ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

介護の仕事

● 介護の仕事14 センチュリーパワー(Century Power)

 勤め先の老人ホームに101歳の女性がいる。
 P子さんとしよう。

 P子さんはアルツハイマー認知で大昔のことは覚えているが、昔のことや最近のことやちょっと前のことは思い出せない。歩行は厳しいので移動のときはスタッフが車いすを押している。固形物はもはや体が受け付けないようで、スタッフが介助で口に入れても戻してしまう。プリンやゼリーや甘みのついている高カロリー栄養剤を少量補給するのがせいぜいである。 
 そんな状態でも日中は食堂のご自分の席でバッチリと目を開けてスタッフの動きを物珍しそうに見ておられるし、耳元で大声で呼びかければ返事もするし、調子のよい時は近くの席の人を相手に昔話を始める。風邪で寝込んだり、肺炎で入院したりということもない。いたって元気なのである。
 なんでも家が地方の庄屋だったらしい。繰り返される昔話の中に、「お手伝いさんがね・・・」とか「女学校の送り迎えのときに・・・」とか「家の蔵の中に着物がたくさんあって・・・」なんて言葉が当たり前のように出てくるのを聞いていると、箱入り娘として下にも置かず可愛がられた着物姿の少女が思い浮かぶ。長生きで健康なのは育ちの良さから来るのかもしれない。
 今でも風貌はお嬢様というか「おひいさま」の名残をとどめている。豊かで艶があり櫛どおりのいい白髪、染み一つない白い肌、こじんまりした品のいい目鼻立ち。若い頃は相当の美人であったろう。他人の話には興味を持たず自分の話だけ一方的にするあたりも、単に加齢や認知のせいばかりではないのかもしれない。ほうっておいても周りがチヤホヤしてくれたのだろう。
 
 100歳を超えると人間は天使になる。存在するだけで「奇跡がここにある」といった印象が生じる。80歳以上の高齢者があまた集う中でも別格といった雰囲気が漂う。何を言っても、何をやっても、もう憎まれるとか邪険にされるということがない。介護拒否が強くスタッフを悩ませムッとさせる90歳のうるさがたの婆さんが、101歳のP子さんの前ではしおらしくしているのを見ると、「世紀の力(century power)」ってすごいと思うのである。そのうえ、P子さんの場合、可愛らしい容貌とアルツハイマーならではの無邪気でトンチンカンな語りの持ち主なのだから、スタッフ人気は絶大である。20~30代の若い女性スタッフの間では「P子さんって可愛い」というのが口癖である。むろん、男性スタッフも同じように心の中で思っているだろう。「あと80歳若かったらなあ・・・」とか(笑)

 先日、出勤したソルティは、担当フロアを回ってご利用者一人一人に挨拶をしていた。P子さんの席まで来た。
「P子さん、おはようございます。今日もよろしくお願いします」
 そう言って頭を下げると、P子さんはこちらをまじまじ見つめてこう言ったのである。

「あら、可愛い坊やだねえ~」

 周囲は大爆笑。
 齢五十を超えて「可愛い坊や」とは!
 世紀の力は凄い。


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● やれ打つな :初期仏教月例講演会『思いやりを育てる~相手の立場を理解するシュミレーション~』(スマナサーラ長老指導)

日時 12月 17日 (土) 14:00~
会場 日暮里サニーホール(荒川区)
主催 日本テーラワーダ仏教協会

 ここ数日、ハエに悩まされていた。
 何の拍子で部屋に入り込んだかは知らぬが、ご飯を食べてたり、こうしてパソコンに向かっていると、頭や顔の近くをヴンヴンと飛び回り、うっとうしくて敵わない。寒気が入るのも仕方なく、部屋の窓をしばらく開け放しておいたが、いっこうに出てゆこうとしない。
 不思議なのは、こちらが寝ているときと瞑想しているときは羽音が止むのである。もっとも邪魔されたくないこの二つを尊重してくれているらしいので、しばらくほうっておいたのだが、ある晩ブログを書いていると、パソコンの画面やキーボードに止まったり、わざわざこちらの目の前をこれ見よがしに通過したりと、あまりに十二月蝿(うるさ)いので、退治しようと決意した。不殺生戒(=生き物を故意に殺してはならない)を破るのは本意ではないが、軽く叩いて意識を失わせて床に落ちたところをティッシュでつまんで外に追い出そう。――実際にはそんな上手い具合に力加減を緩めるのは難しいから、まかり間違って叩き殺してしまっても「殺すつもりはなかった」という言い訳を用意しておきたかったのだ。
 手近にあった大学ノートを丸めて筒を作った。
 そこから数分間のハエとの攻防が始まった。
 なんだか実に賢いというか「できる」ハエで、こちらが居場所を見つけてノートをゆっくり構えた瞬間に飛び逃げる。明らかにこちらの殺気か視線を敏感に察している。なるべく殺気を出さないよう平常心を保ち、直前まで明後日の方向を見ていたりするのだが、どうしても0.5秒遅れで逃げられてしまう。
 しまいには仏壇に入り込んだ。
 それは、ソルティが毎朝線香をあげ、経を読み、慈悲の瞑想を唱えている仏壇で、中にはミャンマーの友人からもらった小さなお釈迦様の像と、ポー・オー・パユットーの『仏法』の本と、スマナサーラ長老が編纂した『ブッダの日常読誦経典』(どちらもサンガ発行)と、塩を敷きつめた線香立てが置かれている。部屋の中で一等の聖なる空間でありパワースポットであり、ハエの立場からすれば最高のアジール(避難所)である。
 いくら無慈悲なソルティでも、そこに入り込んだハエを叩き殺すことはできない。あきらめるよりなかった。
 翌朝、顔の周りで唸るハエの羽音で目が覚めた。
「ちっ。寝ているときはほうっておいてくれるんじゃなかったの?」
 手で追い払って気持ちのいい惰眠を貪ろうとすると、またしてもやって来る。
「ったく、なんだよ、いったい」
 怒りモードで身を起こし、壁時計を見てハッとした。
「いかん。約束に遅れる!」
 人と会う大事な用件があったのに目覚ましをセットしていなかった。
 すぐに着替えて、朝飯もとらず家を出た。ぎりぎりの列車に間に合った。
 あとちょっと寝過ごしたら、約束に遅れるところだった。

