ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

三好春樹

● 本:老人介護 常識の誤り(三好春樹著、新潮文庫)

老人介護の常識の誤り 2006年刊行。

 介護職2年目の自分にとって、介護界の革命児からカリスマとなった三好春樹は、輝かしい高みにいる、目指すべき、教えを乞うべき存在なのである。氏の本領である理学療法士としての立場から繰りだされる「高齢者にとっても介護する人にとっても無理のない、自立を促進する介護技術のノウハウ」も「目からウロコの認知症ケア指南」もすぐに仕事に活かせてありがたいのであるが、そうした技術的なことだけでなく、老いや病いや障害やボケをどうとらえるか、どう向き合うか、介護とは何か、医療・看護とは何か、人が生きるのに大切なことは何か・・・・といったより本質的なところまで考えている、考えさせてくれる点でも、他の並み居る介護カリスマ達の追随を許さないものがある。
 本書の裏表紙に詩人の谷川俊太郎の推薦文が載っている。三好とその仕事を紹介するのに、この文章に如くはなかろう。 

 この本は実用書であると同時に思想の書である。三好さんは呆け老人のシッコ、ウンコの視点から人間を考える哲学者だ、現実が見えていない常識や制度に鋭く異議申し立てをする革命家だ、いつも現場で工夫し行動し発言するトリックスターだ、そしてなによりも老人と介護者の真の味方だ。

 三好の本はこれで4冊目だが、いつも思うのは「前向きな人だなあ~」である。
 といって、この「前向き」は、近代的意味でのポジティヴ(positive)とはちょっと違う。いわゆる「前進、成長、向上、進歩、改善、発達」といった言葉で表されるような未来志向の理想主義ではない。病いや障害を治して「健康に、正常に」近づけることを美徳とも使命ともするような「前向き」ではない。言ってみれば、オリンピック主義ではない。
 本書の中で、三好自身、介護分野における「近代」に対する懐疑を再三述べている。 

 残念ながらというか、当然というか、老いと障害には近代医療は無力なのである。むしろ、老いという自然過程や、障害という自然の一部への無駄な抵抗が事態を悪化させてきたようにさえ思える。  
 私たちのマヒの完全治癒への願いの強さは、近代医療への幻想に加えて、生活をマニュアルに頼らず一つ一つ手作りしていかねばならないという課題に直面したくない、という思いもあるのではなかろうか。(※あとに続く)


 私には一抹の疑念がある。というのも、近代科学とは、どうしても人間を非生活的で非関係的にしか見られない限界を持っているのではないかという疑念である。近代とは人間を自発的で個別的な関係的生活から遠ざけ、受身的で画一的にしてしまうという本質をそもそも持っているのでは、という疑念である。とするなら、介護は近代科学という枠を越えていかねばならぬことになるのだけれど。


 日本人は個人として成熟していない、などと批判されるのだが、私はそれは文化の違いにすぎないと思っている。世界の一部でしかない欧米の文化では、自立した個人であることが人間の条件みたいだが、日本を含む世界の大半の地域では、関係の中での相互依存が人間の在りようなのである。


 戦後、自立した個人であることが大切だと教育されてきた世代ほど、自分の“おもらし”とはつき合えないのではないだろうか。老いとは、自立から遠ざかっていく過程だし、個人主義という名の排他主義は介助を受け入れようとはしないだろうから。

 といった発言から明らかなように、介護は――少なくとも三好が考える介護は――近代とはなじまない。
 老いをストップさせて人を若返らせることも、老化に伴う障害や生活習慣病を医療やリハビリによって完治させ元の状態に戻すことも、人を不死にすることもできない話なのだから、先に掲げたようなオリンピック主義は、「焼け石に水、無駄なあがき」とまでは言わないまでも、理想と現実の相克の中で人を疲弊させるばかりである。もっと悪いことに、より良き未来を執拗に追い求める視線が、「いま、ここ」の現実の中にある豊かさを見逃していく不毛につながりかねない。

