ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、寺社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

受動意識仮説

● 1/ f の希望 本:『「死ぬのが怖い」とはどういうことか』(前野隆司著)

2013年講談社より刊行。

 『脳はなぜ「心」を作ったのか』 『錯覚する脳』(共に筑摩書房)を世に問い、稀代のトンデモ学者 or 科学によって悟りに達した覚者?――と、毀誉褒貶さまざまなる前野隆司の本である。今年1月に氏の勤務先である慶応義塾大学にて、日本テーラワーダ仏教協会のアルボムッレ・スマナサーラ長老と公開対談し、意気投合している。その内容はサンガ発行の季刊誌『サンガジャパン』26号の巻頭を飾っている。この号の特集は『無我―「私」とはなにか―』である。
 前野隆司の関心および研究テーマや世界観や人間観、そこから生れてくる言説は、きわめて仏教的なのである。スマナサーラ長老は、同じく高名な学者でベストセラー作家としても有能な養老孟司とも対談し共著も出されている。養老の言説もまた仏教的である。ソルティの実感では、前野のほうがより仏教の核心に迫っていると思う。悟りの何たるかを理解し、もしかしたら‘それ’を体現している。

 前野隆司の提唱する主要な理論に「受動意識仮説」というのがある。

 受動意識仮説とは、『「意識」とは「無意識」下の自律分散的・並列的・ボトムアップ的・無目的的情報処理結果を受け取り、それをあたかも自分が行ったことであるかのように幻想し、単一の自己の直列的経験として体験した後にエピソード記憶するための受動的・追従的なシステムである。(ちくま文庫『錯覚する脳』より引用)

 分かりやすく言えば、「私が見た」「私が聞いた」「私が感じた」「私が考えた」「私が決めた」「私が感動した」「私が愛した」「私が怒った」「私が喜んだ」「私が話した」「私が記憶した」「私が悟った」・・・・e.t.c.という「私」を主語にした体験はすべて幻想・錯覚であって、無意識が自在に機械的に行っていることのあとづけを「私(=意識)」というラベルのもとに整理統合しているに過ぎない。「私=意識=心=クオリア」と呼ぶものには実体がなく、すべての生命を突き動かしてあれこれさせている真犯人は無意識である。
――ということだ。
 より分かりづらくなったか?
 もっと単純にする。
 ある会社員が「今日の昼飯はカレーライスにしよう」と決めたことは、「彼」の意思決定の結果ではなく、無意識の情報処理の結果であり、無意識がはじき出した「カレーライス」という結論を、あとから生まれた「私」があたかも自分がそう決めたかのように思いなしている。
 これを仏教用語で言えばこうなるだろう。
 
諸法は無我であり、ただ因縁によって輪廻する 
 
 ソルティの見立てでは、前野の言う「無意識」とは因縁(業を含む)の別名である。この世は因果法則という巨大な精密機械(またはプログラム)によって動いていて、そこでは因縁が果を生み、果が新たな因縁となる。一部の狂いもなく冷酷なまでに精確に働いているメカニズムのうちに「私の意志」など存在する余地は微塵もない。「私の意志」と思っているものは錯覚に過ぎない。
 別の観点から言えば、「私」もまた、巨大な蜘蛛の巣にかかった羽虫のごと、身動きままならず糸の振動に身をまかせている、メカニズムの一部である。「私」とは‘条件付け’の産物である。

 本書で、科学者である前野は「なぜ人は死を怖れるのか」を最新の科学的知見を用いながら科学的思考によって考察・究明し、ひるがえって「ではどうしたら死が怖くなくなるか」を述べている。
 上記の受動意識仮説を蓋然性の高い真理として受け取れば、結論は明確に導かれる。
  1.  人が死を怖れるのは、「自己(=私)」を失うことを怖れるからである。
  2.  だが、そもそも「自己」は幻想であり錯覚であり、はじめから存在していない。
  3.  ならば、「私はすでに死んでいる」のであるから、死を怖れる必要などない。
  4.  「自己」を幻想と見極めれば、死の怖さは消失する。

仮構された「自己」という概念を解体してみると、「死ぬのが怖い」という概念は存在できない。「死ぬのが怖い」という概念は、「自己」という幻想に付随して作り出された幻想に過ぎないのだ。(表題書より)


