聖灰の暗号 002 2007年刊行。

 帚木蓬生(ははきぎほうせい)と読む。
 源氏物語の巻名「帚木(ははきぎ)」と「蓬生(よもぎう)」から取ったペンネームである。
 この著者の本ははじめてだが、著者に関心があったわけではなく、テーマに関心があった。
 この本、キリスト教の異端としてカトリック教会によって殲滅されたカタリ派をめぐるミステリーなのである。

カタリ派(Cathari)
12~13世紀の西欧に広がったキリスト教異端の一派。バルカン地方に起り、その呼称は清浄を意味するギリシア語に由来、マニ教的な善悪二元論の影響を受け、禁欲的・使徒的生活を追求。南フランスではアルビジョワ派と呼ばれた。(広辞苑)


 彼らはまず結婚はおろか、あらゆる種類の性的な行為を忌避する。生殖行為で生まれる動物の肉は口にせず、ひんぱんな食断ちを行なう。福音書が禁じている以上、たとえ自衛のためであろうとどんな殺人も許されず、動物を殺してもならなかった。所有を避けて、福音書の命じる清貧に徹し、裁かず、誓わず、嘘をつくこともなかった。彼らがもっとも賞賛した美徳は勇気であって、苦しみと死に毅然と耐えることこそ、彼らの望むところであった。(原田武著『異端カタリ派と転生』、人文書院)


 カタリ派について興味を持ったきっかけは、セオドア・ローザックのミステリー『フリッカー、あるいは映画の魔』(1998年刊行)であった。
 映画を題材にしたミステリーというだけでも、映画好き&ミステリー好きの自分にはたまらないわけであるが、この小説の重厚なる、不気味なる、高踏なる、非日常的面白さに匹敵するミステリーは、ウンベルト・エコーの『薔薇の名前』くらいしか思い浮かばない。こういう本に出会うと、読書を生涯の趣味となるよう幼い頃から仕向けてくれた両親に感謝したくなる。
 詳しい内容は省くが、主人公の映画好きの青年はカルト的な人気を持つ過去の映画監督について調べていくうちに恐ろしい陰謀に巻き込まれていく。映画や音楽が意識(無意識)に与える効果を駆使して世界を独特の‘デモニッシュ’な思想で覆いつくそうとする邪悪な秘密結社として登場するのが、何を隠そう(隠さないが)異端カタリ派の残党なのである。深入りしすぎた青年は最後には組織に拉致されてしまう。
 小説内でのカタリ派の扱われようは、オウム真理教かショッカーか、というくらいの悪役、汚れ役だった。
 しかし、そこで明かされるカタリ派の教義内容はユニークそのものであり、妙に惹かれるものがあった。
 それから、カタリ派について書かれたものを読むようになった。 
 信者たちがバチカン(=正統カトリック)が派遣した十字軍によって虐殺されたことや、異端尋問や残酷極まりない拷問のあげくに火炙りにされた史実などを知ると、自分の中の「異端愛」がうずいた。信者の中でも「完全者(パルフェ)」と呼ばれる人々の、自らを厳しく律し他者や地域に尽くす生き方は、まさしく聖者そのもので、敬意以外の何ものそこに感じとることができない。
 それからすっかり「カタリ派」派になったのである。
 
 その後、自分はテーラワーダ仏教(上座部仏教)を学ぶようになったのだが、驚いたことに、仏教とカタリ派は似ているのである。
 いや、そもそもカタリ派が「西欧の仏教」と呼ばれていたのは上記の原田の本で知っていた。輪廻転生を信じていたことや、殺生戒や肉食の禁止などが両者に共通する。
 しかし、たいていの日本人同様、自分も仏教=大乗仏教という認識を持っていたので、もっと深いところでカタリ派と仏教(原始仏教)が似ていることに気づかなかったのである。

似ている点

○ 輪廻転生思想をもつ

カタリ派の人々が輪廻転生思想を信じていたと聞くと、数百年も前の異端信仰が俄然私たちに身近になる。真の正統キリスト教徒との自負にはなはだ似つかわしくなくても、「完全者」の努めを全うしない一般の信者は、救済にたどりつくのに死後いくつもの肉体をさまよわなければならないと考えられていたのである。(同上)

○ 五戒(殺すな、盗むな、性行為をするな、嘘をつくな、酒や麻薬をやるな)をはじめとする厳しい戒律
○ 出家と在家の関係(カタリ派では「完全者」と「帰依者」に相当)
○ 偶像崇拝をしない
○ 女性もまた出家できる
○ 非暴力主義


 もっとも驚くべき相似は、解脱思想=この世に生まれることを「苦」とする点である。


 正統教会から目のかたきにされただけあって、これら新しい信仰者たちの奉じる教えは、一見して正統カトリックとはなはだしく異なっている。この世が神の創造になることさえ彼らの教理にはない。人間の肉体を含めた物質世界は、すべて悪魔(あるいは「悪の原理」)の手で作られたものだとするのがこの教えの基本的な前提なのである。もともと天使として光輝く天にあった人間は、悪魔の奸計によって地上に拉致されたのである。現世にあること自体が受難なのであって、私たちは本来こんな地上に住むべきではない。人間につきまとう物質的要素を可能な限り断ち切り、真の祖国への復帰にそなえることこそ、人間の務めなのだ。(原田武著『異端カタリ派と転生』、人文書院)

 
 仏教では、悟りを得ることで輪廻転生から解脱し、二度とこの世に生を受けないで済む、と説く。カタリ派では、「完全者」の努めを果たすことで救済を得て、真の祖国(天国)に帰還できると言う。
 いずれにしろ、この世の価値は低い。


 ブッダが「苦」と言ったものを、カタリ派は「悪」と言った。神と悪魔の対立という二元論を基にしていたキリスト教ならではである。
 仏教は二元論ではない。世界を誕生させた「神」も、世界を破滅させようと企む「悪魔」も存在しない。「生まれては滅する」という現象が永遠に続いているだけである。
 そして、上記の文に見るように、カタリ派は「自我」の存在を前提にしている。「地上に拉致された」とか「真の祖国への復帰」という表現は、永遠に継続して存在するアイデンティティ(魂)の存在を含意している。
 一方、ブッダは「諸法無我」と言った。アイデンティティ(魂)などないとしたのである。


 似ているようで違っている。
 
 帚木の小説は、カタリ派や宗教や中世史に興味のない読者にとってみれば、凡庸なミステリーに過ぎないかもしれない。推理(謎解き)部分もサスペンス部分も決着のつけ方も弱い。
 だが、カタリ派の復権を訴える主人公の学者の意志は、そのまま著者の思いでもあろう。
 帚木もまた「異端愛」の持ち主なのだろう。