2011年筑摩書房刊行。
2016年ちくま文庫。
宮崎哲弥との対談『知的唯仏論』が面白かったので、読みたいとは思いつつも後回しになっていた本書を手にした。
呉智英を読むのははじめてだが、まず名前を何と読むのか。
ご・ちえい?
くれ・ちえい?
くれ・ともひで?
正解は、くれ・ともふさ、であった。
「英」はたしかに一字で「はなぶさ」と読む。
呉の専門分野である漫画の『エースをねらえ!』に英玲(はなぶされい)という名の女子高生が出てくる。主人公岡ひろみに憧れ、「お蝶夫人2世」と呼ばれるテニスプレイヤーである。
調べてみると、「英」の意味は「実のならない花」のことだそうだ。山吹みたいなものか。
呉の専門分野である漫画の『エースをねらえ!』に英玲(はなぶされい)という名の女子高生が出てくる。主人公岡ひろみに憧れ、「お蝶夫人2世」と呼ばれるテニスプレイヤーである。
調べてみると、「英」の意味は「実のならない花」のことだそうだ。山吹みたいなものか。
本名は新崎智(しんざきさとし)。
別に正解を知りたいわけではないが、このペーンネーム、「英智くれ」を逆さに読んだものなのか?
別に正解を知りたいわけではないが、このペーンネーム、「英智くれ」を逆さに読んだものなのか?
私は仏教を信仰していない。ただ。釈迦は人類史上最古最高の思想家の一人であり、宗教者としても極めて優れた人物であると思う。このような人物がいたことはやはり一つの奇跡であり、釈迦に畏敬の念を抱く。それは、過去の仏教者が神格化して崇める釈迦ではなく、現代の研究者たちが人間的に描く釈迦とも違って、親や妻子を平然と捨てる釈迦であり、若者たちをかどわかす危険人物として町の人たちに罵られた釈迦である。
仏教とは何か。・・・・・・・・・そもそも、釈迦が覚りを開き、それを説いた宗教が仏教である、ということだ。それ以外に仏教があり得るはずがない。後世少しずつ新しい解釈が加えられたとしても、基本は釈迦が説いた教えが仏教である。その釈迦こそが唯一の仏(仏陀、覚者、如来)である。
著者の釈迦および仏教に対する基本的なスタンスは上の通り。
この本は、僧でも仏教徒でもない、学者や研究者でもない、宗教者でも哲学者でもない、一人の博学評論家が、「仏教書を蛮勇を振るって好きなように読み、仏教書以外の歴史書や哲学書を、これも気ままに読み、そこで知りえたことをつぎはぎして」、仏教の核心すなわち仏教の本質とは何かを、仏教素人にもわかりやすいように説いた本である。
その意味では、別記事で紹介した魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』やワールポラ・ラーフラ師『ブッダが説いたこと』に准ずるものである。すでに両傑作を読み、普段スマナサーラ長老やマハーカルナー禅師の法話を聞いて原始仏教を学んでいるソルティにとっては、特段目新しい言説はなかった。
ただ、上記2書よりも雑学的で面白い読み物となっているのは確か。普段仏教的なこと・宗教的なことの外野で生活している人にとっては、とっつきやすいであろう。評判が良くて版を重ねたというのも頷ける。
著者は「仏教を信仰していない」と言いながらも、日本の仏教界の現状については大いに憂えており、喝を入れている。
本来極めて知的な宗教であったはずの仏教が最も怠惰で愚かな因習と化している。これでは仏教が衰退するのも当然だろう。仏教は釈迦の原点に還るべきである。これは各宗派にとって大手術になるが、それでもここで大手術をしないと仏教の死となり、宗派も壊滅する。
第三者的立場にいる者ならではの、歯に衣着せぬ思い切った発言である。
ここで著者は「釈迦の原点に還って、日本の伝統的な大乗仏教を捨てて小乗仏教に就くべし」と言っているのではない。そもそもの仏教つまり覚りを開いた釈迦のスタンスは、小乗でなく大乗でもない、あるいは小乗でもあり大乗でもある、と説いている。
小乗はむしろ釈迦の本心である。そして、大乗はその中核となる慈悲を選び取った釈迦の決断である。このことが理解できていれば、小乗と大乗はそれぞれの道を協同しながら歩むことができる。
小乗=釈迦の本心、大乗=釈迦の決断。
この定義の背景に、原始仏教経典の中の「梵天勧請」のエピソードを挙げているところが興味深い。菩提樹の下で覚ったばかりの釈迦の心模様を表現したものである。
このように、稀有でいまだかつてない偈が世尊の心に現われました。「非常に苦労して私が獲得したものであるが、いま、どうして説いたらいいだろうか。 貧・瞋に悩む人々はこの仏法を理解することは簡単ではない。この教えは世の考え方とは違う、繊細なもので深遠で難しく、微妙なものであるので、欲にまみれた人々は、理解することができない。」このように考えた世尊は、黙っていようと思い、説法をしようとは思いませんでした。そのような時、梵天は世尊が考えたことを知って、お考えになりました。「ああ、世界は崩壊してしまうだろう、如来・應供・正等覚である世尊は、黙っていようと思って、説法をしたいとは思わない。」(大正新脩大蔵経刊行会「南伝大蔵経」より抜粋)
自分一人だけが覚ったまま安穏と幸福のうちに生きたい(死にたい)と思っていたお釈迦様の心を知って、世界の王である梵天が世界崩壊の危機を感じて姿を現し、衆生に説法するようにお釈迦様に言葉を尽くして懇願し、お釈迦様は衆生に憐れみを感じて法を説くことを決心する。仏典の中でもっとも感動的なシーンと言っても過言でないだろう。
呉は、この梵天勧請こそが、釈迦の「本心(小乗)」と「決断(大乗)」の両者を包含する神話表現であると述べている。傾聴すべき説である。
と同時に、このエピソードが示すのは仏教の二つの中心的要素――智慧と慈悲――の誕生であると思う。
と同時に、このエピソードが示すのは仏教の二つの中心的要素――智慧と慈悲――の誕生であると思う。
ところで――。
この梵天勧請のエピソードについて、ソルティには一つ疑問がある。
それは梵天の言葉である。
お釈迦様が法を説かないでいようと思ったのを知って、梵天は「世界が崩壊する」と焦る。
しかし――である。
お釈迦様が法(=真理)を説かなければ、衆生は無明のままに取り残され、輪廻転生(=六道廻り)を繰り返し、かえって「世界は続く」はずである。たとえ無明の果てに人類が核戦争で地球を消滅させたとしても、生命は人間界・畜生道以外のところに転生し、ふたたび地球のような星が誕生するまで、そこで輪廻転生し続ける。つまり「世界は続く」。
お釈迦様が法を説くことで、真理を覚った衆生は解脱できる。六道を廻る輪廻転生から抜けられる。気の遠くなるような時間の果てに、六道にいたすべての衆生(神界にいる神々も含む)が解脱したら、この世から生命はいなくなる。つまり、「世界は終わる」。
論理的に考えれば、世界の崩壊を避けたい梵天にとって、お釈迦様が法を説かないほうが都合が良いはずである。
この矛盾を解きほぐしてくれる文章にあったことがない。
まあ、神話表現と思えばどうでもよいのだけれど・・・。