ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

仏性

● ありのままの私、になるの? 講演:「どうして仲良くできないの?」(講師:アルボムッレ・スマナサーラ)

 7月12日(土)中野ゼロで開催されたテーラワーダ仏教協会主催の月例講演会に参加。
 テーマ(副題)は「差別と区別の違いを知る」

 開口一番、スマナ長老が発したのは次の英文。

  Mankind is born to kill.
  人は殺すために生まれてきた。

 いつもながら大胆な発言、大胆な人である。
 しかし、初期仏教を学び瞑想を日課とするようになって数年の自分は、もはやこの程度の発言で度肝を抜かれることはない。
 これは言葉を変えて言えば、「人間は無明に閉ざされている」ということだろう。
 無明の原因は無知で、無知の最たるものは「自我が存在する」と思っていることである。
 自我というのは常に「自分は正しい」と思っている。
 当然だ。他者との違いのうちにしか「自分」は存在しないからである。「自分」が存在する限り、その「自分」はいつも「他者」を必要としつつ否定する。
 つまり、born to kill だ。
 だから、人間は生まれつき区別するようにできている。
 スマナ長老は言う。
 「区別に感情が入ると差別になります。人は感情に支配されているので、すべての区別が自動的に差別になってしまうのです。」
 区別を差別にしないためにはどうしたらよいか。
 感情に支配されないこと。理性(智慧)で生きること。慈悲を育てること。
 そのためにはどうしたらよいか。
 ヴィッパサナー瞑想で智慧を育てること。慈悲の瞑想ですべての生命を慈しむ心を育てること。
 講話の結論がいつも修行の励行に結びつくのがスマナ長老の話である。というか、まことの仏教である。

 今回、刺激的で面白かったスマナ発言。

● 仏性とはすべての生命に備わっている無明です。

 仏性は大乗仏教の創り出した概念である。ブッダは仏性なんて言っていない。「一切衆生悉有仏性」は妄想である。スマナ長老、当然仏性の存在を否定するのかと思っていたら、「すべての生命が本来は悟っている(仏である)というのは間違い。あえて仏性を定義するならば、それは無明でしょう。」と言う。
 なんて大胆な!
 が、なるほど。
 生命は無明ゆえに輪廻転生しながら生存し続ける。すべての生命に備わっているものを挙げるとしたら、それは確かに「無明」である。


● 「自分に正直に生きる」のはとんでもないこと。

 --と言ったスマナ長老の一言からの連想。
 『アナ雪』の大ヒットは、主題歌に一因があろう。「ありのままの、わたしに、なるの~♪」というフレーズが、若者たちの心をとらえたのだと思う。
 ありのままの私。
 このフレーズ、実は自分もよく使ってきた。
 セクシュアル・マイノリティの自助&支援活動の中で、もっとも良く唱和され見聞きする標語の一つだから。
 ゲイやレズビアンであることを家族や友人に隠し、ヘテロセクシュアルを演じ、自己否定して生きてきた当事者が、仲間によってエンパワーされ自己肯定し前向きに生きていく(カミングアウトする)ことを決意する心情が、「ありのままの私」という表現に托される。
 それは大切な概念であり、プロセスである。
 セクシュアル・マイノリティだけではない。世間や社会や家族からの有形無形の圧力に屈して「偽りの自分」を演じ続けている人々がいる。自分でもそれが「偽りの自分」であると気づかない人々がいる。そのうちに仮面が素肌に張り付いてしまって、仮面が素面になって、本当の顔がどこかに消えてしまう。
 人は自分を肯定できないときは、他人も肯定できない。自分を大切にできない人は、他人も大切にすることができない。(慈悲の瞑想の一番初めに「私の幸福」を念じるのは、そういう意味からではないかと推測している。)
 だから、ブッダが看破したように「自己」が蜃気楼のように実体のないものであるとしても、いったんは自己を肯定し、「ありのままの私」を受け容れることは重要だと思う。

 しかし、それとは別次元で「ありのままの私になる」は微妙な問題をはらんでいる。

 多くの場合、「ありのままの私」で意味されるものは、「子供の頃の無邪気な自分=欲望に忠実な自分」である。
 社会や世間によって毒されていない「子供の頃の無邪気な自分」が善良なものであるなら、言い換えれば、本人が愛のある、賢明な庇護者のいる家庭に育ったならば、「ありのままの私」にはそれほど害はないだろう。そこに還元することは本人をも周囲をも幸せにするかもしれない。
 一方、子供の頃の環境がいびつなものであり、それが本人の性格形成に深いところで影響を及ぼしているのなら、「ありのままの私」に戻ることは本人にとっても周囲にとっても危険であろう。

 不当な抑圧や人としての尊厳を踏みにじるような矯正には大いに反逆すべきである。
 が、「人が社会の中で、他者や社会に関わって、生きている」ということをないがしろにするような扇動は、ちょっといただけない。
 どうも最近の「ありのままブーム」を見ていると、自由奔放に欲望のまま生きることが「本当のあなたらしさ」というニュアンスを感じる。
 その裏に、羊(ディズニー)の皮を被った狼(アメリカンな資本主義)の陥穽を感じる、と言ったらうがちすぎ、もといヘソ曲がりだろうか。



 

● 一闡堤(イッチャンティカ)と呼ばれて 本:『「涅槃経」を読む』(田上太秀著、講談社学術文庫)

