ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

同性愛

● 鉄の女に涙はあるか 映画:『パレードへようこそ』(マシュー・ワーカス監督) 

2014年イギリス映画。

 ゲイと炭鉱夫。
 片や、「男らしく」ない代表格と見下され、ファッションやアートやダンスやお喋りにうつつを抜かすナヨナヨした連中。片や、「男らしさ」の権化のように見做され、命を賭した危険な重労働を黙々とこなし、酒と博打と女と喧嘩に誇りをかける逞しい連中。
 ステレオタイプは無論承知。が、まあ、両者に抱く大方の最大公約イメージはこんなところだろう。つまり、「男」の両極に位置する、正反対の種族というわけだ。
 むろん、社会的な上下関係ははっきりしている。知性や収入の差はともかくとして、社会的に受け入れられ信頼を得ているのは炭鉱夫である。ジェンダーの既成価値を強烈になぞっているがゆえに・・・。
 そんな相反する2つの種族が出会い、戸惑い、衝突し、認め合い、共闘し、友情を育む。そんな‘他者との出会い’の一部始終を丁寧に描いたのがこの映画である。実話をもとに作られたというから驚く。

 時は1984年。新自由主義の御旗のもと「弱い者いじめ」政策を断行する‘鉄の女’サッチャー政権下、炭鉱労働者たちがストライキを起こす。それを支援すべく、ロンドンに住むレズビアンとゲイの若い活動家グループが勝手に街頭での募金活動を開始する。
 しかし、全国炭鉱労働者組合は同性愛者の集めた寄付金を快く受け取ってはくれない。活動家たちはウェールズにある小さな炭鉱町オンルウィンに直接寄付することにする。同性愛者のグループとは知らずに寄付を受け取った町の人々は、感謝の意を示すべく、活動家たちを町に招待する。バスを仕立て意気揚々と炭鉱町に向かうゲイ&レズビアンご一行。
 かくして、異質の者との邂逅が始まる・・・。
 
 テーマが現代的で面白い。
 というより、あらゆる‘物語’は基本的に「異質との出会い」を描いたものなんである。恋愛小説しかり、青春小説(ビルディングもの)しかり、ホラーしかり、SFしかり、ミステリーしかり、戦闘ものしかり、ジェネレーションギャップを描いたものしかり、純文学しかり・・・。
 はじめ「異質」であったものが、だんだんとその正体が明らかになってきて、主人公がその実質を‘理解できる’ことが分かってコミュニケーションへの道が開かれるか、あるいは‘理解できない’ことが顕わになって断絶して戦いに突入するか、というのが‘物語’の定石なのである。
 なので、もろ‘異質との出会い’をテーマに据えたこの映画が面白くないわけがない。両者間に芽生えた友情がセクシュアリティの違いを超えてゆく感動のクライマックスは、鉄の女と同族でなければ涙することであろう。
 日本語字幕だと分りにくいけれど、主人公のゲイの青年マーク(=ベン・シュネッツァー)がストライキをしている炭鉱労働者をテレビで見て突如支援しようと思い立ったのは、サッチャー政権に対する反感が共通することもあるけれど、それ以上に、炭鉱夫(miner)が少数者(minor)と同じ音(マイナー)を持つことから閃いたのである。マークが自分たちのグループにつけたLGSM(Lesbian & Gay Supporting Miners)という名前は、「炭鉱夫/少数者を支援するゲイ&レズビアン」という、ちょっとブラックユーモア風の意味があるわけである。
 
 役者の魅力も満載である。
 まず、炭鉱町オンルウィンの組合の中心人物クリフを演じるビル・ナイが印象的である。別記事でもこの俳優に注目したが、やっぱり名バイプレイヤーである。炭鉱町に生まれ育ち、今や町の中心人物として町民の尊敬と信頼を集めながら実は‘隠れゲイ’であるという、複雑なキャラクターをリアリティ豊かに演じている。
 同様に、‘隠れビアン’であったことをクリフ相手に告白するヘフィナ演じるイメルダ・スタウントンも、その研ナオコかギボアイコにも似た特異な顔立ちと女丈夫(じょじょうふ)なキャラとあいまって、愛すべき強烈な印象を残す。
 その他、LGSM結成当初唯一のレズビアンとして気を吐くダイ(=パディ・コンシダイン)のカッコよさ、両親に内緒で活動にかかわるも最後にはバレて家を離れる決心をする二十歳の青年ジョー(=ジョージ・マッケイ)の清潔感が光っている。この二人、きっといい役者になるだろう。

