ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

加藤哲夫

● 本:『葬式をしない寺 大阪・應典院の挑戦』(秋田光彦著、新潮社新書)

葬式をしない寺2011年発刊。

 「葬式仏教」批判がかまびすしくなって久しいが、一方でこうした状況を打開し閉鎖的で因循姑息たる日本仏教界に新しい風を吹き込もうとする、意欲も能力も意識も社会性も高いお坊さまたちも少なからずいる。このブログでも紹介した長野県松本市の神宮寺の高橋卓志はその代表格であるが、他にも父親から先祖代々の寺を継いだ若い僧侶たちの中にも、宗派を問わず、今の時代にあった、社会や庶民のニーズにあった、しかし仏教という根幹から反れることのない、お寺のあり方を模索している人は多い。
 應典院住職の秋田光彦もその一人であり、改革の‘成功例’というかモデルケースとして筆頭に上げられよう。
 應典院は大阪の繁華街ミナミから徒歩10分の距離にある。


 應典院は、檀家不在の寺として廃寺同然であったものを、1997年に建物ごと新しく再建しました。コンクリート打ちっぱなしの外観、鉄骨二階建てという近代建築は、伝統的なお寺のイメージを覆すものでした。二階にある本堂は、音響・照明施設を備えた劇場型の円形ホールで、一階にはセミナー・ルームやオープン・ギャラリーを付設する、姿カタチも新しいスタイルで、初めて訪れた人はまずここがお寺だとはわかりません。

 父親が住職をつとめる大蓮寺の敷地内にある付属寺院・應典院をまかされることになった当時30代の秋田は、再建のためのプロジェクトチームを同世代の仲間たちと立ち上げ、人間と情報の集積した「開かれたお寺」づくりを志す。
 そのコンセプトは次の通り。 
 

 應典院は、広く都市に開かれていなくてはならない。たとえば目的意識もなく年を漂う若者のためにも。そのためには、應典院という場所は予測できないものに出会えるという期待感が必要だ。いわば『遊び』。
 また開かれた心をしぼませないためにも、常に人と人との関係性が開かれている場所であることも大切です。そこに行けば、必ず誰かと出会えるという、開かれた場所。そこに『気づき』がある。
 そして、それぞれの段階に合わせた『学び』により、我を超えたかかわりあいが得られ、深い連帯感も生まれていく。これは順を追って体験していくのではなく、それぞれが在る、ということ。

 こうして應典院は、1997年に「檀家もいない、葬式・法事もしない、運営はNPO」の劇場型寺院として再出発する。
 マスコミに好意的に取り上げられ意気揚々と船出したものの、最初の一年くらいは地域の人も遠巻きに様子を見ているだけで、お寺を訪ねてくるのは鬱病やコミュニケーション障害を抱えた人たちだった。その後、お寺の本堂である劇場を、稽古場かつ上演の場として利用する演劇青年たちが押し寄せてきた。
 いまや、日本一若者が訪れる(年間3万人!)お寺である。
 だが、秋田氏はお寺を演劇専門館にはしなかった。

應典院にしかない「場」の力とは、異質性と多様性に尽きます。
 演劇公演の最中に、別の部屋ではNPOのワークショップや子ども向け箱庭療法の教室が、また、ギャラリーでは死刑囚の描いた絵画展が同時に開催されていたりします。墓地には墓参りの家族連れの点景が窺え、ロビーに安置された観音さまに、ご老人が線香を手向けている。一定の様式にまとまった、わかりやすい場所ではなく、違和感を抱えながら異質なもの、多様なものと対峙を続ける。「他者と出会う広場」として、劇場と寺院は互いの存在を擦り合わせるようにして、應典院というカオスの広場を形作っていた、と思います。


