2003、2007年原著刊行。
2015年ナチュラルスピリット社邦訳。

 この本は、新しいものの見方を得るための手引書です。まだほかにも可能性があると気づくことができれば、シンプルにすべてが変わっていきます。あらゆる信念や聞き伝えをすべて放棄し、自分だけを頼りに求めれば、このエッセンスを味わうことができます。そのために、宗教観や哲学は要りません。この公然の秘密の正体を明らかにするために、特別な人になる必要も、スピリチュアルな人になる必要もないのです。その秘密とは、「すべての人がホーム(HOME)――元来た場所――に戻っておいでと招かれている」ということです。「ホーム」とは、ここでは無限なる非人格的な場所を表します。(本書イントロダクションより)


 いわゆる「悟り」についての本である。ナチュラルスピリットの他の本――『ただそのままでいるための超簡約指南』、『オープン・シークレット』、『幻想からの解放 ある異邦人の手記』等――同様、表面上はわかりやすく読みやすいけれど、その内容を真に理解するには一筋縄でいかない。
 これには‘もっとも理由’がある。
 それにしても、いつからソルティはナチュラルスピリット社の宣伝マンになったのであろうか?(笑)

 ケルスショットという姓は日本人には聞きなれない音だが、ベルギー人らしい。アントワープ大学で医学を学び、現在はバイオパンクチャー(?)の施術を行いながら執筆活動に従事、身体の一部を被写体とする写真家でもある。幼少の頃からスピリチュアル探求を始め、禅仏教やタントラ、ヴェーダーンタなど東洋の伝統を経て、最終的にトニー・パーソンズとの出会いにより探求を終焉、すなわち「悟った」ようである。
 トニーはかなり影響力のある人なんだなあ~。クリシュナムルティ同様、「悟りにいたる道はない」といっさいの方法論を否定しながらも、クリシュナムルティとは違って多くの人が悟るのに手を貸している。
 いったい、なにが違うんだろう?

青い鳥

 この本にコメントするのは困難である。
 というのも、コメントするという行為は主体(=ソルティ)と客体(=この本)とを分離し、主体が客体について解釈・吟味・評価する。つまり、二元論が前提となっている。
 しかるに、この本で提示されていることはまさに二元論からの脱却なので、この本についてコメントしようとした途端、この本のエッセンスを取り逃がしてしまうというトラップに陥る。
 上に書いた‘もっともな理由’とはまさにこのことで、本の内容を(知的に)理解しようという「私」の試み自体が、真の理解を妨げてしまう障害になる。
 「私」と「悟り」は両立しないのである。



 というわけで、以下引用。

 この地球に生きている人は皆、催眠にかかっています。「私たちは分離した個体であり、それぞれが異なる身体の中で生きていて、一つの惑星上を歩き回っている」という共通信念による催眠です。私たちは皆、それを信じています。自分のボートにはキャプテンが「いる」と思っているからです。そして、皆こう言います。「私の頭の中にはキャプテンがいて、自由意志と選択権を持っている」と。

 
 自由意志でもって一つの人格でいるという概念自体、砂上の楼閣です。概念に概念を重ねているだけです。人格そのものが概念に過ぎないことがわかれば、この砂上の楼閣は崩壊します。ただし、頭の中に指揮を取る存在はおらずハートの中に感情を感じる存在もいないということを受容したうえで、それでも自分には思考と感情を備えた人格があるかのように、自由意志を持っているかのように振舞うことは可能です。オーストリアの哲学者、ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン(1889‐1951)はこれを枯れ葉の独り言に例えました。秋の風の中を舞う枯れ葉がこう言うのです。「さあ、こちらへ行こう。次はあちらへ行こう」

 解放もしくは「覚醒」は、何か新しいことへの到達でも、高次のマインド状態の発見でもありません。ただ自分自身という存在に目覚めるということです。ですから、自分を変えるということでもありません。役者はこれまで通り、役柄を演じ続ければよいのです。実際にここに在るものについて、本質的な真理を再発見するだけです。私たちは自分を映画スターだと思っていますが、もっと大きな私がいて、それが光であることを忘れています。映画スターはあくまでスクリーンに登場するイメージの一つにすぎないのです。

 自分を役割そのものと思っている間、私たちは弱く不安定で、社会に向けて仮面をかぶり、他者から肯定してもらいたがり、人生をコントロールしようとし、苦痛や死を恐れています。ですが、自分が一人の人間であるという認識をしていないとき、希望や恐怖と一体化していないとき、私たちはどこにいようと本来の自分としてくつろぐことができます。最終的には、悟りを得る自分や目覚める自分などいません。すべての人格は不在です。本来の私たちはずっと目覚めていたのです。


 「私」と「悟り」の関係は、コップの中の「氷」と「水」の関係に寓せられるかもしれない。
 「氷」は一所懸命「水」になろうと頑張っているけれど、その頑張りは「氷」をいっそう結晶化することにしか役立たない。頑張るのをやめて流れにまかせたとき、「氷」は自然に溶けて「水」となる。
 なぜなら、もともと「氷」の正体は「水」にほかならないから。頭の横の「、」を一つ取ればいいだけの話だったのである。

――というマインドによる理解がこれまた障害になるのか!


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