ハエ

 
 今回の講話のテーマは、「どうしたら相手のことが理解できて、適切な関係を結べるか」というものだった。
 結論から言えば、①自分がして欲しくないことは相手に対してやらない、②慈悲の瞑想を行って相手の幸せを願う、といったごく当たり前のことになる。
 ここで‘相手’というのは人間に限らず、すべての生命についてである。
 
 生命は自分に対してプライドを持っています、対等に接してほしいと思っています。
 
 ハエもまた然り。
 その正体は、「ハエ」という形態と生態と名前をもった「生命」であって、それはソルティが「人間」という形態と生態と名前をもった「生命」であることと、まったく変わりはないのである。ハエもソルティも輪廻転生によって変幻してゆく一時的な被り物をしているだけなのだ。
 
生命の根源は慈悲喜捨です。ほとんどの場合、それは被り物の下に隠れて寝ています。
が、それはすべての生命に共通しているものなので、慈悲の瞑想をすると、究極的にはすべての生命とひとつになることができます。それが梵天の生き方です。

生命の木


 今回面白く聞いたのは、「相手を理解する方法」すなわち読心術である。

    1. すべての生命の生きる衝動は貪・瞋・痴(=欲・怒り・無知)です。まず自らの貪・瞋・痴の感情の働き方を観察します。(貪・瞋・痴は組み合わせの配合によって何千通りの姿になる)
    2. 完璧でなくとも自己観察を続けます。
    3. 相手の行為を観察して、その裏にある行為を引き起こしている感情をチェックします。
    4. また、善行為をすると、貪・瞋・痴の三つに加え、不貪・不瞋・不痴の三つの感情も理解できるようになります。これで尺度は六つになります。 
    5. 価値観を入れず、白黒に分けず、判断せず、ありのままに相手を観ることが必要です。
    6. これで相手の感情を理解することができるようになります。 
    7. 決して悪用しないでください

 自分の感情や欲望を理解することは、相手の感情や欲望を理解することにつながる。自分が善行為することは、相手の善意を理解することにつながる。 
 面白いのは、これが社会福祉や精神保健福祉の分野で対人援助の基本原則とされているものによく似ていることである。
 たとえば、バイスティックの7原則では、
  • 統制された情緒的関与の原則(=援助者は自分の感情を自覚して吟味する)
  • 受容の原則(=クライエントのあるがままの姿を受け止める)
  • 非審判的態度の原則(=クライエントを一方的に非難・判断しない)
が謳われている。また、ケースワーカーやカウンセラーの最も重要な資質は、「自己覚知」「受容・共感・傾聴」と言われる。

 こうした方法(原則)が正鵠を射ていることを、ソルティは日々、職場の老人ホームで認知症高齢者の介助をしながら実感している。
 認知症高齢者は、思考と言葉がトンチンカンである。自らの願望を口に出して正確に相手に伝えることが苦手である。(たとえば、便意を感じているのだが、口に出して言うのは「俺のメシがないんだよ~」) また、こちら(職員)の言葉や意図を理解するのも苦手である。(たとえば、「歯を磨いてください」と歯ブラシを差し出すと、それで髪の毛を梳かし始める) 言葉を介在したコミュニケーション、あるいは言葉の背後にある意図の理解が苦手である。
 慣れていない職員だと、なんとか相手に理解させようと言葉を繰り返し、語気を強め、理屈によって納得させようと頑張ってしまう。これがまず逆効果で、相手は「職員に怒られている、脅かされている、馬鹿にされている」と感じて、不穏(=精神的に不安定な状態)になってしまう。当然、介助はうまくいかない。
 認知症の人への介助のコツは、相手の言葉や行動ではなく、感情に焦点を当てることである。理屈や良識を振りかざして介助者の意図通りに相手を動かそうとするのではなく、表情や振る舞いから相手の感情を読みとり、不安ならば安心させ、怒っているなら宥めて、嬉しそうな様子ならば一緒に喜び、感謝には感謝を返し、その瞬間瞬間の「ありのままの」相手をいっさいの保留なしに受け入れてしまうことである。そのためには、瞬間瞬間、介助者が自身の内面に湧き上がる感情を観察・捕捉できなければならない。介助者が自らの感情なり欲望なりに振り回されていては、あるいはそれらのバイアスを自覚せずに相手に関わっているようでは、到底、相手の感情に客観的に向き合えないし、相手のプライドを尊重した対等の関係を結べないからである。
 
 もはや言うまでもなかろう。自己覚知・自己観察力を育てる最強にして最高の方法がヴィパッサナー瞑想であり、「ありのままの」相手を受け入れる器をつくる最強にして最高の方法が慈悲喜捨の瞑想である。

