ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

仏教

● 本:『神さまと神社――日本人なら知っておきたい八百万の世界』(井上宏生著、祥伝社)

神さまと神社 001 著者の井上宏生(ひろお)は伊勢にある皇學館大学を中退後、マスコミの世界に身を置き、現在はノンフィクション作家として『日本人はなぜカレーライスが好きか』などの著書を出している。
 本書によれば、皇學館大學は東京の国士舘大学と並ぶ神主養成機関であり、「伊勢神宮や明治神宮など大規模な神社の神主のほとんどは、この2つの大学の出身者」だそうである。神社の跡継ぎでもなく神主を目指していたわけでもなさそうな著者がなぜ皇學館大學に籍を置いていたかは明らかでないが、学生時代の3年間を神宮のある伊勢の地で過ごしたことが神々のことを考えるきっかけとなり、後年この書に結びついたという。
 その意味で、神主でも学者でも政治家でも思想家でもない者が書いた神道に関する本として、読みやすく面白いものとなっている。国粋主義者がやるように神道及び日本人を過剰に持ち上げるでもなく、大政翼賛という誤った道を突き進む梃子として使われた(国家)神道を糾弾するでもなく、一定の距離を置いて「ありのまま」の神さまと神社を描いているところが好感持てる。

 知っているようで知らない神道であるが、この本を読んで「へえ~」と思ったことを挙げる。

1. 神の世界にも「神階」があった
 神社に格があるのは知っていた。
 たとえば、一番格の高い神社はアマテラスオオミカミを祀る伊勢神宮である。三種の神器のうち草薙の剣を擁す熱田神宮や、国譲りの功績を持つ出雲大社も格が高い。この格の高さは一般に、国家への忠誠や功績の度合い及び祀られている神様の格に対応する。
 が、神様にも冠位十二階のような「神階」があったとは知らなかった。

 人の世界の律令制のもとでは諸王や廷臣たちに位階を与えていたし、その最高ランクは「正一位」と呼ばれていた。以下、正二位、正三位と下がっていくが、それぞれの「正位」の下には「従位」がつく。正一位の下には従一位となり、正二位が次にきて、その下に従二位が控えており・・・・・。
 神々の世界にもこの人の世界の位階が応用されたのだった。
 
 周知の通り、久能山東照宮には江戸幕府を開いた徳川家康が祀られている。当然、弱い立場の朝廷は家康を冷遇するわけにはいかない。そこで1617年(元和3)、後水尾天皇の勅使、万里小路孝房らが久能山を訪ね、家康に「東照大権現」の神号を贈り、正一位の神階を授けている。現世の力と名声が、神々の世界でも最高位の神階を獲得したのである。

 神の世界でも殿上人となるには最低でも五位が必要だったのだろうか。


2. 神様には神紋がある

 神様の世界にも家紋ならぬ神紋がある。 

 家紋の起源は平安時代にさかのぼり、公家が牛車に自分の目印をつけたことにはじまり、やがて衣服や旗にもつけられ、家の紋章となっていった。武家社会ではそれが不可欠のものとなっていく。戦地で敵と味方とを区別する目印が必要だったからだ。のち、それらの紋章は子孫に踏襲され、一族を象徴する家紋として定着していったのである。
 これに対して、神紋の起源はあきらかではないが、神々の世界がヒトの世界の反映だとすれば、神殿にもヒトとおなじ紋章が必要だと考えたのかもしれない。・・・・・
 ヒトの世界の家紋は動植物や文字などでつくられたが、神々の紋章は祭神にまつわる伝承やゆかりの植物、あるいは家紋から転用された紋章が多い。

