日時 2017年6月11日(日)19:30~
会場 三鷹市芸術文化センター風のホール
曲目
  1. モーツァルト : セレナード12番 ハ短調 K.388 《ナハトムジーク》
  2. ブラームス : セレナード第2番 イ短調 op.16
  3. シェーンベルク : 浄夜 op.4(1943年改訂版)
指揮 木村 康人

 アマオケの演奏会は土日の午後2時開演が普通なので、日曜の午後7時半開演(終演9時20分)という設定はいかにも唐突である。
 しかしプログラムを見れば納得がいく。「夜」をコンセプトにした曲を揃えたのである。
 セレナードとは「小夜曲」のことで恋人や女性を称えるために演奏される曲を言う。ナハトムジークはドイツ語でまんま「夜の音楽」である。(モーツァルトは「アイネ・クライネ・ナハトムジーク  ト長調K.525」のほうが断然有名である)

 にしてもプログラミングが粋である。
 曲順に「古典派」⇒「ロマン派」⇒「後期ロマン派(現代音楽さきがけ)」と音楽史的配列になっているとともに、曲調も同じ夜であっても「宵の口」⇒「夜更け」⇒「深夜から黎明」といった時間推移を感じさせる。演奏を聴きながら、非常に中味の濃い一夜を過ごした気分になった。
 編成も面白い。
 一曲目が管楽器(オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴット)のみの八重奏、二曲目がヴァイオリンなし(!)約30名、三曲目は弦楽器のみ約30名。つまり、オケの主役とも言えるヴァイオリンが登場するのは休憩後の最後の一曲だけ。この編成の違いから生み出される音色の彩こそが、まさに夜の推移を描写する。それすなわち、恋人たちの愛の推移である。

 チェンバー・フィルハーモニック東京は、2006年創立の音楽愛好家と音楽大学出身者の若手主体による室内オーケストラ。ニューヨーク・スタイルというのがモットーだそうだ。
 同行したアマオケに所属している友人の説明によると、ニューヨーク・スタイル(NYスタイル)とは「開演時刻前からすでに演奏者がステージ上に待機している形」を言うのだそうだ。分かりやすく言えば、‘演奏者が登場するのを客が待つ’のではなく、‘客が揃うのを演奏者が待つ’ということか。休憩後の三曲目がまさにNYスタイルであった。時間の節約になるのは確かである。
 演奏レベルはとても高い。音大出身者が集まっているだけある。小編成でも音に深みと陰影があり、ソロパートは危なげのない自在なものであった。プロとアマの中間といった印象を持った。

 一曲目はモーツァルト印の小品。憧れの人への切ない思いやときめき、夕暮れの庭での心躍る語らい、恋の成就、誤解から来るちょっとした諍い、仲直り・・・・・といった‘青い’恋人たちの恋愛風景が、どちらかと言えば無邪気な(前近代的な)ノリで描かれている。

 二曲目はブラームス印の名品。はじめて聴いたが、とても良く出来ていて美しい。4つの交響曲よりも良いかもしれない。ブラームス印とは、「鬱々とした哀愁から唐突な歓喜へ」という流れを指す。ブラームスはロマン派の人であると同時に典型的近代人なのだと思う。孤独と憂愁を抱える近代的自我が、出口を探して逡巡している様が思い浮かぶのだ。
 その意味で、夏目漱石に近い気がする。漱石は最終的に「則天去私」という出口に到達したらしいが、ブラームスはどうだったのか。
 第4楽章ではピッコロの愛らしくも華やかな響きを加えて、まぎれもなく歓喜の境地が歌われている。
 しかし、美しいけれどそこにやはり陶酔はない。忘我はない。
 
 シェーンベルクの「浄夜」は、ソルティの好きな曲の一つ。この曲の存在を知ったのは、はるか昔に地方のゲイバーで隣り合った男が在郷楽団のメンバーで、クラシック音楽の話をしている際に「この曲は素晴らしいよ」と教えてくれたのである。その夜が‘浄められた’かどうか覚えていないが(笑)、翌日CDを買って聴いた音楽は確かに素晴らしかった。
 この曲はドイツの詩人リヒャルト・デーメル(1863-1920)の同タイトルの詩に感動したシェーンベルクが、詩の内容を音楽で表現したものである。
 その内容が凄い!
 