 つくづく、ブッダって人類史上最高のカウンセラー&ケースワーカーである。
 否、生命史上か。
 


サードゥ、サードゥ、サードゥ


※この記事の文責はソルティにあります。実際の法話の内容のソルティなりの解釈にすぎません。



 

● スモール・イズ・ワンダフル! :介護の仕事11(開始4年2ヶ月)

 介護の仕事に就いて5年目に突入した。介護福祉士の資格も取って、職場(老人ホーム)の中では上から数えたほうが早い古参になってしまった。新人の頃、5年目の先輩職員と言ったら、「便失禁も救急対応も帰宅願望も徘徊も介助拒否も、怖いものなしの大ベテラン」という感じで見ていたが、果たしていま自分も新人からはそう見えるのであろうか。
 いささか心もとない。

 さて、ソルティは男としてはチビである。加齢により骨密度が減少してきているためか、ここ数年少しずつ背丈が低くなって160センチを割ってしまった。一時は65キロもあって生活習慣病危険区域に達していた体重も、この仕事を始めたおかげで10キロ近く減少、日々の肉体労働により上腕筋や胸筋や背筋が発達、胴回りもすっきりし、20代の奇跡のボディラインをキープしている。
 由美かおるか!
 介護の仕事のメリットの一つは、運動不足の解消と肥満防止にあるのは間違いない。周囲を見ても、新人の頃はマシュマロマンのように丸々太ってドタドタ動いていた奴が、半年過ぎると体全体が絞られて、きびきびとした身のこなしで颯爽と介助にあたっている。寿命も数年延びたであろう。

 社会に出たての20代の頃、体の小さいことがコンプレックスになっていた。
 背が低いと、ほかの男たちから文字通り‘下に見られやすい’。体格の立派な男に比べると、どうしたって押出しがよろしくない。貫禄に欠ける。そのうえにソルティは父親譲りの童顔であった(ある)ので、まず年相応に見られたことがない。仕事上でも日常生活上でも(たとえば混んでいる電車の中とか喫茶店で注文するときとか)人と接する場面において、どうも軽くあしらわれやすい。むろん、自意識過剰ゆえの被害妄想の部分もあろう。
 ヘテロの男だったらそこに「背が低いと女にもてない」という黄金律が加わるから、余計にコンプレックスは高まることだろう。ソルティの場合は、幸か不幸か対象が女でなかったので、そこはあまり重要ではなかった。
 スモール・コンプレックスはいつの間にやら消失した。「背丈で勝てないなら中身で勝負!」と意気込んて自分磨きに勤しんだわけではない。二十歳過ぎればもう身長は伸びない。「変えられないものは悩んでも仕方ない」と受け入れたのが一つ。そして、「他人から下に見られようが軽んじられようがどうでもいいじゃん」と思えるようになったことが一つ。風采とか押出しの良さとか威厳とかあまり関係ないような職種、競争や評価や出世と無縁な職種、単純に言えばスーツを必要としない職業ばかり経巡ってきたのである。

 そんなこんなで数十年経った今、こう思っている。
 
「体が小さくてつくづく良かった~」
 
 介護職の多くが「勘弁してほしい」とため息をつく利用者は、体の大きな、体重の重い、立ち上がることのできない利用者(ほぼ男性)なのだ。自分の力で立ち上がることも側臥位になる(横向きに寝る)こともできない体重80キロの大男を介助するのは、実に骨が折れる重労働である。
 ミステリー好きの自分は、犯人が死体を処理するのに苦労するシーンを本で読んだりテレビで見たりして、「人一人動かすのがあんなに大変なのかなあ」と不思議に思っていた。なんとなく意志(魂)の抜けた体は、当人の抵抗がない分、自由に動かしやすいといった錯覚があった。それに、学生時代ぐでんぐでんに酔っ払った友人をアパートまで連れて帰るのに肩を貸したときなど、たしかにこちらの体にいつゲロが吹きかけられるかわからないスリルもあって厄介な作業ではあったが、一人でできないことはなかった。だから、人間の体がいかに重いものか、はっきりとわかっていなかった。
 だが、80キロは80キロなのである。スーパーで売っている米袋を歩いて持ち帰ろうとするなら、やはり10キロが限度だろう。重量挙げの選手なら80キロでも持ち上げられようが、それとて数十秒のことである。
 生命のない人体、完全に意識を失った人の体、立つ意欲を失った肉体は、重い。まんま80キロの物体である。酔っ払っているときでも人は、自分の力で立とう、歩こうとしているのである。こん睡状態になったら、数人がかりで担ぎ上げて車を呼ぶしかない。

