ミャンマーのマインドフルネス2014年発行。

 著者は1966年生まれ。中学生の時より出家の希望を持ちながら機会に恵まれず、社会に出て働き、30歳でミャンマーで念願の出家を遂げる。爾来、約17年間の比丘生活をミャンマーおよび日本で送り、教学(仏法学習)や瞑想修行に励み、日本においては在家への仏法講義や瞑想指導や仏典の邦訳に従事、テーラワーダ仏教の布教に努めてきた。
 2014年に還俗し、現在は大阪に西澤綜合研究所を設立。仏教カウンセリングを中心に、瞑想指導、執筆、講演活動を行なっている。
 出家名をウ・コーサッラと言う。


 本書は、著者の仏教との個人史的な関わりや仏教観、あるいは修行の体験談(「私はこうして悟った!」みたいな)を書いたものではない。テーラワーダ仏教の教えについて説いたものでもない。
 著者が出家し長い修行の年月を過ごしたミャンマーという国の仏教事情について、一人の外国人比丘として、内部から観察し体験し感じた事柄をありのまま綴ったものである。
 ミャンマーとはどんな国か?
 ミャンマー人にとって仏教及びお坊さんはどんな存在なのか?
 ミャンマーにおける比丘と在家との関係はいかに?
 ミャンマーで出家するとはどういうことか?
 軍事政権から民政に移管した現代ミャンマー社会における新たなる宗教問題とは?
 ・・・・・・等々
 ミャンマー及びミャンマー人に興味を持つ人、仏教とくにテーラワーダ仏教に興味を持つ人、瞑想修行に興味を持つ人、いずれが読んでも得るところの多い書物である。


 ずいぶん前になるが、ウ・コーサッラ長老――テーラワーダ仏教では出家して10年経つと‘長老(テーラThera)’の肩書きがつく――には日本テーラワーダ仏教協会主催の瞑想会で指導を受けたことがある。
 はじめてお目にかかったときの印象は‘ハンサムで清らかな人’というものであった。長崎生まれということだが、南蛮貿易以来の西欧人の血が混じっているのだろうか、長崎には細面で彫が深くて色の白いイケメンがいる(代表的なのが美輪明宏、福山雅治)。一方、清らかさはやはり、戒をしっかり守り心身の清浄を保つストイックな修行生活のためであろう。
 年齢は30代だろうと思っていたのだが、この本の帯に書かれたプロフィールではじめて1966年生まれと知りビックリ。自分とそう変わらないではないか。出家は人を若く保つ。
 外見の印象とは別に、瞑想会での個人インタビューや法話の後で参加者の質問に答える際のコーサッラ長老の印象は、‘親しみやすいけれども、極めて理知的でよく切れる人’というものであった。もちろん、‘切れる’は‘頭が切れる’である。奇跡や迷信や超能力を簡単に信じるような人ではないな、と思った。
 仏教は――少なくともテーラワーダ仏教は、他の宗教に比べれば極めて合理的で、脱神秘的で、実証主義に則っている。ある意味、科学的と言ってもよい。中学生のときに出家を志した著者が、キリスト教(長崎ならありがちではないか)や神道や大乗仏教、あるいは‘頭の切れる’当時の若者が惹かれたオウム真理教や統一協会などの新興宗教ではなくて、テーラワーダ仏教を選んだというのもうなづける。
 個人インタビューで、自分は次のような質問をした。
「仏教の輪廻転生というのがどうも自分には理解できない。永遠に存続するものはないという無我説と、生命は生まれ変わって六道をめぐるという考えは矛盾すると思う。生まれ変わりがあるのなら、生まれ変わる主体は何なのか?」
 それに対してコーサッラ長老は大体このようなことを言った。
「輪廻転生を信じる信じないは個人の自由です。生まれ変わりを見る能力と悟りとは関係ありません。阿羅漢(=完全に悟った人)でも生まれ変わりを見ることができない人もいるし、凡人でも見ることのできる人(ソルティ注:江原啓之のように)もいます。わからないことはとりあえず保留にしておいて、仏教をバイキング料理だと思って、自分に役立つものを選び取ればよいのではないでしょうか。」
‘輪廻転生がある’と確言しなかったことに驚いた。

