・ 何も食わせないで水だけ飲ませたらどのくらい生きるか
・ 静脈から空気を注射すると、どのようなプロセスを経て悶絶に至るのか
・ 逆さ吊りにした場合、何時間何分で死に至り、身体の各部はどのように変化するか
・ 大きな遠心分離器に入れ、高速で回転させる実験
・ 馬や豚の血液を腎臓に注入
・ チフス菌入り甘味まんじゅう実験
・ A型からO型(血液)への輸血
・ 「イチョウ返し」といって胃と腸の位置を逆転したらどうなるか
・ 右腕と左腕を取り替える
・ 真空管に放り込んで内蔵が出てくるさまを16mm映写機で撮影する

 これ全部、アジア太平洋戦争中に日本人が捕虜に対して行った実験である。
 詳しく言うと、大日本帝国陸軍関東軍防疫給水部本部(通称731部隊または石井部隊)において、隊員である医学者たちが、捕虜となった朝鮮人、中国人、モンゴル人、アメリカ人、ロシア人等に対して行った人体実験の例である。
 731部隊は、兵士の感染症予防、衛生的な給水体制の研究を主任務とすると同時に、細菌戦に使用する生物兵器の研究・開発機関であった。1933年(昭和8)初代隊長に石井四郎を擁し、ハルビンに設置された。
 上に挙げた実験が本来の目的である細菌戦の準備とは関係なく、医学者たちの好奇心だけで実施されたのを知るとき、そして実験台として使われた捕虜のことを隊員たちが「マルタ(丸太)」と呼んでいたのを知るとき、そのような心性や衝動が日本人の中に潜んでいるのに慄然とする。自分の中にもあるのかと。

 「731部隊展」が、明治大学生田キャンパスにある登戸研究所資料館でやっているのをネットで知って出かけてみた。
 場所は小田急線生田駅から歩いて10分、多摩丘陵の高台にある。

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 登校路門から入って急な坂道を登ってすぐのところに神社がある。生田神社と呼ばれているが、もとは1943年に建立された弥心(やごころ)神社で、古事記の天岩戸神話に登場する知恵の神「八意思兼神(やごころおもいかねのかみ)」を祀っている。大学キャンパスに祀る神としては、天神様(菅原道真公)と並んで最適の選択であるなあと感心するなかれ。生田キャンパスは登戸研究所(第九陸軍技術研究所)の跡地に建てられたもので、つまりこの神社は研究の成功=戦勝(=「敵をたくさん殺すための知恵をください」)を願って建てられたものなのである。

 緑豊かなキャンパスに入ると、学生がわんさかいる。
 あたりまえの話だ。が、普段老人ホームで平均85歳の高齢者たちに囲まれているので、こんなにたくさん若い人がいるという目の前の景色がなんだか信じられない。相対性のマジックで、みな子供のように、中学生のように見える。
 いや、実際自分の息子・娘の世代ではあった。
 仲間と楽しそうに歩く学生たちの背後に、現代的な高層ビルディングとヒマラヤ杉が聳え立つ。

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 登戸研究所は、戦前に旧日本陸軍によって開設された研究所です。ここでは防諜(スパイ活動防止)・諜報(スパイ活動)・謀略(破壊・かく乱活動・暗殺)・宣伝(人心の誘導)のためのさまざまな秘密戦兵器が開発されました。正式名称は第九陸軍技術研究所ですが、決して外部にその研究・開発内容を知られてはいけなかったために、「登戸研究所」と秘匿名でよばれていました。
 登戸研究所は、アジア太平洋戦争において秘密戦の中核を担っており、軍から重要視された研究所でありましたが、敗戦とともに閉鎖されました。その後、1950年に登戸研究所の跡地の一部を明治大学が購入し、明治大学生田キャンパスが開設され現在に至っています。(資料館パンフレットより抜粋)


 キャンパス内には、弥心神社をはじめ、研究所の史跡(戦争遺跡)が点在している。そのうち、第二科の実験棟のあった場所に、当時の建物の設備をなるべくそのまま残す形で復元されたのが登戸研究所資料館である。
 見学は無料。

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 登戸研究所では主に以下のような研究・開発を行っていた。
 第一科 風船爆弾の研究開発
 第二科 生物兵器・毒物・スパイ機材の研究開発
 第三科 偽札の製造
 
 資料館では、それぞれの科で行っていた研究の中味について、部屋ごとに分けて展示している。それぞれの部屋に展示説明のDVDが置かれてるので、職員に解説を頼まなくても概要を理解することができる。

