ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

入船亭小辰

● 落語は楽語だ :第127回すがも巣ごもり寄席

すがも寄席


日時 2017年5月31日(水)13:00~
会場 スタジオフォー(庚申塚そば)
出演&演目
  • 柳亭市弥   : 「かぼちゃ屋」
  • 入船亭小辰  : 「団子坂奇談」
  • 桂宮治    : 「権助芝居」
  • 春風亭正太郎 : 「三枚起請」

 開演45分前に会場に着いたら、座席は7割方埋まっていた。スタジオフォーのホームページに「入れないかもしれないので、できるだけご予約を」と書いてあったので予約はしておいた。いったい誰の人気ゆえなのか?
 技の小辰?
 残り二人は初めて聴く。
 
 その後も入場者は増え続け、演者が出入りするための通路の部分を削って椅子を追加し、最終的には85名の大入り満員となった。巣ごもり寄席には過去数回来ているが、いつも20~30名くらい。こんなに入ったのを見るのは初めてである。この狭いスペースにこんなに入るとは思わなんだ。
 みなさん、誰がお目当て?(自分はもちろん市弥である。)

 トップバッターはその市弥(34)。
 久しぶりに見たが、なんか男っぽくなった。妻夫木聡みたいな万年モラトリアム青年っぽさが抜けて、風格が増した。寿も近いのか・・・。(寿とはどっちでしょう? 真打ち昇進? or ご成婚?)
 話の途中から立ち昇るオーラは相変わらず。これが出ると目が離せなくなる。他の芸達者な演者が望んでもなかなか得られない市弥の秘密兵器である。
 しかし、高座そのものはやや集中力を欠いた感があった。会場にいる女性ファンを意識しすぎたか。それとも満席の圧力で緊張したのか。
 いまが飛躍の正念場だと思う。精進してほしい。(いま気づいたが「正念」も「精進」も仏教用語だ)

 2番手の小辰(34)。
 若いのに本当に達者である。
 研究熱心で努力家なのだろう。玄人受けするタイプである。
 行きのチンチン電車(都電荒川線)で見かけたが、素顔は本当に地味目な普通の青年である。
 そのギャップが面白い。 

 中入り後の桂宮治(40)。
 公式ホームページによると、平成20年に桂伸治門下となったとあるから、33歳で落語家転進したことになる。思い切ったな。
 平成24年に二ツ目昇進。その後、NHK新人演芸大賞 落語部門 大賞はじめ、数多くの賞をもらっている有望株。芸風は、本人が「色物担当」と自らを茶化していたが、パワフルで表情も体の動きも派手で、諧謔味あふれている。ギャグ漫画的。子供から大人まで楽しめる。
 本日の演目に登場する権助の東北弁があまりに上手いので岩手出身かと思ったが、プロフによると東京都出身とある。だとすれば、相当の努力家の証拠だろう。
 本日一番受けていた。

 トリは春風亭正太郎(36)
 カピバラというあだ名を奉られているらしい。なるほど顔が小動物風で愛嬌がある。が、立ち居振る舞いには落ち着きがあり、羽織り姿もさまになっている。
 「三枚起請」を聴くのは2回目。面白いけれど難しい演目。花魁と彼女にだまされた三人の男、しめて四人の演じ分けがポイントとなるので演技力を問われる。本職の役者だとて一朝一夕には行くまい。前回ソルティが聴いたのは中央大学の落研(オチケン)のふられ亭ちく生であった。これが上手くて感心した。
 正太郎はさすがにトリをつとめるだけあって、話の運びよどみなく、演じ分けも見事。技巧を感じさせない自然な風味が、「巧さ」を感じさせてしまう小辰より、一段上手かもしれない。
 が、一つだけふられ亭ちく生のほうが優れている点があった。
 それは花魁・喜瀬川の役である。
 正太郎の花魁はどうにも中途半端である。女らしくもないし、遊女らしくもない。色気がない。これで三人の男を手玉に取れるとは思われない。
 男が女を演じるのはもって生まれた資質がものを言うところであろうが(市弥なんか上手いもんだ)、もっと色気の研究が必要だろう。


