ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

ミヒャエル・ハネケ

● 老老介護の悲劇 映画:『愛、アムール』(ミヒャエル・ハネケ監督)

 2012年オーストリア、フランス、ドイツ制作。

 脳梗塞を起こして入院、車椅子姿で自宅に帰ってきた妻は、長年連れ添った夫に言う。
「もう二度と病院には連れていかないで」
 その有無を言わさぬ調子、我儘が通せると分かっている相手にだけ向けられる強い懇願の眼差しに、夫は反論する言葉を失う。
 この時から、在宅での老老介護が始まる。
 音楽への愛と積み重ねて来た歳月によって結ばれたジョルジュ(=ジャン・ルイ・トランティニャン)とアンヌ(=エマニュエル・リヴァ)の深く固い絆。二人を心配し、しばしば訪れてくる娘。二人の薫陶を受けて音楽の世界で活躍する孫や弟子たち。雑用を快く引き受けてくれる隣人。定期的に訪問するヘルパーや看護士や医師。こうした生活を可能にするだけの二人の資産や人徳。
 これらすべてによっても、妻アンヌの病状は回復する見込みもなく、夫ジョルジュにのしかかる肉体的・精神的負担は日増しに大きくなっていく。
「何で入院させないの?」
 娘はなじる。
 だが、ジョルジュはあの日交わした妻との約束を裏切ることができない。約束(=妻の一世一代の願い)を守り通すことが妻への愛の証であり、それを破ったら長年築き上げてきた信頼がふいになってしまうからである。
 寝たきりとなり、シモの世話も入浴も他人まかせで、意味不明の言葉をわめき、「痛い、痛い」と大声で繰り返すアンヌ。
 ジョルジュの介護疲れは限界に達する。

 映画の結末は悲惨なものである。
 しかし不幸かと言うと、ちょっと違う気がする。
 はたから見たら不幸そのものだろう。閉鎖した老老介護の果てに、妻が夫を、夫が妻を(もちろんこちらの方が多い)、手にかけたニュースは昨今よく聞く。第三者の論調はだいたいこうである。
「なんて悲惨なことだろう」
「長年頑張ってきたのに、どうしてそんな不幸な最期を迎えなければならないのか」
「なんで周囲に相談しなかったのか、頼らなかったのか」
「なぜ介護保険を、生活保護を使わなかったのか」
 だが、夫婦二人の内実は他の誰にもわからない。長年一緒に暮らし、悲喜こもごも様々なことを共に体験し、愛し合ったり憎みあったり、冷却したり熱くなったり、いがみあったり許し合ったり、お互いの性格や肉体の癖を誰よりも深く知り、人生の荒波を共に乗り越え辿り着いた二人の関係性は、周囲の善意(たとえそれが実の娘や息子であろうとも)や制度によって咀嚼できるものではあるまい。
 ジョルジュが約束を破って、アンヌを入院させたり、老人ホームに入れていたらどうなっていたか。
 アンヌはより長生きできたかもしれない。より苦痛のない最期を迎えられたかもしれない。ジョルジュの介護負担は減り、自分の生活のペースを守りながら、施設にいるアンヌを毎日訪問し、最期を看取ることもできただろう。
 だが、それで二人が幸福なのかといえばその保証はない。
 アンヌは、認知の程度にもよるが、約束を裏切ったジョルジュを憎み軽蔑することだろう。ジョルジュの面会を謝絶するかもしれない。最愛の人を憎み、人生に失望しながら、死を迎えるかもしれない。
 ジョルジュは、妻を裏切った罪悪感で自分を責めさいなむことだろう。病院のベッド上でいろいろな管につながれたアンヌの目を直視できないことだろう。「絶対に入院はさせないで」と言ったアンヌの言葉が死ぬまで耳にこだまするかもしれない。
 二人が積み重ねてきた愛おしい歳月、この世の生きた証とも言える二人の絆。そのすべてがふいになる。
 こちらの結末のほうが当人にとってよっぽど不幸なのではあるまいか。

 人は生きてきたように老い、生きてきたように死ぬ。
 芸術家としてのアンヌの高いプライド、頑固さは、赤の他人の世話になること、(彼女にとって)屈辱的な仕打ちを受けることを許さない。だから入院を拒む。そんな妻に逆らえない気弱さと優しさを持つジョルジュはまた、男ならではの責任感ゆえにすべて一人で背負ってしまう。
 たとえば、まだアンヌの意識がしっかりしているうちに、同じような(ピアな)立場の人(半身不随の妻、それを介護する夫)と出会い、体験や感情を分かち合う機会があったなら、二人の視野は広がっていたかもしれないが、そもそもの二人の性格のうちにその選択肢は許されていなかった。(二人を教師という設定にしたハネケの凄さ!)
 ジョルジュとアンヌの悲劇の結末は、結局、二人の性格と関係性のうちに萌芽していたのである。


 二人の性格と関係性が最期までそのままの形で尊重されるように、医療や福祉の制度が機能し、そこで働く専門職(医師や看護師や介護士)の質の向上がはかられるのが一番良いのであるけれど、公的な部分にはやはり限界がある。そこからはみ出す部分で、人はそれぞれの生で蒔いたものを、自ら刈り取らなければならない。

