2003年原著刊行
2016年コスモス・ライブラリーより邦訳発行
正田大観、吉田利子共訳
大野純一監訳

 ブッダとクリシュナムルティの説いたことはほぼ同じであった。
 意外でもなんでもない。二人とも完全な悟りに達した覚者であってみれば、まったく同じ境地からまったく同じものを見ていたわけであるから、言説も同じになる。同じでなければならない。二千年以上の歳月を超えて、二人の賢者は「真理」という土俵の上でほぼ同格で向かい合っている。
 この「ほぼ」というところが一つのポイントである。
 正確に言えば、ブッダとクリシュナムルティには決定的な違いが一つあって、それは「悟り(解脱)に至る方法論を説いたか説かなかったか」というところにある。『道』の有る無しだ。 
 ブッダは四聖諦にみるように、説法を開始するそもそもの最初から「苦の滅に至る道」、いわゆる道諦を明らかにした。八正道を説き、瞑想方法を詳細に伝えた。それが仏教すなわちブッダの教えとして、主としてテーラワーダ仏教の中で脈々と今に伝えられている。
 一方、クリシュナムルティ(1895-1986)はこれもそもそもの最初から「真理に至る道はない」と断言した。いっさいの方法論を拒絶し、「どうすれば?」という聴衆の問いを封じ込めた。「真理はいまここで見るもの」という姿勢を生涯‘頑なまでに’くずさなかった。 

 本書は Can Humanity Change? J.Krishnamurti in Dialogue with Buddhists(人は変われるか?クリシュナムルティと仏教徒の対話)というタイトルで2003年にクリシュナムルティ財団より発行された本の邦訳である。
 2部構成になっている。
 第1部は1978年6月に行われたクリシュナムルティと仏教徒を含む複数の相手からなる5回の対話録。この参加者がすこぶる魅力的で、ソルティが久しぶりにクリシュナムルティの本を手にした主たる理由である。
  • ワルポーラ・ラーフラ・・・・スリランカのテーラワーダ仏教の学僧。優れた仏教入門書である『ブッダが説いたこと』(岩波文庫)の著者。
  • イムガルト・シュレーゲル・・・・オーストリア出身の禅僧。京都大徳寺で修行。ロンドンに禅センターを設立し禅の布教につとめた。
  • デヴィッド・ボーム・・・・アメリカ出身の理論物理学者。量子力学から探求されたホログラフィクパラダイム理論で有名。クリシュナムルティとは対談を重ねており、お互いに深い影響を及ぼし合った。
  • メアリー・ジンバリスト・・・・クリシュナムルティの晩年、世話役兼秘書役としてもっとも近くに付き添った女性。
  • スコット・フォーブス・・・・・クリシュナムルティの設立した学校の校長をつとめたアメリカ人。
  • ジッドゥ・ナラヤン・・・・クリシュナムルティの甥っ子。
  • フィロズ・メータ・・・・インド出身のピアニスト、著述家、講演者。
 このうち仏教徒と言えるのは最初の二人であろう。
 
 第2部は、「なぜわたしたちは変われないのか?」というタイトルのもとに集められた1956~1981年にわたるクリシュナムルティの講演録10篇から成る。
 中の1篇(1965年)の質疑応答の場で、「あなたが四十年も語り続けているのに、たったひとりの人間も変わっていないのはなぜでしょうか?」とクリシュナムルティが参加者から問われる場面がある。「クリシュナムルティでは悟れない」というのは、すでに1965年の時点で真理を求める人々の間で知れ渡っていたことが知られる。実際、クリシュナムルティ自身、亡くなる直前に「私の話を聞いて悟った人は誰一人もいなかった」と述懐したとか。
 むろん、クリシュナムルティの知らないところで、クリシュナムルティの本を読んで悟った人間は当時も現在もいるのかもしれない。ただ、仏典に残されているように、ブッダの話を聴いてその場で即座に悟った人が何千人もいたことに比べれば、クリシュナムルティの説法効果が微弱であるのは指摘せざるを得ないだろう。
 
 やはり、面白いのは第1部。当時の仏教界のスーパースターとも寵児とも言えるワルポーラ・ラーフラが、現代の覚者クリシュナムルティとどう絡むか、どう共鳴し、どう是認され、どう説諭され、どう齟齬をきたすか。あらゆる宗教組織や方法論を否定したクリシュナムルティが自らの教えと寸分違わない仏教とどう対峙するか。そのあたりが読みどころである。
 ソルティはこの第1部を5回繰り返し読んだ。それくらい読み込まないと、腑に落ちなかった。表面的な言葉の理解はさほど難しくない。難解な仏教用語や哲学用語が並んでいるわけではないし、文法的あるいは論理的に破綻しているわけでもない。なるほど内容自体は、この本ではじめてクリシュナムルティを知る人にとっては難解でチンプンカンプンかもしれない。が、ソルティはかつてクリシュナムルティをずいぶん読み込んだので、彼特有の表現や言い回しや論理の飛躍には慣れている。
 ただ、どうにもすっきりした読後感が得られないのである。もどかしい思い、隔靴掻痒の感とともに対話は終了してしまう。面白くて啓発的であるのは間違いないけれど、全般に分かりにくさとまどろっこしさを感じる。
 いったいその理由はどこにあるのだろう?
 それを探るために5回は読む必要があったのである。
 
