ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

マリア・カラス

● 3つのトスカ、あるいは失われた声

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 世界文化社から出ている『DVD決定盤 オペラ名作鑑賞』シリーズ第10巻は、プッチーニの名作『トスカ』である。

 「トスカと言えばカラス、カラスと言えばトスカ」と言うくらい、マリア・カラスのトスカが頭に耳に目に胸にこびついているソルティ。多くのオペラファンも同様であろう。
 ヴィクトール・デ・サバータ指揮、ジュゼッペ・ディ・ステーファノ、ティト・ゴッビ共演の1954年録音のレコードにおけるトスカ、最盛期のカラスの舞台姿を唯一観ることができる1958年パリ・オペラ座における第2幕のみのトスカ(指揮はジョルジュ・セバスティアン)、そして、声と容姿の衰えが顕わになってはいるものの実人生の苦悩が反映された入神の演技で観る者を圧倒する1964年ゼッフィレリ演出のトスカ(指揮はジョルジュ・プレートル)。この3作によってカラスのトスカは永遠となった。
 なので、どんなトスカを観てもカラスと比較してしまう。多くのオペラファン同様に。
 カラスが生涯最も多く歌い、最も華々しい成功を納め、オペラ史的価値も高く、彼女自身最も歌うのを好みかつ得意としていたのがベッリーニの『ノルマ』であるのは間違いないだろう。が、カラス自身の性格や生涯を思うとき、「歌に生き、恋に生き」た情熱の女トスカこそカラスの分身という気がする。とりわけ、1954年のレコード(CD)はオペラ芸術のみならず、クラシック音楽史上のみならず、ミケランジェロの『ピエタ』やダ・ヴィンチの『最後の晩餐』に並ぶ、人類の芸術史における最高傑作の一つであると思う。トスカ(カラス)が登場する第一声「マーリオ」の声に背筋がゾクッとしない者、第2幕のカラスとゴッビの緊迫感たっぷりの応酬に息をつめない者がいるとは思われない。

 そんな『トスカ』であるが、ソルティはあまりこのオペラが好きではない。
 陰惨でSMチックで後味が悪い。
 何と言っても、主要人物3人がみな酷い死に方をするのである。スカルピアはトスカに刺殺され、マリオは死刑囚として銃殺され、トスカは塔からひらりと身を投げる。とても大団円とは言えない。音楽もところどころ甘く美しいメロディがあるものの、全体的にはスカルピアのモティーフに代表されるように、暗く不吉で聴く者を不安と緊張で締め上げるものである。
 出血の拷問シーンあり、SEXを目的とした恐喝シーンあり、殺人シーンあり、死刑シーンあり、身投げシーンあり・・・・。背景がナポレオン時代のローマゆえ、これくらい当然といえば当然なのだが、これほどサディスティックなオペラもあるまい。『蝶々夫人』と言い、『トゥーランドット』と言い、プッチーニはその趣味の持ち主だったのではあるまいか。
 ソルティは別に潔癖でも上品ぶっているわけでもないが、日常から逃避せんがために観る(聴く)オペラに‘残虐’など欲しくないので、あえて観よう(聴こう)とは思わない。
 が、このシリーズの『トスカ』だけはとても見逃せない内容なのである。 

 3つの『トスカ』の陣容は以下の如し。
 
① 2006年アレーナ・ディ・ヴェローナ上演(ライブ)
  • トスカ : フィオレンツァ・チェドリンス
  • カヴァラドッシ : マルセロ・アルバレス
  • スカルピア : ルッジェーロ・ライモンディ
  • 指揮 : ダニエル・オーレン
② 1961年シュットゥットガルト国立歌劇場上演(ライブ)
  • トスカ : レナータ・テバルティ
  • カヴァラドッシ : ユージン・トービン
  • スカルピア : ジョージ・ロンドン
  • 指揮 : フランコ・パタネ
③ 1939~40年製作 映画『トスカ』
  • トスカ : インペーリオ・アルヘンティーナ(歌:マファルダ・ファーヴェロ)
  • カヴァラドッシ : ロッサーノ・ブラッツィ(歌:フェルッチョ・タリアヴィーニ)
  • スカルピア : ミッシェル・シモン
  • 指揮 : フェルナンド・マンチーニ
  • 監督 : カレウロ・コッホ
  • 助監督 : ルッキーノ・ヴィスコンティ、ロッテ・ライニガー   