 80キロの利用者をトイレ介助するには一人では無理である。最低でも二人必要だ。
  1. 一人が車椅子の前に回り腰を低くして、両腕を利用者の両脇から差し入れて利用者の背中で両手を組む。
  2.  「いち・にの・さん」と反動をつけて、両腕を前に引きながら腰を上げて、利用者を立たせる。足で踏ん張ることのできない利用者の全体重は介助者にかかる。
  3.  その間に、背後に控えた今一人の介助者が利用者のズボンとパンツを素早く下げて、尿取りパットをはずして「OK」を出す。(このとき便失禁していると厄介である)
  4.  前側の介助者は、下半身丸出しになった利用者を抱えながらゆっくりと便器のほうに回転して、ひざを曲げて腰を落としながら利用者を便座に座らせる。
 この一連の作業にかけられる時間は、女性職員や自分のように背が低くて非力な男性職員の場合15~20秒が限界である。それを超えると腕がしびれて、力が入らなくなってくる。上背のある利用者の場合、介助者は下から持ち上げないとならないので余計に力が要る。介助している間は常に、肩や腕や腰に負担がしいられる。毎回毎回(トイレ介助は一日数回ある)、毎日毎日、これを繰り返すと痛みが固定されてしまう。介助者の職業寿命が縮む。
 だから、くだんの利用者の介助は自然と後回しになる。施設介護は常に時間に追われているので、介助者は時間のかからない軽介助の利用者から次々と対応していく(片付けていく)傾向にある。体の重い利用者を先にやることで体に負担を残したくないのもある。ほかの利用者のトイレ介助がひととおり済んで、フロアが落ち着いて、二人の介助者が個室に籠っても大丈夫なときになってようやく、くだんの80キロ利用者の番が来るわけである。
 ここだけの話、あまりに忙しい時や職員が病欠して人員不足の時など、「一番分厚いパットを当てているし。一回くらいトイレを抜いてもいいか」と飛ばされてしまうこともある。尿意や便意のない(訴えられない)利用者は黙ったままである。
 こういう介助にこそロボットがほしいと切に思う。どんなに重い利用者でもやさしく持ち上げて立位を取らせ、そのまま90度回転させて、また下にやさしく降ろしてくれるロボットだ。簡単に作れると思うがな・・・。
 

ロボット


 そう遠くない将来、そんな介助ロボットが登場するとは思うけれど、それまでは体の大きな・体重の重い・介助の必要な利用者には受難の日々が続くであろう。若いときに誇った堂々たる体格や異性の注視を浴びた上背を、「よもやこんなことになろうとは・・・」と苦々しく思いつつ、トイレの順番を濡れたパットに耐えながら待つことになる。人によっては、職員の負担となっている自分の巨躯を呪わしく感じることもあろう。
 世の若き女性たちも3Kだ何だと欲張っているのも考え直したほうがいいかもしれない。超高齢社会のこれからは、パートナーを介護しなくちゃならない日のことを考えて相手を選んだほうが利口かもしれない。なんと言っても男のほうが先に倒れる確率が高いのだし、いずれは施設に預けるとしても、それまでは妻の手で多かれ少なかれ在宅介護することになる。
 「大きいことはいいことだ♪」は昔の話である。
(――というジョークが通じたのも昔の話である。)

 



● 介護の仕事7(開始3年目)

 老人ホームの仕事に就いて2年2ヶ月。
 「板についてきたな」と思う。周囲の先輩を真似ながら恐る恐る利用者の対応をしていた時期は過ぎて、今は自分の勘や経験や特技を頼りに、より個性を打ち出した介護をするようになった。
 もっとも、移乗や食事介助など介助の基本技術や感染症予防や接遇マナーなど、プロとして当然守るべき知っておくべき部分は前提としてある。そこは各介護者の自由裁量や個性や勝手が許される部分ではない。
 そこを超えた部分で、一人一人の利用者との関係のとり方を工夫できるようになってきた。相手を観察し、いまどういう身体的心理的状態にいるかを推察し、それに合わせた声がけやスキンシップやコミュニケーションやレクリエーションを試みるだけの余裕が生まれてきた。
 仕事を覚えるのに精一杯だった1年目、業務を円滑にこなすのに精一杯だった2年目を経て、ようやく一人一人の利用者の体と(特に)心の状況に気を配るだけの余裕が生まれてきた。
 何事も3年は続けないと、モノにならないものだなあと実感している。


1. 介護者の勘


 「板についてきたなあ」と感じる理由の一つは、勘が鋭くなったことである。
 たとえば、
● Aさんが今日は落ち着き無くフロアを歩き回っている
 →「便秘しているのかもしれない」
 →排泄シートを確認すると5日も便が出ていなかった
● Bさんが今日はわけの分からない妄想を口走っている
 →「水分が足りてないのかもしれない」
 →水分摂取表を確認するとここ数日1000ml/日に達していない日が続いている。
●Cさんがさっきから席から動かず固まっている
 →「失禁しているのかもしれない」
 →トイレにお連れするとパットに排便していた。
●Dさんがなんとなくいつもより口数すくなく大人しい
 →「熱があるのかもしれない」
 →測ってみると37.5度あった
●Eさんが仏頂面して食事も残している
 →「なにか不快なことでもあったのかもしれない」
 →暇を見て居室に伺うと、テレビの音量の件で隣室のFさんと口論したとのことだった。
● どこかの部屋のコールが鳴った
 →この時刻のこのタイミングなら、「ポータブルトイレをセットしてくれ」というGさんの要求だろう。
 →その通りだった

 ・・・・というような勘が働くようになってきた。これはやはり日数を重ねてきた結果、利用者を観察してきた結果である。勘が鋭くなれば、事前の対応や即座の対応が可能になるから、それだけ事態の悪化を防げるし、介助も業務もラクになる。
 とくに、認知症の利用者は自分の状態をうまく説明できないことが多いので、介護者が観察力と想像力と推理力を働かせることが大切である。


2. 男性スタッフの価値


 ヘルパー2級の講座を受けながら、「介護業界に本当に男性スタッフの需要ってあるのかなあ~」と思っていた。実習で行った老人ホームは圧倒的に女性スタッフばかりで、女:男=20:1くらいだったから、これが介護現場の実態と思った。しかもこちとら40後半のおっさん。仕事が決まれば御の字と思っていた。
 運よく今の施設に雇ってもらったわけだが、意外に男性スタッフが多いのである。女:男=6:4くらいか。施設の方針なのだろうか、20~50代まで各年代の男達が働いている。
 果たして男性スタッフは利用者に受け入れられるのか。