 そこに行けば誰かに会える、何か新しいものと出会える、何が起こるか分からない、誰であろうとありのまま受け入れられ、はじかれない・・・。
 そういったカオス空間の持つエネルギーは自然たくさんの人を吸収し、いろいろな新しいことを生み出す。その渦に巻き込まれて、人は変わっていく自分を経験する。
 人は基本的に変化を恐れ、安定を志向する一方で、その停滞の中で「小さくまとまってしまう」自分に苛立ちを覚える。そこで、自我の崩れるリスクを予感しながらも自らカオスに身をさらす。その繰り返しを成長と呼ぶのかもしれない。
 どこに行けばそういう‘場’に出会えるのか。
 ある場合は、飲み屋なのかもしれない。ある場合は、ボランティア団体なのかもしれない。近所のお店(たとえばカフェや自然食品店やリサイクルショップなど)なのかもしれない。要は、普段のルーティンな、一元化された目的に染められた日常空間(職場や学校)では出会えないような人、発現できないような関係が、そこに行けば「ある!」というところがポイントである。

 自分(ソルティ)の場合、30歳のときに出会った仙台の自然食品店&出版社「ぐりん・ぴいす&カタツムリ社」がまさにそんな場所であった。
 お客さんやお店の関係者(いわゆる仕入れ業者や農家の人)をはじめ、多種多様な人が出入りしていた。様々な分野やテーマで市民活動(NPOという言葉は当時まだ一般的でなかった)する人びと、チラシやチケットを預けに来る演劇やアート系の人びと、ストリートミュージシャン、店主やスタッフが企画・主催するユニークなイベントを手伝う人びと、世間話やディープな相談にやってくる人びと・・・。お店に足を運べば、いつもお客さんや業者以外の誰かがいて、店主やスタッフらと熱く楽しい会話をはずませていた。毎晩のように、何らかの催しや実行委員会が開かれていた。
 店主の加藤哲夫さんは、その後日本のNPO業界でその名を知らない人のいない立役者になっていくが、この人と若いスタッフたちの魅力が大きかった。‘カオス’を‘カオス’のままに受け入れる(むしろ面白がる)柔軟な精神、人を‘ありのまま’に受け入れる度量の大きさ、世間的価値に盲従しない(そこからある意味はずれた者の)潔さが、店内を楽天的な明るさと諧謔精神、その底に流れる寛容と慈しみとで満たし、仙台の街中で不思議な光と磁力を放っていた。
 ハチが蜜に惹かれるように、自分も足繁く通うようになり、巻き込まれていった。

 こういう場所は作ろうと思っても意図的に作れるものではない。
 やっぱり、中心となる人物のキャラが大きい。
 その意味で、秋田光彦は‘器の大きい’人物なのであろう。若い頃に、映画のプロデューサーをやっていたと言うが、やっていることはまさにお寺を舞台に展開する‘人と地域’活性のためのプロデュースである。

 さて、應典院での活動と合わせて、秋田は浄土宗大蓮寺の住職としての仕事を継ぐことになる。こちらは、350軒の檀家と墓地を有する「葬式仏教」をやってきたお寺である。
 もちろん、これまで通りの運営はできない。
 秋田は、「人の最期をどう見送るか」=「いかに自分らしい死を迎えるか」というテーマ、いわゆる‘終活’にも乗り出す。
 

 仏教が説いてきたのは、葬式のノウハウではありません。死を見据え、現在をどう生きるのかという生死決定の哲学であり、生老病死を通していのちの尊厳に学ぶことであったはずです。その意味で考えれば、超高齢化が進み、人生の後半期が著しく間延びした今日では、葬式とはひとつの儀礼というよりも、死から紡ぎだされた生涯のプロセス全体をさすのではないでしょうか。葬式の一点だけに拘泥されていては、逆に葬式仏教は自滅することになります。
 
 葬儀社は死の一点を扱うだけですが、仏教は生涯全体にわたって関与するものでなくてはならない。葬送だけでなく、医療や看取り、介護、あるいは住まい、相続などの生活課題も見落とせません。僧侶はそのプロセスをともに生きる併走者の立場ではないでしょうか。寺だけの力で無理ならば、地域の人たちにも協力を呼びかければいい。

