ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

呉智英

●  世界は続くよ、どこまでも 本:『つぎはぎ仏教入門』(呉智英著)

2011年筑摩書房刊行。
2016年ちくま文庫。

 宮崎哲弥との対談『知的唯仏論』が面白かったので、読みたいとは思いつつも後回しになっていた本書を手にした。
 呉智英を読むのははじめてだが、まず名前を何と読むのか。
 ご・ちえい?
 くれ・ちえい?
 くれ・ともひで?
 
 正解は、くれ・ともふさ、であった。
 
 「英」はたしかに一字で「はなぶさ」と読む。
 呉の専門分野である漫画の『エースをねらえ!』に英玲(はなぶされい)という名の女子高生が出てくる。主人公岡ひろみに憧れ、「お蝶夫人2世」と呼ばれるテニスプレイヤーである。
 調べてみると、「英」の意味は「実のならない花」のことだそうだ。山吹みたいなものか。
 本名は新崎智(しんざきさとし)。
 別に正解を知りたいわけではないが、このペーンネーム、「英智くれ」を逆さに読んだものなのか?
 
私は仏教を信仰していない。ただ。釈迦は人類史上最古最高の思想家の一人であり、宗教者としても極めて優れた人物であると思う。このような人物がいたことはやはり一つの奇跡であり、釈迦に畏敬の念を抱く。それは、過去の仏教者が神格化して崇める釈迦ではなく、現代の研究者たちが人間的に描く釈迦とも違って、親や妻子を平然と捨てる釈迦であり、若者たちをかどわかす危険人物として町の人たちに罵られた釈迦である。

 仏教とは何か。・・・・・・・・・
 そもそも、釈迦が覚りを開き、それを説いた宗教が仏教である、ということだ。それ以外に仏教があり得るはずがない。後世少しずつ新しい解釈が加えられたとしても、基本は釈迦が説いた教えが仏教である。その釈迦こそが唯一の仏(仏陀、覚者、如来)である。

 著者の釈迦および仏教に対する基本的なスタンスは上の通り。
 この本は、僧でも仏教徒でもない、学者や研究者でもない、宗教者でも哲学者でもない、一人の博学評論家が、「仏教書を蛮勇を振るって好きなように読み、仏教書以外の歴史書や哲学書を、これも気ままに読み、そこで知りえたことをつぎはぎして」、仏教の核心すなわち仏教の本質とは何かを、仏教素人にもわかりやすいように説いた本である。
 その意味では、別記事で紹介した魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』やワールポラ・ラーフラ師『ブッダが説いたこと』に准ずるものである。すでに両傑作を読み、普段スマナサーラ長老やマハーカルナー禅師の法話を聞いて原始仏教を学んでいるソルティにとっては、特段目新しい言説はなかった。
 ただ、上記2書よりも雑学的で面白い読み物となっているのは確か。普段仏教的なこと・宗教的なことの外野で生活している人にとっては、とっつきやすいであろう。評判が良くて版を重ねたというのも頷ける。
 
 著者は「仏教を信仰していない」と言いながらも、日本の仏教界の現状については大いに憂えており、喝を入れている。

 本来極めて知的な宗教であったはずの仏教が最も怠惰で愚かな因習と化している。これでは仏教が衰退するのも当然だろう。
 仏教は釈迦の原点に還るべきである。これは各宗派にとって大手術になるが、それでもここで大手術をしないと仏教の死となり、宗派も壊滅する。

 第三者的立場にいる者ならではの、歯に衣着せぬ思い切った発言である。
 ここで著者は「釈迦の原点に還って、日本の伝統的な大乗仏教を捨てて小乗仏教に就くべし」と言っているのではない。そもそもの仏教つまり覚りを開いた釈迦のスタンスは、小乗でなく大乗でもない、あるいは小乗でもあり大乗でもある、と説いている。

小乗はむしろ釈迦の本心である。そして、大乗はその中核となる慈悲を選び取った釈迦の決断である。このことが理解できていれば、小乗と大乗はそれぞれの道を協同しながら歩むことができる。

 小乗=釈迦の本心、大乗=釈迦の決断。
 この定義の背景に、原始仏教経典の中の「梵天勧請」のエピソードを挙げているところが興味深い。菩提樹の下で覚ったばかりの釈迦の心模様を表現したものである。
 
 このように、稀有でいまだかつてない偈が世尊の心に現われました。
「非常に苦労して私が獲得したものであるが、いま、どうして説いたらいいだろうか。 貧・瞋に悩む人々はこの仏法を理解することは簡単ではない。この教えは世の考え方とは違う、繊細なもので深遠で難しく、微妙なものであるので、欲にまみれた人々は、理解することができない。」
 このように考えた世尊は、黙っていようと思い、説法をしようとは思いませんでした。
 そのような時、梵天は世尊が考えたことを知って、お考えになりました。
「ああ、世界は崩壊してしまうだろう、如来・應供・正等覚である世尊は、黙っていようと思って、説法をしたいとは思わない。」(大正新脩大蔵経刊行会「南伝大蔵経」より抜粋)

 自分一人だけが覚ったまま安穏と幸福のうちに生きたい(死にたい)と思っていたお釈迦様の心を知って、世界の王である梵天が世界崩壊の危機を感じて姿を現し、衆生に説法するようにお釈迦様に言葉を尽くして懇願し、お釈迦様は衆生に憐れみを感じて法を説くことを決心する。仏典の中でもっとも感動的なシーンと言っても過言でないだろう。
 呉は、この梵天勧請こそが、釈迦の「本心(小乗)」と「決断(大乗)」の両者を包含する神話表現であると述べている。傾聴すべき説である。
 と同時に、このエピソードが示すのは仏教の二つの中心的要素――智慧と慈悲――の誕生であると思う。
 