 第一の理由として、むろんテーマそのものの難しさがある。
 「知識は人間を条件づけるか」「心理的な進歩はあるか」「二元性とはなにか」「自己同一化は避けられるか」「人間に自由意志は存在するか」等々、哲学的なテーマが次から次へと繰り出される。これは、クリシュナムルティの講話や本に付随する性質であるので止む終えないところである。

 
 第二の理由として、言葉の定義の問題がある。
 ある一つの言葉が対話の中に出てきたとき、参加者それぞれがその言葉に異なった定義や解釈を持っていると、やがて話が噛み合わなくなってくる。慎重なクリシュナムルティはそこで言葉を定義することから始めることが多い。たとえば、「現実とは何か」「意志とは何か」「言葉とは何か」といったように。それが時に、ある種のわずらわしさ、対話を停滞させるもどかしさにつながる。
 極端な例では、参加者が探求を始める前提(=準備段階)として、Aという言葉をすったもんだの議論の果てに「AはBである」と定義することに合意を得た。と、次に「では、Bとはなんでしょう?」と問いかけ、またしてもすったもんだの議論が始まる。いつしか定義づけの蟻地獄にはまっていく。で、もともとの探求課題から話の流れが逸れて、「いったい何の話をしていたんだっけ? 最初の問いはなんだったっけ?」という事態になる。読者もまた対話の脈絡が追えなくなる。
 本編でも、クリシュナムルティの脱線にしびれを切らした(かどうかは不明だが)ラーフラが、「わたしたちは今どこにいるのでしょう?」と論点を戻そうとする場面がたびたび見られる。脱線の多い職場の会議みたいに、最終的に何が明確になったのかよく分からないまま、時間切れとなっているような印象を受ける。 
 逆から見れば、これは我々が普段あまり深く考えずに使用している言葉や概念が、いかに各人の条件付けによって歪められた主観的な産物であるかの証左である。クリシュナムルティはそれをこそ問題にしているのであろう。

 
 第三の理由は、対話参加者自身の自己同一化の問題がある。
 クリシュナムルティは、「あらゆる伝統的・宗教的・政治的・文化的な条件付けは自己同一化を招き、腐敗の原因となる。真理を見るためには、個人はそれらの頚木から自らを解放しなければならない」と説いた。対談においても、そのようなバックグラウンドを背負った相手には容赦なくそれを指摘し、ありのままの(裸の)個人として「今ここ」にいることを求めた。
 残念なことに、ここでのワルポール・ラーフラおよびイムガルト・シュレーゲルは、最後の最後まで「仏教徒」の立場から離れられないでいる。クリシュナムルティの言説に対し、二言目には「ブッダはこう言いました」「仏典ではこうあります」という言辞を上らせる。あげくのはてにクリシュナムルティにこう指弾される。
 
 わたしは、ブッダについてあなたが語ることを聞いていました。ただ、聞いていたのです。わたしにはわかりません。あなたは引用し、たぶんあなたの引用は完璧でしょうし、正しく引用しているでしょうが、しかし、あなたは自分自身をわたしには明かしてはおらず、それに対してわたしはあなたに自分自身を明かしています。だから、わたしたちは直接ではなく、ブッダを通じて関係を持っているのです。それは、わたしが自分の犬をとても気に入っているとき、あなたもその犬が気に入るとすれば、そのとき、わたしたちの関係は犬好きを基盤にするようになる、ということです。

 どう見ても、ラーフラ、形勢不利。
 他の参加者がどうかと言えば、多くは西洋人的な思考重視の分析癖を持って会話に参加している。クリシュナムルティの言葉を「ただ聞く」のではなく、即座に自分の経験と知識に合わせて自分なりに解釈し、頭の中で自分の言葉に置き換えて、同意や反論や理屈づけを始める。いわば「自分」というフィルターを通して聞いている。(たいてい人はそのように他人の話を聞いている。)
 ここでもクリシュナムルティはスコット・フォーブスに対して、こう指摘する。

