ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

中村元

● 犀の角 仏教講演会『結果を出すチーム力』(講師:アルボムッレ・スマナサーラ)

 11/7(金)中野ゼロ 日本テーラワーダ仏教協会主催の月例講演会。

 いつものように開始間際に会場に入って席に着き、おもむろに周りを見渡し、なんとなく変な感じがした。
「なんだ?」
 しばらくしてハッと気がついた。
「男が多い!」
 会場にいる約300名のうち9割以上が男性である。
 いつもは男女半々くらいか、若干女性のほうが多い印象があるのに・・・。
 いったい、どういうことか。
 スマナ長老に急に男性ファンが増えたのか?
 女性会員に人気のイケメン僧侶が、どこか別のところで法話をおこなっているのか?
 何か女性会員に総スカン食うようなことを事務局がしでかしたのか?
 ・・・・・と、数秒のうちに様々な憶測が頭の中を駆けめぐったが、答えは単純であった。
 本日のテーマ、副題は「元気な組織、ダメな組織」。
 男は組織論が好きなのである。
 これが「仲のいいグループ、仲間割れするグループ」とでも副題を立てれば、おそらく女性参加者がもっと増えたであろう。

 話の内容は、まさに組織論で、上手くいく組織のあり方というものを仏教的観点から説明するものであった。

 今回、もっとも面白かったのは、原始仏教経典『スッタニパータ』の中の有名な「犀の角」の解釈についてであった。
 『スッタニパータ』は数多い仏典のうちもっとも古く、お釈迦様の言葉を最も忠実に伝えているものとみなされている。邦訳では岩波文庫から中村元氏の訳により『ブッダのことば』というタイトルで出ている。
 「犀の角」の教えは、その最初のほうに出てくる。
 

あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。況や朋友をや。犀の角のようにただ一人歩め。(岩波文庫『ブッダのことば』)

 という偈(げ=詩句)から始まって、

今のひとびとは自分の利益のために交わりを結び、また他人に奉仕する。今日、利益をめざさない友は、得がたい。自分の利益のみを知る人間は、きたならしい。犀の角のようにただ独り歩め。(同上)

 という偈まで、41ある偈の末語がすべて「犀の角のようにただ独り歩め」で終わる。
 岩波文庫の中村元氏の解説を読むと、こう書いてある。 

「犀の角」の譬喩によって、「独り歩む修行者」「独り覚った人」の心境、生活を述べているのである。 「犀の角のごとく」というのは、犀の角が一つしかないように、求道者は、他の人々からの毀誉褒貶にわずらわされることなく、ただひとりでも、自分の確信にしたがって、暮らすようにせよ、の意である。(同上) 


 これに対してスマナ長老は異を唱えた。 

「犀の角」は聖者が自らの心境を語ったものです。「汝、~せよ」と他人に命じるものではありません。

 原始仏教経典は古代インドの俗語であるパーリ語で伝えられているのだが、その厳密な文法解釈から、末尾は命令形ではないと言うのである。
 すなわち、悟った人(=聖者)が己の心のありようを披瀝した独白(モノローグ)であって、弟子たちや在家信者に「このように振る舞いなさい」と説いているものではない。
 上記の最後の偈を、スマナ長老は次のように和訳した。

人は何かの理由あって人づきあいする。自利を目指さないつきあいは珍しい。自利のみを目指す人間は不潔です。聖者は犀の角のように独り歩む。  

 中村元氏の訳とは、かなりニュアンスが違ってくる。
 中村訳だと、「人づきあいにおいて自分の利益をめざさないような人は少ない(特に今日では)」という意味になる。スマナ訳だと、「(いつの世にあっても)人は自分の利益をめざして人づきあいするものである」と解釈できる。
 中村訳は、世俗の人間関係のありようを嘆いているようにとれる(『徒然草』の吉田兼好風に)。スマナ訳は、人間存在のありよう(=無明)を根源において喝破している。
  すごい違いだ。

  よくよく考えるに、スマナ訳の否定できなさが痛感される。
 人が誰かと付き合おう(仲良くしよう、関わろう)とするのはなぜか?
1. それによって物質的利益が得られる。
 例.金持ちとつきあって贅沢ができる。
   上司に可愛がられて出世して収入増。
2. それによって精神的利益が得られる。
 例.恋人ができて心や性欲が満たされる。
    家族ができて生きがいができる。
    友達ができて寂しさや退屈が満たされる。
    有名人と知り合って友人に自慢できる。
3. それによってスピリチュアルな欲求が満たされる。
 例.他人に奉仕(ボランティア)して自己イメージがUPして気分がいい。
    世界を救うために自己犠牲を払い、自分の存在価値が生み出せる。
    見知らぬ人に親切にすることで善業を積み、極楽往生できる。