神野寺&鵜原理想郷 054


 本書後半では、「死が怖くなくなる7つの方法」を提案している。
 著者によれば、いずれの方法も「人類が蓄積してきた学問的な知の蓄積を論拠とした、確実で安全・安心なルート」である。つまり、「天国があるから大丈夫」「復活するから怖くない」「死は存在しない。生命は永遠に生まれ変わる」「死んだら高次元にアセンションする」「死んだらあの世で愛する人に再会できる」というたぐいの宗教的・スピリチュアル風な、確証の得られない‘おためごかし’ではない。むろん、脳科学の知見から導き出された受動意識仮説も方法のトップに挙げられている。
 前野が挙げた7つの方法を読んでこう思った。
「一言で言えば‘悟りなさい’ってことじゃないか」
 というのも、7つの方法のいずれも、悟りを開いた人たちの心境なり物の見方なり世界観なりを説明しているように、すなわち悟りを7つの異なった局面から概観しているように思えるのである。なるほど、悟った人は死を怖れない。

 ブッダは瞑想と智慧によって悟りに達した。仏教は瞑想と仏法によって悟りに達する道を伝える。
 しかし、スマナサーラ長老もどこかで書いていたが、最初の悟り(預流果)に達するために必ずしも瞑想は必要ないのだそうだ。仏教を深く理解して納得することで達しられるという。
 量子力学、脳科学、宇宙論・・・最新の科学的知見はまさに仏教の‘正しい’ことを次から次へと証明しつつある。おそらく現代人は、過去の真摯な仏教徒たちが仏教(瞑想&仏法学習)によって達し得た地点に、知性と現代科学の理解によって到達しうるのであろう。
 前野隆司こそはその典型と思われる。

P1290227

 

 ところで、ソルティは受動意識仮説に99%賛同、1%異議がある。つまり、
 本当に自由意志は存在しないのか?
 自己決定は有り得ないのか?
 もし、なにもかもが無意識によって決定されているのなら、すべてが因縁と業によってあらかじめプログラミングされているのなら、それは決定論・宿命論になってしまう。
 物事は変えられない。世界は「筋書きのある」ドラマである。予定調和または予定不調和が世界の実相である。何をやっても徒労である。成功する人は成功するし、失敗する人はいくら頑張っても失敗する。努力は無駄となる。
 社会運動も科学の進歩も無駄である。人類は初めから決まっているゼロポイントに向かって、タイタニック(あるいセウォル号)の乗客さながら運ばれていくだけである。
 仏教と出会うチャンスも修行しようという意志もあらかじめ個々人のプログラムに書いてあることになる。今生で悟るか悟らないかも、来世どこに生まれ変わるかも、すでに決定している。
 物事はなるようにしかならない。
 本当にそうであろうか?

 そうは思わない。
 「この世で本当に驚嘆すべき事柄は‘悟る’ということがあるということです」とどこかでブッダが言っていたように、巨大で抗し難い因縁の網から抜け出る道があるはずだ。プログラムのバグを見つけて、そこからすべてのプログラムを消去する方法があるはずだ。すなわち、「」が条件付けから抜け出る可能性がある。

 前野と同様、現代科学の知見をもとに「自由意志が幻想である」ことを見事に解き明かしてみせた宗教家・山口修源は、その力作『仏陀出現のメカニズム』でこう述べている。

 われわれはこれまで、全くの自由意志の許に生きてきたと信じて疑うことはない。しかし、本書は、それを現代科学に基づいて否定してきた。実は、自由人生どころか機械的な人生であることを明らかとしてきたのである。さらには、先祖及び個人の前世にまで言及しその意識の奥に無意識なる存在があり、それによって衝き動かされているという心理学理論を紹介した。・・・・・それらを整合していくと、われわれには如何ともし難い因果の関係性を見出すのである。それは巨大な力でわれわれを衝き動かしていく。
 しかし、その巨大な力に抗し得る偉大な自我或いは自己或いは霊(たましい)の存在があることを心理学者は示してくれたのである。それは、物理学法則にいう「ゆらぎ」によって導かれるものである。われわれの透徹した意識は、このゆらぎを通して巨大な力に対抗し、すでに定められた運勢を少しでも良い方向に転換させることを可能とするのである。