 主要な介護に排泄と入浴がある。利用者は、どちらの性にやってもらいたいと思うだろうか。
 男性利用者なら当然女性スタッフであろう。生意気な若造なんかにシモの世話をまかせるなんてコカンに、いやコケンにかかわる。同性にケツを拭かれたりペニスを洗われたりするなんて想像するだにおぞましい。(ヘテロの場合) 母親のようなオバチャンスタッフか、うら若き女性にこそお願いしたい。
 女性利用者もまた同性を希望するだろう。特に、いまのお年寄りは「男女7歳にして席を同じうせず」の時代を生きてきた。殿方に世話してもらうなんて恥ずかしいし、決まり悪いし、申し訳ない。主人にしか許したことのない秘所を、自分より50も60も若い男にまさぐられるなんて・・・・・。
 という偏見で、いずれにせよ男性スタッフの出番は少ないと思っていたのである。
 ところが、である。
 実際に働いてみると、男性スタッフの人気は高いのであった。

 まず女性利用者の場合。
 もちろん、移乗や食事介助はともかく、入浴や排泄は男性に介助されるのはイヤという人もいる。そういう方には女性のスタッフが対応する。
 だが、たいていの女性利用者ははじめのうちこそ男性スタッフに戸惑いや恥じらいを感じるものの、すぐに馴れてその良さに味をしめてしまうのである。
 というのは、この世代の女性は男性(亭主を含む)に優しい言葉をかけられたり、丁寧に世話されたりという経験が少ないからである。
 人間の真実として、いくつになっても異性に優しくされるのは嬉しいものである。(ただし、ヘテロの場合) それが若くてイケメンだったりしたらもう有頂天になるのも無理からぬ話ではないか。(自分はイケメンでも若くもないが・・・)
 女性利用者にとって男性スタッフとは、まんま“ホスト”なのである。ちょっとくらい介護技術が劣っていたって、ちょっとくらい顔がまずかろうが、構わない。ホストになりきれるかどうかが、女性利用者間に人気を得る最大のポイント、施設の経営陣が手放したくないスタッフになる秘訣である。
 で、良い介護ホストの条件とは以下の通りである。
 ①女性利用者の話を良く聞いてあげられること。
 ②理由を見つけては女性利用者を褒められること。
 ③笑顔とスキンシップ
 
 一方、男性利用者の場合が意外である。
 女好き、とりわけ若い女好きの利用者ももちろんいる。介護する女性職員の胸やお尻をさわったり、セクハラまがいの言葉を投げたりする男は想定内である。
 が、それより目立つのは男尊女卑の男たちである。
 彼らは、女性、とくに若いションベン臭い女性に世話されるのは屈辱と感じる。彼女たちに指図されるのはプライドが許さない。
 そこで、男性スタッフの出番となる。女性スタッフには居丈高な態度を示していた利用者が、男性スタッフ(特に会社なら幹部クラスの中高年スタッフ)には従順だったりするケースが結構ある。
 また、体が大きく体重の重い男性利用者にしてみれば、力のある男性スタッフによる介助の方が安心でもある。
 そういうわけで、男性スタッフの需要は決して低くはないのである。

3.きれいになっていく妻たち

 長年連れ添った夫を施設に入れた妻たちは、介護の重圧から解放される。
 彼女たちは、たまに訪れて職員と挨拶を交わすと、持ってきた洗濯したての衣類を部屋のたんすに入れ、汚れた洗濯物を持ち帰り、車椅子上の亭主と会話を交わし、散歩に連れ出す。日がな一日、することもなく退屈していた亭主も嬉しそうである。
 入所当時は、介護に疲れ果ててやつれた表情だった妻たちは、日が立つに連れて目を見張るほど、おしゃれに美しくなっていく。皮膚に張りがよみがえって、スッピンだったフェイスに化粧が施され、アクセサリーも賑やかになっていく。明らかに十歳は若返る。
 そんな妻を見ている利用者である夫は、どんな気分なんだろう。
 自分の世話から解放され、きれいになっていく妻の姿は、うれしいのか悲しいのか。よもや浮気は疑わないとは思うが、微妙な心境だろう。
 反対に、介助が必要となった妻を施設に入れた夫は、実にこまめに訪れて、懸命に世話する。食事介助も率先して行う。
 この場合、夫は決してダンディにはならない。むしろ、尾羽打ち枯らした様子で、「ちゃんと食事できているのかなあ」とスタッフが心配するほど、やつれていたりする。
 この傾向はどうやらどの夫婦間でも同じである。
 女性が長生きするわけだ。