 戦前、戦後イタリアオペラ黄金期、2000年代に作られた3つの『トスカ』を、映画と室内劇場と野外劇場の3つの異なった形態で、それぞれに最高の布陣を擁した傑作を、家に居ながらにして見聞きできる幸運に感謝するほかない。
 世界文化社、監修の永竹由幸、「いい仕事したなあ~」

 ①の見どころ・聴きどころは、何と言ってもタイトルロール(主役)のフィオレンツァ・チェドリンスである。同じアレーナ・ディ・ヴェローナの『蝶々夫人』ではその喨喨たる美しき声と的確な演技にシャッポを脱いだが、ここでも見事な歌と芝居の融合が見られる。野生的な美しさに溢れ、情が濃くて気性が激しい。トスカというよりもカルメンに近い感じがするが、とても魅力的である。西洋女性はやはり着物よりドレスである。スカルピア役のルッジェーロ・ライモンディも難癖のつけようない見事な歌唱と堂々たる演技。マルセロ・アルバレスは色男を演じるには太り過ぎだが、声はイケメン。野外の広大なスペースを生かしたセットや演出も見物である。

 ②は、マリア・カラスと並び称された往年の名花レナータ・テバルティの非の打ちどころない立派な歌唱が聴きもの。すべての音域においてむらのない良く通る豊麗な響きは、さすが巨匠トスカニーニをして「天使の声」と言わしめただけのことはある。これだけの声はそうそうにない。歌い手の容姿を重んじる映像時代にあって失われたものは、まさに「声」なのだとあらためて感じる。チェドリンスもメトの女王アンナ・ネトレプコも、少なくとも声の威力においてはテバルティの比ではない。
 ソルティは、テバルティの舞台姿を今回始めて観たのだが、演技も上手くて驚いた。と言っても、昨今はやりのリアルを追求したアカデミー賞的演技ではない。あくまで音楽に合わせた、無駄のない抑制された動きである。しかも、品がある。陰惨極まりないストーリーを彼女の存在が高貴なものにしている。登場人物にリアリティを与え生命を吹き込んだカラスとはいささかアプローチは異なるものの、これはこれで歴史に残る名唱、名演であろう。
 敵役のジョージ・ロンドンも、下手すると下品なSMオヤジに墜してしまうスカルピアを、ロココ風の気品を保ちながらスタイリッシュに歌い演じている。
 総じて、節度のある舞台である。

 ③の映画『トスカ』こそ、この巻のみならず、シリーズ全体における最大のボーナストラックと言っていいだろう。   
 あの偉大なる映画監督にして舞台演出家ルッキーノ・ヴィスコンティの『トスカ』である。むろん、彼は助監督としてクレジットされているに過ぎないが、映像を見れば、まぎれもなくこれがヴィスコンティの映画であることが判る。つまり、‘本物の’香りがする。その「本物性」は、若きヴィスコンティがかぶれた当時のイタリア映画界を席巻したネオリアリズム(たとえば、『自転車泥棒』や『戦火の彼方』)に由来するのではなく、何代も続くミラノの名門貴族の家柄ゆえの「本物性」である。結局、ヴィスコンティは若気の至りで社会主義者を気取ったりしたこともあったけれど、生涯出自からは逃げられなかったのである。
 オペラ『トスカ』の映画化は、二つの点で興味深い。
 一つは、舞台(オペラ)だと説明不足になってしまうがゆえに荒唐無稽に思える設定が、背景が丹念に描きこまれることでそれなりの必然性と理由を与えられ、リアリティを確保できる。たとえば、なぜスカルピアは画家のカヴァラドッシが脱獄者アンジェロッティを匿っていると目星をつけたのか、なぜトスカは恋人カヴァラドッシの処刑に立ち会うことが出来たのか、オペラを観るだけではよく分からない。それこそ、物語を効率的に進めるためのご都合主義に思えてしまう。
 それが映画だと、社会背景や裏事情や事件の推移や物語の舞台となる建物の構造も含めて描かれるので、それぞれのエピソードに‘もっともらしさ(整合性)’が付与される。カヴァラドッシが処刑されるローマの聖アンジェロ城の構造が飲み込めてはじめて、トスカが処刑現場に立ち会い物陰から様子を伺うことができた事情が飲み込める。
 もう一つは、ローマの風景描写である。室内のみのオペラの舞台からカメラが街に出ることによって、物語の背景となったナポレオン時代のローマの空気が伝わってくる。石畳を駆ける馬の蹄の音、ローマ郊外の田舎家(トスカとカヴァラドッシの愛の巣)、貧しい群衆、傲岸な宮廷の人々、電燈のない薄暗い街並み・・・。「なるほど、こういう時代の話であったか」と今更のごとく了解する。
 ここではスカルピアの描き方が興味深い。権力を笠に着て倒錯した欲望を満たすサディストという典型的悪役イメージとは違って、権力機構の中で自らのやるべきことを冷酷と知りながら遂行せざるをえない官僚の無力さを漂わせている。スカルピアを単なる「悪」として描くのはヴィスコンティの意図ではなかったのかもしれない。