 前野隆司は現在「人間が幸福になるためにはどうすればよいか」をテーマにした幸福学研究に取り組んでいるらしい。ならば、ぜひやってもらいたいと思うことがある。
 「激流に揉まれる一枚の葉のごとく無意識に突き動かされている生命が、どうやってその流れから脱出できるのか。我々は無意識の支配からいかにして抜け出せるのか」という問いについての純粋に‘科学的’な考察であり研究であり解明である。
 「なぜ人は悟れるのか」ということである。

 
 人間が、そのなかに自分が囚われている冷酷なメカニズムを深く理解したとき、あらんかぎりの力でこのメカニズムの性質を十全に把握したとき、そのとき初めて彼は、彼の一切の行為の起源である分離の意識を自発的に吟味するであろう。英知をもって、感情と思考をもって、彼は、誰も実際に避けて通れないこの中心問題に直面するであろう。(ルネ・フェレ著『クリシュナムルティ 懐疑の炎』より)



 
 

● 受動意識仮説の衝撃 本:『脳はなぜ「心」を作ったのか』(前野隆司著)

前記事の続き。

心と脳との関係についての3つの見解。

1. 心(意識)と脳(体)はまったくの別物である。(心身二元論)
2. 脳が心を作り出した。心(意識)は脳(体)の産物である。(身的一元論、唯物論)
3. 心が脳を作り出した。脳(体)は心(意識)の働きによって生み出された。(心的一元論、唯心論)

 偏見を承知で言うと、1は文系の人が、2は理系の人が、3は宗教系(スピリチュアル)の人が抱きやすい考え方だと思う。
 そして、1と3は、ある意味、魂の存在を信じることや、肉体上の死後の生を夢想することにつながる。2は、「死んだら終わり。はい、それまでよ~。」である。

 自分はどうか。1と3の中間くらいである。(2というわけではない。1のような気もするし、3のような気もするってことだ)
 もちろん、なんらかの根拠があるわけではなくて、「2が本当だったら、なんか嫌だなあ~」と思うからである。
 なんで嫌かと言うと、いまある「私」という意識は肉体によって産み出されたものにすぎず、肉体の崩壊=死とともに消失し、あとには何も残らないというふうに考えることが、「つまらない」「冒涜的」「屈辱的」「人間の尊厳を壊しかねない」「社会的にリスキー」と思うからである。要は「わたしがかわいい」のである。
 「社会的にリスキー」というのは、天国も地獄も来世の存在をも否定することは、「生きている間に好き勝手しよう」という刹那的な考えを蔓延させると思うからだ。21世紀の現代でも、やはり人々の心のどこかには天罰とか因果応報とか自業自得という観念が巣くっている。(例:震災についての石原慎太郎発言) それが、やけになって他人を傷つけたり自殺したりせずに、なんとか最期までまっとうに生き抜くためのよすが、砦となっているからだ。

 しかし、「そう思いたい」という願望や幻想、「そういうふうにしておいたほうが無難」といった方便と、科学的事実とは、分けて扱われなければなるまい。

 前野は、徹底した身的一元論者。2番である。
 茂木健一郎は、著書を読む限り、世に華々しく登場した最初のうちは明らかに2番だったが、徐々にあやしくなってきて「魂」とか言い始めている。今では1番に近いのではないか。(なるほど、この人には文系に対する憧れのようなものを感じる。)
 
 ところで、ここまで、「心」と「意識」を同一のもののように扱ってきたが、前野の見方に従って、次のように分別しよう。これは、脳科学者の松本元の説だそうだ。
 
心を成り立たせる部品は5つ・・・・ 知(知性、知力)、情(感情)、意(意図、意思決定する働き)、記憶と学習、意識 

 これ以外に「無意識」がある。無意識を心に含めるかどうかは微妙なところだ。無意識だけで生きている生物、たとえば微生物に「心がある」とは言いにくい。

 さて、意識とは、「知・情・意・記憶と学習」全体を主体的に統合する作用だと一般に考えられている。これは普段、我々が「私が知る」「私が考える」「私が感じる」「私が意図する」「私が決定する」「私が記憶する」「私が思い出す」「私が学ぶ」と認識していることを考えれば、首肯できるところだ。5つの部品のうち、上の4つはどれも「私」すなわち意識において起こっていると実感できる。