 私にとって、葬式仏教の再生には、葬式の一点によりかかるものではなく、お寺を中心とした生老病死のコミュニティを想像することが急務だったのです。

 という理念を胸に、秋田は「大蓮寺・エンディングを考える市民の会」を立ち上げ、関心をもつ中高年の市民らと対話や勉強会、「模擬葬儀」や「お墓ツアー」などのユニークなイベントを重ね、その延長上に大蓮寺境内に生前個人墓「自然(じねん)」を設ける。一基88万円の墓の申し込みは200件以上を超える。
 また、NPOとの共同でエンディングサポート事業を開始し、医療・ホスピス・住まい・相続・生きがいの創造等に関する相談やサポートを目的にした社会的支援機構を作り上げる。
 理念をもとに現状を分析し、「何が必要か」を推論し、対話によって人を巻き込み、人脈を広げ、NPO活用で「思い」を形にしていく。しかもそれが経営的にペイする。
 秋田が、市民事業家として実にすぐれた視点と手腕を持っているのには感心する。
 しかも、どんなに活動が発展しようとも、社会参加が進もうとも、仏教という根っこは忘れていない。僧侶である自分を忘れてはいない。


・・・・・僧侶や寺の社会参加が進むと、宗派や教団への帰属意識はゆっくりと後退していくことになります。教化宗団を束ねてきたたすきを失い、布教という王冠を奪われた僧侶は、何を存在の拠り所とするのか。そもそも僧侶である必然はどこにあるのか。僧侶の自明性が問われることになります。


 そうなのだ。秋田が應典院や大蓮寺においてやってきたことは、換言すればNPO活動であり、ソーシャルワークである。そこでは秋田は市民活動家であり、NPO代表であり、ソーシャルワーカーであり、起業家である。僧侶である必然性は見当たらない。多くの場合、対象は仏教徒ではないから、活動中に布教も説法もことさら必要とされない。(とくにNPO法では布教は禁じられている。)
 では、どのように僧侶としてのアイデンティティを保つのか。

 このような僧侶の社会活動があったから、それで教団の威信が上がるわけではありません。信者が増えるわけでもない。強いて言えば、「関係性としての仏教」には、まずこれまでのような「布教の成果」を挙げることはできない、という断念から出発しなくてはなりません。しかし、その断念の上になお、目の前の社会の状況に何かしないではいられない、と強く願うむき出しの信心に出会います。そこから、僧侶を生きるという、発心のエネルギーが、放出してくるのだと思います。

 まず寺が先行すべきは、社会問題を端緒として、それぞれの地域に積極的に分け入って、「苦」に喘ぐ人々の声に謙虚に耳を傾けていくことだと思います。苦しみを分かち合い、それを取り除くために何ができるのか。問題解決にはNPOとの協働が有効ですが、同時に、一人ひとりの人間の魂の問題として、どう寄り添っていくのか。また、そのために互いに凡夫として、根源的な弱さを軸に、どのような信頼や連帯を育むべきか。日本仏教の社会参加には、そういう「人間としての生き方」に対する気づきが伴わなくてはならないはずです。 


 大阪ミナミは應典院――。
 一度訪ねてみましょうか。






● べてるの家のいま 本:『治りませんように』(斉藤道雄著、みすず書房)

 浦河べてるの家を知ったのは90年代中頃だった。
治りませんようにほか 002 仙台の自然食品店「ぐりん・ぴいす」にちょくちょく出入りしていて、店主の加藤哲夫さんから店にあった一本のビデオを借りた。それが、べてるの家の日常をありのままに記録した四宮鉄男監督のドキュメンタリー『ベリー・オーディナリー・ピープル』(1995年)だった。

 このビデオは実に衝撃的で面白かった。
 家族や周囲をさんざん梃子ずらせてきた精神病患者たちが北海道浦河町という辺鄙な土地に全国から集まって、治療を受けながら共同生活を送る。
 と言うと、高い塀に囲まれた精神病院の敷地内で医療者らによって管理・監督された作業所ベースの生活を想像するのが一般であろう。自分はそうであった。薬漬けの生気を失った虚ろな目をした患者たちが院内をウロウロし、時に奇声を発し、時にスタッフや仲間に暴力を振るい、時に脱走し、手がつけられなくなると拘束衣を着せられ密閉された保護室に収容され、時に看護職員によって虐待を受ける。一度入ったら死ぬまで外には出られない。遠隔地という言い訳が立つから家族もほとんど訪れない。体のいい厄介払い。
 こういったイメージは小説や漫画や映画からつくられたものではある。が、宇都宮病院での看護職員による入院患者への暴行致死事件(1985年)を受けて、入院患者の人権保護、社会復帰についての指針が定められた精神保健法が制定されたのが1987年であるから、90年代ではまったくの誤解・偏見というわけでもあるまい。

