NHKホール 12月26日NHKホールにて。

 第九交響曲が人気あるのは、聴く人がそこにドラマを見るからである。
 特に、年末に第九を聴く慣習を持つ日本人は、自らの一年を振り返り、「今年も悲喜こもごもいろいろあったけれど、何とかこうして第九を聴くことができた」喜びを、第一楽章から第四楽章まで波瀾万丈たる人生ドラマを見るかのようなメリハリある第九の構成に重ね合わせ、しみじみと感動にひたるのである。終わりよければすべて良し。
 自分も年末に第九を聴くようになって20年近くになるが、それぞれの楽章に仮託するイメージは次のようなものである。

第一楽章  青春篇・・・情熱、激情、怒濤、野望、不羈、不安、迷い、孤独
第二楽章  生活篇・・・多忙、混乱、浮つき、拡張、華やぎ、活動、交流、雑踏
第三楽章  休息篇・・・夢、憧憬、逃避、回顧、癒し、眠り、甘美なる愛、田園
第四楽章  信仰篇・・・喜び、友愛、受容、厳粛、神秘、讃歌

 いわば「音楽」の中に「文学」を見ているわけである。


 ベートーヴェンがドラマ性を企図して第九を作ったのは間違いない。シラーの詩による合唱を付けたことは明らかに「喜び」というテーマを中核に据えたわけだし、第四楽章のはじまりで第一楽章、第二楽章、第三楽章それぞれの主題が低弦によって次々と否定されるところなどは、あたかもオーディションみたいで、吹き出してしまいかねないほどベタなドラマ性を感じる。
「情熱でもなく、活動でもなく、癒しでもなく、信仰と友愛こそ一番。時よ止まれ。お前は美しい!」
 おそらく日本人が第九の中に見ているのは、実はシラーでなくてゲーテ『ファウスト』なのだと思う。自分はそうである。
 たいがいの指揮者は、このドラマ性を最大限効果的に発揮するべく頑張って振っているのだと思う。聴衆もまた、もっともドラマチックに振ってくれた指揮者に桂冠を与える傾向にある。
「感動させてくれてありがとう」


 ロジャー・ノリントンは当夜のプログラムに寄せたエッセイの中でこう述べている。

 ベートーヴェンは「交響曲」というジャンルにドラマ性を持ち込んだ先駆者であり、それは第3番「英雄」に始まって、第5番「運命」や第7番へと発展しました(ある意味では第6番「田園」も仲間です。第9番「合唱付き」はその極めつけだと言えるでしょう。
 ドラマ性という要素は、19世紀に入ってから巻き起こるロマン派的な発想ですが、ベートーヴェンの面白いところは、作風が一貫して18世紀的であり、秩序と即興性を重視した手法が反映されているところなのです。つまり、ハイドンがちょっとばかりハイになったような感じだと言えるでしょうか。その上でドラマ性という、ロマン派のワイルドな部分も加味されていますから、とても独特なのです。
 古典派の音楽――ここではJ.S.バッハの後期からメンデルスゾーンに至る時代の作品を想定していますが――を演奏するにあたっては、ウィットと対話の重要性を理解しなくてはいけないでしょう(メロディは二の次だったのです)。


 この言葉が示すとおり、ロジャー・ノリントンの指揮はほとんどの第九指揮者が目指すものードラマ性の追求―とは対極にくるものであった。
 むろん、まったくドラマ性を無視しているわけではないが、ドラマチックな第九に聞き慣れてそれをもっぱら期待する耳にとって、ノリントンの第九は「なんとなくものたりない」感じがする。はぐらかされた感じ。欲求不満。