4 介護拒否は「問題」ではない


 利用者による介護拒否――食事拒否、水分摂取拒否、入浴拒否、更衣拒否、離床拒否、レク参加拒否、リハビリ拒否、整容拒否、服薬拒否等――は日常茶飯である。これらに悩まない介護施設、介護者はいないだろう。
 ともすると、介護者はこれらの拒否を「問題」としてとらえ、拒否する利用者を「困った人」ととらえ、なんとかして拒否解除させようと頑張る。食事だったら、本人の好きな食べ物を用意したり、食形態を普通食から刻み食に変えてみたり、声がけしてスプーンで口元に食べ物を運んでみたりする。服薬拒否なら、薬を粉々に砕いて食べ物に混ぜてみたり、利用者の家族の名前を持ち出して「娘さんがお薬を飲んでほしいと言ってましたよ」と勧めてみたり、一度目が駄目なら時間を空けて再度トライする。
 拒否することにより不利益を被るのは利用者なのだから、介護者がいろいろ工夫をするのは当然である。「薬を飲まないことで痛い思いをするのはあなたご自身ですよ」と言ってほうっておければラクなのだが、やはりそれは許されない。利用者の意思や自己決定は尊重すべきであるけれど、当人の不利益になることが明らかである自己決定をそのまま認めるのは、いまの日本の高齢者介護の基本理念から逸れている。当人に無理強いはできないけれど、介護拒否をする原因を探ってその原因の除去に努めよ、というのが正論であろう。
 一方で、思うに「拒否」は利用者にとって精一杯の自己主張ではないだろうか。
 体も容易に動かせない、認知や難聴や欝でコミュニケーションも困難な利用者にとって、唯一の自己主張が介助に対する拒否ということもあろう。
 であるとすれば、利用者による介護拒否を介護者が「拒否する(=否定する)」ことは、利用者本人の自己主張を否定することであって、すなわち本人を否定することである。
 介護拒否があるのはあたりまえ、拒否できるほど気概のある人、自尊感情のある人ととらえて、まずは拒否を肯定的に受け容れる姿勢が大切だと感じる。
 それがあってはじめて、利用者とのコミュニケーションの道が開かれるのではないだろうか。

 一方で、「イヤよイヤよも好きのうち」タイプの利用者(とくに女性に多い)もいる。表面上は介護拒否をするのだが、本心は介護者からの強引な誘いを期待しているのである。いわば、学級委員選挙で自分から立候補せずに、誰かから推薦されるのを心待ちにしている優等生のようなタイプ。
 考えてみれば、一昔前の日本女性は何事も自分から積極的に打って出ず、周囲にほだされて「それほど言うなら仕方なく」という態度を示すことが「奥ゆかしい」「女らしい」と褒められて育ったのである。
 平成時代の自立支援を柱とする介護保険の対象者になったからって、いきなり「自己主張」「自己決定」ができるわけもなかろう。


5 生きがいづくり


 人はパンのみにて生きるにあらず。
 人はADLのみにて生きるにあらず。
 人はレクのみにて生きるにあらず。
 人は友のみにて生きるにあらず。

 老人ホームに入ると、毎日の食事の心配をすることはない。持病や障害を持っている人は多いが、急性期や痛みの強い時期を過ぎれば、とりあえず日々の健康管理とADL(日常生活動作)における必要な介助があれば、落ち着いた生活を送ることができる。日課として体操や歌やゲームなどのレクリエーションもあるし、同世代の仲間もたくさんいるから話相手には事欠かない。老化のしんどさや間近に控えた死の恐怖、そして施設や介護者や他の利用者に対する苛立ちやストレスはあるものの、ありあふれる時間の中での穏やかな生活が待っている。
 我々介護スタッフの目指す目標は、この段階(=穏やかな日常生活の実現)である。 
 
 しかし実際には、利用者にとって本当に必要なのはこの先なのである。
 毎日毎日同じ日課で、同じことの繰り返し――朝起きて、朝ごはん食べて、排泄して、ちょっと寝て、お茶飲んで、リハビリして、昼ごはん食べて、排泄して、入浴して、ちょっと寝て、おやつ食べて、レクして、夕ごはん食べて、排泄して、テレビ見て、パジャマに着替えてベッドに横になる・・・。
 平和な、何の問題のない、安定した生活。
 だが、これではただ「生きているだけ」である。自分の存在価値が感じられまい。
 何より退屈である。
 2年間介護の現場に関わってきて、やっぱりこの問題は大きいと思う。
 つまるところ、生きがいの問題である。
 認知症になればこの問題もクリアになるのかなあと思っていたが、実際には逆で、認知症の人ほど「存在価値の喪失」が深甚にこたえ、その表出が理性や世間体でコントロールできないだけに率直で激しいのである。いわゆる徘徊や帰宅願望や介助拒否などの「問題行動」である。
 こうした問題行動は、脳の障害とか便秘や水分不足とか薬のせいとか、身体的・医学的原因に還元されてしまいがちなのだが、自分はそれもあるが、そればかりではないだろうと思う。
 老いて、社会から引退し、仕事も役職も、職場や地域の人間関係も失い、家族からも距離を置かれ、何の役にも立たない自分。誰からも必要とされていない自分。(――って本当は我々介護スタッフに「少なくとも経済的に」必要とされているのは間違いないわけだが・・・)

 自分を支えるには生きがいの創出が必要であろう。
 若いうちから老いてもできる道楽を持っている人はいい。一日中飽きずに絵を書いている男性利用者がいる。家族のために凝った編み物をしている女性利用者がいる。孫のために自分史を書いている人がいる。ベランダに蘭を並べている人もいる。(一人でできるインドアの道楽ってところがポイントだ。)
 他の利用者や介護スタッフとの交流に生きがいを見出す人もいる。ある女性利用者は、50歳年下の男性スタッフに恋している。彼女の表情はまんま「恋する乙女」である。一日そのスタッフのことを考えて煩悶するのが彼女の目下の生きがい。ただ、人間関係ほど不安定なものはないから、これに依存するのは得策とは言えまい。
 同じ恋するなら神に恋したほうが永続性はある。(少なくとも死ぬまでは。)
 すなわち、信仰を生きがいとするのである。これはかなり磐石な支えと言える。
 思うに、一番お手軽で気持ちのいい生きがい(=存在価値の自認)は「誰かの役に立つこと(=必要とされること、感謝されること)」なのではないだろうか。