(先の引用※の続き)
 治るかもしれない、という夢を持つことを批判しようとは思わない。奇跡を待ち望む気持ちもあっていい。しかし、夢や希望はもっと現実的な世界にもあってほしいと私は思うのだ。
 それは夢と呼ぶには具体的な夢であり、奇跡と呼ぶには小さな奇跡にすぎないが、確実に実現できる夢と奇跡なのである。マヒした手足を持ってはいるが、こんなこともできた、という喜びを感じられることや、マヒは治っていないけれどもそんなことは問題じゃないと思えるような時間が得られること、それは可能なのだ。
 その夢と小さな奇跡を作り出すことこそ介護である。

 上手く老いるのに必要なのは、「ありのままの現実を認め受け入れること、その中で自分にできることを人の助けを遠慮せずに頂戴しながら行い、生活の中に喜びを見出すこと」ということになろうか。
 ならば、介護する側にまずもって必要なのは、介護される側がたとえ上手く老いや病いや障害と向き合うことができなくて、怒りや葛藤や後悔や悲しみや抑鬱に囚われていたとしても、「その人をありのままに受け入れる」ことであろう。下手な励ましや慰めや説法は百害あって一利なしである。
 その上で、こうなる。

 介護とは一人一人の個別の状態を把握し、個別のニーズを把んで、マニュアルなんかに頼らない個別のアプローチを創り出していくものなのである。
 私が介護に必要なのは二つのソーゾ-リョク、つまり想像力と創造力だ、と言い続けてきたことの理由はここにある。

 こう見てくると、別記事で取り上げた「浦河べてるの家」や「山谷きぼうの家」の文化に通じるところがある。その精神をアメリカの神学者ラインホルド・ニーバー(1892-1971)の詩に見ることができる。

Father,
Give us courage to change what must be altered,
Serenity to accept what cannot be helped,
And the insight to know the one from the other.


ソルティ訳
神様、
私に変えなければならないものを変える勇気を
どうにもしようもないものを受け入れる静謐さを
そして両者を見分けることのできる智慧を与えて下さい


 三好もまた「変えることのできないものを受け入れろ」とだけ説いているわけではない。「変えなければならないもの、変えられるもの」を果敢に変えようと闘ってきた人である。
 そして、その両者を見分ける分別を持った人でもある。
 老人問題をこう分析している。 

 高齢社会が問題であるとしたら、老人が増えるにつれて、寝たきりと呆けが増えることであろう。このことがまず、本人と家族にとって大問題なのである。社会の側もようやく、一般的に老人が増えるからというのではなくて、この問題の重要性に気が付き始めた。
 寝たきりにならないためにはどうしたらいいか、寝たきりになったときにどうすればいいのか。呆けないためにはどうしたらいいのか。呆けたときどうすればいいのか。この二つの問題さえ解決すれば、「老人問題」なんて言葉から深刻さがかなり消えるはずである。

 慧眼である。
 で、三好は呆けと寝たきりの現状を観察し、その原因を追求する。

 寝たきりと呆けはセットなのである。もしあなたが寝たきりになったとしよう。すると、どんなインテリであったとしても、三年後には呆けてしまっている可能性が高い。

 逆に、もしあなたが呆けたとしよう。すると、どんなに身体が頑健な人でも、三年後には寝たきりになっている可能性が高い。


 呆け老人が寝たきりとセットになってしまう原因は、家の中に閉じ込められること、さらに部屋の中に閉じこめられること、そしてベッドに縛りつけられることにあるということが判る。難しくいえば、生活空間の狭小化、ということになる。


 寝たきりの原因は主体の崩壊にある。手足のマヒはそのきっかけではあるが原因ではない。だって、重いマヒでも寝たきりではない人がいくらでもいるのだから。主体が崩壊して自発的に動かなくなり、その結果、動けない身体になったのだ。順番はそうだ。
 
 なぜ主体が崩壊するのか。・・・・呆けた老人の置かれた生活が、“生活”と呼ぶものに値しないものだったからである。じつは、呆けがあろうがなかろうが、身体に障害があろうがなかろうが、寝たきりの原因が生活にあるのである。


 呆けもまた同じである。物忘れやおもらしをきっかけにしてプライドを失い、閉じこもったり、閉じ込められたりしたことでコミュニケーションの喪失状態が長く続いた結果、脳が萎縮したのである。

 すなわち、寝たきりも呆けも原因は一緒で「生活空間の狭小化」と「人間関係の狭小化」にあるというのである。
 であるなら、正しい対処法は明らかだ。
 介護を必要とする老人の「生活づくり」と「関係づくり」。