 ビデオはそうしたイメージを裏切るような患者たちの日常生活が映し出されていた。
 町の中の民家での患者同士の不器用な共同生活。「三度の飯よりミーティング」という標語どおり頻繁に行われる患者同士の話し合い。「統合失調症爆発型男性依存タイプ」といったように病名を患者自身がつける風習。「安心してさぼれる会社づくり」をモットーとする地元特産の日高昆布の加工販売業を立ち上げ採算ベースに乗せてしまう。そして、患者たちが町民の前に顔と名前を出して自らの妄想や幻覚を語りグランプリを競う、という前代未聞のイベント「幻覚妄想大会」
 世間的常識をひっくり返し、タブーやコンプレックスを逆手にとって、ある意味「どん底で開き直って」生きている患者たちの姿は、ユニークかつ斬新であった。それはまた常識や世間的価値や生産性第一主義にのっとって汲々と生きている健常者の世界の息苦しさ、いびつさを、背後からそっと忍び寄って覆面を剥ぐようにさらけ出してしまい、ビデオを見た後に「いったい健常とは何だろう?」と自分に問いかけずにはいられなかった。 


 こうした活動のすべての面で基盤をなしているのが、当初から変わることなく貫かれてきた当事者主義の考え方である。すなわち当事者こそが中心であり、医者も家族も地域も社会も、当事者の代わりになることはできず、当事者本人が自らの問題について考え、選び、決めながら生きてゆくことがたいせつであり、またそれを応援することがたいせつだという考え方、というよりほとんど反射運動として身体化され、日常に浸透しきった作法、暮らしのあり方は、「三度の飯よりミーティング」、「弱さを絆に」「降りていく生き方」などの巧みなキャッチフレーズによって捉えなおされ、あまねく人口に膾炙している。(標題所より引用、以下同) 
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 この頃のべてるの家の世間的価値とは違ったありようを一言で表現し、その後NPO業界の立役者となった加藤哲夫さんはじめ全国のオルタナティブ系の市民活動グループの心を捉え、パラダイム転換とも言える新鮮な視点をもたらしてくれた言葉は、「弱さ」だったのではないだろうか。「勝ち組・負け組」なんて言葉が流行るずっと前に、すでに一部の人たちの間では、「弱さ」の持っている柔軟性や人と人とを深いところで出会わせ結びつける働き、人を謙虚にさせ自然維持にも持続可能性ある社会にもつながるようなエッセンス、めまぐるしい競争社会の中で「強さ」を求め鎧をかぶって必死こいて闘っている個人が置き去りにしてきた何か懐かしいもの、が嗅ぎ取られていたのである。 
 

 私たちはここで、べてるの家でくり返される数々の有名なスローガンが、その基底にじつにシンプルな、ほんとうに当たり前な、もうひとつのメッセージを伝えつづけていることに気づくのではないだろうか。すなわち、そのままでいいといい、問題だらけの人びとが問題だらけの日々を送り、なおかつそれで順調だといい、そうした人びとが弱さを絆につながる生き方が、絶えることなく自らに伝え、仲間に伝えつづけているのは、あなたは生きていてもいい、存在してもいいのだというメッセージだったということに。

 べてるの家のビデオを見て、自分もまたふと肩の力が抜けるような安堵感と解放感を得たのであるが、それはとりもなおさず自分が、競争社会の中で「強さ」を求め鎧をかぶって生きてきて、鎧の中で悲鳴を上げていたからであろう。おそらくは加藤哲夫氏も。
 以来、「弱さ」という言葉、そしてべてるの家の存在は、自分の中に根を下ろした。

 それから15年以上が過ぎて、べてるの家はどうなっているか。
 その答えが本書である。


 一読、とりたてて大きな変化があったわけではない。去っていく患者と、べてるの名を聞いて藁をもすがる思いで全国からやってくる患者とによって代謝を繰り返しながら、問題だらけの患者たちの波乱含みの毎日を積み重ねながら、数々の名作キャッチフレーズどおりの日常が送られている。
 その中で、2004年に起きた竹内裕人という一人の青年の死が、強い刻印を残す。
 警察沙汰、新聞沙汰となった殺人事件が起きたのである。