 トスカは恋人マリオを助ける代償としてスカルピアに体を提供することをいったんは承諾するものの、やはりどうしてもそれはできず、操を守るためにスカルピアを殺害する。そのクライマックスで名曲中の名曲『歌に生き、恋に生き』を歌う。ミもフタもない言い方をすれば、「体を売るか売らないか」で悩む女心の歌である。
 どう考えたって、品ないでしょう?
 ②のテバルティの舞台のように、ある程度の格式を保ってバランスを取るのが、このオペラ上演の正解ではないかと思う。




 






● ソプラノ・ドラマティコ・タジリタ :オペラCD ベルリーニ作曲『ノルマ』(シルヴィオ・ヴァルヴィーゾ指揮)

キャスト
ノルマ:エレナ・スリオティス(ソプラノ)
ポリオーネ:マリオ・デル・モナコ(テノール)
アダルジーザ:フィオレンツァ・コッソット(メゾソプラノ)
オロヴェーゾ:カルロ・カーヴァ(バス)
ローマ聖チェチーリア国立音楽院管弦楽団&合唱団
シルヴィオ・ヴァルヴィーゾ(指揮)
収録:1967年8月、9月(ローマ)

 人間の声質はそれこそ百人百様であるが、歌唱においてはいくつかの類型に分けられる。
 分かりやすいのが声の高さ(声域)による分類で、男ならバス、バリトン、テノール、女ならアルト、メゾソプラノ、ソプラノである。
 それ以外にも、声の大きさや太さや重さによって細分する伝統がある。
 ソプラノ歌手を例にとると、その声質を軽いほうから重いほうへ、代表的な有名歌手と代表的なオペラの役柄と共に並べると、以下のようになる。
  • レッジェーロ(あるいはスーブレット) = キャスリーン・バトル in 『ドン・ジョヴァンニ』のツェルリーナ
  • コロラトゥーラ = エディタ・グルベローヴァ in 『魔笛』の夜の女王
  • リリコ = ミレッラ・フレーニ in 『ボエーム』のミミ
  • リリコ・スピント = レナータ・テバルティ in 『アイーダ』のタイトルロール(主役) 
  • ドラマティコ = ビルギッド・ニルソン in 『トリスタンとイゾルデ』のイゾルデ

 もちろん、声質は加齢と共に変わっていく。若い頃は軽い声質でコロラトゥーラの役を得意としていたソプラノが、年齢を重ねるとともに、次第に声質がその体重と共に重くなり、リリコやスピントの役までレパートリーを広げるということはよくある。世紀の名歌手グルベローヴァなんか、まさにその典型である。彼女の場合、喉を痛めないように生涯にわたって徹底的な自己管理をはかってきたのが効を奏したらしい。
 歌唱ドラマであるオペラでは、登場人物の性格や役回りと、その役を演じる歌手の声質とは、一定の傾向性を持ってリンクしている。アイーダのように、エチオピアの女王でありながら敵国エジプトの奴隷にされ、同じ武将ラダメスをめぐってエジプトの王女と熾烈な争いをし、最後は地下牢でラダメスと愛し合いながら死んでいく――という滅多やたらない劇的な生涯を歩んでいるヒロインを演じるのに、キャスリーン・バトルの鈴が転がるごとき軽やかで明るい声で歌われては到底ドラマにならない。逆に、ツェルリーナのような愛らしく素朴で男にだまされやすい村娘を演じるのに、ビルギッド・ニルソンの空気を震わす大砲のごとき強靭な声は(ロシアの女兵士のような外見は別としても)リアリティに欠ける。
 当然、作曲家もオペラを作っているときから、それぞれの役の声質をあらかじめ定めて、その声質や声域に合うよう、その声質が十分な演劇的かつ音楽的効果を発揮できるよう曲(歌)を書いている。それこそ、特定の才能あふれる一人の歌手のために、その歌手の声質や声域を念頭において曲を書く(役をつくる)ということすら、かつてはよくあったのである。
 ベルリーニの『ノルマ』がまさにそれで、当代きっての人気ソプラノであったジュディッタ・パスタを念頭において、ノルマは造型された。
 ジュディッタ・パスタ(1797-1865)の声質は、ソプラノ・ドラマティコ・タジリタ。上記の分類には入っていない。この声質の歌い手は極めて稀(100年に一人の逸材とも)なのである。それこそ、『ノルマ』が人気がある作品であるにもかかわらず簡単には上演されない理由のひとつであり、また、最高の「ノルマ歌い」がなかなか世に現れない最大の理由でもある。
 