 この解答を見出した三好は、寝たきりや呆けやその予備軍の老人たちの生活づくり、関係づくりに精を出し、目覚しい効果を上げていく。その様子が具体的なエピソードと共に本書で紹介されている。効果が上がっているのだから、三好の原因分析は正しかったというべきであろう。
 まさに、「変えなければならないもの、変えられるもの」を変えたのである。


 さて、ここからが本題。
 自分が三好を「前向き」と感嘆するのは、ここから先である。
 生活づくりと関係づくりがうまくいけば、老人たちは――あるいは「人間は」と言ってもよいだろう――幸福に、穏やかに過ごせると信じられる点が、「前向きだなあ~」と感心するのである。
 実際、その二つが揃えば落ち着いて笑顔で暮らせる老人は多いのだろう。とりわけ、「生活」と「関係」の生まれつきの天才である女性たちはそうだろう。老いる以前の若き日々に「生活」と「関係」の充実した日常によって満足していた人々は、そうだろう。
 だが、男性たちはそれで事足りるのか。
 戦後生まれで近代個人主義にかぶれた世代はそれで満足するのか。
 インテリ層はどうだろう。
 自分は・・・・・・不幸にもおそらく満たされない。


 三好はじめ多くの介護のカリスマの本を読んでいると、「生活づくり」と「関係づくり」によって、虚ろな目をして問題行動を繰り返していた老人たちが、笑顔や会話を取り戻してイキイキと自己表現し始める、親身な世話をしてきた介護士に見送られて安らかな最期を迎える、という感動的なエピソードにあふれている。
 それは事実に間違いないだろうし、素晴らしいことだと思う。
 だが、そうやって「蘇った」一握りの老人の背後に、どれだけ多くの老人たちが、介護士の懸命な努力、誠実で優しい対応、創意工夫の数々にも関わらず、寝たきりのまま、呆けのまま、空虚なままに逝ってしまったかを想像する。


 「生活」と「関係」があっても解決されずに残されるものはある。
 それは一言で言えば「意味」である。


 なんのためにこうして老いさらばえ、病いに苦しめられ、なおかつ生きているのか。
 仕事もない、養うべき家族もいない、世俗の大概のことは飽いてしまった、他人の為・社会の為にできることもない。
 なんのために生きているのか。

 この問いには解答がない。
 あるいは、一人一人が自分で見つけるよりほかない。 
 これは「老人問題」をとうに超えたテーマなのであるが・・・。



● 本:『なぜ、男は老いに弱いのか?』(三好春樹著、講談社文庫)

何故男は老いに弱い 2001年刊行。

 「老いに弱い」に男も女もない。
 人は老いに弱い。というより、老いとは弱ることである。「老いに弱い」という表現は同語反復である。
 男が「老いに弱い」と言うときに意味しているのは、だから、男は女に比べて自らの「老い=弱さ」を受け入れることが難しいということである。

 なぜ、男は自らの「弱さ」を受け入れることができないのだろうか?
 それはいったん「弱さ」を認めると「男」でなくなってしまう恐怖が付随するからである。「男」とはひたすら「弱さ」を抑圧する生き物なのである。文化的に、社会的に、歴史的に、そのように構築されてきたのだから仕方がない。男はいつだって闘ってきたし、敵に「弱さ」を見せることはイコール「負け(死)」を意味するからだ。

 もちろん、「弱さ」と無縁な人間なんていない。
 自分の「弱さ」を認められない者(=男)は弱くて、自分の「弱さ」を認めて受け入れられる者(=女)は強い。そういうことだ。
 「弱さ」を受け入れられる女たちは、それを素直に表現し、お互いに繋がりあえて、助け合える。無理をしない。一方、「弱さ」を抑圧する男たちは、弱音を吐けず、困ったとき周囲に「助けて」とも言えず、無理をしすぎて、挙句の果てにパンクしてしまう。
 生物学的にも、男は女より脆弱に造られている。ヒトの基盤は女であって、Y染色体をもった胎児がある段階まで来ると性ホルモンの影響で男に分化する。つまり、男は女より「成る」のに一個余分な操作を経なければならない分、生物学的に不安定な存在なのである。

