ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

一遍

● 本:『花に問え』(瀬戸内寂聴著)

1992年中央公論社

 一遍上人の伝記かと思ったら、そうではなかった。国宝『一遍聖絵』を紐解きながら、先立った愛人との思い出に耽る中年女のモノローグである。最後は出家を心に決めた彼女こそ、寂聴尼の分身なのだろう。
 あるいは、追想という物語形式を借りた一遍上人伝と言うこともできる。そのまんまの伝記スタイルでは読者の食いつきが悪いであろう、売り上げにも結びつかないだろう、という著者と版元の戦略だったのかもしれない。

 こうした構成のためか、一遍上人の行状や思想(悟り)よりも、一遍の後を追って女の身でありながら厳しい求道の旅(=遊行)に同行した尼・超一(※一遍の愛妾だったという説が濃厚)に対する著者の共感の眼差しが印象に残る。

 それにしても、妻(超一)と幼い娘(超ニ)と乳母(念仏房)とを引き連れて修行の旅に出るとは、一遍上人に冠される「捨聖」という称号にはふさわしくないように思われる。命を賭した修業の旅に妻子を同行させるのはふつうカッコ悪いよな~。大先輩ブッダは妻も子も捨てたではないか。
 愛する家族を無下にできない優しく責任感のある男だったのか。それとも、優柔不断の煩悩多き男だったのか。このあたりの一遍の心持ちが気になるところである。女の立場からすれば、「最高にイイ男」なのかもしれないが・・・。(もっとも悟りを啓いたとされる熊野で、一遍は妻子を置き去りにする)

 信者らが一心不乱に踊り念仏していたら、あたりに紫雲が立ち込め天から花が降ってきた。人々に奇瑞の意味を聞かれた一遍は、「花のことは花に問え。紫雲のことは紫雲に問え」と言い放った。タイトルはこの言葉からきている。


コスモス 008






● 一遍は行きたい : 時宗総本山・遊行寺

遊行寺houmotukann


 一遍上人への興味がソルティの足を神奈川県藤沢市まで運ばせた。江ノ島は目と鼻の先である。
 もっとも、遊行寺(清浄光寺)の開山は、踊り念仏と賦算による遊行(全国行脚)をはじめた一遍上人ではなく、全国の弟子たちをまとめて時宗の基盤を作った二祖・真教上人でもなく、四代目の呑海(どんかい)上人である。この人が藤沢の地頭であった俣野氏の出なのである。
 創建は1325年、鎌倉時代末期である。

 小田急江ノ島線で藤沢駅に降りる。
 はじめて降りるが、とても賑やかで栄えている。人も車も多い。人口約42万の湘南の中心都市なのである。
 江戸時代に藤沢宿は、遊行寺の門前町&江ノ島詣の足場として栄え、有名な歌川広重の東海道五十三次にも描かれている。

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 駅北口からその名も「遊行通り」を歩いて20分ほどで、堂々たる門構えの遊行寺に到着する。惣門(正門)からなだらかに延びる桜並木の四十八の石段が‘さすが総本山’という風格と情趣を醸し出している。
 

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 広い境内に入ってすぐ圧倒されるは、大銀杏。樹齢七百年、幹周り710センチある。黄色に色づく姿は圧巻であろう。幹の周囲にベンチがぐるりとこしらえてあり、木陰で一服することができる。
 

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  本堂に面するようにベンチに腰掛けると、向かって右手の樹木の間からこちらを拝みながら前かがみにすくっと立っている僧形が目に入る。
 一遍上人である。

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 寺も組織もつくらず乞食坊主のまま栄養失調で亡くなった一遍の生き方と、奈良や京都の寺に見るような立派な本堂との取り合わせになんとなく違和感を持ちながら、手を合わせ、慈悲の瞑想をする。
 
 生きとし生けるものが 幸せでありますように。
 

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 本堂の右手に回ると、犬猫慰霊塔がある。
 卒塔婆に書かれた愛犬・愛猫の名前がいたいけない。(さすがに戒名はないらしい)    
  

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 本堂の左手に、宇賀神社への入口がある。
 ご本尊は宇賀弁財天で、開運・金運上昇のご利益をうたわれている。
 行かなくちゃ!
 奥まったところにある社は深い緑に囲まれて、そこだけ空間が澄んでいた。
 パワースポット発見!