 異質な者との関わりにおいて重要なのはまずは‘勇気’である、とこの映画は教えてくれる。相手と関わろうとする勇気、自分をさらけ出す勇気、衝突を恐れない勇気、真実の自分および自分の感情を素直に認める勇気。道はそこから開けるのだ。
 そして、その‘勇気’をくれる最大のものが仲間であることも教えてくれる。
 ゲイやレズビアンといったホモセクシュアルは、当然ながらヘテロセクシャルな男と女から生まれ、その影響下に育つわけだから、基本的に親は仲間(=理解者)になりえない。どんなに理解ある進歩的で寛容な親であっても、ヘテロである限り‘仲間’にはなれない。そこには越え難い溝がある。
 ゲイやレズビアンは親との関係をある意味で‘あきらめる’ところから、自分の生きる場所を見つけざるをえない。ソルティ自身も、思えば「親に理解してほしい」なんて感情は二十代に捨ててしまっている。よく言えば、精神的に自立せざるをえない。そのぶん、仲間の存在が重要になってくる。悩みを打ち明け希望を共にする仲間が。自分の生きるモデルとなってくれる先達が。(日本の多くのゲイにとって最大にして最強の先達は美輪サマだろう。三島由紀夫では決してない。レズビアンにとっては誰だ? ジョディ・フォスター?)
 
 この映画を観てもう一つ実感することは、女という性の役割である。
 子供を産む性、子供を育てる性、家庭を亭主や子供にとって安心できる場所として維持する性、やりくりする性といった意味ももちろん馬鹿にならない。
 けれど、思うに、大きな声では指摘されないけれど無視することのできない女の大きな役割は、「男を教育する」ことにあるように思う。一人の男を教育しその価値観をも変えさせるほど力を持ち得るのは、世間広しと言えども、男の‘母である女’、‘妻である女’、‘娘である女’だけではないか。彼女らは、‘息子である男’、‘夫である男’、‘父親である男’の急所を握っている。なればこそ、世間相手に百戦錬磨の荒らぶる男たちも、彼女らの前では青菜に塩のごとくシュンとなってしまうのだろう。
 男尊女卑のイメージが強い炭鉱町が実のところ女性天下であるという逆説を、この映画は描いていて小気味よい。
 結論として、世の中は最終的に女性を味方につけた者の勝ちなのだろう。
 その秘密を知っているがゆえに、ソルティはフェミニストなのである。 

 さあて、もうすぐパレードがやって来る。
 今年はcharaが来るらしい。
 すげえ~!
 


評価:B-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● オクタビウスの謎 映画:『クレオパトラ』(ジョゼフ・L・マンキーウィッツ監督)

クレパトラ 1963年アメリカ映画。

 最初に言及すべきは、リズことエリザベス・テイラーの美しさ。
 撮影当時31歳、共演のリチャード・バートンとの始まったばかりの恋に身も心も潤って、匂い立つような女らしい艶やかなオーラーを発散している。リズが出ているシーンでは、リズしか目に入らないほどである。古代エジプト最期の女王、史上随一の美女の役だけあって、どんなに着飾っても、どんなにメイクアップしても、どんなに宝石で身を固めても、どんなに尊大に振る舞っても、やりすぎることはない。その保証を手にしてリズは自らの人生の美しさの頂点をここに焼き付けた。
 自分はブラウン管でしか観たことないが、スクリーンの大画面で見たら、この美は世界遺産ものだろう。

 物語のスケールの大きさ、豪華な衣装やセット、エキストラの多さ、制作会社(20世紀フォックス)を破産寸前まで追い込んだ巨額な制作費、美貌の大スターをめぐるゴシップや逸話の数々。女優を主役とした映画では『風と共に去りぬ』(ヴィクター・フレミング監督、1939年)と並び、バビロンの如き栄華を極めた大ハリウッドの威光を伝える作品と言えるであろう。