 ところで――。
 この梵天勧請のエピソードについて、ソルティには一つ疑問がある。
 それは梵天の言葉である。
 お釈迦様が法を説かないでいようと思ったのを知って、梵天は「世界が崩壊する」と焦る。
 しかし――である。
 お釈迦様が法(=真理)を説かなければ、衆生は無明のままに取り残され、輪廻転生(=六道廻り)を繰り返し、かえって「世界は続く」はずである。たとえ無明の果てに人類が核戦争で地球を消滅させたとしても、生命は人間界・畜生道以外のところに転生し、ふたたび地球のような星が誕生するまで、そこで輪廻転生し続ける。つまり「世界は続く」。
 お釈迦様が法を説くことで、真理を覚った衆生は解脱できる。六道を廻る輪廻転生から抜けられる。気の遠くなるような時間の果てに、六道にいたすべての衆生(神界にいる神々も含む)が解脱したら、この世から生命はいなくなる。つまり、「世界は終わる」。
 論理的に考えれば、世界の崩壊を避けたい梵天にとって、お釈迦様が法を説かないほうが都合が良いはずである。
 
 この矛盾を解きほぐしてくれる文章にあったことがない。
 まあ、神話表現と思えばどうでもよいのだけれど・・・。




● 非凡なエゴイスト 本:『知的唯仏論』(対談:宮崎哲弥&呉智英)

2012年サンガ初出。
2016年新潮文庫発行。

 仏教に詳しい、かつ仏教への高い評価を有する二人の論客による対談。
 対談ならではのトピックの自在さ、言葉の平易さ、両者の関係性の綾、垣間見られる素の表情が感じられ、面白くて読みやすい。
 一方、対談とは言うものの、途中から圧倒的に宮崎のセリフが多くなって、おのずと仏教に関する専門用語が多くなる。中観派の仏教徒を自認する宮崎の独壇場となり、呉は話の聞き手、引き出し役に回っている。もうちょっと呉の話が聞きたかった。

対談中、私は宮崎君から学ぶことばかりであった。私は素人として、読者代表として、宮崎君と格闘した。いや、二人で笑いあいながら、仏教思想の沃野ではしゃぎ合い、じゃれ合った、と言ったほうが正確かもしれない。(呉による「まえがき」より)

 まあ、呉の仏教観は著書『つぎはぎ仏教入門』に書かれているようだから、読んでみよう。
 そう。この対談を読んで一番「トクした」と思ったのは、次に読みたい本や漫画がいくつか見つかったことである。二人の話の中で取り上げられて、いかにも面白そうなのである。
  • 漫画 たかもちげん『祝福王』
  • 漫画 井浦秀夫『少年の国』
  • 小説 高村薫『太陽を曳く馬』
  • 評論 丘山万里子『ブッダはなぜ女嫌いになったのか』
  • 評論 D.H.ローレンス『現代人は愛しうるか』
  • 評論 呉智英『つぎはぎ仏教入門』
  • 経典 『サンユッタ・ニカーヤ』
 ま、すべてはシャフクの試験(1/29)が終わってからだ。

 宮崎の言葉から宮崎の仏教観――というより「そもそも釈迦の教えとはどんなものなのか」が伺える。
 つまり、日本に伝来する以前の、インドから中国にわたる以前の、大乗と小乗に分裂する以前の、初期の仏教のありのままの姿。呉はそれを「プロト仏教」と呼んでいる。本書(新潮社版)の解説を『仏教思想のゼロポイント』で仏教研究者として一躍名を高めたニー仏こと魚川祐司が引き受けているのもそれゆえであろう。

 以下、宮崎の言葉より抜粋。

 言葉の限界というのは、同時に論理の限界、世界の限界でもありますから、言葉や理性を携えたまま、世界に内蔵したままで、自ずと超えてしまう。そこから世界や言語や論理に内側から穴を開け、外に出してしまい、果ては内と外の分別すらも滅却してしまう。そんな思考技術、心身技法を開発した仏教は、宗教としてもやはり特異なものですね。

 法を求めることは、近親者への情愛に優る。何となれば「子供や配偶者の存在は自分を根源的な苦悩から解放してはくれないから」というわけ。これが仏教の基本的思想ですね。まさしく「非凡なエゴイスト」の教えに相応しい言葉だし、夫や子供の存在が自己確立や自己解放に繋がるわけじゃないとする現今のフェミニズムの主張にも通じるものがありますよね。

 ここではすでに仏教教理の二つの特徴が表れていると解せます。悟りの境地とそこに向かう教えは第一に、私達の日常生活における実感と反するものであること。第二に、下手に教えを広めると却って世間を害する虞(おそれ)があること。

 仏教の慈悲の意味は、人間の実存に根ざした、生老病死に纏わる根源的苦を取り去ることです。社会がどうあろうが、たとえば完全無欠の理想社会が訪れようが、そこでも解明できない「この私」の苦しみこそが仏教本来の救済対象なのです。

 上の「非凡なエゴイスト」という言い方に、仏教徒は――少なくとも初期仏教を拠り所とする仏教徒は「なんて酷薄でジコチュウな奴らだ」と思う向きもあるかもしれない。
 しかし、それは勘違いであろう。
 世の中にはおおむね二通りの人間しかいない。
 「非凡なエゴイスト」と「凡なエゴイスト」と――。


 サードゥ、サードゥ、サードゥ


 
 


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