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 風船爆弾の名前だけは知っていたが、本当に実戦に使われたとは知らなかった。
 実際に爆弾を搭載した風船が千葉県の一宮からアメリカに向けて飛ばされたのである。
 9300発打ち上げられて、偏西風に乗ってアメリカ本土に1000発ほどが到着したのである。
 なんだか夢のような、メアリー・ポピンズのようなファンタジー。
 しかも風船の生地が和紙とこんにゃくとでできているときては!
 たしかに、各高度における風の向きや強さの分析、気圧の変化によって風船が膨張爆発するのを抑える技術、途中で(太平洋上で)落下するのを防ぐため錘(砂袋)を自動的に投下する技術、アメリカ本土で爆弾を投擲できるタイミングをはかる技術など、各分野から動員された専門家による高度の知的プロジェクトには違いない。オレゴン州でピクニック(!)中の子供と大人が不時着した風船爆弾に触れて6名が死亡するという成果もあった。放球時の事故で日本の兵士が6名死亡しているので差し引きゼロだが。
 風船爆弾は「最終決戦兵器」として作られたという。ミッドウェーで敗北し、ガダルカナルから撤退し、あとがなかった。和紙とこんにゃくという組み合わせの妙も、真相を言えば、もはや南方からゴムを調達するだけの機動力を失っていたからなのである。
 これが「最終兵器」たる理由は、そもそもの計画が爆弾ではなく生物兵器(牛疫ウイルス)を搭載してアメリカを攻撃するというところにあったようだ。実際、強毒化や生体実験も済んで実用可状態にあったらしい。
 なぜ実際には使わなかったか。 

アメリカからの報復を恐れた陸軍中央の最終的な判断によって風船爆弾に搭載されることはありませんでした。(資料館ガイドブックより)

 賢明な判断である。
 っていうか、「報復を恐れて攻撃を控える」という時点で、すでに敗北宣言も同然じゃないか。
 想像してみよ。
 高度4500mの太平洋上空を何千発もの和紙の風船たちが時速200キロの風に乗って旅するさまを。あるは上空で爆発し、あるは海の藻屑と消え、あるは名も知らぬ南の島に不時着する。昼は冬の(というのは偏西風は冬しか吹かない)日差しに焼かれ、夜は氷点下の星空を行く。二泊三日の旅を終え、無事目的地に到達できるのは1割。
 なんともいじらしい風船たちの旅。
 日本国民の食卓からこんにゃくが姿を消していたこの期間、アメリカは着々と戦争を終結させる最終兵器=原子爆弾の使用のタイミングをはかっていたのである。


 生物兵器や毒物を研究開発する第二科こそは、731部隊と関係の深かったところである。ここで開発した毒物の人体実験、細菌の散布実験が中国で行われたのである。登戸研究所が頭脳、731部隊が手足といったところか。
 戦後まもない東京で、ある事件が起きた。 

1948年1月26日午後3時過ぎ、一人の男が帝国銀行椎名町支店に現れ、近くで集団赤痢が発生したといって16人の行員を集め、予防薬と称する毒物を飲ませ、12人が死亡した。その際に犯人は「厚生省技官松井蔚」という名刺を残した。松井氏は実在の人物で、名刺を交換したものの捜査がすすめられた。捜査本部は、毒物に深い知識を持っていることに注目し、青酸毒物の人体実験をおこなっていた731部隊など旧陸軍関係者の捜査を進めたが、捜査は一転、毒物に知識も経験もないテンペラ画家の平沢貞通氏を逮捕した。平沢氏は公判で無実を訴えたが、一審、二審とも死刑判決が出され、1955年5月7日、死刑が確定した。平沢氏は再審を訴えつづけたが、1987年5月10日、獄死した。享年95歳。(「帝銀事件ホームページ 平沢貞通を救う会」より抜粋)

 帝銀事件である。
 このとき使用された毒物というのが、登戸研究所第二科が開発した青酸ニトリル(アセトンシアンヒドリン)であった。
 警察が最初に容疑者として目星をつけていたのは登戸研究所第二科の所員であったS中佐だったが、何らかの思惑(GHQの圧力と言われている)が働いて、その方面の捜査は中止となった。S中佐は事件の翌年に病死している。ブルッ。


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 第二科に勤務していた伴繁雄は、戦後40年間、身内にも自身の研究所での体験を語ることなく沈黙を貫いていた。
 それが、80年代、登戸研究所について調査活動していた高校生のたび重なる訪問を受けているうちに、重い口を開き始める。曰く、「登戸研究所のことは大人の誰にも話したくなかった。君たちが高校生だから話したのだ」
 こうした取り組みが、伴氏をはじめとする元所員たちの心の扉を開いていき、それぞれの体験を語り始める。登戸研究所の保存と資料館の設置を明治大学に要望したのも彼らである。

 資料館の最後の部屋に伴繁雄が高校生に送ったメッセージがある。正確には覚えていないが、大体こんなことだ。

 「自分たちは小さい頃から天皇陛下を神と拝み、お国のために闘うのがあたりまえと育てられてきた。だから、時代の流れの中で逆らえるものではなかった。それをわかってほしい」
 その通りだと思う。
 おそらく、いやきっと、自分も同じような環境に身が置かれたら、伴氏や他の研究所職員や731部隊の兵士たち同様、愛国心と正義感を持って、一人でも多くの敵の殺戮に日々励み、喜びとすることだろう。
 だからこそ、国家というものが、戦争というものが、どれほど狂気と理不尽に満ちているか、人間というものがどれほど無明に閉ざされているかを忘れないために、過去のあやまちを放擲してはならない。

 現在、中国は731部隊跡地を世界遺産登録するための運動を推進している。

731跡地