 最近は、介護施設定番のタオルたたみ・おしぼりたたみはむろんのこと、食後のコップ洗いやテーブル拭き、モップや掃除機による床清掃、花壇の草むしり、果ては他の利用者の車椅子を押す仕事まで、思いつけばなんでもやれそうな仕事をばんばん利用者にふっている。もちろん、自分がそばで見守りしながらではあるが。
 施設を訪れた第三者から見れば、「入居者に仕事を手伝わせるなんて、なんて怠けた職員なんだ。なんて非道い施設なんだ。これは虐待じゃないのか。」と誤解されそうだが、「自分はドジでノロマな亀なんです(古い)。手伝っていただいて助かります。」と言うと、「いつでも言ってください。できることなら何でもしますよ」と笑顔で答えてくれる利用者を見ると、「いくつになっても人の役に立つのは嬉しいもんなんだなあ」と思うのである。
 そのような機会をルーティンの日常生活の中でどれだけ創出することができるか、というのが目下の関心事である。



介護の仕事6
介護の仕事8


 
 

● 介護の仕事3 (開始三ヶ月)

 老人ホームの仕事を始めて3ヶ月が過ぎた。

 この1ヶ月は時間が経つのが早かった。最初のひと月を100とすると、ふた月めは80、みつき目は40くらいの長さに感じた。慣れるとは時間の経過が早まることなのだと思う。
 先輩職員のマンツーマン指導から離れて一人立ちし、試用期間も過ぎて、まだ自信も余裕もないけれど、仕事が終わったあとに反省することのない日はないけれど、「事故なく一日が終わればとりあえずクリアかな」というお粗末な介護レベルではあるけれど、なんとか続けられそうな気配が見えてきた。
 今の目標はとりあえず半年である。


1. 介護の仕事は体力勝負

 これは分かっていたことだけれど、本当に肉体労働の世界である。
 仕事中は夢中で気づかないが、帰宅してから、あるいは翌朝に、肩や腰の重みや痛み、体のだるさをまったく感じない日はない。
 特にコタえるのは入浴介助。利用者のために十二分に暖められた浴室で、ポタポタ落ちる汗を拭う間もなく、何時間も洗髪・洗体介助を続けていると、気が遠くなってくる。利用者の下半身を洗うために、あるいは靴下やズボンを脱着するために、しゃがみ込むポーズは腰痛持ちにはご法度なのであるが、致し方ない。
 入浴介助のあった日は、だるさと眠気とで家に帰っても何する気も起こらない。自分の入浴も面倒くさくなる(笑)。
 そのうえ、ここ数日のとてつもない暑さ。
 先日も帰宅して、シャワーを浴びて下着姿でビール缶を開けたはいいが、気づいたらソファに横になったまま、部屋の電気も冷房もつけっぱなしのまま朝を迎えて、ビールはすっかり気が抜けていた。脱原発派として、恥ずかしい限りである・・・。
 最初のうちは、緊張と覚えることの多さに圧倒されて気力の消耗のほうが問題だったが、ここにきて肉体的な疲れや痛みが表面化してきたのであろうか。これも慣れてきた証拠なのかもしれない。
 若い頃は一晩ぐっすり寝れば取れた疲れが・・・なんて愚痴は言ってもせんない。自らの老化を受け入れてこその介護職である。
 そろそろ、近くのジムで水泳と筋トレを再開しようと思っている。



2. 介護の仕事は腰がネック


インゲン 001 腰痛は20代の頃からの長いつき合いである。
 背骨の腰椎と腰椎とをつないでいる椎間板が腰のところで擦り減っている。ずれて飛び出した椎間板が脊椎を走る神経に触れると、痛みと足のつりが生じる。いわゆる椎間板ヘルニアだ。今のところ完治方法はない。
 週に2回ほど、仕事帰りや休日にクリニックに通って、牽引と電気治療の処置を受けている。根本的な治療にはならないが、痛みを避けようと終始同じ方向に緊張している筋肉がほぐれる感覚はある。
 仕事中はもちろんコルセットをつけている。腰への負担が少ない体の使い方、いわゆるボディメカニクスを利用した介助方法の実践は必須である。ただ、それも万全でないことは、先輩職員の中にも腰や膝を痛めている人が少なくないのを見れば分かる。
 コルセット常に腰に時限爆弾を抱えながら働いている。