 いったいどんな声質か。
 ソルティが所有している、あるソプラノ歌手の「ヴェルディ・アリア集」のCD(東芝EMIより1988年発売)の解説書の中で、高名な音楽評論家の高崎保男がとてもうまいこと表現している。
 
 通常、ソプラノ・ドラマティコ・タジリタとよばれるこれらのソプラノの声には、18世紀ナポリ派オペラの伝統をひく華麗で軽快な装飾歌唱を可能にする軽やかな運動性(18世紀にはカストラート歌手が、19世紀初めの時期にはコロラトゥーラ・ソプラノがそれを担当した)と同時に、19世紀後半以後のイタリア・オペラでその音楽のよりドラマティックな表現力を担うことになる、もっと力強く分厚い響きをもったソプラノ・ドラマティコ、ないしはリリコ・スピントの特性とが同居していて、いいかえればこれらのオペラのプリマ・ドンナはスポーツカーの敏捷さとダンプカーの重量とを兼備することが要求されるのである。(ゴチックはソルティ付す)
 
 スポーツカー(=コロラトゥーラ)とダンプカー(=ドラマティコ)。
 まったく相反した2つの声質を兼ね備えた奇跡の声がソプラノ・ドラマティコ・タジリタなのである。
 驚いたか!
 何を隠そう、上記の解説が付された「あるソプラノ歌手」こそ、至高のプリマ・ドンナにして究極の芸術家たるマリア・カラスである。カラスは絶滅危惧種であったソプラノ・ドラマティコ・タジリタで、それがカラスをあれほどまでに偉大にし、またカラスの『ノルマ』がいまだに――彼女の後を追う人気実力兼ね備えた幾多のプリマ・ドンナがキャリアの頂点に満を持して挑戦してはいるものの――他の追随を許さない高みに一人輝いている理由なのである。
 カラスの類い稀な才能には、もちろん舞台姿の美しさや神がかった演技力、音楽に対する感性の鋭さ、完全主義の努力家といったこともあるには違いない。が、ドラマに起伏をもたらし、登場人物に強烈なリアリティをもたらし、観客の心を鷲づかみにし、劇場を興奮の坩堝と化すことができた最大の勝因は、感情表現の驚くべき豊かさ、深みを可能ならしめた、あの奇跡の声にあるのは疑い得ない。
 
 カラス以降に出現した歌手でソプラノ・ドラマティコ・タジリタと言い得るのは、ハンガリー出身の美貌のシルヴィア・シャシ(1951- )と、カラスと同じギリシャ出身のこのエレナ・スリオティス(1943- )であろう。二人とも「カラスの再来」と騒がれた。
 この奇跡の声は、本来物理的(肉体的)に不可能な条件(=声帯の使い方)に拠っているためか、喉を容易に痛めることにつながり、歌手としての全盛期は残念ながら短い。カラスの全盛期はせいぜい10年あまりだったし、シャシュやスリオティスは名が売れて世界の桧舞台に立ち、やっと来日公演という段になった時には喉に不調の兆しが見えていた。全盛期はせいぜい5、6年といったところではないか。
 スリオティスの紹介文にはいまも「彗星のごとく現れた」と書かれていることが多いが、同時に「彗星のごとく消えていった」のである。
 
 1967年に出ているこのCDは、スリオティス全盛期(24歳)の記録である。
 彼女の歌声を聴くと、作曲家が想定した本来の声(=ソプラノ・ドラマティコ・タジリタ)で歌われるノルマが、いかに迫力あり、いかに陰影に富み、いかに劇的迫真性を音楽にもたらすことかを、そして、聖なる巫女・嫉妬に狂う女・母親・友誼厚き姉・族長の娘といった多様なキャラクターそれぞれの心理をいかに深く彫り出しながら、いかに一人の人間として見事に統合されるかを、実感する。人間が持つ聖と俗、強さと弱さ、愛と嫉妬、怒りと許し、迷いと決断、信頼と疑い、羞恥と誇り・・・。一見矛盾するかのような、しかし誰もが持っている二面性は、まさに矛盾する二つの声の魔術的結合によって浮き彫りにされるのだ。
 オペラとは、歌の芸術であるとともに、声の芸術なのである。
 