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カピバラ (げっ歯目テンジクネズミ科カピバラ属)


 本日の大入り満席は、出演者4名の顔触れが高レベルで揃っていたことによるのであった。
 久しぶりの寄席だったが、やっぱり落語は楽しい。
 落語は楽語だ。
 


● イケメン市弥 落語:清瀬けやき亭落語応援会

日時  5月2日(土)14時~
会場  清瀬けやきホール・集会室(和室)
演者  春風亭一蔵  : 『子ほめ』『ちりとてちん』
      金原亭駒松  : 『元犬』
      柳亭市弥    : 『転宅』
      入船亭小辰  : 『代脈』
清瀬落語会 002

 GW真っ只中の夏日。西武池袋線清瀬駅近くの清瀬けやきホールまではるばる来たのは、イチヤ君こと柳亭市弥を見る(聞く)ためである。
 追っかけ?
 ブログいちやぼしを見ると、5月には市弥一人舞台(一人会というのか)も何度かあるらしい。それはそれで楽しみであるが、他の噺家(主にイチヤと同格の二ツ目)と共演するイチヤを見るのもオツなものである。
 一つには、落語初心者ゆえ、多くの噺家の高座を見て落語の何たるかを学びたいし、いろいろな演目も知りたい。いま一つには、他の噺家と比較することでイチヤの特質を確認できるからである。

清瀬落語会 001
 
 清瀬けやきホールで開催されているこの若手落語家を応援する会はすでに41回を数える。
 地元の常連もいるらしく、SF映画に出てくる宇宙船のようなデザインのけやきホールの4階集会室に入ると、和室に並べられた椅子はほぼ埋まっていた。50人以上は入っていた。
 やっぱり、落語ブームなんだろうか。

 本日の出演者のうち金原亭駒松は二ツ目昇進を間近に控えるいわゆる前座。1985年生まれの30歳。育ちの良さが伺える丁寧な話しぶりで、これから本当の勉強が始まるのだろう。
 あとの三人は同期とのこと。同期って、どうやら入門(弟子入り)した年のことでなくて二ツ目に昇進した年(三人とも2012年)のことらしい。三人とも30代前半である。
 手元にある案内チラシには、三者三様の落語のスタイルを表すのに、こんな煽り文句を載せている。
「力の一蔵、イケメンの市弥、技の小辰」
 まさに「その通りだな」と頷くような、三者それぞれの違いが引き立った会であった。

 春風亭一蔵は、押し出しのいい、仲間内の飲み会で間違いなく主役をはるような威圧感ある男。ちょっとかすれたダミ声といい、堂々たる体躯といい、ジャイアンを彷彿させる。「力の一蔵」の異名どおり、ガンガン押しまくっていくスタイル。表情や振りも大袈裟で、演目によっては「ちょっと暑苦しい」かもしれない。なにより演者が汗だくになりそう。
 対照的に、入船亭小辰は最初から最後まできわめて冷静に自身をコントロールする。汗をかかない芸である。なによりの武器は声の良さ。大きくはないが、よく通る低めの渋い声で、滑舌もしっかりしている。話の運び、メリハリのつけ方も滅法上手い。たしかに「技の小辰」と言うだけある。外見は瀬戸内寂聴を若くしたみたいな感じだが、どことなく孤高な雰囲気がある。
 で、柳亭市弥である。
 