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 社の裏手に回ってその証を知った。湧き水が出ているのだ。

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 鳥居の前にあったベンチでしばらく瞑想する。
 静かで落ち着く。ここに来る途中の国道の騒音が嘘のよう。

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 境内でもっとも古い建物である中雀門(1859年作)の向こう側が、僧堂や寺務所や信徒会館など、僧たちの日常生活の場となっている。信徒会館から中に入ると、この時期ならではの庭園の美を鑑賞できる。菖蒲園があるのだ。
 書院と渡り廊下に囲まれた中庭に咲く色とりどりの菖蒲。
 良い時期に来たものである。

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 境内の茶屋できつねうどん(500円)を食べる。
 気温は30度を超えているが、風があるので日陰は涼しくて気持ちよい。
 混んでいないのが何よりである。(そのうち‘宇賀神様’で火がつくかもしれない)
 

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 昼食の後は宝物館に。
 一遍上人の遊行の足取りを記した日本地図が目を引いた。北は北上(岩手)から南は鹿児島まで、ほんとうにあちこちを歩かれたのである。
 ちょうどやっていた企画展『発現した姿』とは、賦算のあり方について悩んでいた一遍が熊野本宮をたずねた際、山伏の姿をした熊野権現が現れて一遍を諭したというエピソードによる。
 山伏はこう言った。

「お前の勧めによって一切衆生が往生するのではない。阿弥陀仏が十劫の昔に悟りを開かれたそのときに、一切衆生の往生は阿弥陀仏によってすでに決定されているのだ。信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、その札を配らなければならない」
 
 この言葉に触れて、一遍は画然と目覚めた。
 阿弥陀仏を本地とする熊野権現の神勅を受けたこのときを時宗教団では「一遍成道」とし、開宗の年としている。

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 時宗信徒でなくとも仏教徒なら一遍は行きたいお寺である。

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● 鎌倉時代のヒッピー 本:『捨聖 一遍』(今井雅晴著)

1999年吉川弘文館発行

 一遍および時宗についてはほとんど知らなかった。法然・親鸞・日蓮・道元・栄西ら、鎌倉期のほかの高名な祖師たちの影に隠れてしまっている感がある。歴史の授業で習った「踊り念仏」という言葉は記憶に残っているが、「なんだか巫山戯た坊さんだなあ~」というイメージしかなかった。
 時宗も歴史の泡と消えていったのかと思いきや、なんと現在まで脈々と続いているのである。神奈川県藤沢市にある総本山の遊行寺(藤澤山無量光院清浄光寺)を中心に全国に400ものお寺がある。むろん、今でも踊り念仏は行われている。
 知らなかった・・・・
 もっとも一遍には生前、お寺や教団を作る意図はなかったようである。実質的な時宗の開祖となったのは一番弟子の真教である。
 
 一遍は、延応元年(1239年)、伊予(現在の愛媛県)の豪族・別府通広の第2子として生まれた。
 10歳のとき母を亡くし、父の勧めで天台宗で出家。
 13歳のとき大宰府に移り、法然の孫弟子にあたる聖達の下で10年以上にわたり浄土宗を学ぶ。
 25歳のとき父の死をきっかけに還俗し伊予に戻るも、一族の所領争いなどが原因で32歳で再び出家、信濃の善光寺や伊予の窪寺・岩屋寺で修行する。
 35歳より遊行を開始、各地を転々としながら「南無阿弥陀仏」の六字を記した念仏札を配り始める。この頃より一遍を名乗るようになり、時衆と呼ばれる入門者を増やし始め、のちの時宗の礎を築く。
 40歳のとき信濃国にて踊り念仏を始める。
 51歳のとき摂津兵庫津の観音堂(後の真光寺)で没す。死因は過酷な遊行による過労、栄養失調と考えられる。(ウイキペディア『一遍』を参照)

 一遍の信仰の特色は、次の四つで示すことができる。念仏、踊り念仏、遊行、賦算である。念仏は、もちろん、南無阿弥陀仏と声に出して唱えることである。念仏こそ人生でもっとも大切なことであり、その他衣食住のすべての欲望を捨てよ、と一遍は説いた。・・・・また、すべてを捨てて、ひたすら念仏を唱えていると、しだいに興奮して体が動き出し、踊りだすようになる。これが踊り念仏である。娯楽の少なかった昔、踊るのも、それを見物するのもおもしろく、踊り念仏は大変な人気を呼んだ。
 遊行とは、住居を持たず、各地をめぐり歩くことである。念仏を布教するためである。一遍は16年間、夏の暑い日も冬の寒い日も、日本中を歩きまわった。すべてを捨てて。「捨聖」と呼ばれたゆえんである。・・・・賦算というのは、「南無阿弥陀仏」と印刷された10センチたらずの紙の札を会う人ごとに配ることである。念仏に関心を持たせ、念仏の信仰に入ってもらうためである。