 男が老いに弱いのは、男が「男」であるから。
 ―というしょうもない結論になってしまった。

 でも、介護のカリスマ三好春樹にいまさら教えを乞うまでもない。
 男が自らの老いと上手く付き合っていけるかどうかは、自らの弱さと上手く付き合っていけるかどうかにかかっている。「男」であることのこだわりからどれだけ解放されるかにかかっている。
 そんなことしてまで、老いと上手く付き合っていく必要はないという意見だってあってよい。「男らしく」死ぬという選択肢もあってよい。平和な世にはなかなかそれが実現できない点がネックであるが・・・。
 その意味では、自殺を「弱さ」の象徴に引きずり落としてしまったことが現代の男達の辛さを生んでいるかもしれない。「自決」や「切腹」や「殉死」や「特攻」ならば、「男」を保って死ねたのに・・・。


 さて、著者が言う「老いに適応しやすい条件」は、以下の通り。
 
①金、地位、名誉と縁がないこと
②進歩主義を信奉していないこと
③「自立した個人」にこだわらないこと


 つまり、近代西欧的価値観における成功者ほど老いに適応しづらいことになる。


 こうして老人介護を仕事とする私たちは、現代が理想としてもてはやす人間像に違和を感じ、世間と距離を取り始める。
 考えてみれば、老いとは人間がヒトという自然に回帰していくことなのだ。老人と毎日関わる介護職は、ちょうど森や海で狩猟する縄文人のように自然と一体化していくのだろう。


 自分も介護職のはしくれである。
 他人を介護することを通じて、日々、自らの老いを受け入れるレッスンをしているのかもしれない。



● 本:『目からウロコ!まちがいだらけの認知症ケア』(三好春樹著、主婦の友社)

20120909認知ケア 2008年発行。

 介護業界のカリスマ、三好春樹の本。
 業界の新参者として日々老人ホームで認知症老人の対応に苦慮する自分にとって、わらにもすがる思いで手にした本である。
 って、ちょっと大袈裟。

 就職してまだ半年にもならないが、認知症の老人たちとのつき合いを通じて得た実感は、「認知症とは、今ここにある現実の自分自身を認知したくないことからくる様々な症状」なのではないかというものである。 

 老いて病んで、他人の手を借りずには日常生活(食う、出す、着替える、風呂に入る)が送れない自分。家庭からも会社からもリタイアして、悠々自適と言えば聞こえはいいが、誰からも必要とされなくなった自分。もはや将来に何の夢も希望も計画も楽しみも持てなくなった自分。お国のお荷物として人様に迷惑かけながら老残の身をさらし、あとは死を待つばかりの自分。
 こういった自分を受け入れるのは辛すぎる。と言って自殺するわけにもいかない。

 いっそのことすべてを忘れてボケてしまえ!

 といって自制のタガをはずすのが認知症の正体なのではないか。


 もちろん、脳の萎縮といった生理学的な原因もあるだろう。年を取れば記憶力をはじめとする様々な精神機能が衰えるのも自然だろう。
 しかし、それが徘徊や暴力や見当識障害や被害妄想などの認知症特有の問題行動に即つながるとするのは早計である。なぜなら、多少ボケてもそれなりに落ち着いた暮らしをしている老人はたくさんいるからだ。

 こんなふうに感じたのも、施設に収容されて全員一緒の同じ日課を強いられている老人たちを見ていると、「つらいだろうな~」「しんどいだろうな~」と思わざるを得ないし、ある程度「自分」をまだしっかり保っている老人を一対一で介助している最中、ほとんどの人が絶望の嘆きを漏らすのに直面するからである。
 と言って、自分の勤めている施設やそこの介護の質が特段悪いわけではない。
 今の日本社会で、地域で、家庭で、老人達が置かれている環境が悪いーというか、昔とすっかり変わってしまったのが大きな原因だと思う。
 簡単に言えば、老人は敬われなくなった。


 一人前の介護職っぽいことを言ったが、この本で著者が述べていることも自分の実感とそう変わりはなかった。
 三好は、認知症の原因として挙げられているいくつかの説(脳の病気、遺伝子、個人の性格、これまでの生活環境)について検討を加えながら、次のように結論づけている。