 とりわけそれが顕著に表れているのが、クレオパトラのローマ入城シーンである。

 クレオパトラがシーザーとの間にできた未来のアレキサンダーたる(とクレオパトラは目している)息子シザリオンを、初めてローマ市民に披露するこのシーンは、物語全体からすればどうってことない一つのエピソードに過ぎない。シーザーの暗殺、アクティウムの海戦、クレオパトラの自殺・・・など、物語的に重要な、絵になるシーンは他にある。
 だが、作品中おそらく最も豪奢を極め、手間も金もかかっていて、エキストラも多く、シーン自体も一番長く、もっとも印象に残るのが、このローマ入城なのである。
 最初に登場のファンファーレがあって門が開かれてから最後にクレオパトラ(とシザリオン←添え物)が登場するまで何分かかっているだろう。延々とアフリカ風の踊りやら、槍を使った戦闘の舞いやら、火を使ったリンボーダンス風な曲芸やら、カラフルな煙幕やら、これでもかとばかりに見せ物が続く。映画では当然それぞれの見せ物は部分的に紹介されカットつなぎで次の見せ物にバトンタッチされるわけだが、おそらく実際の時間にすると軽く2時間はかかるのではないだろうか。
 観ていて連想するのは、昨今のオリンピック開会式である。
 各国の選手入場の直前まで延々と開催国をアピールする催し物が行われるのが定番となっている。その国の成り立ちを伝える神話の再現とか、歴史上の有名な出来事とか、伝統舞踊や伝統工芸や民族衣装とか、果てはその国出身の世界的歌手やスポーツマンが花を添える。オリンピックがなりふり構わぬ商業主義に走ったロス五輪以降、それがどんどんエスカレートして明らかな国力の誇示ショーになっている。
 それはどうでもいいんだが、開会式の演出家たちは、演出家を志した少年時代か青年時代にまず間違いなく、リズの『クレオパトラ』を観ていることだろう。「ローマ入城シーン」に影響されていることだろう。
 で、「ローマ入城シーン」自体は、まず間違いなく、マンキーウィッツ監督がそれまでに観たオペラ『アイーダ』第二幕の「凱旋の場」の演出を意識してつくられたはずだ。
 逆に、この『クレオパトラ』から影響を受けて、その後の『アイーダ』演出家は「凱旋の場」をつくることにもなったであろう。(とりわけフランコ・ゼフィレッリあたり。)
 『アイーダ』と『クレオパトラ』と『オリンピック開会式』は、相互に影響し合って手に手を取ってゴージャスと拝金主義とナショナリズム高揚を推し進めていると言えよう。(昨今はそこにサッカー競技も加わっている。)

 リズにばかりに目がいってしまう『クレオパトラ』であるが、今回改めて面白さを感じたのは、クレオパトラをめぐる3人の男――シーザー、アントニウス、オクタビウスーーのキャラクターの違いである。クレオパトラにとって、シーザーは父のような庇護者的存在、アントニウスは自分をひたすら賛美崇拝してくれるアッシー君(古い!)みたいな存在、そしてオクタビウスは・・・? オクタビウスとの関係が謎である。
 歴史上の権力争いの観点から言えば、次のように比較できるだろう。

 シーザー   =織田信長(最初の国家統一者)
 アントニウス =豊臣秀吉(その跡を継いだ者)
 オクタビウス =徳川家康(最終的に長期政権の基盤をつくった者) 

 ついでに
 ブルータス  =明智光秀(言わずもがな・・・)

 すると、クレオパトラは誰だろう? 
 淀君か、ネネか?

 3人の男のうちクレオパトラが最も(真に)愛したのはアントニウスらしい。自らが大将をつとめる闘いで、逃げる女の後を追って船をも部下をも見捨てるアントニウスは、天下のうつけ者(やっぱ織田信長?)であるが、「私と仕事とどっちが大事なの?」という女の究極の問いに迷わず「お前に決まっている」と答えられる男は、世の女にとってはアレキサンダー以上の英雄なのかもしれない。
 名優リチャード・バートンは、実に人間くさいアントニウスを好演して、リズでなくとも母性本能をくすぐられる。


 オクタビウスはクレオパトラの毒牙にかからなかった(フェロモンに迷わされなかった)。結果として、初代ローマ皇帝アウグストゥスとなった。
 なぜだろう?
 