3. 介護の仕事はプライドのぶつかり合い


 ベテラン介護士のプライドは高い。
 自分なりの介護哲学や介護方法をそれぞれが多かれ少なかれ持っている。仕事に一所懸命な人であればあるほど、利用者のことを考えている人であればあるほど、その傾向が強い。みな、自分が一番利用者の状態を分かっている、と思っている。
 ある一人の利用者に対して、複数の介護士が抱く見解やベストの介護方法が一致すれば問題ないのだが、やはりそうは問屋がおろさない。A介護士が決めて申し送った介護方法を、B介護士がひっくり返すなどということがしょっちゅう起こる。
 例えば、利用者Dさんの入浴方法について、「独歩にふらつきが見られるのでリフト浴(浴室、浴槽にそのまま入れる専用の車椅子を使う)でお願いします」とA介護士が申し送った数日後に、「廃用性症候群(使わない体の部分が衰えて使えなくなってしまうこと)を避けるために、一般の浴槽を使ってください」とB介護士がひっくり返す。
 当然、意見を否定されたA介護士は面白くないだろう。
 こういう場合、表立てて意見を述べ合い議論して両者が納得する結論に達するというやり方は、日本人には馴染まない。対立が表面化するのを回避して、双方が黙ったまま、やり過ごす。
 しかし、それは決して、互いの違いを認めて寛容に対処するとか、自分が譲歩するという方向での妥協を生むのではない。表に出さないだけに、心の中で不満やわだかまりを抱えていくことになる。
 介護の仕事は人間関係が難しいとはよく言われるが、介護方法に対する見解の違いが結構大きな要因の一つであるとは、現場で働いてみるまで想定していなかった。単なる、「あの人が嫌い」とか「あの人とは気が合わない」という低次元のあらそいだけではないのである(それもあることはあるが・・・)。
 だが、利用者の側にしてみれば、介護してくれる人ごとに異なる介護方法を提供されることは混乱するばかりか、QOL(=Ouality Of life、生活の質)を上げる点で逆効果になることもある。
 だれか「この利用者にはこうしてください」と決定し命令できる権威か上部機関でもあればよいのだろうが、介護の仕事はまだそこまでの組織性は獲得していないようだ。 
 また、一般企業のように、あるいは、たとえば近い分野にいる看護の仕事のように、上意下達のピラミッド組織になることが果たして良いのかどうかという点もある。
 自分の場合、当然、介護の方法を提案することなどあり得ないので言われたままにやるしかないのだけれど、その言われることが先輩職員一人一人によって違うのだから結構面倒なのである。
 利用者の為を思うのならば、もちろん統一したケアが一番である。ある方法を試して上手くいかないのであれば、別の方法を統一してやればいいだけの話なのだ。
 そこにプライドを介在させる必要はない。



4.介護の仕事はチャレンジャブル


 食事、排泄、更衣、移動、入浴等々、それぞれの介護の方法に基本的ベース(たとえば、更衣する時の「脱健着患」など)はあるけれど、利用者の症状やADL(日常生活動作)は一人一人異なるので、それに合わせて介護方法を変えなければならない。バリエーションは利用者の数だけある。

 また、頻尿の利用者がいたら、ただ本人が欲求するままにトイレに連れて行けばいいというものでもない。なぜ、すぐにトイレに行きたがるのか原因を考えなければならない。水分の取りすぎなのか、膀胱内に炎症があるせいなのか、残尿の為なのか、精神的な問題なのか・・・。それを探り、適切な対処手段をとるためには、排泄障害に関する知識と、医療(医師や看護師)との連携が大切である。

 利用者に処方される薬についても、ある程度の知識は必要である。下剤が処方されたなら、折りを見てトイレに誘導する必要がある。(さもないと便意を訴えられない人の場合、失禁ということになる。もちろん、介護の負担が増す。) どんな副作用があるのかも知っておきたい。


 リハビリについての知識や技術も必要である。歩行訓練をする時に、どんなふうに、どの程度の介助が必要なのか、どんな声がけが本人をその気にさせるか等々、学べることはたくさんある。

 認知症の人の対応の仕方も奥が深い。どの程度の認知レベルなのかを把握することから始まって、どの程度のことが自分でできるのか、どんな時に不穏状態になるか、どんな言葉がけや話題が本人を活気づけるか等々、普段から観察と見守りと試行錯誤が欠かせない。

 介護の仕事は、学ぼうと思えば、学ぶことがいくらでもある。
 でも、その気がなければ、表面上の介助だけをたんたんと事務的にやることもできる。



5.介護の仕事と自己決定


 三ヶ月経って、自分がこの仕事に向いているのかいないのか、この仕事が好きなのかどうなのか、いまいち混乱している。
 利用者と話していて波長があった時、この仕事は面白いなあと思う。自分に向いているなあと思う。
 しかし、利用者が望んでいないことをしなければならない時、たとえば、入浴拒否やリハビリ拒否のある人に対して入浴やリハビリをさせなければならない時、自分には向いていないなあと思う。
 基本的に、自分は「本人がやりたくないことをやらせたくない」。
 それをやることがいかに本人の為になろうが、それをやらないことがいかに本人のマイナスになろうが、本人が望むならばその通りにさせればいいという考えが強い。自己決定の尊重と言えば聞こえはいいが、介護職としては無責任なのかもしれない。
 なぜなら、「死にたい」という人間の自己決定を尊重することは、殺人幇助に等しいからだ。

 「風呂に入りたくない」と頑張っている高齢者を、言葉巧みになんとか懐柔して、説得して、気をそらして、入浴させてしまうのが良い介護士の資質なのかもしれない。あるいは、「風呂に入りたくない」という利用者の言葉の裏にはもっと別の深い要因が潜んでいて、そこを読み取ることが大切なのかもしれない。が、幾重にもよじれた感情の糸を解きほぐし理解し平らげていくのは、正直面倒くさい。

 元来、自分は他人との感情の駆け引きが苦手である。というよりそこに関心がない。「口には出さない本当の気持ちを察してくれ」と、持って回った(と自分には思える)感情ドラマの相手役をさせられるのは、うざったい。(だから、恋愛が億劫なのだ。)
 それに、すでに何十年と生きていて苦労を重ねてきている人間、自分の生活スタイルが確立している人間に、彼等から見れば洟垂れ小僧の自分が、「こうしなさい」「ああしなさい」と言うのは、おこがましい気がしてならないのである。
 一方、認知症の高齢者は「何が自分にとって良いのか」を十分に理解できない面もある。子供と同じだ。誰かが親代わりとなって面倒を見る必要がある。

 
介護と自己決定の問題は、突き詰めれば「尊厳死」をどう考えるかにつながる。もっとよく考えてみるべきテーマである。





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続き →「介護の仕事4

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