 第一声から、聴く者はスリオティスの声のみならず歌い方もまたマリア・カラスに酷似していることにびっくりする。むろん、表現力ではカラスに到底及ばないけれど、声の美しさ(特に高音の)ではカラスより上である。同じことは、ずいぶん前にシャシュのアリア集を聴いたときにも感じた。
 スリオティスやシャシュがどこに行っても「カラスの再来」と騒がれ、本人たちもそれを意識しすぎたために、歌い方までもが物まねっぽくなってしまったのだろうか。
 おそらくそうではなかろう。
 往年の名歌手ローザ・ポンセル(1897-1981)の歌う「カスタ・ディーバ」(『ノルマ』のもっとも有名なアリア)をはじめてCDで聴いたときに、カラスの歌との相似に驚いた記憶がある。
「カラスのノルマは彼女のオリジナルじゃなくて、ポンセルを(おそらくは二人の共通の師である指揮者セラフィンを介して)まねたのか」と思った。
 ポンセルは、修行中の若いカラスが尊敬し憧れていたアメリカのソプラノで、カラス以前最高の「ノルマ歌い」であった。残っている録音やレパートリーから想像するに、やはりソプラノ・ドラマティコ・タジリタと言えるのではないかと思う。
 誰が誰のまねをしたと言うのではなく、ソプラノ・ドラマティコ・タジリタが『ノルマ』を歌うと、自然と同じような歌い方・歌い回しになるのではないだろうか。それくらい、作曲者ベルリーニは初演のジュディッタ・パスタの声質を理解していたということではなかろうか。
 
 このCDは、全盛期のスリオティスによるソプラノ・ドラマティコ・タジリタのノルマが良質の録音状態で聴けると共に、昭和天皇もファンだったという歴史的名歌手マリオ・デル・モナコのポリオーネ、若く瑞々しく張りのある声のフィオレンツァ・コソットのアダルジーザも揃って聴けるという、まぎれもない名盤である。

p.s. マリア・カラス以降のソプラノ・ドラマティコ・タジリタの最大成功者は、現役のディミトラ・テオドッシュウらしい。(ソルティはまだ彼女のノルマを聴いていない) カラスやスリオティスと同じギリシャ出身というのが面白い。 
 
 

● オペラ(映画):ヴェルディ『アイーダ』(METライブビューイング)

 銀座松竹。

 昨年12月にニューヨークメトロポリタン歌劇場で上演されたオペラの映像化。
 幕間のあわただしい舞台転換の様子や歌い終えたばかりの出演者へのインタビューを盛り込んでいることもあって、ライブ感が伝わってくる。編集でカットされていないので、当夜のメトの観客達が体験したのと同じ時間割(休憩時間も含め)で最初から最後まで一曲見聞きすることができる。これは生の舞台をあとから遠隔地で映像で見る時に生じざるを得ない落差を最小限にとどめ臨場感を出すうまいやり方だ。


 『アイーダ』と言えば、バブルの頃に東京ドーム(!)で見たフィオレンツァ・コソットのアムネリスを思い出す。
 いくら古代エジプトの宮殿を舞台にしたエキストラ数百人のスペクタル大作だからと言って「東京ドームはないだろう」と今では思うが、ある意味面白い時代であった。オペラにとっての命とも言える「マイクロホンを使わない歌手の生の声」を犠牲にしてまで、ゴージャスと成金趣味(たしか本物の象が出てきたような覚えがある)を追求した結果は、案の定惨憺たるものであったが、びっしり埋まった外野席の一角(お隣では親子連れがポップコーンをほおばっていた)から、はるか遠い舞台にうごめく豆粒ほどのアイーダやラダメスにまじって、コソットのアムネリスはなおも強烈であった。マイクロホンを通した偽の声であっても、顔の表情などまったく分からない遠距離であっても、コソットの歌と演技は観客の耳目を聳たせる磁力に満ちていた。千両役者とは彼女のような人を言うのだろう。