梅鉢 有名な神紋では大宰府天満宮の「梅鉢」がある。
 ここの祭神である菅原道真が梅をことのほか愛したからである。


 東風吹かば 匂いおこせよ梅の花
 あるじなしとて 春な忘れそ



3. 明治神宮と日光東照宮は神社本庁に所属してない

 日本にある神社の総元締めは、精神的(霊的?)には伊勢神宮であるが、体系的には代々木にある神社本庁である。日本にある約7万9千の神社を束ねており、傘下の神社のために年金などの福利厚生の業務や神主の認定などを行っている。その目的は「包括下の神社の管理と指導を中心に、伝統を重んじて祭祀の振興や道義の高揚をはかり、祖国日本の繁栄を祈念し、世界の繁栄を実現する」ことにある。
 だが、戦前・戦中の国家統制を離れた今は民間の宗教団体であるので、各神社はそこに参加する義務はない。
 明治神宮と日光東照宮は神社本庁を脱会したのだそうだ。
 観光や事業収入(明治神宮は神宮球場や絵画館や国立競技場を所有している)などで単独で稼げる神社にしてみれば、本庁の下にいて様々なしがらみを受けるのは鬱陶しいということだろう。
 人間的な判断である。


 ところで、日本人の宗教を考えるとき、神道、仏教、儒教の三つが重要であるのは言うまでもない。
 この三つが互いに影響しあい、それぞれに変貌し、絡まりあい、重なり合い、くっついたり離れたりしながら、日本人の宗教基盤をつくってきた。三つ巴というべきか。
 この三つ巴状態を読み解くのはなかなか困難である。
 なにより、三つの宗教のそれぞれが、時の流れとともに、日本の風土や国民性や統治者の都合によって変容してしまって、もともとの姿をとどめていないからである。
 神道は明治時代の国家神道によって大きく変貌した。大方の日本人は、いまだに神道に右翼的なものを感ぜざるをえないだろう。
 また、儒教も神道に色をつけた。 

 伊勢神道から発展したのが江戸中期の「度会(わたらい)神道」である。
 その提唱者は外宮の神主、度会延佳だった、伊勢神道では儒教や仏教は日本の神々に従うとされたが、延佳は日本の神々と儒教を合体させ、儒教でいう君臣、親子、朋友といった道こそが日本の神々にふさわしい道だと説いたのだった。

 もともと神々の世界には教義は存在しなかった。それが渡来の神々にも寛容だった理由だったし、逆に、求心力という点では弱点だった。仏教の脇役に甘んじできたのもそのためだった。そこで神々の側にいた人びとは強力な援軍を探しはじめ、それが君臣の道や徳を説く儒教だった。儒教の論理が日本の神々の世界を補強してくれたのである。

 一方、仏教は仏教で、日本に伝わった最初の時点で、いやインドから中国大陸に伝わった時点で、元来の仏陀の教えとは異なるものになっていた。それが大乗仏教である。日本で仏教の中心思想をなす阿弥陀信仰とか本覚思想は、本来の仏陀の教えとはまったく異なるものである。それがまた、神仏習合や廃仏毀釈を経て、山岳信仰や密教を孕みながら、なんだかよくわからないものに化してしまった。
 儒教はまた、民法と因習的な家族制度と男尊女卑と体育会の中にしか生き残っていない。
 それら三つの混合である日本の宗教はまったく「わけわからない」。
 唯一神と明文化された根本聖典を擁するイスラム教徒やキリスト教徒からみれば、あるいは小乗仏教の徒からみれば、日本の宗教は「なんでもありのごった煮」のようなものだろう。
 それが悪いというわけではないが・・・。 

 自分が興味あるのは、こうした「ごった煮」以前の日本人の宗教である。天皇中心の国家統制を目して創作された『古事記』や『日本書紀』以前の、仏教伝来以前の、大和朝廷誕生以前の、日本人の宗教がいかなるものであったかである。
 そこには神道の本来の姿があるだろう。
 日本人のアイデンティティの核が窺えることだろう。