 ひたすら念仏を唱えながら一心不乱に踊ることが、なぜ救いの道につながるのか。
 実際にやってみないことには何とも言えないが、連想するのは、黄色いローブを着て「ハレー・クリシュナ ハレー・ラーマ」とか歌い踊りながら道行く人に布教するクリシュナ意識国際協会の人たちである。詩人アレン・ギンズバーグやビートルズも傾倒したインド出身の尊師A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダによって1966年に設立されたこの団体は、ヒッピー文化の象徴といった趣きがある。ソルティも若い頃(80年代)、新宿駅あたりで独特な躁的オーラーを発散しながら踊っている信者たちを見た記憶があるが、今はどうしているのやら・・・。90年代のオウム真理教事件の影響を受けなかったはずはあるまい。
 ともあれ、敬愛する神や仏の名前を繰り返し唱えながら踊るという点で、時宗とクリシュナ意識国際協会は似ている。たびたび当ブログにコメントをお寄せくださる石井利男さんの示唆によると、「口に神の名を唱え、身体に神を招来し、恍惚として踊り巡るインドのバクティ・ヨーガは、日本における一遍上人の踊り念仏(後の時宗)と深い共通性を持つ」(『仏教とヨーガ』(保坂俊司著、東京書籍)とのこと。

神への純粋な信愛を培い、グルがいる場合はグルを、その他の普遍的な愛の対象がある場合はその対象を、超意識(宇宙的な意識)の化身とみなし、全てを神の愛と見て生きるヨーガ。(ウイキペディア『バクティ・ヨーガ』)

 思うに、すべてを捨てて放浪に生きた一遍はまさに鎌倉時代のヒッピーだったわけで、そこが60年代後半の先進諸国の若者たち(フラワーチルドレン)と時間や空間を超えてシンクロしているのかもしれない。

 一遍は踊り念仏を大いに広めたが、彼自身は偉大な先達である空也上人に倣っただけと言っていた。その理由を著者はこう述べている。

 鎌倉時代の日本では、何か新しい宗教的境地をひらいても、新しい宗教を作ったとして布教することは不可能に近かった。なぜなら、宗教はすべて仏教の範囲を出ることはできなかったからである。いい換えれば、新しい救いの道をひらいたとして、それを正当化するためには仏教の論理や経典、高名な僧を使うことが必要であった。そうすることによってのみ、社会の人びとの支持が得られたのである。これは日本の古代・中世を通じての常識であった。中世末期に伝わってきたキリスト教でも、神(デウス)は大日如来であるとか、仏教教義にのっとった説明の仕方にならざるを得なかったのである。 

 なるほど~
 (鎌倉期に興った仏教は、釈迦本来の仏教はもとより、中国由来の仏教とも、奈良・平安時代の仏教ともずいぶん様相が異なっている。ならば、何も仏教と称する必要はない。親鸞教なり、日蓮教なり、道元教なり、一遍教なりと、祖師自らの名前をつけて新たな教えとして布教すればよい。わざわざ仏教に押し込める必要はない。そんなことするから、日本の仏教は複雑怪奇なわけのわからないものになってしまったのだ。)
 ・・・・・と思っていた。
 だが、上記のような事情があったのである。
 民主主義の、信教の自由のある現代なら、既成の宗教とはまったく世界観(彼岸観)も目的も儀式も語彙も異なる新たな宗教を作り、教団を立ち上げ、教祖になることもできる。たとえば、「‘人生は芸術である’の真理のもと、各人の真の個性を世の為人の為に最大限発揮し、ひいては世界人類永遠の平和と福祉の為に貢献する事を目標とする」PL教団のように・・・。法に触れたり公共の福祉に反したりしない限り、国家から弾圧を受けることもなければ、「破防法」の適用を受けて潰されることもない。
 民主主義以前の日本ではそうはいかなかったのである。新しいユニークな教えを広めるためには、国家から認可・保護されている神道や仏教といった隠れ蓑を必要としたのである。
 この視点から、わが国の大乗仏教の多様性(一見なんでもあり)を捉えないと片手落ちとなろう。

 一遍の残した和歌には含蓄あるものが多い。

みな人の ことありがほに おもひなす
こころはおくも なかりけるかな
(誰でも心には特別なものがあるように思っているが、そうではない。底の浅いものなのだ。)


