ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、寺社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

マトリックス

● ディック感覚、あるいは「私」という名のSF 映画:『アジャストメント』(ジョージ・ノルフィ監督)

 2011年アメリカ映画。

 SF恋愛サスペンス映画。原作はSF作家フィリップ・K・ディックの短編『調整班』。

 『ブレードランナー』(1983)の成功以降、フィリップ・K・ディック(以後FKD)の作品は次々と映画化されている。主な物を挙げると、

 トータル・リコール(1990) 主演アーノルド・シュワルツネッガー
 マイノリティ・リポート(2002) 主演トム・クルーズ
 ペイチェック消された記憶(2003) 主演ベン・アフレック
 NEXT―ネクスト(2007) 主演ニコラス・ケイジ

 現在もいくつかの作品の映画化が予定されているらしい。まさに「今が旬」の作家なのである。
 しかし、FKDは『ブレードランナー』の公開直前に53才の若さで亡くなっている。生前は本が売れず貧乏であったという。一面識もなかった同じSF作家のロバート・ハインラインに援助されたというから面白い。
 ヴァン・ゴッホ同様、彼の書いた物は時代に早すぎたのである。著作権を有する遺族にとっては、まことにラッキーな展開であろう。

 FKDの早すぎたテーマとは何か。
 ウィキペディア「フィリップ・K・ディック」から引用する。

 何らかの強力な外部の存在によって、あるいは巨大な政治的陰謀によって、あるいは単に信頼できない語り手の変化によって、日常の世界が実際には構築された幻影だということに主人公が徐々に気づき、超現実的なファンタジーへと変貌していくことが多い。こうした「現実が崩壊していく強烈な感覚」は「ディック感覚」と呼ばれている。

 この『アジャストメント』もまさに「ディック感覚」そのものである。
 主人公デヴィッド(マット・デイモン)はある日、この世界が「運命調整局」と名乗る謎の集団によってコントロールされていて、世界の時空も一人一人の人間の運命も彼等によって自在に調整・操作されている、という驚愕の事実を知ることになる。人類は外部の手によって操られており、人間に選択の自由など始めからないのである。
 この事実を知ることは、足元の大地が突如として消失するくらいのショックをもたらすであろう。(自分ならまず精神科に行くがな・・・)
 そこからデッヴィドがどう生きていくかというところに、観る者は付き合わされることになる。

 小説にしろ映画にしろ、SFというものは荒唐無稽の大ボラが前提としてある。
 大ボラを、科学的(客観的)な装いと細かなリアリティの積み重ねによって、いかにして読者(観る者)に受け入れさせるか、作者がこしらえた虚構世界とその世界にのみ通用する恣意的な法則の中で、いかにして人間ドラマを活気づけ、感動に結びつけていくかが、SFの基本スタイルである。
 過去の有名なSF映画を並べると、この基本スタイルは明瞭である。
『猿の惑星』『エイリアン』『スター・ウォーズ』『バック・トゥ・ザ・フィーチャー』『アルマゲドン』・・・・・。
 どれも人間の通常の生活世界とは(時間的あるいは空間的に)離れたところに、まったく様相の異なる違った世界が存在し、何の因果か後者に入り込んでしまった主人公達が、新しい世界の驚異や脅威に(観る者と共に)直面し、新しい世界での法則を痛い思いをしながら学びつつ、通常の生活世界においてはあまりに当たり前でありすぎるが故にその大切さを忘れてしまいがちな人間ドラマ(家族愛、恋愛、友情、命の大切さe.t.c.)を甦らせるのである。
 その意味では、人間ドラマをより深く、より強く、より新鮮に描くためのシチュエーションとして、SFという仕掛けはあると言えなくもない。非日常の空間においてこそ日常的なことの有り難さが痛感されるのは、誰もがよく知っている。