1.男色家説


 この説は結構好まれている。 
 この映画でも、当時のハリウッドの規制もあって、はっきりそうとは描かれていないが、オクタビウスが女に興味がないことを示すシーンがところどころ出てくる。


アントニウス 「君も仕事ばかりしないで少し遊んだらいい。あそこにいる女達はどうだ。よりどりみどりだぞ。」
オクタビウス 「無駄なことです。」

 手塚治虫の『クレオパトラ』(1970年)ではもっと顕わである。
 朋友アントニウスを殺されたクレオパトラは、次の手段としてオクタビウス籠絡に取り掛かろうとする。フェロモン100%放射。

 オクタビウス「お前の魅力など私にはまったく効かない。」
 戸惑うクレオパトラ。 
 そこへ、クレオパトラの家臣である力自慢の闘志(グラデュエイター)が現れる。
 とたんに目の色を変え、オカマキャラ丸出しになってしまうオクタビウス。
 「きゃあー。素敵な肉体。あの日あなたを見て以来、この体に抱かれることを夢見ていたのよ。あとで、連絡先教えてね~?」
 すべてを諦めるクレオパトラ。

 男色家説は話としては面白いが、実際にはどうだろう。
 オクタビウス=アウグストゥスは、生涯に何度も結婚して子供も作っている。もちろん、後継者を作るための、あるいは勢力基盤を磐石にするための政略的結婚であったとは思う。病弱であったためかどうか、血を享けた子供は結局一人しかできなかった。それも娘だった。あまり子作りには積極的でなかったようだ。
 生涯の友であったアグリッパとの篤い関係から同性愛の匂いを嗅ぎ取ることもできる。自分の娘ユリアとアグリッパを結婚させて(アグリッパを義理の息子にして)、そこにできた息子に帝位を継がせようとしたところなんか、現代の大物ホモ政治家がやりそうな手口である。
 ともあれ、なんと言ってもキリスト誕生以前(BC)である。この時代のローマ人にとって同性愛はタブーではなかったはず。若きジュリアス・シーザーも「すべての男の妻」と呼ばれていたのである。
 曰く「オクタビウスがゲイでなかったら、世界の歴史は変わっていただろう。」 


2.クレオパトラが本気を出さなかった説


 里中満智子の漫画『クレオパトラ』がそうである。
 シーザーとの世紀の恋に破れ、アントニウスとの運命の恋の成就と死別を経験した女王はもはや政略的な結婚などしたくなかった。人生にも野望にも疲れていた。愛するエジプトを守るためでも、もう奥の手を使う気にはなれなかった。
 リズの『クレオパトラ』もアントニウスとの真実の恋に目覚めたために、後を追って自害するのである。


3.クレオパトラの魅力に翳りが・・・・説


 さて、ここで主要人物の生年没年である。


シーザー  (紀元前100年――紀元44年) 56歳で死去
アントニウス(紀元前83年――紀元30年)  53歳で死去
オクタビウス(紀元前63年――紀元14年)  76歳で死去
そして、
クレオパトラ(紀元前69年――紀元30年)  39歳で死去


 クレオパトラとシーザーの年齢差は31、アントニウスとは14、オクタビウスとは6つでクレオパトラが年上である。
 クレオパトラが3人の男をたらしこもうとした時のそれぞれの年齢を推定する。


 シーザー(52)×クレオ(21)
 アントニウス(41)×クレオ(27)
 オクタビウス(33)×クレオ(39)


リズ シーザーとアントニウスは、クレオから見れば「すっかりおじさん」だったのである。若さと美貌と奸智とエジプトの富とで彼等をたらしこむのは赤子の手をひねるようなものであったろう。また、中年クライシスを感じていたであろう「両おじ」にとって、若く夢に燃えるクレオはまたとないオアシスであり活力源であったろう。
 一方、オクタビウスから見れば、アラフォーのクレオは「もうおばさん」である。とくに、女性の容姿とフェロモンは35を過ぎると急速に衰えていく(by幸田來未)。自身「ローマ一の美少年」と言われ年上の男女からもてはやされたオクタビウスにしてみれば、クレオの美貌なぞ「どうってことない」「なに若作りしてんだか」「首の皺は隠せねえぞ」だったのかもしれない。
 証拠がある。リズがクレオパトラを演じたのは31歳の時である。それからわずか3年後『ヴァージニア・ウルフなんか恐くない』(マイク・ニコルズ監督、1966年)のリズを見よ。もはや美の衰えは隠しようもない。その代わりに演技派女優としての名声を確立していくのだが。(この作品でオスカーを獲っている。)

