受動意識仮説とは、『「意識」とは「無意識」下の自律分散的・並列的・ボトムアップ的・無目的的情報処理結果を受け取り、それをあたかも自分が行ったことであるかのように幻想し、単一の自己の直列的経験として体験した後にエピソード記憶するための受動的・追従的なシステムである。(ちくま文庫『錯覚する脳』より引用)
諸法は無我であり、ただ因縁によって輪廻する
ソルティの見立てでは、前野の言う「無意識」とは因縁(業を含む)の別名である。この世は因果法則という巨大な精密機械(またはプログラム)によって動いていて、そこでは因縁が果を生み、果が新たな因縁となる。一部の狂いもなく冷酷なまでに精確に働いているメカニズムのうちに「私の意志」など存在する余地は微塵もない。「私の意志」と思っているものは錯覚に過ぎない。
- 人が死を怖れるのは、「自己(=私)」を失うことを怖れるからである。
- だが、そもそも「自己」は幻想であり錯覚であり、はじめから存在していない。
- ならば、「私はすでに死んでいる」のであるから、死を怖れる必要などない。
- 「自己」を幻想と見極めれば、死の怖さは消失する。
仮構された「自己」という概念を解体してみると、「死ぬのが怖い」という概念は存在できない。「死ぬのが怖い」という概念は、「自己」という幻想に付随して作り出された幻想に過ぎないのだ。(表題書より)
本当に自由意志は存在しないのか?自己決定は有り得ないのか?
われわれはこれまで、全くの自由意志の許に生きてきたと信じて疑うことはない。しかし、本書は、それを現代科学に基づいて否定してきた。実は、自由人生どころか機械的な人生であることを明らかとしてきたのである。さらには、先祖及び個人の前世にまで言及しその意識の奥に無意識なる存在があり、それによって衝き動かされているという心理学理論を紹介した。・・・・・それらを整合していくと、われわれには如何ともし難い因果の関係性を見出すのである。それは巨大な力でわれわれを衝き動かしていく。しかし、その巨大な力に抗し得る偉大な自我或いは自己或いは霊(たましい)の存在があることを心理学者は示してくれたのである。それは、物理学法則にいう「ゆらぎ」によって導かれるものである。われわれの透徹した意識は、このゆらぎを通して巨大な力に対抗し、すでに定められた運勢を少しでも良い方向に転換させることを可能とするのである。
人間が、そのなかに自分が囚われている冷酷なメカニズムを深く理解したとき、あらんかぎりの力でこのメカニズムの性質を十全に把握したとき、そのとき初めて彼は、彼の一切の行為の起源である分離の意識を自発的に吟味するであろう。英知をもって、感情と思考をもって、彼は、誰も実際に避けて通れないこの中心問題に直面するであろう。(ルネ・フェレ著『クリシュナムルティ 懐疑の炎』より)