著者の井上宏生(ひろお)は伊勢にある皇學館大学を中退後、マスコミの世界に身を置き、現在はノンフィクション作家として『日本人はなぜカレーライスが好きか』などの著書を出している。
本書によれば、皇學館大學は東京の国士舘大学と並ぶ神主養成機関であり、「伊勢神宮や明治神宮など大規模な神社の神主のほとんどは、この2つの大学の出身者」だそうである。神社の跡継ぎでもなく神主を目指していたわけでもなさそうな著者がなぜ皇學館大學に籍を置いていたかは明らかでないが、学生時代の3年間を神宮のある伊勢の地で過ごしたことが神々のことを考えるきっかけとなり、後年この書に結びついたという。
その意味で、神主でも学者でも政治家でも思想家でもない者が書いた神道に関する本として、読みやすく面白いものとなっている。国粋主義者がやるように神道及び日本人を過剰に持ち上げるでもなく、大政翼賛という誤った道を突き進む梃子として使われた(国家)神道を糾弾するでもなく、一定の距離を置いて「ありのまま」の神さまと神社を描いているところが好感持てる。
知っているようで知らない神道であるが、この本を読んで「へえ~」と思ったことを挙げる。
1. 神の世界にも「神階」があった
神社に格があるのは知っていた。
たとえば、一番格の高い神社はアマテラスオオミカミを祀る伊勢神宮である。三種の神器のうち草薙の剣を擁す熱田神宮や、国譲りの功績を持つ出雲大社も格が高い。この格の高さは一般に、国家への忠誠や功績の度合い及び祀られている神様の格に対応する。
が、神様にも冠位十二階のような「神階」があったとは知らなかった。
人の世界の律令制のもとでは諸王や廷臣たちに位階を与えていたし、その最高ランクは「正一位」と呼ばれていた。以下、正二位、正三位と下がっていくが、それぞれの「正位」の下には「従位」がつく。正一位の下には従一位となり、正二位が次にきて、その下に従二位が控えており・・・・・。
神々の世界にもこの人の世界の位階が応用されたのだった。
周知の通り、久能山東照宮には江戸幕府を開いた徳川家康が祀られている。当然、弱い立場の朝廷は家康を冷遇するわけにはいかない。そこで1617年(元和3)、後水尾天皇の勅使、万里小路孝房らが久能山を訪ね、家康に「東照大権現」の神号を贈り、正一位の神階を授けている。現世の力と名声が、神々の世界でも最高位の神階を獲得したのである。
神の世界でも殿上人となるには最低でも五位が必要だったのだろうか。
2. 神様には神紋がある
神様の世界にも家紋ならぬ神紋がある。
家紋の起源は平安時代にさかのぼり、公家が牛車に自分の目印をつけたことにはじまり、やがて衣服や旗にもつけられ、家の紋章となっていった。武家社会ではそれが不可欠のものとなっていく。戦地で敵と味方とを区別する目印が必要だったからだ。のち、それらの紋章は子孫に踏襲され、一族を象徴する家紋として定着していったのである。
これに対して、神紋の起源はあきらかではないが、神々の世界がヒトの世界の反映だとすれば、神殿にもヒトとおなじ紋章が必要だと考えたのかもしれない。・・・・・
ヒトの世界の家紋は動植物や文字などでつくられたが、神々の紋章は祭神にまつわる伝承やゆかりの植物、あるいは家紋から転用された紋章が多い。
有名な神紋では大宰府天満宮の「梅鉢」がある。
ここの祭神である菅原道真が梅をことのほか愛したからである。
東風吹かば 匂いおこせよ梅の花
あるじなしとて 春な忘れそ
3. 明治神宮と日光東照宮は神社本庁に所属してない
日本にある神社の総元締めは、精神的(霊的?)には伊勢神宮であるが、体系的には代々木にある神社本庁である。日本にある約7万9千の神社を束ねており、傘下の神社のために年金などの福利厚生の業務や神主の認定などを行っている。その目的は「包括下の神社の管理と指導を中心に、伝統を重んじて祭祀の振興や道義の高揚をはかり、祖国日本の繁栄を祈念し、世界の繁栄を実現する」ことにある。