  人が誰かと関わろうとするのは、究極的には「自分のため(エゴのため)」であるというのは、心の奥の奥まで覗き込んで正直に分析するならば、ごまかしようのない事実である。
 聖者はそのことを知っているから「独り歩む」のであろう。
 聖者でない我々は、せめて「相手のためにやっています」と言いたがる表面的な動機の底に潜むエゴの声を自覚(自己覚知)しながら、「100%自分のため」よりは、「70%自分のため、30%世のため人のため」を目指して、人と関わっていきたいものである。 



● 輪廻転生と無我 本:『「老い」と「死」を語る』(中村元著、駒澤大学出版会)

中村元「老いと死を語る」 長い間、日本で仏教の大家と言ったら、瀬戸内寂聴でも五木寛之でもひろさちやでも、ましてや大川隆法でもなく、中村元(はじめ)であった。
 その地位に氏を登らせたのは『ブッダのことば』『真理のことば・感興のことば』『仏弟子の告白』など岩波文庫の仏典邦訳シリーズであろう。氏の他の業績は知らないが、岩波文庫で仏典を邦訳する(できる)というのは、他の追随を許さぬその道のエキスパートであり、自他共に認める仏教理解の泰斗であることを意味している。
 正確に言えば、中村氏は僧侶ではなかった(たぶん)から「仏教研究の大家」と言うべきなのかも知れないが、仏の教えを実際に生きる人(=悟りをひらいた出家者)の姿は大衆の目にはあまり触れないから(たとえば108歳まで婬戒を守り修行一筋に生きた永平寺の宮崎奕保禅師)、世間的には「仏教に詳しい人=仏教の大家」という理解になるのも無理はない。もっとも中村元氏は仏教を研究していただけではなく、仏教徒として智慧と慈愛に満ちた半生を送った人であるらしい。(1999年逝去)

 そんな中村氏が「老いと死」を語るというのだから読まないわけにはいかない。書店で見つけ即買った。

 期待して読み始めたのだが、内容は「ブッダは老いについてこういうことを言っている」「死についてこの経典ではこう書かれている」といった仏説の紹介に終始していて肩すかしであった。仏教を生涯研究し続け、85歳(当時)という「老い」の真っ直中にいて「死」を目前にしている中村氏の、個人的な感慨なり覚悟なり達した境地なり老死を前にまざまざと知った仏説の真意(深意)なりが吐露されているかと思っていたのである。
 どこかの講演録をテキスト化したものなので、講演時間やテーマや対象者のレベルの関係もあって仏説紹介レベルにとどまったのかもしれない。あるいは、仏説そのものが個人の見解と一致するほどに、もはや「我」を表現することなど思いも寄らないほどに、仏教徒としての中村氏の心のありようが澄んでいたのかもしれない。

 そんななかで、一箇所引っかかる部分があった。
 それは輪廻転生をめぐる説明である。
 中村氏、こう言っている。
 

  仏教では、輪廻ということを説きます。そうしますと、結局、仏教も輪廻の主体を説くことになるのではないかと、疑問に思われる方もいるかと思います。しかし一方で、仏教は無我ということを説いています。この両説はどういう関係になっているのでしょうか。
 仏教がなぜ、輪廻ーー生まれ変わるということを説いたかというと、当時、インド一般の民衆は信仰として生まれ変わりを信じていました。ジャイナ教でも、他の宗教でもそうです。ですから、民衆を教化するためには、それを一応承認したというわけです。本当のところは、イエスとも、ノーとも言えないのです。つまり一方では、生まれ変わる、輪廻の主体があるということを言い、片方では死後に霊魂があるともないとも言えないという。両者は矛盾しているわけです。
 ところで、それはおかしいことなのでしょうか。いやそれは構わないのです。なぜかと言いますと、仏教では人間の心の奥にあるエゴイズム、元々人間にある我執にとらわれないようになれということを教えることが第一の目的であるために、その手段としてこのようなことを言ったからです。

  
 ブッダが輪廻転生を説いたのは、輪廻転生を信じる当時の民衆に仏教の真髄「我執にとらわれるな」ということを教えるための手段として、つまり方便であったと言っているのである。


 これは違う。

 ブッダは輪廻転生を自らの確かめた事実として語ったのである。方便なんかではない。中村氏自身が訳した『真理のことば』(ダンマパダ)にちゃんと書かれている。

 わたくしは生涯にわたって生死の流れを無益に経めぐって来た。家屋の作者をさがしもとめてー。あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。
 家屋の作者よ! 汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。(岩波文庫『真理のことば』153,154の偈) 