 二人の人間が、寒々しい木立を歩む。
 月が共に進み、二人は月に見入る。
 月は高い樫の木の上に掛かり、
 遮ぎる雲一つない天の空に
 黒い梢が達している。
 女の声が語る。
  
 子どもができたの。でも、あなたの子じゃない。
 
 (当夜配布のプログラムより引用。訳は指揮者の木村康人による)

 ガビーン!
 
 男の心の声が聞こえるようだ。

 女の告白は続く。

 知らない男に抱かれた。
 それで私は良かった。
 でも今こうして人生の報いを受け。
 あなたに、ああ、あなたに出会ってしまった。

 しばしの動揺と沈黙の後、男は答える。
 「君と僕との間を流れる愛は、すべてを浄化する。だから、その子を産んでおくれ。僕の子として育てよう」

 男は彼女の身重な腰に手を回した。
 彼らの吐息が風の中で抱擁を交わす。
 
 どうだろう?
 「過ちを告白する妊婦」と「女を許し父となるのを引き受ける男」。すべてを超えて結ばれる二人。愛の前に不可能はない。
 昼メロのような、80年代大映ドラマのような、レディースコミックのようなエグさと下世話さである。事前にプリントアウトした詞を同行した友人♂に見せたら絶句していた。
 この詩によってデーメルは何を訴えたかったのだろう? シェーンベルクはどこに感動したのだろう?
 すべてを恋人に告白する女のいじらしさか。
 過ちを犯した女を許す男の度量の広さか。
 罪を引き受けることで贖われる男の闇の暗さか。
 罪を浄めるほどの高みに達しうる愛の力か。
 
 わからない。
 しかし、ソルティは欧米人の作ったこの詩にあまりにも有名な二人の姿をダブらせる。
 言うまでもない。大工のヨハネとその妻マリアである。
 処女懐胎というナンセンスを退ければ、ヨハネとマリアに起ったことは上記の詩の男と女の間に起ったことと同じである。夫以外の男の子供(ローマ兵?)を孕んでしまったマリアは、お人よしで忍耐強い夫ヨセフに告白する。
 「子どもができたの。でもあなたの子じゃない」
 驚きと混乱と苦悩。しばしの沈思黙考のあと、ヨセフは答える。
 「いいよ。生んでおくれ。神の子として育てよう」
 かくしてキリストの誕生である。
  
 敬虔なクリスチャンから総攻撃受けそうな解釈である。が、ブッダと義母の不倫を受け入れた仏教徒ソルティに怖いものはない(笑)。
 実際にデーメルやシェーンベルクがこの詩に聖書をかぶらせたのかどうかは分からないが、次の一節を読むと、明らかに《救い》がテーマになっているのを見て取れる。
 
 君は僕に光をくれた。
 僕自身をまさに子供のようにしてくれたんだ。
 
 過ちを犯した女を許すことで罪障ある自分も救われる。単純に‘度量の広い男像’に自己陶酔しているわけではないのである。(デーメルとシェーンベルクの下半身事情が推察される。)
 
 ついでに、ソルティの中のリアリスト(皮肉屋)は、この詩の女にかしこさを読む。
 女は絶好のタイミングを見計らって告白したのだと思う。
  満月の夜。(男の排卵日)
  月明かりの下。(白い肌の輝き)
  露出の高い衣装。(おそらく胸の谷間くらいは見せている)
  誰もいない森。
  ・・・・・あとは言わない、二人は若い。
 
 ひとたび音楽が始まると、こういった解釈や妄想はどうでもよくなり、弦楽器の織り成す甘美な調べに心は持っていかれる。まさに忘我の極地。

 シェーンベルク「浄夜」は、‘物語’から生まれ‘物語’に依るけれど、出来上がった音楽は‘物語’を超えて‘音楽’という快楽官界に聴く者を連れていく。そここそは、すべての時代のすべての「~派」の違いを超えて存在する、音楽愛好家の聖地である。

 終演後、会場を出たら日曜のきよらかな夜が広がっていた。