 問題はこの仕掛けである。

 先に掲げた過去の有名なSF映画と、FKDの作品、あるいは昨今よく作られる時空操作系のSF映画とでは、この仕掛けの仕掛けられる場所に違いがある。
 過去の作品では、仕掛けは外側に作られていた。『猿の惑星』や『エイリアン』や『アルマゲドン』では地球の外(宇宙)であったし、『スター・ウォーズ』や『バック・トゥ・ザ・フィーチャー』では現在という時間の外(過去や未来)であった。主人公達の通常の生活世界とは時空が違うのである。
 仕掛けが外側に作られるということは、別の観点で言うと、主人公達は別世界に行っても、自らのアイデンティティを保っていられるのである。「自分」はそのままで、自分を取り巻く「環境」が変化するのだ。
 『猿の惑星』のラストシーンがかくも衝撃的なのは、主人公(チャールトン・ヘストン)が人間としてのアイデンティティ(自我)と誇りとを最後まで高く保ったまま、猿が支配する異世界を生き抜いたからである。

 一方、FKDの作品らは、仕掛けが内側にある。
 つまり、「日常の世界が実際には構築された幻影だということに主人公が徐々に」気づいていくところが、一番の見所となる。この系統の一番わかりやすい代表的な例は、FKD作品に影響を受けたウォシャウスキー兄弟(姉弟と言うべきか)が撮った『マトリックス』(1999)である。「虚構」は外にあるのではない。「私」が虚構なのだ。
 主人公の生活空間、意識、存在そのものが虚構であると曝かれた時、信じられる確かなものは何一つなくなる。自分の意志の存在を疑わざるを得ない主人公にとっても、物語を観る我々にとっても。
 ある意味、これはクリスティが『アクロイド殺し』で仕掛けたトリックに通じるところがある。かのトリックはフェアかアンフェアかで議論が巻き起こったけれども、少なくともアクロイド殺しの犯人は誠実な、客観的なタイプの人間であった。あれがもし、生来の嘘つきというキャラクターであったら、フェアもアンフェアもないだろう。その時点で、読者はクリスティを見放しただろう。それでは、推理小説という物語が成り立たないからである。
 何が言いたいかというと、主人公のアイデンティティ(自我)が完全に崩壊した時点で、彼の主観を軸とする物語は成り立たないはずなのである。たとえは悪いが、強度の認知症の老人のラブストーリーを想像してみてほしい。
 そしてまた、「『私』を含み、すべてが幻想だ」と知り尽くした人間は、もはや既存の物語に没入して楽しむことなどできない。

 「個体発生は系統発生を繰り返す」ではないが、「自我」の芽生えと「物語」の誕生は、おそらく、人類史的にも、個人史的にも、同時であろう。体験をエピソードとして記憶に残すために「自我」が生まれたという説もある。(→ブログ記事参照『受動意識仮説の衝撃』http://blog.livedoor.jp/saltyhakata/archives/4977087.html )
 ならば、「自我」の終焉と「物語」の終焉も、同時であろう。
 
 『マトリックス』もこの作品も、アイデンティティ崩壊後に、主人公が「人間の尊厳をかけて」外部組織にあらがう様が描かれていくが、時空をコントロールし運命を司る存在(神でも宇宙人でも銀河委員会でもなににせよ)に対して、いったい何ができよう。「あらがう」という意欲や行動でさえ、すでに自らの意志ではないではないか。
 『マトリックス』の主人公ネオ(キアヌ・リーブス)は、人工知能による文字通りの「洗脳」から目覚めて、仮想現実から脱出し、人工知能との闘いを開始する。その様子は、血も涙もない(当たり前だ)コンピュータに対する人間の尊厳を誇らかに謳っているように見えて、観る者はネオとその仲間達を熱狂的に応援することになるけれど、3部作に至ったストーリーすべてが、いまだカプセルにいるネオの脳内における仮想現実ではないという保証を、我々はどこに求めたらいいのだろうか。


 物語が成立しない領域に、無理して物語を生もうとしている。
 その無理強いが、この映画をアンバランスなものにし、未消化な、調整を誤った(ミスアジャストメントな)感じだけが観賞後に残される。

 FKDの作品の映画化は扱いに気をつけないと、同じ失敗に陥るであろう。




評価:C-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 

● トンデモ本か、稀代の名著か 本:『錯覚する脳』(前野隆司著)

 最近、脳と認識に関する本をよく読んでいる。

 ラマチャンドラン博士の『脳の中の幽霊』はスリリングでとても面白かった。オリヴァー・サックスの『火星の人類学者』、『妻を帽子とまちがえた男』も、良くできたミステリーのように謎に満ちていて好奇心を刺激し、一気呵成に読ませる。
 いずれも脳の損傷やその回復によって知覚や認識がどう変わるかということを、実験結果や患者のエピソードを取り混ぜながら、科学素人にもわかりやすく、面白おかしく教えてくれる。著者の非凡な文才を感じる。