 子供の頃この映画をテレビで見たとき、リズのアテレコは小川真由美だった。
 これが実に素晴らしかったのである。まろやかで、色っぽくて、品があって、知性を感じさせ、女王としての風格に不足はない。しかも小川真由美は、声で芝居をすることのできる芸達者。
 お蝶夫人やオードリー・ヘップバーンの声が池田昌子で決まりであるように、クレオパトラの声は小川真由美で決まりというのが実感である。
 うれしいことに、DVDの日本語音声は小川真由美である。
 日本でのテレビ放映時の録音テープを使ったためか、テレビ放映の際にカットされたシーン(特にお色気シーン)では突然英語になる、つまりリズの肉声に切り替わるという面白いことになっている。
 ぜひぜひ日本語音声で観て(聞いて)ほしい。
 絶世の美女エリザベス・テイラーも決して声は美しくないんだなあ、喋りに品がないんだなあ、と知ることができる。声や話し方がいかにその人の魅力を引き立てるかをまざまざと知ることができる。
 小川真由美という女優を語る上で、欠かすことのできない作品である。


評価:A-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」     

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」
     
C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!




● 映画:『J・エドガー』(クリント・イーストウッド監督)

 2011年アメリカ映画。

 FBI(アメリカ連邦捜査局)初代長官ジョン・エドガー・フーヴァーの伝記であり、48年間という異常に長い在任期間中、8代の大統領に仕えた、というより8代の大統領を御した陰の権力者の実像に迫る物語である。

 主演のレオナルド・デカプリオは、往年の美少年イメージを台無しにするグロテスクな老けメイクで力演している。どうせならもっと突き抜けて「怪演」まで行けば良かったのに・・・。


 観る者は、20世紀アメリカの国家レベルの犯罪(たとえば飛行家リンドバーグ夫妻の愛児誘拐殺人事件)に立ち会うスリルを味わいつつ、自らが育てたFBIという牙城と長官の椅子を守るためにスキャンダルの暴露を武器に政敵(時の大統領さえ!)を脅すエドガーの権謀術数のいやらしさに、大物ならではの複雑な人間性を愉しむこともできる。
 しかし、やはり一番の見所は、エドガーの私生活であろう。

 生涯独身を貫き、母親と一緒に暮らし続けたエドガーの謎に包まれた私生活こそ、観る者の好奇心をそそって止まない。野心と支配欲と名声と被害妄想とに満ちた複雑極まりない男の謎を解く鍵でもある。
 イーストウッドはその鍵を見つけて、鍵穴に丁重に差し込み、ゆっくりと回して留め金を外す。そして、家人が気づかぬようにそっと扉を押すのである。
 それは、虚像をあばくといったマスコミめいた青臭い正義感でもなく、正体をさらして貶めるといった世間好みの覗き趣味でもなく、抑圧された欲求(=深層心理)と満たされない家族関係のうちに表の世界のエドガーの無情でエキセントリックな振る舞いの原因を探るといった心理学的な解釈の押し付けでもない。
 あくまでもクリントの目はやさしい。エドガーの抱えざるをえなかった苦しみに対する理解と密やかな共感とに満ちている。
 エドガーが、母親を亡くした直後に、母親の部屋の姿見の前に立ち、母親の首飾りをかけて、母親の洋服を身に着けるシーンの痛切さは、どうだろう?
 異性装、それもかくまでグロテスクな‘親父’の女装は、下手すると観る者に強い拒否感や嘲笑を呼び覚ましかねない。「なんだ、単なる変態か」と。あるいは、いびつな母子関係の犠牲者であるエドガーの姿に、ヒッチコックの『サイコ』に出てきたノーマン・ベイツの姿を重ねてしまう恐れだってある。
 そのリスクをあえて冒して、クリントが姿見に映し出してみせたのは、母親の姿に重ねることでしか「自分」というものを発見できなくなってしまったエドガーの強烈な孤独と自己否定である。

 それはもしかしたら、クリント自身の姿だったのかもしれない。クリントもまた、大衆という巨大な母親の声に応えて「マッチョ」を演じ続けてきた一人であるからだ。(→ブログ記事参照