 「認知症」は、老いていく自分を認めることができなくなったことから起きる、と考えるのが一番だろうと私は思います。老いていく自分を認められない老人が、障害による機能低下、人間関係の変化などをきっかけとして起こす「自分との関係障害」です。


 自分との関係障害。
 なんてうまい言い方をするのだろう!
 「これまでの自分(かくあった自分)」と「いまの自分(かくある自分)」との落差による葛藤、混乱、落ち込み、否認。
 としたら、落差の大きい人ほど、自我の強い人ほど認知症状もひどく顕れるという仮説が成り立つ。
 う~ん、そうかもしれない・・・・。


 重要なのは、しかし、原因追求よりも介護のコツ、目の前の認知症老人にどう対応するかである。

 介護の側が目ざしているのは、「認知症」そのものを治すことではなく、老人が落ち着き、日々の生活を安定して送れることです。徘徊や異食(食べ物ではないものを口にする行為)などの問題行動が見られたら、その原因を探り、対応を考えていくのです。逆に、「認知症」であっても、問題行動がなく、落ち着いて生活できていれば、それでいいということになります。

 ここで著者は、国際医療福祉大学の竹内孝仁氏が提唱し、介護現場で共感を持って受け入れられた認知症の3つのタイプを紹介する。

葛藤型 ・・・情緒不安定で怒ったり、おびえたりする。暴言を吐き、ときには暴力を振るう。若くて社会的地位もあったかつての自分と、老いて介護してもらっている現在の自分との間で、葛藤が起きている。
 効果的な対応は、役割づくりと理解者の存在。


回帰型 ・・・見当識障害と徘徊を主な症状とする。現在の老いた自分ではなく、かつての人から頼られていた自分に帰っている。
 「ここは自分のいるべき場所であり、現実の老いた自分が自分であり、それでもいいのだ」と思ってもらえるような“いま、ここ”をつくり出すことがケアの目標。

遊離型 ・・・問題を起こすわけではないが、自分からは何もしなくなる。現実がから遊離して無為自閉している。
 効果的なのは、みんなで楽しむ多彩な刺激とスキンシップ。「生きているんだ」「生きていてよかった」と実感してもらえるような生活や体験をしてもらうことが目標。

 もちろん、すべてのケースが3つのいずれかに簡単に分類できるものではなく、「混合型」や「移行型」もあると言う。

 この分類、現場で働いている人間の実感として確かに頷けるところが多い。
 「ああ、会社社長をしていたAさんはまさしく葛藤型だ。突然怒りだすし。」とか、「専業主婦で家事が得意だったBさんは回帰型だ。夜になると徘徊が始まるし。」とか、「一日フロアのテーブルで虚空を見つめてボーっとしているCさんは遊離型だな。」というように、うまくあてはまるケースがすぐに思い浮かぶ。 
 これを知っただけでも、この本を買った価値があった。


 他にも非常に啓発的な文章があった。

 専門家がよく言う言葉に「自己決定」があります。介護で最も大切なことは、老人の自己決定を大切にすることだというのです。しかし、老化や惚けは、その自己が解体されていく過程です。何も決定しなくなった認知症老人に対しては、どんな介護をすればいいのでしょうか。
 そのときは、介護者自身がどうあってほしいか、さらにはどうしたらいいかを老人にぶつけるべきなのです。「自己満足じゃないか」といわれるかもしれません。でも、自己嫌悪よりはマシです。それが老人の要求に沿っていたかどうかは、なにより老人の表情で判断できるはずです。


 介護とは、要介護者を主体とした、その人のための生活づくり、関係づくりです。

 介護職の適性を考えるとき、男女を問わず「母性」が大切な要素になることは以前から指摘されてきました。それは、「いまよりよくなる」ことを求める医療とは異なり、「いまあるがままを認める」介護では、「条件をつけないで受け入れる姿勢」が求められるからです。
 「無条件で受け入れる」ことは、母性の基本です。介護の専門家は、豊かな母性のうえに専門性が付加されている人でなければなりません。


 自分はどうだろう?
 世間一般の男より母性はあると思うが。
 人の「あるがまま」を受け入れるには、まず自分の「あるがまま」を受け入れられることが大切だろう。

 難しいな。




● 本:『老人介護 じいさん・ばあさんの愛しかた』(三好春樹著、新潮文庫)

