ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

マーラー

● 失恋フーガ、あるいは少子化問題処方箋 :オーケストラ・エレティール第56回定期演奏会

日時 2017年9月16日(土)18:00~
会場 武蔵野市民文化会館大ホール
曲目
 J.S.バッハ(シェ-ンベルク編曲)/前奏曲とフーガ 変ホ長調 BWV552「聖アン」
 マーラー/交響曲第5番 嬰ハ短調
指揮 長田 雅人

 エレティールを聴くのは2回目。今回は大編成を要する2曲である。

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 1曲目はバッハ(=見事な対位法)とシェーンベルク(=見事なオーケストレイション)のイイトコ取り。とくに後半のフーガ部分が、連発花火のように多彩で華やかで自由自在で素晴らしかった。バッハの曲はゴチック教会の荘厳さと陰鬱さを思わせるけれど、シェーンベルクの魔術的なアレンジメントによって「極彩色のステンドガラスを通して聖堂に煌びやかな陽光が差し込んできた」といった印象。 
 傑作である。

花火



 配布されたプログラムを読んで知ったのだが、シェーンベルクは26歳(1901年) のとき先輩作曲家であるチェムリンスキーの妹と結婚している。が、8年後に妻は画家と駆け落ちする。つまりコキュにされたのである。妻は戻ってきたが画家は自殺したそうな。
 別記事で書いたが、シェーンベルクが1899年に作曲した『浄夜』はまさに愛する女の不貞を描いた作品である。別の男の子供を宿してしまった女を寛大にも許し受け入れる男の話。なんとシェーンベルクは予言者よろしく、自ら作曲した物語をそのまま生きる羽目になったのである。
 そのうえ、このエピソードには対位法のような第二旋律がある。シェーンベルクの義兄となったチェムリンスキーは社交界随一の美女を愛したが、尊敬する先輩音楽家であるマーラーに分捕られてしまう。アルマ・シントラーのことだ。
 人の心に錠はかけられない、恋愛は自由とは言うものの、芸術家の人生はかくも物狂おしく忙しい。
 

アルマ
魔性の女 アルマ・シントラー

 2曲目は大好きなマーラー5番。
 クラシックの名曲中の名曲であり、星の数ほどある交響曲のうちトップ10に入る人気曲であるのは間違いないけれど、ソルティはこの曲をはじめて聴いてから数十年来、微妙な違和感というか‘引っかかり’を持っていた。「名曲なのは確かだけれど、聴くたびに感動するのも間違いないけれど、一体この曲のテーマは何なのだろう?」という思いである。
 むろん、音楽に(交響曲に)テーマを求めるのは文学かぶれ&精神分析かぶれした現代人の悪い癖なのかもしれない。交響曲に優れた小説や戯曲に見るような構成やストーリー展開の妙を読み取ろうとするのは、推理小説やハリウッド映画を愛するソルティの生理的嗜好に過ぎないのかもしれない。純粋音楽という言葉があるように、音楽はテーマや物語性とはまったく別の領野で、音楽それ自体の輝きによって人を感動させ得るものである。マーラー5番もその証左であって、各楽章の個性やメロディの美しさ、楽器の音色やオーケストレーションの豊かさ、曲調や演奏から受け取る‘気’を味わえば十分であって、そこに何も解釈すべき物語をわざわざ想定しなくてもよいのかもしれない。
「テーマなんて関係ない。そのままで十分に美しい!」

 しかしたとえば、ベートーヴェン《第九》に較べると、あるいは同じマーラーの1番《巨人》や2番《復活》や3番に較べると、5番は統一感がないというかアンバランスな印象を受けるのである。《第九》には「暗から明へ」という流れがあった。第1楽章から第3楽章までの様々な地上的な心境を経験した魂が、最終楽章においてついに「ユリイカ! それは父(神)に帰依する喜びだ!」と高らかに宣言するという劇的ストーリーが読み取れる。マーラー1番は別記事で書いたように「愛と青春の旅立ち」とでも言いたいようなテーマ性を発見(発明)できる。2番はまんま「復活」、3番は「自然」がテーマである。どちらかと言えばマーラーは文学性が濃い作曲家だと思うのである。してみると、5番にも何らかのテーマが托されているのではないか。そう勘ぐってしまうのも無理からぬ話ではないか。
 しかるに、この5番と来たら、楽章ごとにあまりに雰囲気(曲想)が異なっていて、楽章間の有機的つながりがいっこうに見えてこないのである。(音的なつながりは見出せる。有名な第4楽章のメロディが他の楽章中でバリエーションを奏でている)

 第1楽章の‘運命的’はじまりと葬送曲は、マーラーの十八番たる「暗・鬱・孤独・不安・宿命」であろう。
 第2楽章の落ち着きのなさと幾度も繰り返される絶頂と虚脱の意味するものは?
 第3楽章こそ謎である。「暗→明」「鬱→躁」「孤独→愛」「不安→安心」「宿命→恩寵」への転換が聴き取れるのだが、そのきっかけとなるものは何なのか? そして、散漫・冗長と思えるほど長大で独りよがりな構成の意味するものは?
 唐突に彼岸に運ばれる第4楽章。圧倒的に甘美だが、他の楽章から浮きすぎている気がしないでもない。油絵の中に一つだけ水彩画が飾られているような印象だ。
 そして、もっとも謎に包まれた第5楽章。軽快で躁的な曲調はどうやら「暗」から「明」に達したということらしいけれど、あまりに無邪気すぎる。やんちゃすぎる。これをベートーヴェン《第九》最終楽章同様の「喜び」と解してもいいものだろうか? マーラーは「答え」を見つけたと言ってもいいのだろうか? なんだか浅すぎる。(ベートーヴェンが深すぎるだけか)
 