 マッチョであることを母親に強いられ、母親の期待に応えることではじめてその愛情を獲得できたエドガーは、結局死ぬまで母親という呪縛から逃れることができなかった。本来の自分を偽り続けることが第二の天性となってしまい、その一方で、他人の偽りを収集しあばき続けることに執念を燃やしたのである。
 そんななかで出会った生涯ただ一人のパートナーが副長官クライド。
 このクライドとの関係がもう少し丹念に描かれると良いのだが、そうすると伝記の枠をはみ出してフィクションになってしまうから、まあ仕方ないかな。

 それにしても、アメリカはホモフォビア(同性愛嫌悪)の強い国であるが、奇妙なことに、J・エドガーの例に限らず、アメリカの権力者(特に共和党の)にはクローゼットのゲイが多いと言われる。彼等は一様にゲイの権利を保障する条案の成立を拒んできた。
 さもありなん。
 ホモフォビアとは、自らのうちにあるホモセクシュアリティに対する否認だからだ。人は、自分自身に認めないもの、許さないもの、与えないものを、他人に対して認め、許し、与えることはできない。
 かくして、クローゼットなゲイの権力者によって支配されているホモフォビアの強いマッチョな国アメリカという倒錯が起こる。


評価:B-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

 

● イーストウッド、ついに同性愛を撮る! 映画:『ヒアアフター』(クリント・イーストウッド監督)

 2010年アメリカ映画。


 クリント・イーストウッド監督の最新作『J・エドガー』は今秋アメリカで公開、日本では年明けに封切られるそうだ。FBIの初代長官だったジョン・エドガー・フーヴァーを描いた伝記らしいが、話題の中心となっているのは、どうやらフーヴァー長官は同性愛者(クローゼット)だったらしく、側近のクライド・トルソンとの長年にわたる恋愛関係が映画の中でふれられていることである。(なんだかどこかの大国の大統領と首相の関係を思わせる)

 クリント・イーストウッド、ついに同性愛を撮る!
 
 そのことを知ったとき、「ああ、やっぱりな」と自分は思った。
 「やっぱり」というのは、クリント・イーストウッドが実はゲイだったとか、ゲイになったとか、作品を通して間接的にカミングアウト、とかというのではなくて、「この人、いつかは同性愛をテーマに撮るのではないか。」と以前から思っていたからだ。「それまで生きていられるかな?」とも。
 無事(?)間に合ったわけである。

 クリント・イーストウッドのイメージを一言で表すとしたら、十中八九の人は「男の中の男」と言うだろう。その作品は「男の映画である」と。
 マカロニウエスタンで人気に火がつき、ダーティーハリーで国際的スターになった俳優として、イーストウッドは映画の中でのイメージそのままに、アメリカを代表する男優として、その風貌においても言動においても「男の中の男」像を保ち続けてきた。グレゴリー・ペックやジェームズ・ステュアートのような理想の父親像とはまた違うが、チャールトン・ヘストンやハンフリー・ボガードに並んで古き良きアメリカの「男」を体現する一人と言える。
 監督として彼の描く世界もまた、男の小道具で満ちている。
 敵との戦い、勝利の苦味、敗残者の悲哀、プライド、見栄、野望、意地、連帯、暴力、アウトロー、一匹狼、車、タバコ、酒、拳銃、狩り、ボクシング、仕事への誇り、弱き女を守ること、共和党員・・・。
 西部劇の巨匠ジョン・フォードの正当な継承者と言えるだろう。あるいは、パパ、ヘミングウェイの。
 
 自分は、こういう世界が苦手だし関心もないので、もったいないとは分かっているが、ジョン・フォードはほとんど観ていない。日本でならさしずめ北野武だろか。映画史に残る映画作家であることは間違いないが、どうもあの暴力世界にはついていけない。
 日本とアメリカの理想の「男」像には、もちろん違いがある。
 日本の「男の中の男」というと、任侠の世界にその典型がもとめられてしまうのは不思議なことである。高倉健、菅原文太、本宮ひろ志の漫画を思い起こせば十分だ。ヒーローでも正義の味方でもなく、世間的には日陰者、社会的にはハミダシ者であることが「男」であるとしたら、やくざや暴力団や右翼にあこがれる若者がいてもおかしくはない。
 まあ、道を外さずに、マグロ漁船にでも乗ってほしいものである。この節、演歌歌手になるのも石原軍団に入るのももう難しいだろうから。