 そもそも自分とオペラとの出会いもフィオレンツァ・コソットであった。
 NHKの教育テレビ(芸術劇場?)で放映した藤原歌劇団上演『イル・トロヴァトーレ』(ヴェルディ作)をたまたま見たのである。1987年のことだ。
 このとき復讐に燃えるジプシー女アズチェーナを演じたのがコソットであった。
 これにはまったく度肝を抜かれた。自分がそれまでオペラに持っていたイメージを完全に覆された。それまでオペラは、演技者としてはデクノボウの太った歌手達がくだらない筋書きに沿って退屈な歌を応酬するものと思っていた。芝居的要素は添え物に過ぎないと。
 コソットはとんでもない名女優であった。一挙手一投足にアズチェーナの魂が宿っていた。目の前で処刑された無実の母親の復讐に燃える娘であり、過って実の息子を殺めた母であり、誘拐した仇の息子を愛してしまう母であり、その息子の死と共に復讐を成就させた女であり。こんなに難しい役どころを驚くほどのリアリティと生命力をもって舞台上に描き出す。一度聴いたら忘れられない大砲のようにとどろくメゾソプラノは、ブラウン管を通してさえ脳天直撃であった。

 初めて聴いたのが『トロヴァトーレ』であったことも今思えば幸いした。
 トロヴァトーレほどオペラの歌の醍醐味が凝縮されて輝いている作品は滅多にない。ソプラノ、メゾソプラノ、テノール、バリトンというオペラの代表的な四声が同じくらいの出番を持ち、代わる代わる見事なアリア(見せ場)を披露してくれる。四声が、ソプラノ×テノール、メゾ×バリトン、メゾ×テノール、ソプラノ×バリトン・・・というふうに様々に組み合わせられて、声質の違いによる二重唱の面白さをバランス良く味わえる。しかも第二幕の幕開けのジプシー達のコーラスに象徴されるように合唱もまた素晴らしい。第三幕のテノールの有名なアリア「見よ、燃える炎を」では、クライマックスの高い「ド」(ハイC)が決まるかどうかという手に汗握る興奮が待っている。こんなに面白い、聴きどころ満載のオペラは他にない、と今でも思っている。
 最初に聴いたのが『トロヴァトーレ』でなかったなら、しかもコソットでなかったなら、そのあとオペラにはまることもなかったかもしれない。


 そういうわけで、アズチェーナやアムネリスを聴くたびにコソットの歌唱と引き比べてしまうのである。

 今回のアムネリスは、オルガ・ボロディナという名のロシア出身の歌手。METでは常連のベテランらしい。
 これが素晴らしかった。コッソトほどインパクトのある声ではなくアクも強くないが、歌も演技も一級品。尊大で嫉妬深いが根は純真なエジプト王女アムネリスの複雑な心の内を、歌っていることを忘れるほどの迫真の演技で描き出し、演じていることを忘れるほど見事な歌唱で聴き手に伝えることに成功していた。
 このアムネリスに比べれば、二枚目にして大スターのロベルト・アラーニャのラダメスも、これがメト初出演だという新星リュドミラ・モナスティルスカのアイーダも、ところどころ見事な歌唱を見せてはいたものの、全幕を通して判断した時に一貫性のある人物造型ができているとは言い難く、見劣りがした。(とは言え、一流の歌唱であることは疑いを得ない。)

 ファビオ・ルイージの指揮は歯切れが良く、ダレがない。METのオーケストラはコンピュータのように正確でクリアで流麗である。 

 もう一つ。
カラスCDジャケット 『アイーダ』と言えば、1951年メキシコ公演のマリア・カラスである。
 スカラ座にデビューして間もないまだ20代のカラスが、マリオ・デル・モナコのラダメスを相手にアイーダを歌っているライブ録音が幸運にも残っている。
 このときカラスは第二幕「凱旋の場」のクライマックスの大合唱の最後に離れ業をやってのけた。登場人物全員による大合唱と管弦楽のフォルティシモの分厚い壁を楽々と突き破り、3点変ホ音(ソプラノでも出ない人が多い超絶高音)を朗々と響かせたのである。会場の大興奮ぶりが録音(CD)からも伝わってくる。何度聴いてもゾクゾクする。
 この音はヴェルディの書いた楽譜にはない。カラスはメキシコの観客へのサービスとしてやったのである。むろん、「スカラにカラスあり」と記銘させたかったのであろう。 
 以来、『アイーダ』を聴いていてこのシーンが近づくに連れて、「このソプラノはやってくれまいか」と期待してしまうのである。

 若い日のカラスほどの圧倒的な声量、力強い高音、胆力、負けん気、プリマドンナ魂を持ったソプラノがいつの日か現れないかと期待する。それがオペラという麻薬に溺れてしまった人間の描く夢想なのである。  
 

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