 いま一つの謎は、曲全体に漂う官能性、エロティシズムである。
 第4楽章はまぎれもなく人間の作ったあらゆる音楽の中で、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』と並び最も官能的なものの一つであろう。「タナトス(死)に向かうエロティシズム」といったバタイユ的匂いがある。だからこそ、ヴィスコンティは『ベニスに死す』でこの曲をBGMに選んだのだろうし、モーリス・ベジャールはバレエに仕立てたのであろう。
 この第4楽章の印象があまりに強いので他の楽章にもエロティシズムを付与して聴いているきらいがあるのかもしれない。が、ソルティは5番を聴いているといつも、とくに第3楽章あたりから‘音楽とSEXしているような気分’になるのである。結果、客席で恍惚感に身をゆだねている。


マンジュシャゲ


 今回の長田雅人&エレティールの5番は、ソルティがこれまで(CD含め)聴いた中でもっともテンポがゆったりしていた。最初から最後まで非常に抑制を効かせていた。長田がそのように振った理由は分からないけれど、それによって楽章ごとのキャラクターが明確になり、ソルティが感じる‘引っかかり’と恍惚感を客観的に分析し意味づけするだけの余裕があった。
 結果、ついにこの曲の自分的に納得いく解釈を見出したのである!
 やってみよう。

 第1楽章は、愛を知らない孤独な男の魂である。自我と性欲の重みにつぶされんばかりになっている。あるいは、マスターベーションにおける妄想のSEXである。
 第2楽章の落ち着きなさは、ハンティングに乗り出した男の渇望と高揚と挫折を描いている。いろいろな女と出会い、恋のゲームを楽しみ、口説きに成功してSEXに至る。が、性欲は満足しても心の満足は得られない。頂点に達した後に襲ってくる虚しさと孤独。偽りの愛。
 この曲は最初に第3楽章が作られたそうだが、この楽章こそクライマックスであり、全曲の主要テーマの開陳である。本当の愛との出会い、つまりマーラーにとって運命の相手であるアルマとの出会い、そしてより具体的にはアルマとの‘愛の一夜’があますところなく描かれているのがこの楽章である。(言い切った!)
 これまで並べた黒い碁石がすべて白にひっくり返る。暗から明へ、鬱から躁へ、孤独から愛へ、不安から安心へ、宿命から恩寵へ、陰から陽へ、剛から柔へ、男から女へ。あるいは、それら対極同士が交合し、スパークしながら溶け合って、アンドロギュノス的な一体の魂となる。愛の成就。それが恋人同士の愛の一夜であるならば、冗長だろうが散漫だろうが、他人にはまったく関係ない。
 第4楽章が彼岸的であるのはもはや当然である。熱く激しく愛し合ったあとに訪れる深く天上的な眠り。この世ならぬ美の世界。タントラよろしく、性愛によって人が到達しうる最高の境地を、夢か現か分からぬままに揺曳する。
 ここまで来てやっと、第5楽章の始まりが朝の風景の描写であることに納得がいく。後朝(きぬぎぬ)の章である。大気が目覚め、鳥がそこかしこで鳴き、木や草が露を光らせ、爽やかな風が湖面を吹き渡り、朝日が万物に降り注ぐ。恍惚たる愛の一夜のあとに訪れる‘生’の爆発的喜びと感謝。自然への讃歌と一体感。今や目に映るすべてが輝いて見える!

 結論を言えば、この曲は性愛がテーマ、それも「男の性」を表現している。

 マーラーにとって、アルマという存在が人生において、また表現者としてのアイデンティティにおいて、すこぶる重要な要素であったのは間違いなかろう。5番の第4楽章はまさにアルマに捧げられたものであるし、6番第1楽章第2主題はアルマを表現したものであったし、8番に至っては作品そのものがアルマに献呈されている。アルマと出会った年に作られた5番以降、アルマこそが作曲家マーラーの中心的モチベーションだったのではなかろうか。そして5番は、二人の関係がもっとも密で、もっとも安定し、もっとも幸福だった時の記念碑的作品と言えるのではないだろうか。


花の章


 5番で「究極の愛を得た」と凱歌を上げたマーラーは、その「喜び」を維持できたのか?
 そうは問屋がおろさない、ってことは恋愛経験ある誰もが知っている。
 続く6番において振り下ろされるハンマーの破壊的響きの正体は、男の恋愛幻想の破綻、女性幻想の崩壊を意味していると解釈するのはどうだろう? つまり――たぶんこれまで誰も書いたことがないと思うが――マーラーは、結婚してさほど日が経っていない時期に、妻アルマの不貞の事実を知ってしまったのではなかろうか。
 アルマがマーラーを裏切って建築家ヴァルター・グロピウスに走ったエピソードは良く知られている。それは第8交響曲を初演した1910年のことで、苦痛の極みにいたであろうマーラーはそれでもアルマを許し、グロビウスか自分かを選ぶ自由を彼女に与えた。理由は知るところでないがアルマは結局マーラーのもとを去らなかった。
 マーラーと出会う前のアルマの恋愛事情、マーラーが亡くなったあとのアルマの恋愛遍歴を鑑みるに、アルマという女性は生来ニンフォマニアなところがあったのではないかと思うのである。大変な美女で会話も巧みで、ほっといても男は寄ってくる。彼女もちやほやされることは嫌いではなかった(大好きだった)。こういう女性がたとえ結婚して間もないからといって、子どもを生んだばかりだからといって、夫一人で満足できるとは思えないのである。マーラーは天才で成功者で押しが強くて魅力的な男だったのは間違いなかろうが、肉体的魅力という点では決して他の男より抜きん出てはいなかった。指揮者としての仕事、作曲家としての仕事で多忙を極めていたから、アルマがほうっておかれた可能性は高い。(二人の年齢差は19歳)
 アルマの不貞を知りそれでも突き放せないほどアルマを愛していた(必要としていた)マーラーにとって、以降、アルマの存在は単なる‘生活上のパートナー’‘肉体を持った一人の女’を越えた神話的存在に昇華していったのではないか。それが交響曲第8番第2部『ファウスト』の最終シーンの名ゼリフ「永遠にして女性的なるもの、我らを引きて昇らしむ」につながる。