 閑話休題。

 ジョン・フォードや北野武はレンタルしてまで観ようとは思わない自分も、どういうわけかクリント・イーストウッドは気になって、すべての作品とは言わないが、時々思い出したように上映館に足を運んでしまう。
 一見、「男の映画」には違いないのだが、妙に文学的とでもいうのか、自らを相対化する深みのようなものが感じられて、惹かれるのである。
 最初に鼓動を感じたのは、『ホワイトハンター ブラックハート』(1990)だった。これは、先進国の白人の「男」(イーストウッドが演じている)と現地の黒人達との相対性の苦味を描いた傑作である。そのとき、このままいけば、「男」である自分自身をやがて相対化していくだろうという予感を持った。
 その予感は『マディソン郡の橋』(1995)で見事に裏切られて、しばらくクリント作品から遠ざかった。
 2003年『ミスティック・リバー』は衝撃的であった。主人公は3人の少年、それぞれの成長を描いた物語だが、うち一人は少年時代に男に誘拐されて、レイプされてしまうのである。
 女をレイプしても「男」でいられる。男をレイプしても「男」でいられる。しかし、男にレイプされたら、もはや「男」ではいられない。その瞬間から一切の男の小道具が彼の手からは奪われてしまう。アメリカのようなマッチョの社会にあっては、社会的な死の宣告に等しい。「男」の崩壊・・・。
 2004年『ミリオンダラー・ベイビー』では、イーストウッドはジェンダーの崩壊というテーマを自らに課した。成功した。
 2008年『チェンジリング』ではまた新たなチャレンジ。母性である。
 続く『グラン・トリノ』は、自身が主役を張って、タイトル通り男の小道具をめいっぱい用意して、一見「男の映画」に逆戻りしているように見えるのだが、登場人物のアジア系の少年~園芸や料理が好きで、気が弱くてやさしい~はおそらくゲイだろう。役中のクリントは、隣家に住むこの少年を「男」に鍛えようと懸命にコーチする。そこがゲイの男がヘテロのふりをしようと努力する映画『イン&アウト』(フランク・オズ監督)を想起させて笑えるところであるが、つまり、「男」というのはこうやって作り上げられていくものだという種明かしを、クリントは描き出しているのである。映画の最後では、ダーティーハリーを髣髴とさせるよう銃撃戦になるかと思えば、さすがにもはやそのリアリティのなさは自身許さなかったのだろう。「男」としてのプライドは保ちながら、捨て身の作戦に打って出る。(観ていない人のために結末は書かない) クリントが自分自身の演技としてできるのはこれが限度であろう。そこを超えたら、培ってきたすべてのイメージが壊れてしまう。
 ここまで来たら、あとはそのものずばり「同性愛」をテーマにするだろう。もちろん、自分でない男優を使って。そう思った。
 なぜなら、同性愛とは、「男」を相対化する装置にほかならないからだ。

 そして、『ヒアアフター』である。

 クリントの作品をどうしてもジェンダーの視点がらみで観てしまう自分にとって(これもジェンダーバイアスか)、この作品の一番の見所は、マット・デイモンが霊媒師を演じているところにある。むろん、ジェンダーがらみで見なくても、この作品は、他のイーストウッド作品同様、とても丁寧に作られていて、しみじみとした感動が広がる佳作である。
 マット・デイモンは、戦争映画で主役を演じるは、ボーンシリーズで不死身のヒーローを演じるは、まさに昔のクリント・イーストウッドになぞらえるような男優である。その意味で、ここでのマットをクリント自身とダブらせることが可能であろう。(実際は、俳優としての二人の資質はずいぶんと異なる。マットは、たとえばベン・アフレックやショーン・ペンにくらべると、「男」を不思議と感じさせない。だから、霊媒師役をやっても大きな違和感がないのだ。演じられる役柄がイーストウッドより断然広いのだ。クリントが霊媒師を演ったらコメディにしかならないだろう。)