 知・情・意・記憶と学習については、脳科学の進歩によって、ある程度、そのシステムが解明途上にある。少なくとも、脳のどこの部分で働きを担当しているかがマッピングされている。
 一方、意識については、一体どこにあって、どんなふうに働いているのか(どのような生化学的作用が意識を立ち上げているのか)がまったくわかっていない。
 なぜ、科学的な法則で説明可能であるはずの肉体(脳)から、科学的にその存在すら証明できない心(意識)が生まれたのか。どうやってそれは他の部品を統括できるのか。「私」が認識する対象の生々しさ(夕日の赤、鳥の声、お好み焼きの匂い、アイスクリームの甘さ、絹の下着の肌触り、いわゆるクオリア)は一体なぜ、どうやって生まれるのか。「私」という感覚はなぜ、どうやって生まれたのか。
 わからないことだらけである。
 まさに、お手上げ。

 この人類最大の謎の一つに、前野が出した答えが、「受動意識仮説」である。

 自分とは、外部環境と連続な、自他不可分な存在。そして、「意識」はすべてを決定する主体的な存在ではなく、脳の中で無意識に行われた自律分散演算の結果を、川の下流で見ているかのように、受動的に受け入れ、自分がやったことと解釈し、エピソード記憶をするためのささやかな無知な存在。さらに、意識の中でもっとも深遠かつ中心的な位置にあるように思える自己意識のクオリアは、最もいとしく失いたくないものであるかのように感じられるものの、実は無個性で、誰もが持つ錯覚に他ならない。

 
 クオリアとは、エピソード記憶のどこを強調するかを決め、索引をつけるためのものなのだ。
 
 <私>とは、記憶とも「知」「情」「意」の多様さとも関係なく、ただ単に、ピュアに、「<私>というクオリアは<私>である」、という決まりが脳の中に定義された結果、作り出されたクオリアに過ぎないと考えられる。 (標題書より、以下同)


 ポイントは、心と体を合わせもった途轍もなく見事な「自分」というシステム全体の、主役であり、主体でもあるとこれまで考えられていたイシキ君について、『いや、そうではない。あいつは実は主役ではなくて脇役に過ぎない。本当の主役はムイシキ君だ。ただ、上演の関係上、都合がいいからイシキ君には自分が主役だと思わせておこう。』というところにある。
 真の主役は、舞台と客席と舞台裏で起こるすべてのことを把握して統括管理している演出家ムイシキ君である。そして、イシキ君の正体はと言えば、演出家の思うがままにしゃべり演じることができる、イケメンだけが取り柄のスター気取りの看板役者のようなもの。

 無意識のできごとを単純化して、錯覚し、わかったような気になっている井の中の「私」というのが、生命の真実なのだ。

 一体全体、なぜ、生命は、自然は、そんなことをしたのか?

 「無意識」の小びとたちの多様な処理を一つにまとめて個人的な体験に変換するために必要十分なものが、「意識」なのだ。「意識」は、エピソード記憶をするためにこそ存在しているのだ。「私」は、エピソードを記憶することの必然性から、進化的に生じたのだ。

 生物は進化の過程において、記憶力を発達させてきた。それは生き残るために有利な条件だからだ。サケが生まれ育った川に帰ってくるような本能による記憶装置だけでは、環境の大きな変化に対応できない。敵に襲われた場所と時間と状況を覚えておくことができなければ、予防することができず、また同じ状況を繰り返し作ってしまう。虫歯の痛みを覚えておけなければ、毎食後に歯を磨くという面倒くさい行為をやり続けることができず、健康を害してしまう。
 記憶力が優れている類人猿ほど、高い確率で生き残っていく。
 そして、記憶をエピソードとして、「物語」として脳内に残すことができるようになったのが人間なのである。まさにそのために、物語を体験し記憶に残すために、巧まずして生じたのが「意識」であり、「私」なのである。
 つまり、単に記憶力が向上した結果として、「意識」や「私」が生まれただけであり、そこに何も「ミッシングリング」とか、宇宙人による類人猿ロボトミー(脳手術)を持ち出してくる必要はない、ということだ。

 どうだろう?
 