 統合失調症で浦河赤十字病院に入院していた竹内さんが、病室で寝ていたところを知りあいの患者に襲われ、刃渡り十五センチの包丁で何か所も刺されるという出来事だった。夜半の病室からのうめき声で当直看護婦が事件に気づき、ただちに竹内さんを救急車に搬送して救命措置を施している。しかし懸命な治療にもかかわらず、発見から三時間後、医師団は竹内さんの死亡を宣告しなければならなかった。


 容疑者は、おなじく統合失調症で長期入院中の四十二歳の男性患者である。きわめて偶発的なことから、竹内さんが自分をねらい、刺そうとしているのではないかという被害妄想を抱くようになり、このままではやられてしまうという恐怖感から犯行に及んでいる。


 ニュースは地元の新聞やテレビによって大きく報じられ、記者たちの矛先は当然ながら病院の管理体制や責任のあり方へと向かっていった。

 
 加害者も被害者もともにべてるの家のメンバーであり、浦河赤十字病院の精神神経科部長であると同時にべてるの家設立当初から深く関わってきた川村敏明医師の患者でもあった。
 著者は、論点のかみ合わない記者と川村ら病院側の記者会見におけるやり取りや、事件を機に湧き上がった地元のパニック、病院やべてるの家の方針に対する轟々たる非難を詳述している。
 曰く「全国からヘンな人を集めていい気になっているからこんなことが起こるのだ」
 
 被害者、加害者双方の家族も、川村医師はじめ病院関係者も、べてるの家の精神的支柱とも言えるソーシャルワーカーの向谷地生良をはじめとするサポーターも、どんなに辛い日々を過ごしたことだろう。今こそ精神障碍者に対する世間の偏見、風当たりの強さを嫌というほど感じたことだろう。 
 自分たちがこれまでやってきたことに対する疑念こそ生じなかっただろうけれど、風当たりの強さに疲弊した日もあったに違いない。
 
 著者は事件の様相に続いて、竹内裕人の葬儀の模様を描いている。 
 この場面がこの本の中の様々なエピソードの白眉、クライマックスだろう。
 葬儀には、べてるの家のメンバーやサポーター、病院関係者はもちろん、被害者、加害者両方の家族が参列した。被害者の父親・竹内東光(はるみつ)氏の意向が強かったのである。
 紋切り型でない、感動的な葬儀の最後に東光氏は語る。

 「至らない親ですが、いろんなこと、してやれなかったんですが、ここ、浦河に来て、いっぱい、こんなにも多くの方に支えられていたんだなあということをあらためて感じて、とても悲しみはあるんですが、うれしい気持ちもあります」
 参列者に感謝の気持ちを伝えた東光さんは、涙でとぎれながらさらに「二つ、お願いがあります」と述べている。
 ひとつは、息子さんの裕人さんが浦河に来てからはっきりと変わってきたこと、その変化をもたらした「川村先生や病院、べてるや地域の方々」に、「こういうすばらしさ」がぜひつづくようにしていただきたいということだった。
 もうひとつは、加害者となった患者への応援である。加害者もまた長く病気で悩んできたにちがいない、その患者が立ち直れるように、どうかみんなで助けてやってほしいという訴えだった。
 

 このようなセリフを葬儀の場で、息子を殺された遺族に発言させるほどの篤い信頼と縁、また葬儀に参列した人々の心の中にその思いが違和感なく入っていくだけの深く醸成された文化。それこそがべてるの家二十年の蓄積の賜物ではないだろうか。
 
 最初に出会ったとき、べてるの家のキーワードは「弱さ」だった。
 本書を読み終えて、今それは別の言葉に取って代わったように思われる。 
 それは「苦労」であり「苦しみ」である。


