽: 国立パリ管弦楽団

 
 舞台のライブ収録にあとから映像処理を施して、一個の映像作品となっているところが特徴である。
 これは、はじめは上記音楽祭での上演をテレビとラジオで生放送で流す予定であったところが、フランス全土で技術スタッフたちのストライキが起きたため当公演も中止に追い込まれた。急慮、別撮りで舞台の収録を行い、然るべく編集してテレビ放映に間に合わせたという経緯によるためらしい。
 実際の舞台上の演出(美術・照明含め)に加えて、テレビゲーム的な加工処理が施してある。
 たとえば、暗い舞台のあちこちの空間に瞬間的に現れては消えるオーロラのような色彩の氾濫であるとか、撮影カメラに水滴をつけて、あたかも夜道をドライブしている視聴者の車のフロントガラスに雨粒が降りかかっているように見せて、行く手に広がる暗闇の中で「椿姫」のドラマが演じられているように思わせるとか。凝っているのである。
 その企みが、どこまで成功しているかは意見の分かれるところであろう。

 舞台全体が、ヴィオレッタの回想という形をとっているのは、さほど珍しいことではない。
 第3幕で病床にいて死を間近にしたヴィオレッタが、高級娼婦としての華やかな享楽の日々とアルフレッドとの運命的な出会いを思い起こす(第1幕)。二人で過ごした田舎での楽しい日々がジョルジュ・ジェルモンの来訪によって打ち砕かれ、二人の愛はアルフレッドの早とちりによって破綻する(第2幕)。こうした不器用で純粋な恋愛のいきさつを、アルフレッドの到着を今か今かと待ちわびながら、ヴィオレッタは反芻する。
 この場合、第一幕始まりの物悲しい前奏曲の部分で、病床の青白い顔したヴィオレッタがいったん登場するのが通例である。そして、軽やかで気持ちを引き立てる舞踏会のメロディのはじまりと共に、ヴィオレッタは美しく飾り立てた高級娼婦に変貌する。
 
 しかるに、どうもこの演出における‘回想するヴィオレッタ’は病床にいるようには思えないのである。
 むしろ、死後、成仏できずにこの世とあの世の間をさまよっている浮遊霊としてのヴィオレッタによる回想(=この世への執着)というように感じられる。
 一つには、ヴィオレッタの衣装が最初から最後まで変わらないからであり、そのスタイルは誰がどう見たって『七年目の浮気』で胸元も露わな白いドレスを着たマリリン・モンロー。そのうえ舞台のモンロー=ヴィオレッタ(ミレイユ・ドランシュ)は、終始精神不安定の様相を示している。睡眠薬の大量服用により自殺した(謀殺説もある)モンローが成仏できずに夜の道を彷徨っている。そんな連想が浮かんでくるのである。
 今一つ。舞台上にたびたび夜の道路の映像が映し出される。フランスの実際の道路だと思うのだが、その中にどうもダイアナ王妃が事故死した(暗殺説もあり)パリのアルマ広場の下のトンネルと思しき映像が差し込まれる。ダイアナ妃が成仏できずに夜の道を彷徨っている。そんなイメージが浮かんでくるのである。
 ヴィオレッタ=モンロー=ダイアナ妃の三位一体の‘悲劇のヒロイン’が、この世と愛する者とへの未練が断ち切れず、霊界にいて同じドラマを飽きることなく何度も繰り返している。
 そんな解釈で見たときに、ヴィオレッタ以外の登場人物もまた、生命力と生き生きした感情を持った人間のようには到底見えず、不気味な衣装と毒々しいメイキャップに仮面のような無表情な面差しをして、光の射さない暗がりの中、呪文のように歌っている姿に了解がいく。演出全体の悪夢のような暗さ、不気味さ、不吉さに納得がいく。

 幽界の「椿姫」――。
 面白い趣向、興味深い演出だとは思う。
 
 が、人間ドラマとして観た時に、やはり暗すぎて気が滅入る。出演者の感情も抑制されてしまい、せっかくの数々のドラマティックな歌が空疎に聞こえる。(中年男のぎらついた性欲を漂わせたジェリコ・ルチッチのジェルモンをのぞけば。) せっかくの我らが佐渡裕の指揮も、これでは本領発揮とはいくまい。
 なにより、主演のミレイユ・ドランシュは声が弱すぎる。コロラトゥーラの聞かせどころである第1幕はまだよいが、ドラマティックな表現が要求される第2幕以降が悲惨なことになっている。そもそもが椿姫を歌える声の持ち主ではない。それを、「このヴィオレッタは人間でなく、あの世の人だから」という理由で免責することはできない。歌はオペラの命なのだから。

 斬新な演出が行き過ぎて、歌手と指揮者とオケと台本作家と作曲家の美点を活かしきれなかった、すなわち作品の魂を台無しにしてしまった、悪い見本のようなライブである。(ストライキに感謝すべきかも・・・)


 



● METライブビューイング:『愛の妙薬』(ドニゼッティ作曲)

  東銀座の松竹東劇にて鑑賞する。

 オペラの殿堂メトロポリタン歌劇場(ニューヨーク)で今年の10月13日に上演されたばかりのオペラのライブ映像である。世界のトップ歌手達の舞台が日本に居ながら低価格(3500円)で大スクリーンで観ることができ、その輝かしい歌唱を迫力の音響で聴くことができる。本当にお得な嬉しい企画である。(ホームページは→http://www.shochiku.co.jp/met/
 もちろん、ライブには適わない。
 ライブの感動の20分の1くらいだろう。
 生の声や音が持つバイブレーションを同じ空間で体感することに勝るものはない。

 『愛の妙薬』はドニゼッティ作の喜劇である。
 のどかな田舎に住む一組の男女のたわいない恋のさやあてと成就。いまどき少女マンガにすらならない馬鹿馬鹿しいストーリーである。むろん、オペラに複雑で高遠な物語を期待する者など、はなからいまい。
 演出はオーソドックスで奇を衒ったところがないが、そこは好感持てる。奇を衒った、才気走った演出は往々にしてストーリーの馬鹿馬鹿しさをかえって目立たせてしまう結果になるので、しらけることが多い。どうせならゴージャスを極めたほうがまだましである。往年のフランコ・ゼフィレッリの金ピカ演出のように。

 オペラの要は歌である。
 とりわけ、ドニゼッティやベッリーニのようなベルカントオペラは歌の出来こそすべて、管弦楽は二の次である。
 主役の二人、アンナ・ネトレプコ(アディーナ役)とマシュー・ポレンザーニ(ネモリーノ役)はさすがに上手い。二人とも朗々たる声で、高い音から低い音までしっかりコントロールされていた。演技も達者で安心して観ていられる。とくに、ポレンザーニはちょっと愚かでドンくさくて正直者のネモリーノを、本来はそれとはまったく反対の知的で神経細やかなノーブルなルックスであるにもかかわらず、観る者に好感を抱かせるに十分な巧みさで演じている。この歌手はきっとテノールのどんな役でも立派にこなせるだろう。
 ネトレプコは現在世界一のソプラノの一人である。美貌も実力も兼ね備えていて文句のつけようがない。だけど、どうもつまらない。ソツがなさすぎるからであろうか。
 サザランドやカバリエやジェシー・ノーマンのような、何らかの点で規格を逸脱した「怪物風の」ソプラノ達が犇めいていた時代が懐かしい。


METライブビューイング


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