 こんな不埒で意地悪な想像をするソルティを女性不信と思うかもしれない。が、ソルティは女性のそういった面をも含めて「天晴れ!」と思うほうである。少子化問題の最良の処方箋は、女性がもっと自由に恋愛して、自由にSEXして、父親不明の子どもをバンバン生んで、なおかつ周囲や福祉の助けを得ながら母親一人でも育てられるような社会を作ることだと、なかば本気で思っている。(このさき日本人の既婚率は下がることはあっても上がることはないと思う)

ひよこ
 

 話がそれた。
 シェーンベルク、チェムリンスキー、マーラー。
 大作曲家だろうと、凡人だろうと、男というものは不甲斐なくもつまらない。
 ほんとはそれが言いたかったのである。







● 「運命」の対義語 : フィルハーモニア・ブルレスケ第14回定期演奏会

日時 2017年7月15日(土)19:00~
会場 杉並公会堂大ホール
曲目
  • マーラー:交響曲第10番より「アダージョ」
  • チャイコフスキー:交響曲第5番
指揮 東 貴樹

 入場時にもらったプログラムや他の催し物の案内チラシを客席で読みながら開演を待つひとときは、クラシックコンサートに限らず、ライブにおける至福の瞬間と言っていいだろう。
 最寄りの喫茶店で軽く腹ごしらえをすませ、開演20分前に会場入りし、すいている1階席前方に陣取り、おもむろに本日のプログラムを開いて、思わず唸った。
 チャイコフスキー5番の曲目解説の冒頭文に、である。

 先日、高校生から突飛な質問を受けた。いわく、「『運命』の対義語ってなんですか」。この世の全てが既に決定されている必然だったのならば・・・私たちは運命に抗えず、運命の対義語は生まれ得ないのではないか、と言うのである。

 ブルレスケのトロンボーン奏者である木戸啓隆という人がしたためたこの一文にソルティが唸ったのは、上記の文章がまさに先日書いたばかりの記事『1/fの希望」に重なるからである。
 これはシンクロニシティなのか。運命の必然なのか。あるいはソルティの無意識の策略なのか。
 なんだか‘何者か’によって操作されているような気分になったことは確かである。
 それにしても、なんとも凄い高校生がいたものだ。
 太宰治予備軍か?

ブルレスケ


 木戸がそのように文章をはじめたのは、チャイコフスキー交響曲第5番が、ベートーヴェン交響曲第5番同様に、まさに「運命」をテーマにしているからである。人間が不条理なる運命にどう翻弄され、傷つき、苦悩するか。どう希望を持ち、抗い、連帯し、克服しようと努めるか。どう挫折し、落胆し、絶望し、すべてを「無」に帰す死へと押し流されていくか。そこに救いはないのか。これがテーマなのである。
 であるから、5番を聴くとチャイコフスキーの運命観がどのようなものかを垣間見ることができる。理不尽で残酷な運命とどう向き合おうとしたか、5番を作曲した時点でどんなふうに受けとめていたか、を伺うことができる。聴く者はチャイコフスキーの苦悩多き人生に思いを馳せる。何と言っても、26歳から52歳までの26年間に12回の鬱病期を経験し、53歳でスキャンダルにまみれた不慮の死を遂げた人である。

 少し長くなるが、木戸の文章を引用させてもらおう。

 最終楽章については思うところがある。「運命のテーマ」が輝かしい長調となって鳴り響く冒頭。そのテーマは終盤で凱歌として復活する。私たちは、運命に対する人間の勝利をそこに聴く。しかし、響きこそ長調になってはいても、その姿は不条理を示す「運命のテーマ」なのだ。さらに、作品は3連音が叩きつけられて終わる。(作曲者が死を歌った交響曲6番の3楽章でも、同じ終結が用いられている)。またチャイコフスキーが遺したスケッチには、「運命の前での完全な服従」、「いや、希望はない」といった言葉が並んでいる。これはいったいどういうことなのか。勝利を歌うフィナーレにて、私たちがおぼえる確かな高揚は、もしやミスリードなのだろうか?そもそも冒頭の質問通り、人間が運命に打ち克つことなど可能なのか?

 5番に続けて作られた6番『悲愴』とその数日後に訪れた死を思うとき、ソルティはチャイコフスキーが「運命に打ち克った、苦悩から脱する道を発見した」とはとても思えないのである。もちろん、死の直前に彼がどういう心境にあったかは知るところではないが。

 本日のもう一つの曲目である『マーラー交響曲10番』もまた、えらくネガティブなテーマを持っている。
 マーラーの死により第1楽章のみで未完に終わってしまったこの交響曲の構想は、ダンテ『神曲』ばりの「地獄」なのである。第3楽章「煉獄」の五線紙には「慈悲を!おお、主よ!何ゆえにわれを見捨てたまいしか?」と、第4楽章には「悪魔はわたしと一緒に踊る・・・狂気がわたしを捕らえ、呪った・・・わたしであることを忘れさせるように、わたしを破滅させる」と作曲者自身の手によって書き込まれている。
 数々の傑作を生み出し、成功と栄誉と財産と世にも稀なる美女アルマを手に入れたマーラーでさえ、晩年には『第九』のような喜びの調べを奏でることができなかったのである。(本日のプログラムはその意味で強烈に‘後ろ向き’というか重苦しいライナップである。そこにソルティは惹きつけられたのか?)

 古典派のベートーヴェンと、ロマン派のチャイコフスキーやマーラーを分け隔てるものは何か。それぞれの作曲家の個性をとりあえず脇に置けば、「神への信仰」ってことになるのではなかろうか。
 次の年表を見てほしい。
 1824年 ベートーヴェン交響曲第9番初演
 1859年 ダーウィン『種の起源』発表(進化論)
 1885年 ニーチェ『ツァラトゥストラ、かく語りき』発表(神は死んだ)
 1888年 チャイコフスキー交響曲第5番初演
 1889年 マーラー交響曲第1番初演
 19世紀後半はヨーロッパが「神」の存在に疑義を呈し、キリスト教信仰が揺らぎ、神の支配から脱し「自己」の確立へと向かい始めた時代だったのである。同性愛者であったチャイコフスキーなぞは、そうでなくとも「神」を信じることが難しかったであろう。
 「不条理な運命」も神意や天命と取れば人はどうにか受け入れ生きていけよう。だが、そこに神がいないのならば単なる「苦しみ」である。もはや神への‘明け渡し’は叶わずに、苦しむ「自己」ばかりが肥大する。近代人の苦悩である。
 