こころより こころをへんと こころへて
心にまよふ こころなりけり
(自分の心をはっきりつかもうと心で思っても、つかめずに迷ってしまうのが凡夫である自分の心であるのだ。)


をのづから あひあふときも わかれても
ひとりはをなじ ひとりなりけり
(たまたま人と会っているときも、一人でいるときも、一人の人間は一人なのだ。一人で生き、生活し、死ぬのが本来の姿なのだ。)


身をすつる すつる心を すてつれば
おもひなき世に すみぞめの袖 
(自分を捨て、捨てようという心も捨てれば、もう何もこの世のなかに未練はない。そしてそこから新しい人生が広がる。価値観が変わる。)


すててこそ みるべかりけり 世の中を
すつるもすてぬ ならひありとは
(何もかも思い切って捨ててみたら、実は、ほんとうに大切なものは捨てていなかったことがわかってきた。俗世間で貴重だとされている妻子・衣食住を捨てたからこそ、その大切なものが見えてきたのだ。それがわかったのだ。)

 魅かれる・・・・・。




 
 


● 本:『念ずれば花ひらく』(坂村真民著)

2002年サンマーク出版発行。

 房総半島の旅の途上、鵜原海岸で出会った水口修成氏の本を読んで、氏の恩師である詩人・坂村真民を知った。
 いや、ベストセラーとなった真民の詩集は当然書店で目にしていたであろうし、新聞広告でも列車の中吊りでもその名前を見ていないわけがない。しかし、ソルティの関心の範疇には入ってこなかった。箴言風の言葉と味のある書のマッチングという、似たようなキャラを持つ相田みつをは知っているのに・・・。相田みつをが爆発的に売れて、相田があまり好きでないソルティはその「二番煎じ」といった誤解をもち真民を敬遠していたのかもしれない。
 
坂村真民(1909-2006)
本名昴(たかし)。熊本県出身。神宮皇學館卒業。1934年朝鮮に渡る。この頃は短歌をつくっていた。1946年愛媛県で国語教師をしながら詩作に励む。1962年より月刊『詩国』を創刊。砥部町に「たんぽぽ堂」と称する居を構え、教員を辞め詩作一筋の生活に入る。詩はわかりやすく、小学生から財界人にまで愛された。癒しの詩人と言われる。(ウイキペディア「坂村真民」参照)

 本書は詩集ではなくて随筆である。
 坂村真民が自身の来し方をふりかえって、小さい頃の思い出、母親への尽きせぬ感謝と愛慕、青年時代の孤独、様々な人との縁、詩作に対する覚悟、自然への深い愛、そして何篇かの自作の解説など、あふれる思いそのままに熱く語っている。坂村真民という人の来歴や人となりを知るのに恰好の本である。自伝的随筆とでも言おうか。
 真民の熱くて子供のように純粋な語りを読んでいると、くだんの水口修成氏の面影と重なってくるから面白い。いかに修成氏が、高校時代の国語教師であった坂村真民の影響を強く受けたか、あるいは二人の気質が似通っているかが推察される。人との縁を大切にする生き方は、まさに師の衣鉢を継いでいるのだろう。

 97年に及ぶ長い生涯で、真民にもっとも深い影響を与えた人物は、母親をのぞくと次の二人である。
 一人は杉村春苔。尼さんである。名は知られていないが、非常に清らかで、徳高く、他人の病を癒す力を持った不思議な人だったらしい。真民は生き方に迷っていた青年時代に春苔尼(=仏教)と出会い、使徒パウロのように回心したのである。
 いま一人は一遍。時宗の開祖となった鎌倉時代の僧である。衣食住・家族のすべてを捨て、一人で全国行脚し念仏を勧めたことから「捨聖」と呼ばれている。真民は一遍の生き方を手本とした。
 本書ではこの二人に対するひとかたでない感謝と敬慕の念が綴られている。

 さて――。
 ソルティは先日図書館で一遍の伝記を借りてきた。これから読むところである。
 あの日海岸で水口修成氏に声をかけなかったら、坂村真民の本を手に取ることもなく、こうして一遍の本を借りることもなかった。
 そう思うと縁は不思議である。(本当は普段ことさら意識しないだけで、人の行いのすべては縁なのだけれど・・・。) 

 一遍は、自分をどこに連れて行くのだろうか?



念ずれば花ひらく

念ずれば
花ひらく

苦しいとき
母がいつも口にしていた
このことばを
わたしもいつのころからか
となえるようになった
 
そうしてそのたび
わたしの花がふしぎと
ひとつひとつ
ひらいていった

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