 これはブッダが菩提樹の下で悟りをひらき、輪廻から解放された安堵と喜びを表現した言葉である。家屋とは「人間の個体」のことである(と中村氏は注を付している)。
 さらに、ブッダはこうも言っている。
 

 二軒の家の間に立っている人が、その家人たちが一方の家から出てもう一方の家に入ったり出たりするのをありありと観察することができるように、私は生命の転生を知る天眼通によって、衆生がカルマに牽かれて善い境遇や悪い境遇に転生することを、そして、それぞれの転生先で優劣美醜の差を得ることを知っています。・・・・比丘たちよ、このことを私は、他の沙門やバラモンたちから聞いて語っているのではありません。そうではなく、私が自分で知った、自分で見た、自分で体験した、そのことだけを私は語っているのです。(中部130) (藤本晃著『悟りの階梯』、サンガ)


 「比丘たちよ」と語っているところに注目してほしい。
 ブッダはこの言葉を民衆に向かって言ったのではない。出家して比丘サンガに入って解脱を目指して修行している比丘たちに対して言ったのである。

 中村氏はなぜこんな勘違いをしたのだろう?


 客観的に(科学的に)証明できない輪廻転生という現象について、そしてブッダが輪廻転生を事実として認めたということについて、すんなりと受け入れたくない気持ちはわからないでもない。西洋近代思想に囚われた現代人にとって、科学的に証明できないことや自然科学の法則に反することは簡単に信じてはならないことであり、眉唾であり、「オカルト」に属することである。それを単純に信じ込んで周囲に吹聴する人間は洗脳されやすい「危ない」人間とみなされてしまう。いろいろな宗教団体が起こす突飛な事件がその見解の正当性を裏付けていく。
 ブッダ及び仏教を奉じる自分自身を、そんな「オカルト」一派に仲間入りさせたくないという気持ちが、仏教の中の「諸行無常」「諸法無我」「一切皆苦」「慈悲喜捨」は良くとも「輪廻転生」はちょっと・・・・・という言説をつくっていくのかもしれない。
 他の宗教に較べると、極めて論理的で精密で実証主義を重んじ「最先端の科学的知見」との整合性すらも獲得しつつある仏教の、唯一の突っこみどころが「輪廻転生」であり「神、悪魔についての言及」なのである。それあるかぎり仏教は結局「天地創造」「処女懐胎」「復活」を唱えるキリスト教(のナンセンス)と大差ないということになってしまうのだから。

 自分も仏教を学び瞑想実践するようになって数年になるが、仏教の中でもっとも理解できない部分がこの「輪廻転生」であった。
 仏典に出てくる「神と悪魔」の存在についてはそれに較べればどうということはない。よく解釈されるようにそれらを修行者の「心の声(良心と誘惑)」とみなすこともできるし、「神」を修行を励ますサンガの仲間達、「悪魔」を修行の邪魔をする俗世間の比喩としてとらえることもできる。ブッダや比丘たちの無意識が投影された集団幻覚であってもよい。なんなら、人間とは別次元に住む存在(幽霊、妖怪、宇宙人e.t.c)としたってよい。
 つまるところ、神や悪魔の存在はブッダの教えそのものについてはほとんど関わりをもたないからである。それこそ、「教え」を効果的に大衆に伝えるための演出、修飾、誇張と位置づけることも可能である。
 一方の輪廻転生は厄介である。たんなる比喩や誇張ではすまされない。

 ポイントは二つある。

 まず、輪廻転生(生まれ変わり)という現象自体があるのかないのかという点である。
 前世のことを鮮明に記憶していている人物がいて、第三者が調査してみたらその人の証言通りの事実が過去にあったという、まさに生まれ変わりとしか思えないようなケースも調べればたくさんある。有名なところではダライ・ラマがそうである。
 「無我」(「自分」という感覚は幻想である)が現代科学によって証明されてきているように、輪廻転生もいつの日か科学的に納得できる説明がなされる日が来るのかもしれない。その日まで事の真偽を保留にしておくのが賢いのだろう。ブッダが言ったからといって無条件に信じる必要もない。
 結局のところ、輪廻転生があるかないかという問題は仏道修行そのものにはまったく影響しないからである。というのも、ブッダのような天眼(超能力)を持たない一般人にとっては「来世でいいところに生まれたいから修行する」「永遠に続く輪廻転生の苦しみから解脱したいから修行する」というのは修行の理由にはならないからである。前世を見る能力がないのに来世の幸福のために修行するというのはナンセンスである。自分で確かめていないことを、ブッダが言ったからといって頭から信じ込んでいるのはまさに「信仰」であって、それこそまことの仏教徒の態度としてはふさわしくない。
 また、輪廻転生が実在するとして、ある人が今生での修行の成果によって来世で良い境遇に生まれたとしても、来世にいる当人は前世(今生)のことを覚えていないのが普通だから、「前世で頑張って修行しておいて良かった。来世のために今生も頑張って修行しよう」とは思わないだろう。今生で酷い悪行を犯し、それが露見せずに罰を受けることなく死んだとする。その報いを来世で受けるのは、記憶がつながっていない限り(天眼を持っていない限り)、今生の「自分」とは別人格の「他人」である。
 つまり、輪廻転生という現象はそれを見る能力がない人にとっては、何ら意味を持たないのである。そこに左右されることは馬鹿らしい。
 仏道修行の目標は「修行によって智慧を開発し、煩悩を減らし苦しみを無くすこと」である。輪廻転生のあるなしはとりあえず棚上げしておけばよい。