 地方を旅しているとふと田圃の真ん中にこんもりとした杜が見えたりする。杜を目指して畦道をすすむと、松や杉の杜は森閑とし、日なかは人の姿も見かけない。その奥まったあたりには必ず小さな神殿が静かにたたずんでいる。伊勢の内宮のような清冽な大気が漂っているわけでも、倭姫宮のような薄闇のなかの厳粛さも感じない。それでも、そこには木々にかこまれたおだやな空間があり、訪れた者を安堵させてくれる。
 そこにいるとき、神々の成り立ちや神々と支配者の関係などは忘れてしまう。祭祀や参拝のあり方も関係がない。ただ、そこにいるだけ妙に心が安らぐのである。そんなとき、「ああ。これが日本の神々の世界かもしれない」、私はふとそう思ったりする。

● 小乗って誰が言った? 映画:『ビルマVJ~消された革命』(アンダース・オステルガルド監督)

 2008年デンマーク映画。

 VJとはビデオジャーナリストの意である。
 軍事政権の圧政に抵抗するビルマ国民たちの闘いの様子をハンディカメラで撮り続け、撮った映像を国外メディアに流す「ビルマ民主の声」のジャーナリスト達。苛烈な情報統制が敷かれる中、撮影現場を見つかったら、投獄は疎か、拷問や処刑も覚悟しなければならない。
 彼等が命を張って撮り続けた膨大な映像を素材としてオステルガルド監督が再構築した、2008年当時のビルマの現状を伝えるドキュメンタリーである。
 全編、事実のもたらす重みに圧倒される。
 これが世界で起こっていることなのである。

 ビルマの現状・・・・。

 アウンサンスーチーが自宅軟禁を解除され国会議員に当選し、ヨーロッパ諸国を訪問したことに象徴されるように、ビルマは今、ようやく民主化への道を歩もうとしている・・・・かに見える。
 これが本物ならば喜ばしいことであるけれど、「議席の4分の1は軍人が占めなければならず、重要な法案は全議員の4分の3以上の賛成がなければ否決される」という、民主国家の常識からすれば噴飯ものの法律に見られるように、今でもしっかりと実権を握っているのは軍である。
 一度握った権力をそう簡単に手離すとも思えないし、完全な民主化が成し遂げられた暁には、これまで軍が国民達に対して行ってきた様々な極悪非道を断罪する声が上がるのは必至である。(その時には、この映画は世界が認める貴重な証拠となるであろう。)
 軍としては、これまでの政策や行為については個人的にも組織的にもいっさい責任を問われることはないという確証を得ない限り、雪崩式の民主化を阻むことだろう。

 さて、国民は許すのか、許さないのか。

 西欧諸国なら当然許さないだろう。
 イスラム諸国も許さないだろう。「目には目を、歯には歯を」である。
 だが、ビルマは筋金入りの仏教国である。

 この映画でも分かるとおり、国民達の僧侶に対する尊敬の念は日本とはまったく比べものにならないくらいに篤い。VJの一人でかつて投獄された経験を持つ海千山千のデモの英雄でさえ、寝る前にはブッダを描いた掛け軸の前で礼拝するのが日課となっている。

 この映画を見た欧米人は、ビルマ国民のデモのやり方にびっくりしたことだろう。デモ隊はまったく攻撃しない、木片一つの武器も手にしない、軍に攻撃されてもやり返さない、デモの最中に相手のために祈りさえする。
 それは仏教徒ならではのデモ行進である。
 
 この映画の功績は、ほんの少し前のビルマの悲惨な現状を世界に伝えた点ばかりではない。
 仏教国とは何なのか、仏教の僧侶とは大衆にとってどういう存在なのか、仏教を信仰する国民とはどういうものなのかを、キリスト教国の人々にあからさまに知らしめたのである。 
 世俗の楽しみ・喜びを擲って、生きとし生けるものへの慈悲喜捨を願い、托鉢をし、修行をし、在家の心の面倒を見、いざというときは命を捨てて在家のために立ち上がる僧侶たち。その存在がいかに大きなものか。

 寺から街に繰り出すえんじ色の袈裟を着た裸足の僧侶達の列を見るにつけ、これをして「小さな乗り物」と馬鹿にするのなら、「大きな乗り物」を標榜する日本の仏教の坊様達は、よっぽど庶民のために尽くしてくださっているのだろう、と思うのであった。


評価:B+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!