だが、戦前・戦中の国家統制を離れた今は民間の宗教団体であるので、各神社はそこに参加する義務はない。
明治神宮と日光東照宮は神社本庁を脱会したのだそうだ。
観光や事業収入(明治神宮は神宮球場や絵画館や国立競技場を所有している)などで単独で稼げる神社にしてみれば、本庁の下にいて様々なしがらみを受けるのは鬱陶しいということだろう。
人間的な判断である。
ところで、日本人の宗教を考えるとき、神道、仏教、儒教の三つが重要であるのは言うまでもない。
この三つが互いに影響しあい、それぞれに変貌し、絡まりあい、重なり合い、くっついたり離れたりしながら、日本人の宗教基盤をつくってきた。三つ巴というべきか。
この三つ巴状態を読み解くのはなかなか困難である。
なにより、三つの宗教のそれぞれが、時の流れとともに、日本の風土や国民性や統治者の都合によって変容してしまって、もともとの姿をとどめていないからである。
神道は明治時代の国家神道によって大きく変貌した。大方の日本人は、いまだに神道に右翼的なものを感ぜざるをえないだろう。
また、儒教も神道に色をつけた。
伊勢神道から発展したのが江戸中期の「度会(わたらい)神道」である。
その提唱者は外宮の神主、度会延佳だった、伊勢神道では儒教や仏教は日本の神々に従うとされたが、延佳は日本の神々と儒教を合体させ、儒教でいう君臣、親子、朋友といった道こそが日本の神々にふさわしい道だと説いたのだった。もともと神々の世界には教義は存在しなかった。それが渡来の神々にも寛容だった理由だったし、逆に、求心力という点では弱点だった。仏教の脇役に甘んじできたのもそのためだった。そこで神々の側にいた人びとは強力な援軍を探しはじめ、それが君臣の道や徳を説く儒教だった。儒教の論理が日本の神々の世界を補強してくれたのである。
一方、仏教は仏教で、日本に伝わった最初の時点で、いやインドから中国大陸に伝わった時点で、元来の仏陀の教えとは異なるものになっていた。それが大乗仏教である。日本で仏教の中心思想をなす阿弥陀信仰とか本覚思想は、本来の仏陀の教えとはまったく異なるものである。それがまた、神仏習合や廃仏毀釈を経て、山岳信仰や密教を孕みながら、なんだかよくわからないものに化してしまった。
儒教はまた、民法と因習的な家族制度と男尊女卑と体育会の中にしか生き残っていない。
それら三つの混合である日本の宗教はまったく「わけわからない」。
唯一神と明文化された根本聖典を擁するイスラム教徒やキリスト教徒からみれば、あるいは小乗仏教の徒からみれば、日本の宗教は「なんでもありのごった煮」のようなものだろう。
それが悪いというわけではないが・・・。
自分が興味あるのは、こうした「ごった煮」以前の日本人の宗教である。天皇中心の国家統制を目して創作された『古事記』や『日本書紀』以前の、仏教伝来以前の、大和朝廷誕生以前の、日本人の宗教がいかなるものであったかである。
そこには神道の本来の姿があるだろう。
日本人のアイデンティティの核が窺えることだろう。
地方を旅しているとふと田圃の真ん中にこんもりとした杜が見えたりする。杜を目指して畦道をすすむと、松や杉の杜は森閑とし、日なかは人の姿も見かけない。その奥まったあたりには必ず小さな神殿が静かにたたずんでいる。伊勢の内宮のような清冽な大気が漂っているわけでも、倭姫宮のような薄闇のなかの厳粛さも感じない。それでも、そこには木々にかこまれたおだやな空間があり、訪れた者を安堵させてくれる。
そこにいるとき、神々の成り立ちや神々と支配者の関係などは忘れてしまう。祭祀や参拝のあり方も関係がない。ただ、そこにいるだけ妙に心が安らぐのである。そんなとき、「ああ。これが日本の神々の世界かもしれない」、私はふとそう思ったりする。