 さて、木戸はこう続ける。
 
 最初の話に戻らせてもらおう。私は「運命」の対義語は、「意思」だと考えている。確かに不条理な世界の中で、私たちは時に絶望する。しかし人間が内に秘めた「運命を乗り越えようとする意思」だけは、運命そのものに支配されないはずだ。
 
 確かに、ベートーヴェンもチャイコフスキーもマーラーも不条理なる運命を乗り越えようとする大いなる意思のもとに、後世に残る素晴らしい芸術作品を創造し得たのであろう。いや、人間のあらゆる営為は、さらに言えば人類の歴史そのものが、運命に対する抵抗の記録なのかもしれない。
 だが、くだんの高校生がもし前野隆司の「受動意識仮説」を知っていたら、こう言い返すかもしれない。
 
「意思もまた運命の一部ではないでしょうか?」
  
 前野説にしたがえば、意思は実体のない幻覚であり、無意識という名の‘運命’に組み込まれた、気晴らしのごときオプションに過ぎない。「自己=私」は幻覚である。
 
 ソルティなら高校生にこう答えるだろう。

「運命の対義語、それは‘悟り’じゃないかな」

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 ブルレスケの演奏は、気迫と情熱のこもった若さ漲るものであった。特にチャイコの5番はその真摯なまでのひたむきさに胸が熱くなった。テクニックは抜きん出ているわけではないが、奏者の思いが伝わる演奏で好感が持てる。
 
 チャイコフスキーは‘個人的には’自分は運命に屈したという思いを抱いていたかもしれない。でも、こうやって死後100年以上過ぎても作った曲が世界中で愛され、演奏され、人びとにパワーと感動を与え続けている。それを思うとき、‘人類史的には’「不幸な人生」とはほど遠いところにいるではないか、運命は彼を偉大な人間に仕立て上げたではないか、と思うのである。

 もしかしたら、運命の同義語も‘悟り’なのかもしれない。












 




 

● カッコいい奴! マーラー:交響曲第2番「復活」(学習院輔仁会音楽部)

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日時 2016年12月27日(火)18:30~
場所 東京芸術劇場コンサートホール(池袋)
指揮 山下一史 
演奏 学習院輔仁会音楽部
ソリスト 
髙橋絵理(ソプラノ)
中島郁子(メゾソプラノ) 
曲目  
  • J.ブラームス/「運命の歌」op.54 
  • G.マーラー/交響曲第2番ハ短調「復活」

 マーラー(1860‐1911)「復活」の自筆譜が11月29日、ロンドンのサザビーズのオークションにかけられ、楽譜としては史上最高値の455万ポンド(約6億3500万円)で落札されたというニュースが流れた。
 落札者の名前は公表されていないが、元の所有者はアメリカの実業家ギルバート・キャプランである。
 このキャプランの人生ほど「カッコいい!」ものはなかなかないと思う。
 
 キャプランは24歳のとき(1965年)、高名な指揮者レオポルド・ストコフスキーの「復活」リハーサルを見学して衝撃を受けた。その後、27歳で経済誌の創刊者として成功し財を築く。30歳過ぎてから大好きな「復活」を指揮するためにだけ、サー・ゲオルグ・ショルティについて一から指揮法を学び始める。むろん、それまでに音楽教育を受けたことはない。情熱と努力と現在ならオタクと言うにふさわしい‘復活’愛の甲斐あって、40代なかば、ついに指揮者としてデビューする。その後は世界中の著名なオーケストラと100回以上「復活」だけを演奏、録音も残している。
 
「復活」以外にはレパートリーも皆無であり、「復活」の指揮以外の音楽的キャリアもこれといって無い。しかし、「復活」に関しては世界的にも第一人者と目されている。中年以降に音楽以外の分野から転じて成功した指揮者、ただ一曲だけを振り続けた指揮者という、世界でもまず他に例のない珍しい特性を二つも兼ね備えた稀な存在である。1988年発売したロンドン交響楽団との演奏は、マーラー作品のCDとしては史上最高の売り上げを記録した。(ウィキペディア「ギルバート・キャプラン」より抜粋)

 ぬあんてカッコいい奴なんだ!
 まるで「復活」のために生まれてきたみたいな男だ。(キャプランは今年の元旦に亡くなっている)
 映画にしたら絶対に面白いと思う。(むろん、タイトルは「復活の人」、BGMは「復活」を中心とするマーラーメロディに決まっている)
 キャプランの創刊した経済誌はおそらく早晩消えゆくだろう。が、キャプランの録音した「復活」のレコード、および自費購入したマーラーの自筆譜をもとに自ら研究を重ねて校訂した、もっとも作曲家の意図に忠実な楽譜「キャプラン版」は、今後も世界のどこかで「復活」が上演される限り、残り続けるのは間違いない。
 
 さて、学習院輔仁会(ほじんかい)とはなんぞや?
 やんごとなき皇室の名前から拝借?

学生の間には運動関係団体のほか多くの小団体があった。そのため第4代三浦梧樓院長は学生全体を包括する組織の設立を勧め、その結果全学生の中心機関として学習院輔仁会が創設された。輔仁会の活動は明治22(1889)年より始まり、会全体の行事として輔仁会大会や陸上運動会があった。会の名は『論語』(顔淵篇)の「君子以文会友、以友輔仁」(君子は文をもって友を会し、友をもって仁をたすく)より選んだものである。(学習院ホームページより) 
 
 「君子は詩書礼楽の文をもって友達を集め、集めた友達によって仁の成長を助ける」
 
 学生による「復活」がどんなものか興味津々。
 というかソルティは‘ナマ復活’初めてであった。
 一曲目のブラームス「運命の歌」もはじめてだが、なによりも合唱の声の若さに感動した。
 世にこれより上手い合唱団はあまたあるだろうが、声の若さ・張り・純粋さという点で一頭地を抜いている。というのも、結局ドイツ語の、それもキリスト教がらみの歌詞なんて大多数の日本人は(ソルティ含む)深く理解できないのだから、表現力や発音の正確さよりも声の美しさやハーモニーのほうが大切なんである。(そもそもマーラーが歌曲集は別として、交響曲に付す歌詞にそれほど重点をおいていたようにはどうも思えないんだが・・・)
 