 そのコーサッラ長老が還俗したと聞いて、ちょっとショックであった。
「諸行無常なのだから、世の中に絶対に変わらぬものなどない。世の中、何が起きても不思議でも何でもない。それこそ人の心なんかその最たるもの」というのが仏教の教えなのだから、誰が還俗しようが誰が改宗しようが驚くには当たらないのではある。が、なんとなく、齢七十にならんとされるアルボムッレ・スマナサーラ長老の後をついで、日本テーラワーダ仏教協会の指導者として、日本人へのテーラワーダ仏教布教を担っていかれるのでは、という勝手なイメージ(半ば期待)があったものだから、不意をつかれたのである。
 還俗を決めた理由について、本書ではあまり詳しく語られていない。

 還俗の気持ちを伝えるのは難しく誤解されるのでなるべく話すのは避けてきました。根本的なお釈迦様の教えに対する信は今も変わりませんが、自分にとって輪廻の存在自体が重要な問題ではなくなってしまいました。
 出家するときに「輪廻の苦しみから逃れるためにこの衣を受け取り、憐れみを垂れて出家させてください」と和尚に願って出家します。しかし今自分が求めているのは輪廻の苦しみから逃れることよりも、あらゆる固定観念から自由になり無我を体験して今幸せに、今自由になることだと思っています。
(本書より)


 日本の大乗仏教系のお坊さんが還俗したという話はあまり聞かない。
 現在の日本の仏教では、俗(在家)と聖(出家)との区別がほとんどない。在家の人間が出家したことでできなくなることが特にない。酒も飲めるし、エッチもできるし、金儲けもできるし、美味しいものもたらふく食べられるし、お洒落もできるし、車も運転できるし、托鉢する必要もないし、瞑想する必要もない。だから、出家する理由で一番多いのが「お寺の跡継ぎだから」なんていう個人の信仰とはまったく関係ない理由がまかり通ってしまう。そして、坊さんになっても今までどおりのやりたいことがやれるのであれば、なにも還俗する必要もない。
 一方、テーラワーダ仏教では在家と出家とははっきり分かたれている。結婚が禁じられているのだから「お寺の息子」なんて矛盾する存在はいない。俗世間を捨てて250もの戒を守って修行に励む生活は、生半可な決意では選び取れない。
 だから、その境界をあえて飛び越える人に対して、何らかのそれなりの理由を求めてしまうのだろう。
 なぜ出家したのか。
 なぜ還俗したのか。


 人が出家する理由は結構よく見聞するし、想像の範疇を超えるものではない。大体は、「俗世が嫌になったから」とか「むなしくて・・・」とか、あるいは「真理を追究したい(悟りたい)から」。最後のを別にして、世の中に長く生きていれば誰しもたまには脱世間を夢想することはあるだろう。無人島で一人きりで生活している人だっている。厭世ベクトルが欲望ベクトルより大きければ、人は出家に傾くであろう。
 一方、還俗した理由ってのはあまり語られていないように思う。上に書いたように、日本の仏教界では還俗にさして意味はないし、テーラワーダ仏教で出家し還俗した人がまだ少ないからである。
 出家の理由よりも還俗の理由のほうが、自分は興味ある。きっと人それぞれバリエーションがあって面白いのではないか。これから出家を考える人の役に立つのではないか。 
 結婚する理由はどれも陳腐だが、離婚した理由は夫婦それぞれで面白いってのと似ているかも・・・。
 
 なんてことを考えていたら、タイの僧侶(テーラワーダである)が女性と逢引していたというニュースが飛び込んできた。

 27日のカオソッド紙に掲載されたのは、うつろな表情の僧侶の写真。アパートの一室で女性と一緒にいたところを警察と軍に踏み込まれた。その時、風呂場に隠れていたという僧侶は、「自分の部屋の風呂が壊れたので女性に借りた」と釈明。しかし彼が「自分の部屋」と主張したのは、空き室だった。
 ウソの代償は大きく、僧侶の身分を剥奪されたという。
(11月29日「日テレNEWSニュース24」より)


 一僧侶の‘破戒’現場に警察と軍が踏み込むってのがすごい。
 まあ、還俗して幸せな家庭を築かれるよう祈願しようではないか。

サードゥ、サードゥ、サードゥ(善き哉、善き哉、善き哉)