 日本でも、科学畑で文才のある人が目立つ。
 ベストセラー『唯脳論』の養老孟司、「クオリア」で一躍マスコミの寵児となった茂木健一郎、『生物と無生物のあいだ』の福岡伸一、他にも柳澤佳子や竹内久美子も有名だ。
 文系である自分にとって、最新科学の知見を、学術論文のように専門用語や研究者の論文名を散りばめたオカタいものではなしに、物語風にわかりやすく絵解きしてくれるこれらの作家や作品はとてもありがたい。
 
 前野隆司もまた、これらの科学者兼作家にならんで、脳と知覚・認識・意識の関係についての自説を、わかりやすい喩えと曖昧さのない物言いでもって披瀝する。ところどころ差しはさまれるエピソードからは、著者の率直さや偉ぶるところのない庶民性が伺えて好感が持てる。(家族思いのところとか、納豆が大好物なところとか)

 それにしても前野説は衝撃的である!

 この前野説の内容と、その衝撃の度合いをうまくここに表現できるだろうか?
 まあ、やってみよう。

 実験や研究によって次々と明らかにされてきた脳の働きを踏まえ、昨今の脳科学の知見は、ランボーに言えば、「この世界にあって我々が知覚しているものは、すべて脳が作り出したものである」という方向をたどっている。人間は、五感によって身の回りにあるものを知覚しているが、それをまさに「見ているように、聞こえているように、匂っているように、味わっているように、触れているように」感じているのは、脳の働きによるものだ。

 たとえば、目の前に赤い花がある。
 この「赤い」色を感じているのは視覚であり、目という道具を使って情報を取り入れている。
 だが、実際に網膜が知覚しているのは、いろいろな波長を持つ電磁波(=光)にすぎない。それが電気信号に変換されて、視神経によって脳に情報として伝達される。脳は「この信号ならこの色だな」と判断し、「赤」を人間に見せる(認識させる)のである。
 つまり、「赤」を見ているのは目ではなく、脳なのだ。

 同様なことが、他の感覚についても言える。
 前野が挙げた例で「目から、もとい、耳からウロコ」だったのは、聴覚に関するものだ。

聴覚は、耳から入ってきた二十ヘルツから二万ヘルツまでの空気の振動を検出し、両耳の情報を使って音源の位置を同定するとともに、音色や母音・子音のクオリアを生成するものだ。

 すなわち、「なにが」「どこから」「どのように」聴こえているかを決めているのは、音源そのものではなくて、脳の中の聴覚野のしわざであるということだ。
 すると、こうなる。

 空気の振動は、二つの耳の基底膜の振動に変換され、そこにある有毛細胞で検出されているに過ぎないはずなのに、なんと、会話相手の話し声は相手の口元から聞こえるのだ!

 話し相手の声が相手の口から聞こえるなんて、あまりにも当たり前すぎて不思議にも思わなかったが、考えてみると奇跡的なことなのである。もし、耳の基底膜に、あるいは聴覚野に、なんらかの異常があったら、音源とは別のところから「音」が聞こえる、なんてこともあり得るのかもしれない。幻聴なんてのはそのせいなのではないか。

前野は言う。

 私たちが五感を感じるとき、それは感覚器で感じているのではない。断じてない。脳の「知」の働きが、あたかも感覚器のある場所で感じたかのように見せてくれている。

 これを逆手にとって映画にしたのが、『マトリックス』である。
 すべての感覚を脳だけで作り出せるならば、眠らせた人間の脳を電極につないでおいて適当に脳を刺激し、バーチャルな世界を体験させることができる。本人はまったく気づかない。あたかも自分が「現実に(を)」体験しているかのように感じる。


 『マトリックス』のようなことができるには、脳科学とコンピュータ工学とはまだ数世紀待たなければならないだろう。(それとも、もうすでに我々はどこかの非常に文明が進んだ星に棲む宇宙人の子供の遊んでいるゲーム上のアバターかもしれない。)

 「脳がすべてをつくりだしている」ということが示す衝撃は、空おそろしいばかりである。(タイトルから勘違いしやすいが、養老の「唯脳論」は、これとはまったく違うレベルの話である)
 それは、つまり、我々の周囲に存在するものの本当の姿はわかりえない、ということを意味しているのだ。

「空」ーおそろしいでしょう?