 休憩を挟んでいよいよ「復活」。
 まずは芸劇の広い舞台をびっしり埋め尽くすオケ&合唱団に圧倒される。
 オケだけで130人はいる。そこに100人は超える合唱隊が入る。舞台が抜けそうだ。
 こんな大編成を必要とする曲を作ったマーラーも凄いが、プロ指揮者やプロ歌手を含めて大編成をまかなってしまう輔仁会も凄い。さすが皇族御用達。
 そしてまた、ソプラノとメゾソプラノの声の美しいこと。とくに、メゾソプラノの中島郁子(二期会会員)の声と姿の存在感は半端ではない。舞台の中心にいて堂々たる歌唱をとどろかすさまは、五百羅漢の中心に千手観音がいるかのような神々しさであった。
 
 演奏は学生としては「ここまでできれば十分」といえるレベルで、立派であった。
 こんなに長くて(80分)、こんなに重くて、こんなに複雑で、こんなに壮大な曲をよくもまあここまで頑張ったと思う。それがなんとワンコイン(予約500円)なのだから、「ありがとう」と言うほかない。
 
 この「復活」、神(=偉大なる者)への讃歌しかも合唱付きという点で、ベートーヴェン「第九」の後釜として日本人の年末の恒例行事になり得るのではないか、といったことをどこかの音楽評論家だか指揮者だかが書いていた。各楽章のユニークな個性とか、最終楽章の感動的な盛り上がりとか、終演後に約束される絶対的幸福感とか、まさに「第九」に匹敵する祝典曲と言えよう。
 しかし、惜しむらくは長い。
 80分以上ある。
 特に、第1楽章(20分以上)と第5楽章(30分以上)が長すぎて、下手すると飽きてしまうか寝入ってしまいかねない。ここのところを各々10分ずつ削って、全体を60分以内に収めたら、十分「第九」に太刀打ちできると思うのだが・・・。いや、5分ずつでもいい。あるいは、1楽章と2楽章を削って、3楽章から演奏すれば60分以内で結構な満足が得られよう。(ああ、そうか。プログラムをこれ一曲にしぼって、2楽章と3楽章の間に20分の休憩を入れればいいのだ。後半が始まるときに合唱団が舞台に上がれるから丁度いい)
 今回、ソルティはこれを聴くために有給休暇を取った。仕事(介護)を終えたあとに参加することもできたのだが、たぶんそれだと肉体的・精神的に疲れきっているから、途中で寝てしまうのは確実と考えた。結果的に正解で、80分間、寝ることも飽きることもなく音楽に向き合えた。
 マーラーの交響曲を消化するにはそれなりの準備が要る。
 だが、準備さえできていれば、日常では味わえないような格別な感動と幸福が待っている。
 
 さて、今年は22個のアマオケコンサートに出かけ、たくさんの曲と出会った。
 クラシック音楽の広さと奥深さを垣間見て、これから先、カバーできないほどの名曲や名演奏との出会いが待っていると思うとワクワクする。
 年の終わりに、マーラーの人生、キャプランの人生に思いを馳せながら、最近できた年下の友人と「復活」を聴けたことは実に幸せであった。まさに「仁を輔く」だ。
 
 少なくともソルティは、「復活」を年末行事に組み込むことになりそうだ。



 
 
 
 

● 「破壊せよ」とマーラーは言った :ザッツ管弦楽団第15回定期演奏会

日時 2016年10月9日(日)14:00~
会場 すみだトリフォニーホール大ホール(東京都墨田区)
曲目
  • ブルッフ/ヴァイオリン協奏曲第1番 ト短調(ヴァイオリン:佐藤 舞)
  • マーラー/交響曲第6番「悲劇的」イ短調
アンコール
  • 服部隆之/NHK大河ドラマ『真田丸』のメインテーマ
  • ジョン・ウィリアムズ/『スター・ウォーズ』のテーマ
指揮 田部井 剛

 すみだトリフォニーホールは、JR総武線「錦糸町」駅から、スカイツリーを右手に見ながら歩いて10分ほどのところにある。音響効果にすぐれた、とても良いホールである。外観は普通のオフィスビルのようでそっけないが、内装はシックでお洒落で好感が持てる。ちょっとした飾りのデザインが目を引いた。

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ザッツ管弦楽団は2002年に発足。メンバーは、駒場高校オーケストラ部卒業生・成蹊大学・学習院大学・青山学院大学・法政大学・立教大学などの各大学学生、卒業生によって構成されており、平均年齢は20代後半。「熱く!楽しく!」をモットーに、年に1度(10月)の演奏会を行っている。(公式ホームページ参照)

 「熱く!楽しく!」は当たっている。
 今回初めて聴いたが、何よりも「音楽を楽しもう!観客を楽しませよう!」という心意気&サービス精神が感じられた。指揮者・田部井剛は過去15回のザッツのコンサートのうち13回を振っている。常任指揮者のような存在であろう。彼もまたザッツのモットーを体現している。あるいは彼の音楽や演奏会に対する考え方および性格が、オケのスピリットに反映しているのかもしれない。
 分かりやすいところでは、本番が始まる前に楽団員の数名が舞台に登場してプレコンサートをしてくれる。せわしない日常から離れて会場入りした聴衆たちは、徐々に音楽を聴く体勢に入っていく。
 そして、アンコールの選曲。
 マーラー6番の直後にこの2曲を持ってくるのはなかなか勇気のいることだろう。が、プロなら臆することもアマチュアなればこそできる。「観客を楽しませる」ことを優先するのなら、これは大正解。しかも、『スター・ウォーズ』のテーマでは、指揮の田部井が黒マントを羽織りダースベイダーのマスクをかぶって登場するわ、会場の照明を完全に落として舞台上の楽団員が掲げるペンライトで宇宙空間を表現するわ、と演出が憎い。
 1800席ほどの客席は8割方埋まっていた。おそらくリピーターが多いのだろう。特定ファンがついているのだろう。ソルティもまた聴きに来たいと素直に思った。
 そしてまた、このオケのチラシのデザインが毎回とても素晴らしい。アールヌーボーとゴシック風の折衷みたいな感じ。誰の作品だろう?