 マットが演じる男ジョージは、才能ある霊媒師であり、イタリア料理を習い、毎晩寝る前に詩を聴き、イギリスの生家に見学に行くほどのチャールズ・ディケンズのファンで、朗読会に行けば感動にふるえる。
 どうだろう?
 霊媒師、料理を習う、詩を聴く、ディケンズのファン、朗読会。
 まったく、男の小道具にそぐわないラインナップ。クリントの映画の主役にまったくふさわしくない男である。
 ジョージは、霊媒師という職業に嫌気がさして廃業し、建設現場でヘルメット(男の小道具である)をかぶって働いているのだが、リストラされてしまう。残された道は、霊媒師としての自分を受け入れることだけだ。
 彼はそこで旅に出る。イギリスに。そう、アメリカというマッチョな国からいったん離れることなしには、「男」をおりられないのである。
 イギリスで、彼を追ってきた少年のため仕方なく霊媒したのをきっかけに、ジョージは自らのありのままの資質を受け入れる心の準備を始める。そして、自らの理解者~津波から生きのびた女性、死後の世界(Hereafter)を垣間見て、それを世間の偏見に屈せず伝えることを決意した女性~との運命的な出会いがあって、物語は終わる。
 「男」をおりたからといって、「ゲイ」になるわけでも、「女」になるわけでも、女性と関係がもてなくなるわけでもない。イーストウッドにとっては、その重い鎧を脱ぐのがとてつもなく難しかったのだと思う。高倉健の例を出すまでもないが、出演作によって作られてしまったイメージ(虚像)と、本当のありのままの姿(実像)とのギャップによって生じるプレッシャーは、一般人にははかりしれない。素顔のクリントは実はこのジョージに近いのではなかろうか。 


 男の子が成長するとは、一般に「男」になることであった。
 アメリカやラテン国家などのマッチョ社会では、そのプレッシャーはとても大きい。だから、UNAIDS(国連エイズ合同計画)は、男と性行為を持っていても自らを「ゲイ」と認めることをしない「男」達へのエイズ啓発のために、MSM(Men who have Sex with Men)という造語をわざわざ作ったのである。むろん、ゲイと名指されることは、一直線に「男」から転落することであるからだ。
 「男」をおりること、「男」でなくなることは、とてつもない恐怖を伴っているのだ。

 ほかに迷惑をかけないのなら、いくらでも「男ごっこ」をしていてくれればよいと思う。
 だが、長年プレッシャーにさらされた「男達」は、長じてその抑圧を他者に向けることで鬱憤をはらそうとする。「男」ではない者たちに。別のグループ(文化、組織、派閥、チーム)に属する「男達」に。
 とりわけ、もっとも強いプレッシャーに置かれるのは、「男」を演じざるを得ないクローゼットの同性愛者であろう。彼らが勤勉と忍耐のあげくに組織の頂点に立ち、権力を手にしたとき、どんな抑圧を周囲にもたらすことか。(ロシアの今後が恐ろしい・・・。あくまで勘に過ぎない。念のため。)

 男とは何か。男の成長とは何か。
 クリント・イーストウッドが生涯考え続け、描き続けてきたのは、つまるところ、そこなのだろう。

 そういった意味では、彼の映画はジェンダー映画なのである。 

 ここから先(Hereafter)、どこに行くのか。
 それは、次回作を観るまでなんとも言えない。
 これまでの流れから推測すると、同性愛を否定的に、批判的に描くような野暮はしないであろう。実際、クリント自身、「同性婚」を擁護する発言をしているらしい。共和党員であることを考えると、面白いひねりである。
 何より楽しみなのは、フーヴァー長官の役をレオナルド・ディカプリオが演じているということだ。ディカプリオにとっても、『太陽と月に背いて』以来のソドミーもの(笑)である。もはや美少年とも美青年とも言い難くなったレオ様。どんなラブシーンを見せてくれるのだろうか?


 一つ予言をする。
 これでレオ様は念願のオスカーを手に入れるだろう。

P.S. マット・デイモンの次作『リベラーチェ』もゲイカップルもので、ピアニスト役のマイケル・ダグラス(!)とのラブシーンがあるそうだ。アメリカの「男」は揺れてるな。



評価:B+

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
         「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
         「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 
         「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」
         「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」
         「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
         「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 
         「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
         「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」
         「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 
         チャップリンの作品たち   


C+ ・・・・・ 退屈しのぎにはちょうどよい。レンタルで十分。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
         「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 「ロッキー・シリーズ」

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。 「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
         「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。もう二度とこの監督にはつかまらない。金返せ~!!




 

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