 コロンブスの卵というか、コペルニクス的転換というか。
 あまりにも単純な説明なので、かえって真実らしい気がしてこないだろうか?
 意識に関するさまざまな難題、ゴルディアスの結び目を一挙に断ち切る説ではないか。
 自分は一読、感嘆の声を挙げた。

 この説のなんともビックリするところは、これがまたしてもブッダが言ったことに符合していることだ。

諸法無我。
「私」というのは幻想に過ぎない。心と体の中のどこを探しても「私」の実態はない。

 ブッダの言葉を現代までそのままの形で伝え続けるテーラワーダ仏教の長老アルボムッレ・スマナサーラはこう述べている。

人は、感じたものは、認識します。そして認識があるから、「私が知った」ということに自動的になるのです。「私は知った」という気持ちは一生続くので、「私」という概念、「私に魂がある」という強烈な誤解が、この「受(感覚)」から生まれるというわけです。この「感じる」というはたらきから、「私」という考え方が出てきます。なにかを感じるから「私はいる」と思ってしまうのです。(『心の中はどうなってるの?』サンガ) 


ブッダ、すげえ~!!
 

 前野がブッダの説いたところと同様の結論に至るのは、もはや不思議でもなんでもない。

あぁ、何十億人もの我が人類は、何千年もの長い時間、死を恐れ続けてきた。それは<私>という存在のこのあまりのはかなさを知らずして、その存在の終焉を恐れていたということだったのだ。なんという無知。
・・・・・私たちが理解したいと願い、失うことを心から恐れていたものは、なんと、無個性でだれもが持つ、単なる<私>という錯覚のクオリアだったのだ。

 ただし、前野説と仏法には大きな違いがある。

 ブッダは輪廻転生を伝えた。生まれ変わりのシステムから抜けることを「解脱」と言ったのである。これは、肉体の死後もなんらかの現象が引き続いていることを含意している。ブッダはそれが何であるか言明していないようだが、少なくとも「私」でないことだけは確実である。ともあれ、ブッダは一元論者ではない。
 もう一点。
 前野の説は、「すべてを決定しているのは無意識である」と言い切ってしまうことで、結果的に宿命論に陥ってしまいかねない。なにしろ、「私の意志」すら、私のものではなく、無意識による民主主義的多数決の結果というのだから。人間が向上するも堕落するもすべて無意識のせいになりかねない。
 それとも、無意識は常に個人や社会の向上を、種としての生き残りを目指して良心的に働いているはず、という前野自身の楽観主義のなせるわざか。
 現実の社会を見る限り、どうもそうとは思えない。
 ブッダは、輪廻からの解脱方法として、あるいは幸福への必須条件として修行や智慧や慈悲を重んじた。なぜなら、人間が何の努力もしないで心の赴くがままに(無意識のなすがままに)生きていれば、人も社会も必ず堕落すると考えていたからだ。
 ブッダは宿命論者ではなかったのである。


 ひとつだけ確かに言えることは、前野説を受け入れるための最大の反対者は、二元論者でも唯心論者でもなく、「私(意識、心)」そのものだという点である。
 有史以来、人類が、それこそ古今東西の偉大なる宗教家や哲学者や科学者が、「私」や「心」について考え続けた挙げ句、最後に到達した答えが、「私も意識も心もイリュージョン(錯覚)である。そもそも、そんなことを考えること自体、無意識のしわざであって、残念ながら、あなたはそれに気づかないで、自分が高尚なことを考えていると錯覚しているだけのオメデタい奴にほかならない。」では、あまりにお間抜けではないか!
 いったいどんな卑屈な「アイデンティティ(私)」が、この結末を素直に受け入れられるだろうか?


前野の受動意識仮説。
トンデモ本と取るか、意識の本質に迫る画期的なパラダイム転換の書と取るか。


より深い洞察を期待して、次作を待ちたい。




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