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 サービス精神だけでなく演奏も素晴らしかった。技術的にかなりのレベルで、マーラーの難解な曲をやるのに十分及第点に達している。音に熱がこもっている。切れ味の鋭さと迫力は、ザッツ(Sats)という歯切れのいいオケ名にふさわしい。(どういう意味があるのか or なんの略語なのかは知らないが・・・)
 田部井はプロフィールの写真を見る限りは、若かりし頃の田村正和みたいなクールな二枚目風の印象であるが、指揮台に立つと一変、情熱的で細かい身体表情は‘炎のマエストロ’コバケンを思わせる。今後注目したい人である。
 
 名曲である。ヴァイオリン協奏曲としては、チャイコフスキーやベートーヴェンやメンデルスゾーンやブラームスの有名曲に決して引けを取らないと思う。全体にドラマティックで美しいメロディーがふんだんにあふれている。ヴェルディのオペラの序曲や間奏曲を聴いているような華やかさと荘厳さも感じられた。
 ブルッフの名がほとんど知られていないのはいったいなぜ?
 ・・・と不思議に思ったが、今回配布されたパンフレットによると、マックス・クリスティアン・フリードリヒ・ブルッフ(1838-1920)はドイツのケルン生まれ。民族的な題材を活用した音楽で当時名声を博していたが、
 
彼の死後から15年経った、1935年、ドイツはアドルフ・ヒトラー及び国家社会主義ドイツ労働者党の支配下に置かれ、ユダヤの音楽が禁じられました。
 
 ブルッフの作曲した『コル・ニドライ』という曲がユダヤ教の典礼歌に基づいていたため、彼はユダヤの血を引いているのではないかと疑われてしまう。
 
そして、ナチスの政権下では彼の作品の上演が禁止に。そのため、彼の音楽は以降演奏されることもなく、人々の記憶から急速に忘れ去られていったのです。
 
 音楽も芸術も政治とは無関係でいられないのである。
 でも、こうやって没後100年近く経って極東の国で頻繁に演奏されているのだから、政治より芸術のほうが生命力は強い。
 
 マーラー6番は『悲劇的』というタイトルで知られている。マーラー自身がつけたものではないらしいが、曲自体がまさに「悲劇的」な印象を聴く者に与えるので固有名詞のようになってしまった。
 このイメージの形成に与っている原因の一つは、ほかの多くの交響曲が「暗から明へ」という曲調の展開を持っている――代表的なのはベートーヴェン『第九』――のに比べ、マーラー6番は「明から暗へ」と展開し、最後は「暗」も「暗」たる運命の一撃(フォルティシモ)と気息奄々たるピアニシモのピチカート(弦を弾く)で曲が終焉するからである。
 もう一つは、この曲の第4楽章にはなんとハンマー(槌)が楽器として登場し、苦悩から立ち直ってポジティブ志向で勢いをつけた曲が凱歌を上げようとする瞬間に、舞台上に設置された木の台に「ガン!」と打ち下ろされるのである。
 2度も!
 それは日本の正月の餅つきみたいに活気ある目出度いものではむろんない。村の鍛冶屋が「しばしも休まず」打ち続ける槌(つち)の響きのように賑やかで生産的なものでもない。しいて言えば、中世ヨーロッパの死刑執行人が打ち下ろす首切りの斧に近いイメージである。(ここは一つの見どころ、聴きどころになっている)
 2度のハンマーと最後の運命の一撃によって、希望を打ち砕かれ、完膚なきまで叩きのめされ、再起不能となり、暗い絶望のうちに息絶えていく人間――というイメージが「悲劇的」でなくてなんだろう。

 ソルティは6番をナマで聴いた(見た)ことがなかった。
 今回聴くにあたって、繰り返しバーンスタインのCDを聴いて予習した。
 「ところどころ非常に切なく美しい部分はあるけれど、まさに‘悲劇的’で、夢も希望もない暗澹たる曲だなあ」と思った。
 なぜ、マーラーはこんな曲を作ったんだろう?
 なぜ、こんな不吉な、気持ちが暗くなって、聴いた後しばらくは落ち込みそうな曲が人気あるんだろう?
 チャイコの6番『悲愴』とどっこいどっこいのネガティブエンディング――と思った。
 
 ところが――である。
 聴くと見るとは大違い。
 家で一人でCDで聴いているのと、実際のコンサート会場で100名以上のオケの姿を目の前にしながら聞いているのとでは、まったく違った印象を受けたのである。
 何よりもまず実演では迫力が違う!
 100名の(若い)演奏者が所狭しと舞台に並んでいるのは壮観であり、華がある。その大所帯が生み出す音の奔流、音の嵐、音の壁、音の色彩、音の爆発、音の豊穣たるや、パワフルというほかなく、生命力が漲っている。それは「死」のイメージとはほど遠いものである。
 次に、この曲で使用される楽器の多彩さ。
 マーラーは交響曲に変わった楽器を取り入れることで有名だったのだが、ここでもハンマー以外にも、ムチ、カウベル(牛の首につける鐘)、鐘などが使われ、チェレスタ、木琴、鉄琴、銅鑼なども登場する。聴覚的に賑々しく愉快なのである。
 おかげで打楽器チームの忙しいこと! 舞台を見ていると、面白いように出たり入ったり、前後左右に動いたりしている。
 そして、ハンマー場面が近づいてくるときの期待感。打ち手(今回は女性!だった)がどこからともなく現れ、重そうなハンマーを振り上げ、木の台に向かって打ち下ろすシーンは、演劇的ですらある。
 この曲は、視覚的効果が無視できないほど大きいのだ。自身、高名な指揮者でもあったマーラーが、上演における視覚的効果を考えなかったはずがあるまい。(ハンマーシーンでは誰だって打ち手に視線が行くだろう) そこから受ける印象は‘エネルギッシュ’に尽きる。
 家で聴いていた時とは違い、「悲劇的」「破滅的」という印象は受けなかったのである。
 