 



 

 
 


● 講演:「気づき」の迷宮 ~サティの実践とは何か?(演者:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

 テーラワーダ仏教協会の月例講演会。
 会場は代々木にあるオリンピック記念青少年総合センター。

 スマナ長老の話を聞き始めて丸3年になるが、最近話の内容が高度と言うか、濃いと言うか、あけすけと言うか、いよいよもって仏教の核心にずばり踏み込んでいくような大胆さと迫力とを感じる。どうも3.11以来、その感じが強まっているような気がしてならない。ひとりひとりが悟ること、変容することの重要性、緊急性が増しているとでも言うかのように。やはりマヤの予言は実現するのか?(笑)
 それとも、常連の多い聴衆者のレベルがそれだけ上がってきているのだろうか。
 いずれにせよ、聞くたびに焦燥感にかられる。

 今回の話も実に深い、実に鋭い、実にシビれるものであった。
 サティ(気づき)の重要性を説明するのに、スマナ長老がとっかかりとして持ち出したのは、なんと「この世の仕組み」「認識の仕組み」「生命の仕組み」という大がかりなテーマであった。
 考えてみたら、すごいことだ。開口一番、「はい、これからこの世の仕組みについて話します」なんて、誰にでもできることではない。(スマナ長老が実際にそう言ったわけではない。念のため。)

 
○ すべての生命の認識(知覚)システムは、幻覚をつくる(捏造する)ようにできている。

○ 存在(世界)とは、認識システムによってとらえた情報を主観で組み合わせて作り出したもの(=幻覚)である。

○ 認識システムは、動物・植物・昆虫・人間の別をとらず、一つ一つの生命によって異なるので、「私」の世界と「他人」の世界とが異なるのが当然である。「私」の世界を「他人」が知ることも、またその逆も、不可能である。

○ 「私」は、幻覚を事実と錯覚してしまい、それにとらわれてしまう。それによって「苦」が起こる。

○ 幻覚(捏造)が起こるのは、六門(眼・耳・鼻・舌・身・意)に絶えず入ってくる、色・声・香・味・触・法という情報(データ)を処理する仕方が間違っているため。

○すなわち、
 六つの門に情報が触れる
       ↓
 「感じた者」が概念(想)をつくる
       ↓
 概念ができたら思考する
       ↓
 この思考が捏造する
       ↓
 過去・現在・未来にわたって捏造された概念を適用する。

○ アジタ行者とブッダの問答
 アジタ: 世は何に覆われている?
 ブッダ: 無明によって覆われています。
      (六門からの情報により捏造された幻覚が事物の本然の姿を覆い隠している)
 アジタ: 人はなぜそのことが分からない?
 ブッダ: 疑いと放逸とがあるからです。
 アジタ: この無明の状態を固定してしまうものは何か?
 ブッダ: 妄想の回転です。
 アジタ: その結果起こる危険とは?
 ブッダ: 苦が起こることです。
 アジタ: あらゆる方向から、絶えず流れ(=情報)が入り込む。どうすれば止められる?
 ブッダ: サティ(気づき)がこの流れに対する堤防です。智慧によって無明がなくなります。


 と、やっとここでサティが出てくる。
 仏教におけるサティとは、「(情報の流入→捏造)という大いなる津波に対して堤防として働くものであり、サティは生命そのものの問題である」と長老は言う。「生きるとは知ることであり、知るとは捏造することです。」

 つまり、我々(生命)が生きるとは、それぞれの認識システムを使って捏造した世界(幻覚)を瞬間瞬間作り出していることであり、幻覚の世界に「私」をもって生きるとき、絶え間のない「苦しみ」が生じるのである。
 「苦しみ」から離脱するには捏造をやめること。六門から入ってくる情報を、次の段階(概念を作る、あるいは思考が始まる)にまで持っていかずに、即座に楔を打つ。
 その楔こそサティなのであろう。 