じいさんばあさんの愛し方 介護関係の本を読んでいると必ず出てくる名前が「三好春樹」である。
 どこの業界でも「この人の名前を知らないのはモグリ」みたいな人がいるものだが、どうやら今の日本の介護業界のキーパーソン、カリスマであるらしい。
 新潮文庫に著書が2冊(もう1冊は『老人介護 常識の誤り』)入っていることからも、それは知られる。

 面白いのはこの人のプロフィール。
 中卒なのである。高校中退して、数々の職業を経た後に特別な思いもなく老人ホームに就職。そこで介護の面白さに目覚めて、31才で理学療法士の資格を取得。35才で独立し、「生活とリハビリ研究所」設立。今では全国を回って講演に研修に引っ張りだこである。
 介護の世界は、学歴も性別も資格も(加えて年齢も)関係ないということを、身をもって教えてくれる人だ。
 本の中でも「資格より脂質」(変換ミス)「資格より資質」と言っている。
 この資質っていうのが曲者である。

 一体、介護職に向いている資質とはなんだろう?
 老人と仲良くなれること。
 では、老人と仲良くなるとはどういうことか?
 老いと、死と、仲良くなれること。

 人は誰でも老いる。そして、死ぬ。
 これだけはどんな人にも平等にやって来る。頑張ってはいるけれど吉永小百合も老いる。森光子や黒柳徹子もホリエモンもイチローもビル・ゲイツも芦田愛菜も、老いて死ぬ。こればかりはお金ではどうしようもできない。(多少引き延ばすことは可能だが)
 だから、「老い」と「死」と上手につきあえる人ほど、人生の最期は幸福と言えよう。
 そして、自分自身の老いや死と上手くつきあえない人間が、他人のそれとつきあえるはずがない。


 この本の中には、思わずメモしたくなるような老いや介護に関する名文句が散見する。
 それらの多くが、一見、逆説や常識の裏返しのような形を取るのは、この社会の一般常識、健常者の世間的価値が、老いの文化を全く含んでいないところに成立しているからにほかならない。
 いくつか紹介する。(以下、本より引用)


・年を取ると個性が煮詰まる。
 人間が丸くなるどころか、人格が完成するどころか、年を取ると個性が煮つまるのだ。真面目な人はますます真面目に、頑固はますます頑固に、そしてスケベはますますスケベに。


・臭いのは三日で慣れる。 
 初めてオムツ交換を体験すると、昼食は口に入らないに違いない。しかし、人間というものの適応力はすばらしいもので、本当に三日目には、カレーライスを食べながら「○○さんの便、ちょうどこんなふうだったわよ」なんて言ってるのである。


・人が元気を出すには仲間が必要
 なにしろ、家族も、やってきてくれる人たちも、老人から見ればみんな自分より若くて元気な人ばかりである。となると“世界で一番不幸なのは自分だ”という気持ちになっても不思議ではない。人が元気を出すには仲間が必要なのだ。自分と同じように年をとっており、同じように障害を持っている人との、横の人間関係が必要なのである。


・ボケていない人のケアの方が大変
 「ボケの人はちゃんと関わればちゃんと落ち着いてくれる。ボケてない人は変なプライドがあったりして、けっこうストレスなのよね」(宅老所スタッフのセリフ)


・人物誤認も関係のうち
 デイサービスにはスタッフも利用者もいろんな人がいる。そのうちの誰かとウマが合えば、つまり無意識的コミュニケーションが成立すれば、なんとか落ち着いていられるのである、もちろん次の日にはもう忘れているが、いうまでもなく記憶なんてのは意識的世界のものである。無意識の世界で何かが蓄積され豊かになっていくにつれて、ボケ老人はちゃんと落ち着き、笑顔が出てくるようになるのだ。

・「正しさ」と「明るさ」の違和感
 正しくなくてはならないのなら、多くの老人たちの人生は過ちだらけだった。私のこれまでの人生ももちろん過ちだらけだ。明るくなければならないのなら、老人の多くが抱え込んだ暗さはどうなるのか。明るい光の世界からはその影の部分は見えないのではないだろうか。それじゃ老人と付き合えないだろう。


 現場で当事者と向き合って来た人の言葉には説得力がある。


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