7月12日(土)中野ゼロで開催されたテーラワーダ仏教協会主催の月例講演会に参加。
テーマ(副題)は「差別と区別の違いを知る」
開口一番、スマナ長老が発したのは次の英文。
Mankind is born to kill.
人は殺すために生まれてきた。
いつもながら大胆な発言、大胆な人である。
しかし、初期仏教を学び瞑想を日課とするようになって数年の自分は、もはやこの程度の発言で度肝を抜かれることはない。
これは言葉を変えて言えば、「人間は無明に閉ざされている」ということだろう。
無明の原因は無知で、無知の最たるものは「自我が存在する」と思っていることである。
自我というのは常に「自分は正しい」と思っている。
当然だ。他者との違いのうちにしか「自分」は存在しないからである。「自分」が存在する限り、その「自分」はいつも「他者」を必要としつつ否定する。
つまり、born to kill だ。
だから、人間は生まれつき区別するようにできている。
スマナ長老は言う。
「区別に感情が入ると差別になります。人は感情に支配されているので、すべての区別が自動的に差別になってしまうのです。」
区別を差別にしないためにはどうしたらよいか。
感情に支配されないこと。理性(智慧)で生きること。慈悲を育てること。
そのためにはどうしたらよいか。
ヴィッパサナー瞑想で智慧を育てること。慈悲の瞑想ですべての生命を慈しむ心を育てること。
講話の結論がいつも修行の励行に結びつくのがスマナ長老の話である。というか、まことの仏教である。
今回、刺激的で面白かったスマナ発言。
● 仏性とはすべての生命に備わっている無明です。
仏性は大乗仏教の創り出した概念である。ブッダは仏性なんて言っていない。「一切衆生悉有仏性」は妄想である。スマナ長老、当然仏性の存在を否定するのかと思っていたら、「すべての生命が本来は悟っている(仏である)というのは間違い。あえて仏性を定義するならば、それは無明でしょう。」と言う。
なんて大胆な!
が、なるほど。
生命は無明ゆえに輪廻転生しながら生存し続ける。すべての生命に備わっているものを挙げるとしたら、それは確かに「無明」である。
● 「自分に正直に生きる」のはとんでもないこと。
--と言ったスマナ長老の一言からの連想。
『アナ雪』の大ヒットは、主題歌に一因があろう。「ありのままの、わたしに、なるの~♪」というフレーズが、若者たちの心をとらえたのだと思う。
ありのままの私。
このフレーズ、実は自分もよく使ってきた。
セクシュアル・マイノリティの自助&支援活動の中で、もっとも良く唱和され見聞きする標語の一つだから。
ゲイやレズビアンであることを家族や友人に隠し、ヘテロセクシュアルを演じ、自己否定して生きてきた当事者が、仲間によってエンパワーされ自己肯定し前向きに生きていく(カミングアウトする)ことを決意する心情が、「ありのままの私」という表現に托される。
それは大切な概念であり、プロセスである。
セクシュアル・マイノリティだけではない。世間や社会や家族からの有形無形の圧力に屈して「偽りの自分」を演じ続けている人々がいる。自分でもそれが「偽りの自分」であると気づかない人々がいる。そのうちに仮面が素肌に張り付いてしまって、仮面が素面になって、本当の顔がどこかに消えてしまう。
人は自分を肯定できないときは、他人も肯定できない。自分を大切にできない人は、他人も大切にすることができない。(慈悲の瞑想の一番初めに「私の幸福」を念じるのは、そういう意味からではないかと推測している。)
だから、ブッダが看破したように「自己」が蜃気楼のように実体のないものであるとしても、いったんは自己を肯定し、「ありのままの私」を受け容れることは重要だと思う。
しかし、それとは別次元で「ありのままの私になる」は微妙な問題をはらんでいる。
多くの場合、「ありのままの私」で意味されるものは、「子供の頃の無邪気な自分=欲望に忠実な自分」である。
社会や世間によって毒されていない「子供の頃の無邪気な自分」が善良なものであるなら、言い換えれば、本人が愛のある、賢明な庇護者のいる家庭に育ったならば、「ありのままの私」にはそれほど害はないだろう。そこに還元することは本人をも周囲をも幸せにするかもしれない。
一方、子供の頃の環境がいびつなものであり、それが本人の性格形成に深いところで影響を及ぼしているのなら、「ありのままの私」に戻ることは本人にとっても周囲にとっても危険であろう。
不当な抑圧や人としての尊厳を踏みにじるような矯正には大いに反逆すべきである。
が、「人が社会の中で、他者や社会に関わって、生きている」ということをないがしろにするような扇動は、ちょっといただけない。
どうも最近の「ありのままブーム」を見ていると、自由奔放に欲望のまま生きることが「本当のあなたらしさ」というニュアンスを感じる。
その裏に、羊(ディズニー)の皮を被った狼(アメリカンな資本主義)の陥穽を感じる、と言ったらうがちすぎ、もといヘソ曲がりだろうか。