 おそらく、これをもってブッダは「一切行空」と言ったのだろう。般若心経の「色即是空」である。禅なら「不立文字(ふりゅうもんじ)」。認識できないものは、表現できないがゆえに。

 「悟り」とは多分、この認識を超えた「ありのままの世界」を一瞬垣間見ることなのだと思う。
 「何で(何を使って)」「見る(知覚する)」のかは不明であるが。

 
 ここまでも十分衝撃的であるが、別に前野の専売特許ではない。歴史に残っている限りで最初に獅子吼したのは、ブッダである。『スッタニパータ』でこう言っている。

 六つのものがあるとき世界が生起し、六つのものに対して親しみ愛し、世界は六つのものに執着しており、世界は六つのものに悩まされている。(『ブッダのことば』岩波文庫)

 ブッダは五感に付け加えて、「意(意識)」を世界を知覚する門としている。この場合、知覚する世界とは外部ではなくて内部(心)である。


 系統的に調べたわけではないが、他にもいろいろな人が指摘している。

無限は感覚の対象にはなりえないからです。まことに感覚を介して無限を知ろうとする者は、実態や本質を目で見たいと願う人間と同じです。感ぜられもせず見もせぬからといって事象を否定する者は、実態や本質そのものを否定せんとする者です。・・・・感覚されうる事物以外のものには感覚は適用されません。(ジョルダーノ・ブルーノ『無限、宇宙および諸世界について』岩波文庫)


視覚実質、聴覚実質が存在しなければ、吾々の周囲の、かかる色彩の美しい、妙音ある世界は暗黒であり、沈黙であるであらう。(デュ・ボア・レーモン『自然認識の限界について』岩波文庫) 


環世界には純粋に主観的な現実がある。しかし環境の客観的現実がそのままの形で環世界に登場することはけっしてない。それはかならず知覚標識か知覚像に変えられ、刺激の中には作用トーンに関するものが何一つ存在しないのにある作用トーンを与えられる。それによってはじめて客観的現実は現実の対象物になるのである。(ユクスキュル/クリサート『生物から見た世界』岩波文庫)

 
 「環世界」とは、「すべての動物はそれぞれに種特有の知覚世界をもって生きており、その主体として行動しているという考え」を言う。文中の「作用トーン」こそ、「クオリア」のことである。

人間に限らず、あらゆる生命体は自らに与えられた認識装置によって世界を理解するしかない。認識装置に依存する部分の弁別材料無しでは、世界を理解することはできない。・・・・昔の哲学者だったら、こんなふうに言うだろう。「私達は存在を捉えているのではない。捉えたものを存在としてしまっているのだ。」(時枝福治『象のシッポ』新風社)

  もちろん、茂木健一郎も言っている。

私に見えていることの全ては、本当は、私の外にあるのではなくて、私の頭蓋骨の中にあるニューロンの発火の結果生ずる現象に過ぎないのだ。(『クオリア入門』ちくま学芸文庫)

 ある意味、ブッダが2000年以上昔に述べたことに、やっと今日の科学が追いついたわけである。
 
 ブッダ、すげえー。

 ここまではいい。
 ここから先が前野理論の真骨頂。

 それは、こうやって感覚器と外界との接触によって集められた情報を、加工し、編集し、系統立てる「脳」と、それを認識する「意識(心)」との関係についての考察から始まる。

 脳と心との関係は、次の3つの論に集約される。

1. 心の正体がなにかはともかくとして、心(意識)と脳(体)はまったくの別物である。(心身二元論)
2. 脳が心を作り出した。心(意識)は脳(体)の産物である。(身的一元論)
3. 心が脳を作り出した。脳(体)は心(意識)の働きによって生み出された。(心的一元論)


 古くから洋の東西問わず議論されてきて、いまだにまったく解明の糸口すら見えていない、この人類最大の問題(ハードプロブレム)について、前野は果敢に挑戦したのである。

この続きは別記事(http://blog.livedoor.jp/saltyhakata/archives/4977087.html)で。

TO BE CONTINUED.....

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