涅槃経を読む 2004年刊行。


 別記事(「無間地獄はどこにあるか」)に書いたように、「涅槃経」には2種類ある。
 編纂経典である「原始涅槃経」と、創作経典である「大乗涅槃経」である。
 釈尊の教えを忠実に伝えているのはタイやミャンマーやスリランカなど原始仏教圏で今も読み継がれている前者であり、後者は大乗仏教の隆興と中国や日本への伝播の中で説法師たちが「原始涅槃経」を換骨奪胎、拡大解釈、誇張粉飾、我田引水した、いわゆる偽経である。
 本書はあえてこの「大乗涅槃経」の思想を紹介し、説明するために書かれたものである。

 『原始涅槃経』は、鷲の峰(霊鷲山)を出発し、クシナガラまで途中十三の町や村を訪れ、マガダ国、ヴァッジ国、そしてマッラ国の都合三ヵ国を経た、最後の遊行の旅を記述している。これに対し、『大乗涅槃経』はクシナガラの沙羅樹林での臨終場面を述べ、過去を回想する内容となっている。

 思想に関して大きな違いを見ると、まず、『原始涅槃経』では諸行無常、一切皆苦、諸法無我という、常住不滅の存在は世間にはないと説法しているのに対して、『大乗涅槃経』では常住(常)、安楽(楽)、実在(我)、清浄(浄)という性質をもつ仏性があるという、『原始涅槃経』に反する考えを打ち出している。


 まあ、この時点でもはや『大乗涅槃経』は明らかに仏教では、ない
 釈尊の教えの最も重要な核心部分について異論を述べているのだから、反仏教と言うべきである。拡大解釈というよりも誹謗正法(仏法を否定すること)に近い。
 誹謗正法は、両親や阿羅漢(完全な悟りに達した人)を殺す、ダイバダッダがやったようなサンガ(出家仲間)の分裂をはかる、など六重罪の一つに上げられている。六重罪を犯したら今生で悟ることはできない、どころか来世で地獄に落ちると言われている。『大乗涅槃経』の創作者や説法師たちが、そのような目にあっていなければよいが・・・。


 ともあれ、一等の違いは「仏性」という概念にある。
 著者は「仏性とはなにか」ということについて、いろいろな経典を引用しながら、また「霊魂」との違いを表にして整理しながら、一章を費やして説明してくれているのだが、まったく要領を得ない。わけが分からない。著者の説明が悪いのではない。読み手(ソルティ)の読解力が悪いわけではない(たぶん)。そもそもの経典の記述が曖昧なのだ。「仏性」がなんであるか、はっきりと定義していない。実にいい加減だ。
 大乗涅槃経の作者は、畏れ多いことに、釈尊にこんなことを言わせている。


 迦葉菩薩、仏性はあるでもなく、ないでもない。その理由は仏性はあると言っても虚空のようなものではないからだ。
 世間で言う虚空は方便を使っても見られない。ところが仏性は方便(たとえば八正道を修めるなど)を使うと見られる。だからあると言う。したがって虚空のようではない。
 仏性はないと言っても兔の角とは違う。なぜなら亀の甲羅の毛や兔の角は方便を使っても生えないからだ。ところが仏性は生じる。ないと言っても兔の角とは違う。だから仏性はあるとも言えないし、ないとも言えない。  

 どうだろう?
 一見なにか深遠なことを言っているように思えるが、端的に言えば「仏性は修行をすれば生じる」ということをまわりくどく言っているだけである。こんなまわりくどい、もってまわった表現はそもそも釈尊には似つかわしくない。しかも、この文章が論理的におかしいことは中学生でも分かる。
 普通、比喩とは説明が難しい事柄をわかりやすく理解してもらうために使うものだが、この『大乗涅槃経』に出てくる比喩は、読めば読むほど本質がわからなくなるようになっている。(たぶん確信犯だろう。)
 その理由は簡単で、そこにはなんら本質がないからなのだと思う。意味のないことを、いかにも意味ありげに見せるために修辞が使われている。
  で、ずる賢いことに、「仏性なんてデタラメだ」「仏性なんてものはない」という反論の提出をあらかじめ封じる手を打ってある。
 それが「一闡堤(イッチャンティカ)」である。

  『大乗涅槃経』では仏性の教えを誹謗し、信じない人物を一闡堤と呼び、悪人のなかでも最も許せないものと位置付けている。

 一闡堤は極悪人と決めつけられ、しかも仏法(仏性)を信じない一闡堤に仏性があるわけないと考えられてきた。こういう考えを持つ人は次の経文を例証として挙げてきた。・・・・・

 一切生類にはみな仏性がある。この(仏)性があるから、数えきれないほどの種々の煩悩の塊を断ち切れば、すぐにでも最高の覚りを得ることができる。ただし一闡堤は除かれる。
(如来性品第四の四<大正蔵経十二巻>


 これでは「仏性」について疑問を抱きようがないではないか。真摯な仏法の求道者がいて、もし「仏性」の存在について疑問を抱き、それを口にしたとたん、師匠や兄弟子や仲間たちから「お前は一闡堤だ!」という、破門にも似た全方位的攻撃が待ちかまえている。「それが理解できないのはお前が一闡堤だからだ」と烙印を押されるのを恐れ、「仏性」に関する問いは以後タブーとなる。本当は誰もその正体を知らないのに、もとい正体がないことを知らないのに、「ある」ということになったまま大乗仏教の秘中の秘として申し送られる。
 なんとまあ狡猾な手口だろう!
 そして、なんとまあ愚かなことだろう!


 そうして大乗仏教に確たる、赫奕たる、地位を占めた「仏性」は、「すべての生き物には仏性がある(一切衆生悉有仏性)」、「すべての生き物はそのまま仏性である(一切衆生即仏性)」というナンセンスを経て、ついには「山川草木悉有仏性」という神道アニミズム的決着をみたのである。


 無明とはこのようなものだ、と『大乗涅槃経』は教えてくれる。 




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