 こうしたことを「頭で理解する」ことと、実際に「体験する」こととは違う。体験してこそ納得し確信が持てるのだから。心が裏返るのだから。体験するためには、やはり修行=瞑想が不可欠である。
 自分は、頭では理解しているつもりなのだが、なかなか悟れない。

 やっぱり、精進が足りないのだろう。
 

● 本:『小さな「悟り」を積み重ねる』(アルボムッレ・スマナサーラ著、集英社新書)

001 よく本を出す人である。

 前に書いたものの改定新版を別にしても、毎月数冊ずつ新著が出ているのではないだろうか? 日々の講話がそのまま本になるからであろう。
 在日30年、日本語の能力も驚くべきものだ。
 母国語とは異なる国に行って、仏教という壮大にして深遠な思想をその国の言葉で大衆に伝えるという、想像するだに難儀な仕事をやって、今のところ成功をおさめているのであるから、フランシスコ・ザビエルや欧米に禅を広めた鈴木大拙に比肩できるような天才と言ってよいのだろう。
 その場合、日本がもともと大乗仏教の国であったということは伝道に際してプラスにも働いただろうが、テーラワーダ(原始仏教)と大乗仏教の齟齬ゆえに逆風もすさまじかった(すさまじい)だろう。日本の伝統仏教を信奉する者にしてみれば、「お前たちの仏教は偽物だ。仏の教えではない」と批判されているようなものだからである。
  
 とはいうものの。
 キリスト教の国、とりわけアメリカやラテン国家でテーラワーダを伝道することに比べれば、まだ日本はやりやすいと思う。それらの国では、国民の有する価値観や人生観が、東アジアの伝統的なそれとは違いすぎるからだ。

 テーラワーダ、というよりブッダの教えは、近代西欧文明の志向するものとはほとんど真逆に位置する。それは、近代西欧文明の出発点が、ルネサンスの人間中心主義やデカルトの「我思う、ゆえに我あり」にある以上、どうしてもそうならざるをえない。
 なぜなら、ブッダの教えは生命中心主義であり(最終的には生命からの脱却を目指しているが)、自我の否定にあるからだ。

 現代日本に生活する我々の価値観や人生観は、すっかり近代西欧文明に洗脳されている。その中には「平等」や「人権」のように大切な概念もある。が、一方、個人個人の欲望の追求と実現こそが幸福であるとする考え方が、終わりのない戦争と貧富の拡大と環境悪化と人権侵害と深い孤独を生んでいるのも事実である。

 この本で語られる言葉が、我々が通常正しいと思っている概念をすべてひっくり返していくように見えるのは、スマナサーラ長老が稀代の天邪鬼のように思われるのは、戦後日本人がいかにアメリカナイズされてしまったかの証左なのである。
 たとえば、こんなふうだ。

 
・ 人が考えるのはバカだからである。
・ 運命という考え方は間違っている。
・ 人生は尊いものではない。
・ あきらめる力が幸福をもたらす。
・ 自分探しは最後に自分を見失う。
・ 生きることに本来自由はない。
・ ポジティブすぎると人は成長しない。
・ 人間は本来自立できない生き物である。
・ 豊かすぎると人は奴隷の生き方を強いられる。
・ 愛はほんとうは悪いものである。
・ 「何もしない」という刺激こそ求めよ。
・ 過去の経験と記憶は思っているほど役に立たない。
・ 矛盾を当たり前として生きる。

 
 かくのごとし。

 心に留めるべきは、近代西欧文明によって洗脳され条件付けられた「自分」に気づいて、そのプログラムを解除し、新たに仏教というプログラムをダウンロードせよ、と言っているのではないところだ。

 プログラムをダウンロードすべき「自分」などそもそも存在しない、と言うのである。



 

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