1988年にっかつ。
マルキ・ド・サドの著名な作品の映画化ではあるが、物語をそのままに舞台をフランスから日本に移したというのではない。サド侯爵を気取る不知火(しらぬい)侯爵が主宰する、団員すべてが犯罪者という白縫劇団の演目として『悪徳の栄え』の稽古風景が繰り広げられる。つまり、劇中劇である。
一方で、不知火侯爵と仲間の貴顕達が日夜溺れる悪徳と退廃の数々が、独特の映像美と陰鬱なライティングによって観る者に供される。
舞台と日常。虚構と現実。二つの世界は対比されているのではなく、分かちがたく絡まりあっている。虚構(『悪徳の栄え』の舞台)が現実(不知火侯爵の日常)に影響を及ぼし、現実が虚構にオーバーラップする。
交錯する現実と虚構。グロテスクな映像美。
まさに実相寺ワールドが展開されている。
時代は二二六事件の頃だから1936年。軍国主義が席巻し、国際連盟脱退(33年)→盧溝橋事件(37年)→日中戦争→太平洋戦争と、日本が雪崩式に戦争と大いなる破滅へと進んでいった中途である。
この背景もまたサドが『悪徳の栄え』を書いた背景と重ねてみるべきだろう。
フランス革命前夜。
一つの文化が崩壊し、価値観が転換し、世の中が大きく変わるとき。そのための完膚なきまでの破壊と残虐が目の前に迫っているとき。
そんな時代を予感してか、サド侯爵は出現したのであった。
サド侯爵が目したものは、まさに道徳や法や宗教や伝統や習俗や階級を超越する‘何か’であり、それが現れるまではひたすらに目の前の共同幻想を破壊しつづけなければならなかった。そのためのエンジンとして使われたのが「悪徳」であり、ガソリンとなったのが「情欲」であった。
情欲の前には人は、文字通り、すべてをとっぱらって「裸」になるほかないからである。
サド侯爵はともかく、この映画、大がかりな設定と凝った演出のわりには、つまらなかった。
テーマが今ひとつさばき切れていないためだろう。見終わった後に残るのは、斬新な映像美とアブノーマルな登場人物達とアブノーマルな行為だけである。それだけで何かを訴えるには、平成24年の日本人はもはやイカない。
たとえば、不知火侯爵が自分の若い妻を劇団の若い男にレイプさせ、その一部始終を覗き見るというシーンがある。1988年では何らかの衝撃なり劣情なり反感なりを観る者にもたらしたかもしれないけれど、現在ではどうだろう?
「別に・・・・」
という感じではないだろうか。
貴顕に限らず、今では一般市民がネットを通じてそこらじゅうで同じことをやっているのを、みんな知っている。
結局、悪徳もまた古くなるし、退屈なものに変じてしまうのだ。
いいえ、民衆は道徳に倦きて、貴族の専用だった悪徳を、わがものにしたくなったんですわ。(三島由紀夫『サド侯爵夫人』)
実相寺にしろ、寺山修司にしろ、三島由紀夫のいくつかの戯曲にしろ、前衛的なものほど古くなるのが早い。そんな逆説を感じさせる映画である。
これに比べると、公開当時から古くさかった小津映画は、永遠に古くならないから不思議である。
評価:C-
A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。
「東京物語」「2001年宇宙の旅」
A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
「スティング」「フライング・ハイ」
「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
ヒッチコックの作品たち
B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」
B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」
「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
「ボーイズ・ドント・クライ」
チャップリンの作品たち
C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
「アナコンダ」
C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」
D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」
D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!