テーマ 『ブッダの栄養学~こころの栄養管理をしてみませんか?~』
 
日時 7月2日(土)13:30~16:30
会場 なかのZERO小ホール 
講師 アルボムッレ・スマナサーラ長老
主催 日本テーラワーダ仏教協会

 10時間近く寝たのに頭がすっきりしない。
 30度を超える蒸し暑さのせいで体も重い。
 更年期障害?
 早くも夏バテ?
 職場(老人ホーム)で何かに感染した?
 それとも単なる老化?
 
 冷房の効いたなかのZEROホールの固い座席に着くや、全身を襲う疲労と倦怠感に支配された。読経が終わってスマナサーラ長老の講義に入るや、頭はどこかに行ってしまった。仏教で言う五蓋(ごがい)――修行の妨げになる五つの障害――の一つである「眠気と沈鬱」に襲われたのである。
 厚い緞帳を隔てた遠くのほうでスマナ長老のいつもの快活な声が響いている。
 30分くらいそんな感じだったろうか・・・。

 
 「絶えず!」

 スマナ長老の言葉が厚い緞帳を突き破り、数光年の距離を越えて、いきなりこちらの脳天を直撃した。
 話の前後はわからない。
 だが、この短い言葉に籠められていた鋭く凄まじいエネルギーの波動が、自分の頭の中を覆っていた靄を一気に薙ぎ払い、眠気と沈鬱がさっぱり消えた。覚醒した。
 あたかもそれは、壇上のスマナ長老が、五蓋に捕まっている客席のソルティの情けない姿にあきれて、こちらの頭めがけて‘気’が充填された言葉の矢を放ったかのように思われた。(見ると、スマナ長老はまったく別の方角を向いて喋っていた。)
 
 心は一瞬にして変わる。
 以後の講義は覚醒状態にて参加した。
 
 以下、講義の概要。
 
生命を維持する栄養素は4つ。
 
1.食べ物(物質的な栄養)

 食事するときの注意点。
    •  肉体を維持するという目的のために食べる。
    •  感情で食べない。理性で食べる。
    •  一日に必要な量を理解する。(必ずしも3食必要ない)
    •  決して満腹にはならない程度にする。
    •  食べ物は生命である。慈しみの気持ちで食べる。
    •  体が常に壊れゆくこと、維持管理するのは大変であることなどに気づきながら食べる。

2.触(パッソ)

 触とは、六門(目、耳、鼻、舌、身、意)に六種類のデータ(色、音、香、味、触、法)が触れること。
 生きているとは、「触」機能によって、内外のデータを瞬間瞬間認識することである。触れて感じる機能を失ったら生命は直ちに死ぬ。
 
 
3.意志(チェータナ)
 
 意志とは、「何かをしたい」という衝動。
 生命は常に何かをやりたがっている。結果も気にかけず、何故やるのかも分からず、止めることも制御することもできず、ただ闇雲に何かをやって感情を引き起こし、存在欲(=渇愛)にフィードバックする。(感情の波を立てることで生きている実感を得る。)
 業(カルマ)を形成するのは意志である。どうせ何かするなら、意図的に善行為(善い意志からの行為)をするのがよい。善いカルマをつくるから。
 
 
4.識(ヴィンニャーナン)

 識とは、認識のことではなく、認識する以前の‘こころ’のこと。
 識は純粋な水のようなもの。この水にいろいろな感情が溶け込むことで、いわゆる‘心(=心所)’が生まれる。存在欲も執着も識の中に起こる。
 単なる物質の固まりである物体が「命」になるのは識が働いているから。(母体に宿った受精卵が数週間で細胞のかたまりになる。そこに‘識’が吹き込まれることで生命が誕生する) 
 この‘識’こそが、瞬間瞬間生滅し、データを更新しつつ、輪廻転生している真犯人である。 


 4つの栄養素の原因は存在欲(=渇愛)である。
 存在欲ある限り、栄養を得つつ生命は輪廻転生する。
 仏道修行とは、生命に栄養を施すのをストップし、存在欲を滅尽させる道程である。
 すなわち、生きながら死ぬこと。


 質疑応答の際に長老が発言した「すべての生命は無明から始まる」という言葉が面白かった。
 すべからく生命は、「無明」からスタートし、紆余曲折しながら、完全なる「智慧」に至って「解脱宣言(ゲームオーバー)」する、心の進化ゲームを大宇宙を舞台にやっているのであろうか。


サードゥ、サードゥ、サードゥ


※以上は、ソルティがスマナサーラ長老の講義を聞いて、独自の見解(=主観)でまとめたものです。文責はソルティにあります。