 「人の視線が気になる」「他人の価値を生きてしまう」「異性への依存がやめられない」「感情をコントロールできない」「頭の中で命令する声に逆らえない」・・・。
 べてるの家は「生きることは苦」というブッダの言葉を身をもって証明している人びとの集まりである。メンバーはみな、健常な生活を送るスタートラインに立てずに苦しんでいる。
 別の観点から見れば、健常人は「生きることは苦」という事実から目をそむける技術や器用さを持ち合わせている。べてるの人びとは、真面目すぎて、不器用すぎて、それができない。
 

 べてるの家には、人間とは苦労するものであり、苦悩する存在なのだという世界観が貫かれている。苦労を取りもどし、悩む力を身につけようとする生き方は、しあわせになることはあってもそれをめざす生き方にはならない。苦労し、悩むことで私たちはこの世界とつながることができる。この現実の世界に生きている人間とつながることができ、人間の歴史へとつながることができる。
 
 苦しみこそが人と人とを、人と世界とを結びつける。他者の置かれている境遇を想像させる力を持つ。
 だから、こうも言える。
 幸福であるとは、幸福を追い求めるとは、ある意味、無慈悲な行為なのだ。
 

 べてるの家には、人間存在の原点がある。そこから乖離することなく(乖離できずに)日々そこと向き合いながら生きている人々が遠い浦河の地に存在することが、苦しみという水溜りをうまいこと避けながら、よりなまぬるい生を生きている自分の支えになる。
 べてるの家は、日本に住むすべての人の「苦のセーフティーネット」なのである。



 加藤哲夫さんが亡くなって3年目となる命日の朝に。

● 「物語」の果てた先にあるもの  オペラ:  ヴェルディ 『リゴッレト』 (東京文化会館) 

 上野中央商店会が主催しているオペラBOX。
 
 全曲ではなくて、ピアノとフルート伴奏によるハイライト上演。歌手は新進気鋭の若手たち。テレビ朝日出身でフリーのアナウンサー朝岡聡がナビゲーター(進行役)をつとめた。(この人を見ると、いつも『チャイルドプレー』のチャッキーを思い出す。)リゴレット 004

リゴレット  : 谷 友博
ジルダ        : 清水 理恵
マントヴァ   : 村上 敏明
ジョヴァンナ/マッダレーナ : 高橋 華子
モンテローネ/スパラフチーレ :龍 進一郎
 
ピアノ   : 服部 容子
フルート : 上野 由恵
演出   : 久垣 秀典

 タイトルロールの谷は調子が良くなかったようだ。途中で何度か声が裏返ってひやひやした。ジルダはそつがない。アリア「慕わしき御名」はよく歌いこんでいるのだろう。見事な出来栄えだった。
 一番の喝采はテナーの村上敏明。声量といい、声質といい、高音域の力強さといい、すばらしい才能だ。日本でここまで「トランペット的に」鳴らすテナーは聴いたことがない。風格もなかなか。表現が一本調子なのが気にかかるが、脳天気なマントヴァ公爵では表現力を示しようがない。別の役で聴きたいものだ。「女心の歌」のクライマックスの最高音は、雪崩を起こさんばかりの威力があった。


 演出での不可解ポイント。
 第2幕。誘拐されたジルダは、好色なマントヴァ公爵のもとに差し出され、操を奪われてしまう。狂乱して娘を捜すリゴレットは、自分の仕える公爵の部屋から飛び出してくるジルダと出会い、事情を知って絶望し、怒りに打ち震える。
 長椅子にもたれ、薄いドレス姿で、泣きしおれるジルダ。
 と、リゴレットは、長椅子にかけてあったマントヴァ公爵の豪華なマントを娘の肩にかける。
 これはありえない。
 影のように公爵に仕えて女の手引きまでしてきたリゴレットが、マントの主を知らないわけがない。なによりそこは公爵の居室なのだ。命より大事な娘を陵辱した憎き相手の衣服を、なんの躊躇もなく、当の娘にかけるなんてあり得ない。
 演者たちは、この演出に何とも思わなかったのだろうか? だとしたら、あまりに鈍感すぎるか、観客を馬鹿にしている。少なくとも、あそこで観客のいくたりかは「えっ?」と思ったはずだ。
 ベタであるが・・・。リゴレットは、長椅子のマントを娘にかけようとする。が、途中でそれが自分の主人のものであることに気づき、床に投げ捨てる。かわりに、自分のフロックコート(なんでフロックコートを着ていたのかわからないが)を脱いで、娘にかける。
 そもそもが現代人にリアリティを感じさせるには困難なストーリーなのだ。だからこそ、心情にかかわるような細かい部分での「本当らしさ」が重要なのである。