 あなたは、聞くとほぼ同時にそれについて考え始めますが、その考えは実際の観察を妨げます。わたしは、そこを言っているのです。ギリシャ人からヒンドゥー人まで、わたしたちの全精神構造は観念の上に成り立っています。そしてわたしたちは、観念は実際に起こっていることではない、実際に聞いていることではない、と言っているのです。

 ここには「聞く」ということの難しさがある。真に「聞く」ためには、人は自らの思想や思考や価値観や好き嫌いといったアイデンティティを形成するものをいったん留保して、アイドリングさせつつ、瞬間瞬間自己覚知しながら、耳を傾けなければならない。
 
 誰もが認める仏教の権威であり、『ブッダが説いたこと』という掛け値なしに偉大な本を書いたラーフラでさえ――あるいはそれほど偉大だったゆえか――仏教徒の立場や経験を離れて「裸の個人として」クリシュナムルティに対峙することができなかったのは、読んでいて残念だし、もったいない気がする。ラーフラが若い頃からクリシュナムルティの熱心な愛読者であり、こうして実際に会って直接言葉を交わす機会を得ることは、おそらく彼の人生における最も貴重な体験であろうと推測できるがゆえに、なおさらである。(修行に励む仏教徒にとって「阿羅漢」と接する機会を持つことは計り知れない益であろう)
 結局、この対談でラーフラが得たのは、「クリシュナムルティはやっぱりブッダと同じ真理を見ている」という確証だけのように思われる。仏教界に持ち帰るには最高の土産だろうが・・・。
 その意味で、対話参加者の中でもっともクリシュナムルティと話が噛み合っているように思えるのは、物理学者のデヴィッド・ボームである。二人の対談集『生の全体性』(平河出版社)や『真理の種子』(めるくまーる)に見るように、ボームほどクリシュナムルティと共に深いところまで達した対談者はいない。おそらくこれは、ボームが提唱したホログラフィックパラダイムという理論とクリシュナムルティの‘世界観’が相似しているからであろうし、科学者でありながら「対話」というものをすこぶる重視したボームの資質およびコミュ力の高さによるのであろう。
 本書の対話がもどかしく感じられる一因は、上記2書と比較してしまうからである。対話の質の問題だ。

デヴィッド・ボーム: 洞察はひとを変容させると思いますか?
クリシュナムルティ: それは先日議論しましたね。洞察は精神の状態を変えるだけではなく、脳細胞そのものも変化させます。


 第四の理由は、第三と関連するが、それぞれの参加者の「対話」への参加姿勢の違いに因る。対話の場をどうとらえているかである。
 クリシュナムルティの姿勢はここでも一貫している。対話は、何かを証明する場でも、何かをアピールする場でも、何かを確認し合う場でも、況やどちらが正しいかを議論する場でもない。一緒に真理を探究する場である。対話を通して「条件付け」を発見し、各自が囚われている思考という牢屋の構造を見抜き、その場で解放を得ること。これこそ、クリシュナムルティが対話に際して参加者各々に要求する姿勢である。
 つまり、「今この場で悟りなさい!」
 しかし、クリシュナムルティと対談した多くの人間にとって、それは高すぎる敷居であった。悟りの重要性は分かっていても、悟りたいとは思っていても、なかなか敷居を越えることができない。それほどまでに、思考は頑強で、自我は根強い。
 あるいは、最初から対話の目的が、クリシュナムルティという一風変わった人物に対する好奇心からであったり、紹介記事を書くこと、議論のための議論、すでに自ら持っている理念や思想について有名な覚者からお墨付きをもらうこと、ケチをつけて仮面をはがすこと、単純に癒しを得るため、崇め奉ること、お悩み相談・・・・等々であれば、最初から対話が噛み合うべくもない。
 同じ目的を持ち、同じレベルの真剣さと熱意と自己覚知の姿勢で持って対談に臨まなければ、遠くまで行くことは叶わない。
 対談中、クリシュナムルティは会話のさなか、たびたび相手に問いかける。
あなたはどんなふうに聞いていますか?」
あなたは事実としてこれを見ていますか?」
あなたはどうなのですか?」
 言葉を理屈として理解する、頭で理解するのは、本当の理解ではない。自分の存在(=アイデンティティ)が根幹から揺らがないような納得は、本当の理解ではないということだろう。