 別のコンサート会場でもらった今回のザッツのチラシに、指揮の田部井のメッセージが載っていた。
 
「伝統とは怠惰のことだ」と喝破したマーラーにとって、鉄槌の轟音は希望が無残に打ち砕かれる音なのか、それとも悪しき伝統を断ち切る希望の一閃なのか。
 
 この一文を読んだとき、ソルティはあまり共感できないと思った。
「いくらなんでも、この暗い6番に‘悪しき伝統を断ち切る希望の一閃’を聴くのは行き過ぎ、田部井の牽強付会だろう」と思った。
 しかし、実際の生演奏に接して、この田部井の言葉、解釈に納得がいった。
 6番は、死とか絶望とか破滅とか悲劇とかいったネガティヴな言葉で収めるには、あまりにパワフルで、エネルギッシュで、面白い! 高層ビルをダイナマイトで破壊するのを見るような爽快感すらある。(たとえ、アンコール2曲がなくても自分はすっきり満足したと思う)
 
 この曲は「悲劇的」でも「破滅的」でもない。
 「破壊的」なのだ。
 その点、チャイコの6番『悲愴』とは似て非なるものである。考えてみれば、チャイコが6番の初演のわずか9日後に亡くなった、つまり6番が実質的な遺言になったのにくらべ、マーラーは6番を発表した後も次々と傑作交響曲をものにし、名声を高め、7年余りを充実のうちに生きるのである。6番で破滅しているわけがない。
 
 破壊とは、新しいものを生むために、古いものを打ち壊すことである。
 いったい、マーラーは何を破壊せんとしたのだろう?
 ベートーヴェンに代表される古典的な交響曲か。
   それに連なるロマン派の感傷的な交響曲か。 
 19世紀という時代の遺物か。(6番の完成は1904年である)
 それとも、運命のパートナーたるアルマ・シントラーと出会う前の‘青臭い’自分か。(二人は1902年に結婚し、翌年第一子をもうけている)
 
 その答えは、6番の曲の中に秘められているのだろう。
 (いずれ、ソルティ流解釈をお目にかけたい)


ハンマー








 


 
 
 
 

● 100分間の桃源郷 :マーラー交響曲第3番(都民交響楽団第122回定期演奏会)

都民交響楽団 001


日時 2016年7月31日(日)14時~
会場 東京文化会館大ホール(上野)
指揮 末廣誠
アルトソロ 菅有実子

 マーラー交響曲第3番ニ短調は、「世界で一番長い交響曲」としてギネスブックに載っていたそうである。
 その後もっと長い交響曲が次々と作られた。ルーマニアの作曲家ドミトリー・ククリン(1885-1978)の交響曲第12番は演奏時間なんと6時間に及ぶと言う。実際に全楽章一挙に上演されたことがあるのかどうか不明だが、ここまで来ると「長くするだけなら誰だってできるよ。問題は質だよ」と軽口の一つでも叩きたくなる。
 現在でも世界中で頻繁に上演されていて、質も評価も人気も高く、クラシック愛好家がこぞって聴きに行く交響曲――という条件を課すならば、マーラーの第3番こそ「一番長い交響曲」と言ってさしつかえないだろう。
 全6楽章、合わせて100分ある。
 ベートーヴェンの《第九》が60分強ということを考えれば、100分は異常に長い。映画の100分は結構短く感じるものだが、音楽の100分はいかに?
 退屈しないだろうか。
 眠らないで聴けるだろうか。
 途中でトイレに行きたくならないだろうか。
 満席の会場で閉所恐怖症が勃発しないだろうか。
 ・・・・・・ 
 はじめてライブで聴くにあたり、いろいろ懸念はあった。
 というのも、この曲を最初から最後まで通して聴いたことがなかったからである。
 
 ソルティが持っているCDは、レナード・バーンスタイン指揮、ニューヨーク・フィルハーモニック演奏の1961年録音版である。これは、ソニー・クラシカルが1990年に『バーンスタイン マーラー:交響曲全集』という16枚組みのボックス仕様で発売したもので、10の交響曲のほか、交響曲「大地の歌」、歌曲集「なき子をしのぶ歌」「少年の魔法の角笛」が入っている。当時日本はマーラー人気が凄かった。お酒のCMのBGMに「大地の歌」の一節が使われていたのを覚えている。
 このBOX、当時確か2万円近くしたと思う。大学を出て最初に勤めた会社を退職するときに上司だったHさんから餞別としていただいたのである。むろん、ソルティがマーラー好きを公言していた為である。今思うに、本当に自分みたいな「生意気で協調性のない、たかだか5年ばかし勤めた使えない‘新人類’社員」にこんな高価なものをくれたものだ。よっぽどソルティが目の前からいなくなるのが嬉しかったのだろうか(苦笑)。

都民交響楽団 002
 
 以来、「今日は1番、今日は5番、今日は歌曲かな」とその日の気分に合わせてBOXからディスクを一枚選んでは時折聴いていた。
 やっぱり、映画『ベニスに死す』で有名なアダージョのある5番、若々しく聞きやすい1番「巨人」、霊妙な美しさが快眠を約束する4番、もろ東洋風の「大地の歌」あたりが聴く頻度が高い。一方、2番「復活」、3番、6番「悲劇的」、7番「夜の歌」、9番は個人的にとっつきにくく、最初から最後まで集中力を持って聴くのが困難で、貰った当初に2、3回聴いた後は宝の持ち腐れ状態になっていた。とりわけ、3番は前述のとおり長いので全体像が把握しづらく、聴いている途中で眠ってしまったり、気が散ってしまったりで、その真価が分からなかった。
 端的に言って、まだマーラーを理解できるレベルに達していなかったのだろう。(「好きだ」なんてよく言えたものだ)