 それにしても・・・・・。
 昔のオペラや能や歌舞伎を観ていてよく思うのだが、物語世界に入り込むことが本当に難しくなった。年齢のせいとか、感受性の摩滅というのではない。作品が作られた当時の作家や大衆が持っていた価値観や道徳観が、今ではすんなり理解できない、簡単には共感できないものになってしまっていることが多いからだ。これは、個人的なレベルで言えることでもあるし、世間一般のレベルでも言える。


 たとえば、「道化」というものの宮廷での役割や位置づけ、周囲の人々が道化に対して持つ感情(嘲笑、憐憫、軽視、滑稽)は、シェークスピアを読んでいれば、ある程度は理解できる。そこを踏まえた上での、リゴレットの抑圧された怒り、恨み、卑屈、陰険、恐れ、娘への盲愛なのだ。それを、今日びテレビをつければ必ず出てくる「お笑い芸人」同様に解釈する(人気者、お金持ち、成功者e.t.c)ほか手だてがなかったら、まったく物語世界に入り込めないだろう。そのうえ、「せむし」であることがリゴレットの歪んだ心を解釈する上で重要なポイントなのだが、今回の演出でもそうだったが、現代日本においてそこを強調することはもはや「政治的に」難しい。

 ヴェルディがよく取り上げる「呪い」とか「復讐」というテーマも同様だ。
 リゴレットは、マントヴァ公爵に娘を弄ばれたモンテローネ伯爵に向かって無慈悲な言葉をかける。伯爵は呪いの言葉で返す。それはリゴレットの心に深くつきささる。リゴレットが怯えるのは、自分と娘ジルダにも同じ不幸が起こるという恐れと不吉な予感を抱いたからではあるが、それ以前に何よりもこの作品の時代背景である中世(16世紀)においては、人が全身全霊で「呪い」の言葉を発したとき、浴びせられた当人を強い恐怖と不安のうちに呪縛せざるをえない、一種の魔術信仰、言霊信仰が生きていたからだ。日本文化も然り。呪いとはまさに「咒(じゅ)=真言」なのだ。

 「復讐」という価値観はまだ現代人にも理解しやすいかもしれない。だが、江戸時代の「敵討ち」とか「赤穂浪士討ち入り」とか、昭和時代まではなんとか大衆の共感を得ていたが、今はどうだろう? テレビでも映画でもベストセラーでもいい。復讐をテーマにして人気を博した物語を挙げられるだろうか。法的手段に訴えることに、我々はあまりにも慣れすぎてしまった。

 個人的に最も違和感を覚えるのが「純潔信仰」「処女崇拝」である。
 リゴレットは、嫁入り前の娘の貞操(この言葉自体「死語」だな)を守るために、教会に行く以外のいっさいの外出を禁じる。いったん、娘の純潔が汚されたと知るや絶望のどん底に突き落とされ(「一日で何もかも変わってしまった!」)、激しい憤りは、殺し屋を雇ってまでの敵討ち(それは自身の生計の糧を失うことを意味する)に彼を駆り立てる。
 リゴレットの気持ちと行動を理解し納得するには、同じ「娘を持つ父親である」だけでは足りなかろう。マリア信仰を持つ中世のキリスト教徒としての、強い「純潔信仰」「処女崇拝」を共有していなければなるまい。それあっての騎士道やら初夜権(『フィガロの結婚』)やらなのだ。
 もちろん、今の日本だって処女をありがたがる性文化は存在するし、娘の純潔を願い、娘を弄んだ男に憤る父親の気持ちは健在だろう。しかし、結婚相手の女性に「処女であること」を条件づける男やその家族とか、バージンを捧げたボーイフレンドに結婚を要求する女やその家族なんてのは、どこかの宗教団体に属している場合を除いては、今やギャグかナンセンスだろう。大事な娘を「傷もの」にされたという言い回しを一昔前はよく耳にしたけれど、骨董品にひびが入ったのを怒っているのと同じで、娘の商品としての価値が下落したことを嘆いているわけで、娘への愛情というよりは「お家」の対面や良縁をゲットするための駒の損失を問題にしているのである。その後の生涯を「傷もの」として過ごさなければならなくなる女性こそ哀れである。