 それは不幸ではなく、「仕合せ」である。

 主役の二人のべテランの演技、圧巻である。



評価:B+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
  
C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 

● 魂の殺人 映画: 「白いリボン(Das weiße Band)」 (ミヒャエル・ハネケ監督)

 2009年オーストリア・ドイツ・フランス・イタリア制作。

 ハネケ監督が1997年に撮った『ファニー・ゲーム』ほど、気味が悪く、後味の悪い映画はそうそうない。比肩できるのは、キューブリックの『時計じかけのオレンジ』くらいか。どちらも若者の常軌を逸した歯止めない暴力を描いているのだが、見終わった後の落ち着かなさの一番の理由は、暴力行為の動機がわからないまま、観る者に示されないままに終わるところにある。
 『ファニー・ゲーム』では、縁もゆかりもない休暇中の家族を無目的に襲う二人の青年が、一見、礼儀正しく、白い上下の清潔感漂う「いいとこのお坊ちゃん」風の美青年であるだけに、その残虐性は一層恐ろしく、観るものの理解を超えた不気味さがあった。未見であるが、ハネケ監督は、同じストーリーを自らリメイクしているくらいだから、このテーマや設定によほど惹かれるものがあるのだろう。
 この二人の美青年の関係性はなんなのか? いったい、ハネケは何を表現したいのか? 
 気にはなったが、あまりの後味の悪さをひきずって、それ以後の作品は追っていなかった。

 『白いリボン』は、その回答編と言えるのかもしれない。


 この映画を観てすぐに頭に浮かんだのは、今や古典とも言える心理学者アリス・ミラーの『魂の殺人』である。
 ミラーは、豊富な臨床経験と研究をもとに、幼児・子供時代に親やその代理者から受けた暴力と、そこから逃れるすべがないために抑圧せざるを得ない屈辱や悲しみが、その子の人格形成に深甚な影響を与え、長じてから、何らかの機会があるとそれが表面化し、他者や社会に対する暴力へとつながる。その際とくに暴力の対象となるのは、抵抗される心配がなく、その行為を「しつけ」として正当化しうる自分の子供である。ということを、生涯にわたって指摘し続けたのである。
 そして、無垢なる子供の人生をその出発時点において徹底的に破壊し尽くしてしまう、大人の暴力を「魂の殺人」と呼んだのであった。

 ウィキペディア「アリス・ミラー」から引用する。

 ミラーは、ヒトラーとその支持者を注意深く観察し、ナチズムが子供への暴力の一つの表現であると考える。というのも、ヒトラーの世代が子供だったころ、シュレーバー教育に代表される非常に厳格で暴力的な教育方法がドイツに広がっており、子供たちは家庭でも学校でも激しい暴力に晒されていた。ヒトラーも父親から日常的な殴打を受けて育っており、彼の政策は自分が受けた暴力を、全人類に対して「やり返す」性質のものであり、ドイツの多くの国民も、そのような政策を自分自身の衝動に一致していると感じて、支持したのではないか、としている。

 まるで、この文章を骨子にして『白いリボン』のシナリオをつくったかのようである。

 あとは、ドイツ映画のルーツ(カリガリ博士、ノスフェラトゥ)を思い起こさせるようなモノトーンの抑圧的な映像、長尺を感じさせない巧みな語り口、確かな人物造型とそれに的確に応えた役者たちの演技(特に、牧師とドクターと助産婦の3人は甲乙つけがたい)、カンヌグランプリもむべなるかな。(獲りに行ったという感じがしてしまうのが、ちょっと減点かな。)
 鑑賞者は、真相の暴露と悲劇的な決着への予感を抱きながら、いつの間にやら、瀑布に向かってゆっくりと流れを運ばれていく船に乗せられてしまう。ひたひたと船底を洗う水の音を聴きながら、破滅のときを固唾を呑んで見守るほかない。その怖さたるや・・・。

 今や、なぜ『ファニー・ゲーム』の青年たちが白い服に白い手袋をはめていたのか明らかである。

 白は、ハネケにとって、無垢と抑圧の象徴なのだ。あの村の子供たちが成長した姿こそ、『ファニー・ゲーム』の青年たちだったのである。牧師の黒いガウンに、これ見よがしに、眩いほどに輝く白い襟こそ、プロテスタンティズムとファシズムをつないだ絆(Band)なのである。

 しかるに、それが判明したからといって、少しも不気味さはなくならない。後味の悪さはいっこうになくならない。
 なぜなら、子供たちの抑圧された感情は、数年後にファシズムとなって表面化し、何百万ものユダヤ人、障害者、同性愛者への迫害となって昇華したのであるから。
 そしてまた日本もまたドイツと同じ穴のムジナであるに違いないのに、このように芸術の域にまで高められる自己省察をついに果たし得なかったという、不可思議な事実を思い起こすからである。

 


評価:B+

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
         「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
         「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 
         「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」
         「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」
         「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
         「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 
         「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
         「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」
         「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 
         チャップリンの作品たち   


C+ ・・・・・ 退屈しのぎにはちょうどよい。レンタルで十分。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
         「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 「ロッキー・シリーズ」

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。 「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
         「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。もう二度とこの監督にはつかまらない。金返せ~!!



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