 自分のように何十回と第九を聞き続けている聴き手は、感動を与えてくれるツボというかサビの部分を熟知している。それはたとえば、第三楽章の甘美なメロディがそうであるし、第四楽章のテナーのヒロイックな独唱とそれに続くめまぐるしい弦楽器の奔流(フーガ)、しまいに三度のノックごとに転調し、
 フロイデ シェーネル ゲッテル フンケン トッホテル アウス エリィージウム
 (晴れたる 青空 漂う 雲よ)
 と、歓喜の歌の主題を合唱団全員が一丸となって歌うところである。
 こうしたサビの部分をいかに感動的に聴かせてくれたかが、その日のコンサート及び指揮者を評価するポイントとなるのである。
 だから、第三楽章なら、マーラーの交響曲第五番の第四楽章「アダージェット」同様、できるだけ音を引き延ばして緩やかなテンポでメロディの美しさを存分に味あわせてくれることを期待するし、歓喜の歌の大合唱の前の数小節は、歓喜の爆発が一層輝かしいものになるよう、できるだけ悲壮な荒れ狂った感じで一気呵成に聴かせてほしいと望むのである。

 しかし、ノリントンはこうした聴衆の期待をものの見事に裏切ってくれる。
 第三楽章は、いつものように椅子に体を深く沈めて陶酔感にひたる暇もなく、あっという間に終わってしまった。歓喜の大合唱の前の部分では、ここまで丁寧に音符を追わなくてもいいのに・・・と思うほど、一音一音丁寧に拾っていくので、全体の勢いが削がれてしまい、合唱の迫力が半減してしまった感じを受けた。

 全体こんな調子なのである。
 これまで聴いてきた第九とは根本的なところで違いがあった。
 演奏終了後の聴衆の反応も拍手喝采こそ大きかったものの、出口に向かう人々の会話の切れ端や表情には戸惑いが見られた。
 たとえば、これがコバケン(小林研一郎)だったら、帰りの客の表情はもっと晴れ晴れと満足感にあふれていただろう。
 「来年もいい年でありますように」

 だが、ノリントンはこう言う。

 「ベートーヴェンの意図に忠実なのは、私のほうですよ」


 鍵は「ピリオド奏法」という言葉にある。
 テンポや音の強弱、アーティキュレーション(音と音のつなげ方)を見直して、弦楽器はヴィブラートをかけないなど、作曲家在世当時のスタイルを再現する演奏方法を言うらしい。最初に挙げた「ウィットと対話の重要性」なんかもそれに連なるわけである。


 確かに、現代日本人が年末に聴いている「第九」と、19世紀初頭のドイツ人が聴いていた「第九」は違って当たり前だ。後者は前者ほどドラマにかぶれていなかった。どんなところにもドラマと感動を求める気質は、文学→映画→テレビによって洗脳された20世紀人の特徴であろう。(21世紀生まれの子どもはドラマ性を突き破るであろう) ベートーヴェンが狙ったドラマ性以上のものを、現代人は過剰に読み込んでいる可能性大である。
 そして、音楽が時代と共に生きる(生き残る)ということは、時代精神を身にまとうということである。我々現代人の聴く第九は、2度の世界大戦や原爆投下やチェルノブイリやベルリンの壁崩壊や貿易センタービル倒壊や福島原発臨界事故を経験した精神の聴く第九なのである。どうしたってでっかいドラマ性を内包せざるをえない。


 その意味でノリントンの第九は自分にとってはすこぶる刺激的であった。
 文学によって毒されてしまった第九が解放されて、ふたたび音楽の世界に見出されたのである。
 第四楽章の大合唱の前のフーガ部分を自分はいかに聴いていなかったか。そこをクライマックス(サビ)に至る前フリのようなものとして漠然とメロディを追うだけに終始し聞き流していたことに気づいたのである。ゆっくりとしたテンポで丁寧に一音一音が浚われた結果、この部分がいかに趣向を凝らし、様々な楽器の掛け合いも楽しく、カンディンスキーの絵のように豊かな表情と諧謔を持って作られているかを知ることになった。
 第九のすべてのフレーズがいかに作曲者のウィットと利発さとで彩られているか、すべての楽器がいかに生き生きとそれぞれの「喜び」を歌っているか、に気づかされたのである。第一楽章などはまるでモーツァルトの『ジュピター』を聴いているような軽みとスピード感と華やぎがあった。

第九看板 ドラマ性(文学)なしには第九は今日のような人気を得ることはなかったであろう。それは確かである。
 しかし、文学から解放された時、我々は音楽(音の楽しみ)をもう一度発見することができる。

 悩みと悲愴の権化であるベートーヴェンのイメージもなんだか少し変わった。


 来年もいい年でありますように。