 第五の理由は、「なぜクリシュナムルティは方法論を提示しなかったか」「なぜクリシュナムルティで悟った人は一人もいないのか」に関わることである。
 クリシュナムルティの伝記や若い頃のいろいろなエピソードを読むと、彼が少年の頃から特異体質の持ち主であったことが伺える。いつも一人でぼんやりとして、困っている人がいれば誰にでも自分の持ち物・食べ物をあげてしまう。教師たちには知恵遅れだと思われていた。その後、神智学協会のリードビーダーに見出されてロンドンに連れて行かれ、救世主たるべく様々な帝王教育を受ける。が、クリシュナムルティはいっさい誰によっても何によっても洗脳されることなく、ついには自分を長とする教団を解散してしまう。
 つまり、クリシュナムルティはそもそもの最初から何の条件付けも受けておらず、長じてから条件付けされることもなかったのである。これは、通常の人間では有り得ないことである。クリシュナムルティ自身、自分を「生物学的変種」と言っている。
 また、クリシュナムルティが自らの苦しみを解決するために何らかの宗教に頼ったとか特定の師についたとか、あるいは悟りを得るために苦行したとか瞑想修行したとかいう話もほとんどなくて、青年時代のある神秘体験によって悟りは向こうからやってきた。王位と家族を捨てねばならぬほどの苦悩や虚しさを味わい、悟りを得るために難行苦行したブッダとの違いは明らかである。ブッダが叩き上げの覚者だとしたら、クリシュナムルティはエリートの覚者である。この両者の違いが、最初に述べた方法論の提示の有無に影響しているのではなかろうか。
 
 テーラワーダ仏教では、悟りには「預流果」「一来果」「不還果」「阿羅漢果」の四段階があり、悟りは不退転であるとする。つまり、一度到達したレベルは生まれ変わっても消えることがない。預流果や一来果で亡くなった人間は、生まれ変わったらすでに悟りの状態から人生を開始する。当然、自我が薄い。三毒(欲・怒・無知)に冒されている周囲の人間とはどこか違っているだろう。そのまま出家してさらなる悟りを目指すか、社会にあっては篤志家として尊敬されるのであろうか。
 単なる憶測に過ぎないが、クリシュナムルティはもしかしたら生まれたときから預流果あるいは一来果だったのかもしれない。だとしたら、預流果未満の凡人たる衆生の境地を理解するのは困難であったろう。
 
 家を捨てたブッダは、たくさんの師に就いて教えを乞うた。瞑想の奥義を窮めた。死ぬほど苦しい修行も経験した。そして、それらすべてを「役に立たない」と捨てて一人菩提樹の下に座し、神秘体験もLSDもなく純粋に自らの力で悟りを得た。その成功体験をもとに八正道や瞑想方法を編み出した。悟るために何が役に立ち、何が役に立たないか、十全に知っていたのである。
 一方、生まれながらのエリートであり神秘体験によって覚者となったクリシュナムルティは、「如何にして」というと問い自体が理解できなかったのではなかろうか。彼にしてみれば、なかなか悟れない凡人に対して、「なんで、そんなに苦労しているの? ただ、目の前の真理を見ればいいだけじゃん」と言うほかなかったのではあるまいか。むろん、自らが絡めとられたことのない条件付けを解く方法論を提示できるはずもない。彼にとって「悟るのに時間は要らない」は明らかに‘真’なのである。
 我々凡人が知りたいのはまさに「どうすれば」という方法論――たとえそれが向こう岸に着いたあとは捨てなければならない筏に過ぎないとしても――であってみれば、それを提示してくれないクリシュナムルティにある種の不満を抱くのも無理からぬ話である。
 クリシュナムルティと対談相手の話が、最終的なところでいつも噛み合わなくなるように思えるのは、そして、60年以上世界各地でひたすら語り続けながら、自分に続く者を生み出せなかった彼の徹底的な孤高の理由はそこらにあるのではなかろうか。

ハスの花ピンク

 
 ソルティ自身について言えば、クリシュナムルティを浴びるように読みつつ自己流で瞑想していた30代は、なかなか進展がなく、自己変容も起こらなかった。クリシュナムルティから離れ、依るべきなにものも持たない唯物的な数年ののち、テーラワーダ仏教と出会って仏法の勉強とヴィッパサナ瞑想を開始したら、ゆくりもなく智慧に預かった。自分が変わり、三毒が弱まってきたのを実感している。
 十数年ぶりにクリシュナムルティとこうやって向き合ってみたら、30代のときとは理解の深さがまったく異なっていた。クリシュナムルティの言っていること、言わんとしていることが、なんの抵抗もなくすんなり入ってくる。それも文意の理解つまり頭での理解ではなく、瞑想して納得した‘事実’として理解できる。
 「クリシュナムルティは正しかった」と今こそ思えるのである。

 孤独、絶望、さまざまなかたちの憂鬱、悲しみ、恐怖、これらは人間に共通の運命です。それは明らかです。人間の意識は、その中身で作られ、そしてその中身が、そのようなすべてなのです。世界中の人類は、彼らの特定の名前とかたちを別にすれば、多かれ少なかれ似たようなものです。それに同意なさいますか?