 「イケメン市弥」という異名は、本人にとっては面白くないかもしれない。他の二人が芸風について語られているのに、自分だけは外見重視。あたかも器量のみによって採用された女子社員みたいな。
「失礼ねえ。あたしだって同期の男くらい仕事できるわよ~」
 しかし、イチヤの高座に接するとやはり思うのである。
「イケメンであることは立派な芸である」と。
 まず、登場した瞬間から会場の目を引き付ける。心を浮き立たせる。
 イチヤのイケメンぶりは、女性にとってはもちろん魅力だが、男性にとってもライバル意識や嫉妬を沸き立たせるような性質のものではない。「こんな息子がいたら」「こんな部下がいたら」「こんな娘婿がいたら」と思わせるような、嫌味の無い、気障っぽさの無い、劣等感や反感を引き起こさないような万人受けするイケメンである。それでトクしている。噺のマクラからわずか数分以内に、会場は「イチヤを支えよう」というモードになる。母性本能をくすぐり、武装解除させる。
 イチヤは芸も巧みであると自分は思うのだが、芸の上手さ(=テクニック)を感じさせない。話の間合いであるとか、アドリブであるとか、ここぞと言う時のはじけ方であるとか、実に巧みなのである。が、小辰のときに「うまい!」と思わず心の中で声を上げたようにはならない。
 なぜかというに、イチヤのテクニックは話全体のムードの中に溶け込んでしまって目立たないからである。客の側から言えば、聞いていると話の中に知らず知らず入り込んでしまうからテクニックどうのという次元での評価を忘れてしまうのだ。
 あるいはこうも言える。イチヤは登場人物になりきる度合いが大きくて、話芸というより芝居に近くなっている。そう、イチヤの高座はまるで落語というよりも一人芝居を観ているようなのだ。(とりわけ、長屋のおかみさんなど女性を演じるときにその傾向が強い。あと一歩でオネエになってしまうスレスレのところで、かろうじて踏みとどまって下世話で色っぽい江戸の女らしさを成立させている。本人自身、演じることの快感に酔っているのではなかろうか。)
 だから、話が佳境に入り役に没入してきたときのイチヤが放つオーラーは、まさに舞台俳優の放つそれに近い。どうしたって目が離せなくなる。

 どうしてそんなことができるのか。
 おそらくその秘密はイチヤの性格にある。
「親に大切にされて、さほど屈折もせずに、何不自由なく育ったんだろうなあ~」というところから来る素直さ、人の良さ、おっとりした風は一目瞭然である。それに加えて気づくのは、‘我’の無さである。生き馬の目を抜く厳しい芸の世界でライバルたちとしのぎを削る30代男の内面から放たれる、ギラギラした野心や性欲と一体化した‘我’が感じられない。自己顕示欲の強そうな一蔵からも、一見クールに見える小辰からも、その匂いはにじみ出ていて、とうに30代を超えた自分の目にはかつての若い日の自分を見るかのように、それを二人に嗅ぐことができる。
 しかし、イチヤにはそれが希薄なのである。イチヤの清潔感はそこから来る。
 役への没入は‘我’の無さゆえであろう。
 三者による同期会も3年越しだと言う。「なかなか同期でここまで長く一緒にやることはないんです」と一蔵も小辰も口を揃えていたが、それが可能なのはひとりイチヤの性格ゆえではなかろうか。

 30も過ぎれば、容姿はどうしたって衰える。肌はたるんでくる。口元はしまりがなくなってくる。髪も薄くなる。美形を保つのは難しい。
 そのぶん内面が表に浮上してくる。「顔じゃないよ、心だよ」とは言うけれど、心は顔つきに投影される。造形の良し悪しは整形でもしない限りどうにもならないけれど、顔つきの良し悪しは生き方や考え方によって長年にわたって作られていくものである。逆に言うと、顔つきの良し悪しだけは整形ではどうにもならない。
 自分が思う(好きな)‘イケメン’とはむろん‘顔つき’のことである。 
 
イチヤ イチヤは30過ぎて堂々のイケメンである。
 凄いことではないだろうか。
 芸風に掲げても何ら過不足なかろう。
 (この性格の良さが昇進の妨げになる日も来るんだろうか)

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