 次のポイント。
 ブッダの言うとおり輪廻転生があるとして、「では、いったい何が生まれ変わるのか」という点である。先に挙げた中村元氏の言葉の最初の部分に集約されるように、「生まれ変わりがある(輪廻転生)」と「永続する主体は存在しない(諸法無我)」は矛盾するように見える。
 この禅問答のような謎は、仏教を学ぶ者にとって長い間解きほぐせない難題であった。

 繰り返すが、釈尊は無我説、つまり人をはじめ、物には不滅の霊魂は存在しないとする説を立てたが、この立場からは、一般にいう輪廻思想はでてこない。なぜならば、輪廻するには輪廻する主体がなければならないからである。輪廻の主体は霊魂であると古代インド人は考えていたのだから、釈尊の無我説からは輪廻思想は生まれてきそうもない。
 では、輪廻を否定したのだろうか。そうとも言い切れない。(田上太秀著『仏陀のいいたかったこと』、講談社学術文庫)


 後生の仏教徒は、ゴータマ・ブッダのこの姿勢が結局わからなかった。無我説は、有我説と、不毛な水かけ論が延々と続くという事態を招いた。また、輪廻の主体としてのアートマン(ソルティ注:「我」)がないなら、輪廻転生や因果応報をどう説明すればよいのかという問題の解決に大いに苦心することとなった。とてもではないが無理なことを説明するために、多大な学問的努力が払われた。皮肉なことに、それゆえ仏教「哲学」は、千年の長きにわたって、インドの哲学界をリードしつづけることができたのである。(宮元啓一著『ブッダ 伝統的釈迦像の虚構と真実』、光文社文庫)


 この謎、矛盾が、テーラワーダ仏教を学び瞑想を始めたばかりの自分の大きなジレンマであった。瞑想をしていても、ともすればこの謎が頭を占めてしまい集中できないこともあった。
「いったいブッダは、なぜ何が輪廻転生するか、はっきり言わなかったのだろう?」
 上に書いたように輪廻転生のあるなしは問題ではなかった。あるならあるでいい。とりあえず修行には関係ない。
 問題は、輪廻転生する主体の存在を否定しておきながら輪廻転生を説いたブッダのスタンス(真意)がわからないところにあった。こんな矛盾することを平気で語っているブッダのアバウトさに困惑したのである。ブッダの生きていた時代、この謎について質問した修行者もいたようだが、ブッダは明確には答えなかった。
 輪廻転生のあるなしより、それについて整合性ある説明がないことに、中村先生同様、自分も戸惑ったのである。「こんないい加減なことを言いっぱなしにするなら、仏教も信用できない」と思いかねないほどに・・・・。


 しかるに、テーラワーダ仏教のスマナサーラ長老はこう述べている。
 

 みんながもっているのは、私という変わらない何かのサブスタンスが、死後あちこちに引っ越しするというような理解ですね。そんな原始的な話ではありません。個といえるもの、常住不変の魂・霊魂のような実体は成り立たないのだと、仏教は厳しく語っています。無我説があったうえでの輪廻の話です。輪廻を理解したければ、「難しいもの」とお釈迦さまが注意された、因縁法則を理解することになります。
 しかし、心配いりません。解脱に達しようと思って実践を続けると、ものの見事に自分で発見するのです。・・・・・・・
 端的にいえば、「無常がわかれば、輪廻がわかる」ということです。今の現象は瞬時に消えて、新たな現象が生まれる。それは限りなく続く。輪廻とは変化し続けるのだという意味の言葉です。
(アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉対談『出家の覚悟』、サンガ)


 無我説があったうえでの輪廻。
 実践を続けると、ものの見事に発見する。


 中村氏は仏教の研究者としてはまぎれもなく超一流であったが、実践者としては道半ばだったのだろうか。 (他人のことはほっとけ←ギャグ)


 それにしても、そもそも「輪廻転生には主体が必要」と考えるのはなぜだろう?
 そう考えるのは「誰」だろう?



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