 純潔性への信仰は、それと裏腹に、純潔でなくなった女性への蔑視を伴っている。何より切ないのは、周囲だけでなく、当の本人が自身を「汚れてしまった」と思い込んで、その後の人生を失意と投げやりな気持ちで過ごさなくてはならないことだ。公爵の部屋から走り出てきたジルダが父親を見つけて口にする第一声が「おとうさま、私は汚されてしまいました」(字幕でそうなっていた)なのは、なんともやりきれない。そうやって自分で自分を貶めた結果としての最終幕での自己犠牲なのだから、なおさらである。ジルダをレイプしたのはマントヴァだけではない。時代や文化もまた、いわゆるセカンドレイプしたのだ。
 これに関しては、先ごろ亡くなった仙台の賢人・加藤哲夫さんが憤っていたのを思い出す。曰く、
 「男と関係を持った女が‘汚された’というのは、つまり‘男が汚れている’ということを意味するじゃないか! 男は‘汚れた’存在なのか!」

 ともあれ、舞台を見ているうちにも、こうした価値観のギャップやそこに潜む構造が見えてしまい、あれこれ考えてしまうがゆえに、すんなりとリゴレットはじめ登場人物の気持ちに共感して物語世界に入り込むのが難しくなるのである。
 ヴェルディの生きていた時代(19世紀)の観客は、まだ入り込むのに苦労はしなかったであろう。リゴレットの恐れ、怒り、絶望を自分のものとし、ジルダの犠牲的精神に涙し、「傷ものとして残りの人生を生きるより、愛のために死んだほうが、いっそあの娘のために良かった」くらいのことは思うかもしれない。共同幻想が生きていたのだ。
 しかし、21世紀の日本に住む我々は、そうはいかない。破れてしまった多くの共同幻想の廃墟の中に、我々は立っているのである。

 このハンディを超えて我々が物語世界に入り込んで感動するためには、よほどのレベルの音楽と演奏と歌と演技の質が要求される。音楽家にとっては実に困難な時代と言える。(マリア・カラスなら、どんなバリアも超えて行っただろうが。)
 奇抜な演出でもってこの壁を乗り越えようとする試みが散見されるが(特にメトロポリタンでその傾向を感じる)、無駄なあがきだと思う。以前、『アイーダ』の舞台設定を現代のニューヨ-クあたりに移管して、流行のスーツを着た女社長(アムネリス)とそのライバル(アイーダ)と優秀な社員(ラダメス)が最先端のオフィスで三角関係、みたいな演出を見たことがあるが、まったくげんなりした。オペラを見る上でのもう一つの主要な楽しみであるコスチュームや舞台美術まで、このうえ奪うつもりか。舞台を現代に設定すれば、観客も身近に感じてリアリティが増すとでも思っているのだろうか?

 むろん、ヴェルディは天才である。
 今回のオペラBOXも、いろいろな紆余曲折や我ながら気難しいと思う自身の注文をなぎ倒して、最後には物語世界にこの身を引っ張り込み、はからずも涙を浮かべさせたのは、ヴェルディの音楽の偉大さにほかならない。
 そしてまた、「復讐」や「処女崇拝」という幻想(=物語)にすんなり身を任せられない自分も、なんだかんだ言って、「子供の死を悼む親の気持ち」まで幻想として退けられないからだ。

 共同幻想が次々とあばかれ、蛇の抜け殻のように捨て去られていった先に、それでもなお我々に残されるものはいったい何だろう? 
 我々は最終的に何に感動するのだろう?
 結ばれることなく果てた恋愛?(ロミオとジュリエット)
 家族愛?(北の国から)
 ペットの死?(星守る犬) 

 あるいは、「我々」がなくなるのかもしれない。
 個人がそれぞれの幻想のうちに住んで、専ら個人的に感動する世界がすでに始まっているのかもしれない。
 

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