 今回の演奏会は事前申し込み制で、抽選により招待券が送られてくる仕組みであった。つまり入場無料である。「これは利用しなくては!」と申し込んだ。
 どうせ聴くなら十分楽しみたい。
 招待券が届いたその日から予習が始まった。
 仕事から帰ると、上記のバーンスタインのCDをBGMのように流す。食事しながら風呂につかりながら寝入りながら耳になじませる。BOX付属の解説書やウィキペディアを利用して各楽章のテーマや構成や聴きどころを学ぶ。休日は、楽章ごとに分けて集中して聴き、主題(第1主題、第2主題)を聴き分け、ホルンやクラリネットなど独奏部分を押さえる。歌唱部分(第4楽章、第5楽章)については和訳を読みながら聴いた。
 《第九》を除けば、一つの曲をこんなにじっくり調べたのははじめてかもしれない。
 
 当日は昼ご飯を抜き、会場近くのカフェで「ごまバナナジュース」で滋養をつけた。
 直前にトイレに行き、最後の一滴までしっかり絞る。
 準備万端、客席に着いた。
 9割以上の客入り。席は4階のほぼ正面最後列であった。
 
 都民交響楽団を聴くのはたぶんはじめて。アマオケの中では新交響楽団と並び称される実力との評判。この招待システムでいつも1000名を超える観客を集めている。入団時だけでなく入団後も4年に1回の更新オーディションを課している。質の高さは自他共に認めるものと言っていいのだろう。
 指揮の末廣誠は1994年から2005年まで都民交響楽団の常任指揮者をつとめ、その後も数多くの共演を重ねている。団員からの信頼の最も厚い指揮者であろう。配布されたプログラムには、末廣自らによる曲目“快”説が4ページにわたり載っていた。これが軽妙洒脱、面白くて親切で‘読ませる’。『マエストロ・ペンのお茶にしませんか?』というエッセイを出しているようだが、ぜひ読んでみたいと思わせる文才である。

 まず初めに、今日演奏する作品は全部で約1時間40分かかります。途中で休憩は挟みませんので、御用をお足しになりたい方は、読んでいる場合ではありません! すぐさまそちらを優先されるようお願いします。(パンフレットより)


 末廣の指揮棒が動いて、休憩なしの100分1本勝負が始まった。
 出だしのホルンの壮麗なこと! 
 8本のホルンが一糸乱れず揃って、1本の巨大なホルンのように高らかに鳴り響いた。よっぽど8人揃って練習したに違いない。この先への期待で背筋がゾクゾクした。
 オケのレベルの高さは評判に違わない。弦楽器、金管楽器、木管楽器、打楽器、ハープ、どれもが自信を持って音を出していて、明確かつ艶がある。トロンボーン、オーボエ、クラリネット、ポストホルンなどの独奏部分では、それぞれの奏者の月並みでない技量と曲想に対する感性のしなやかさが伺える。各楽章のフィナーレの迫力は4階席のソルティを、脱水中の洗濯物のごとく、椅子の背に張り付けた。
 たいしたものである。
 そもそもこの第3番を――高度な技術と深い解釈力と多様な表現力、かつそれらを100分間持続しながら完走できるだけの体力と気力とが要求されるこの難しい曲を――上演できること自体、オケの力量と自信の表明であろう。いったい、クラシック愛好家の耳をそれなりに満足させるレベルでこの大作を上演できるアマオケが日本にどれくらい存在するだろうか?
 特に、第1楽章と第2楽章はオケと指揮者の緊張感がいい方向に作用して、非常に緊密度ある純度の高い音楽が楽しめた。「このまま最後まで行ったら凄いことになる」と思うほどに・・・。第3楽章でやや失速した感があった。
 だが、失速したのは聴き手の耳のほうだったかもしれない。第2楽章までですでに40分以上集中力を保ってきたのだから。
 人間の生理として、同じ強さの集中力が持続できるのはせいぜい40~50分だろう。学校の授業を思いかえせば了解できる。このあたりで休憩を入れるか、あるいは全身の緊張を解いてリラックスできるような調べ(たとえばアダージョ)を入れると、その後の楽章に向き合うエネルギー補填ができる。(ベートーヴェンの《第九》は約30分経過したところで第3楽章アダージョに入る)
 この曲の場合、第4楽章のアルトの深みある独唱(菅有実子さんは姿も声も美しく眼福&耳福!)と第5楽章の児童合唱団の何とも心洗われる純粋なボーイソプラノによって、ここまでの疲れが癒される仕組みになっている。あたかも使用する脳が左脳から右脳に切り換わるかのように、別の部分の脳細胞が新たに刺激を受け働き出し、これまで酷使してきた脳細胞に一時の休息が与えられる。実際、純粋な器楽音楽を聴くときと、歌唱付きの音楽(人間の声)を聴くときとでは、聴き手の脳の働きは異なるのではないだろうか。
 
 そういうわけで、いよいよラストの第6楽章に入ったとき、ソルティの脳は右も左も全開であった。脳のすべてで、すなわち心身のすべてで、マーラーの音楽を受け入れ、身をゆだね、心地良くシートに溺れることができた。
 
 この第6楽章をなんと形容したらいいのだろう?
 
 朝露に濡れて蕾をひらく真紅の薔薇。
 夜明け間近の山間にたなびく紫雲。
 宇宙飛行士が目にする自転する青き地球。
 激しい戦闘が終わった焼け野原に降り注ぐ最初の雨。
 人類が目撃した最初の陽の出。
 人類が見る最後の日の入り。
  
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 第3番は自然を表現したものと言われる。
 実際、そのとおりなのだろう。が、第6楽章を聴いていると、人間も自然も含めた‘偉大さ’に対する畏敬の念のようなものが湧き起こる。
 西洋人ならそれを「神」とか「愛」とか呼ぶだろう。
 仏教徒のソルティは「慈悲」と呼びたい。

 第6楽章が聴き手を誘う桃源郷は、それまでの75分の地上的かつ人間的感情のマグマあっての爆発であり飛翔である。
 これほどの至福が待っているのなら、100分なんて屁のカッパ。
 
 Hさん、ありがとう。
 ようやく自分もマーラーを聴けるようになりました。 



 
  
  

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