ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

和田一樹

● ポストモダンなマーラー : 西東京フィルハーモニーオーケストラ第25回定期演奏会(指揮:和田一樹)

西東京フィル


日時 2018年7月22日(日)14:00開演
会場 西東京市保谷こもれびホール
演目

  • チャイコフスキー/ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品35
  • マーラー/交響曲 第5番 嬰ハ短調
指揮  和田 一樹
ヴァイオリン独奏:﨑谷 直人(神奈川フィルハーモニー管弦楽団・ソロコンサートマスター)


 猛暑の中、外出する気力を呼び起こす演奏会などそうそうあるものじゃない。たとえ、それがチャイコのヴァイオリン協奏曲とマーラー5番という大好きなカップリングであるとしても・・・。
 指揮者和田一樹にはその気力を呼び起こすだけの引力がある。


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西武池袋線・保谷(ほうや)駅


 保谷駅にははじめて降りた。急行の停まらないマイナーな私鉄沿線駅らしい庶民的雰囲気である。会場のこもれびホールまで徒歩15分。もちろん歩いて行くなど話にならない。保谷庁舎行きのバスに乗った。
 662席のメインホールはほぼ満席だった。


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こもれびホール

西東京フィルハーモニーオーケストラは、管弦楽合奏を通じて音楽に親しむこと、そして、地域の音楽文化に貢献することを目的として1998年6月に生まれました。発足当時は保谷フィルハーモニーオーケストラという名称でしたが、2001年の田無市と保谷市の合併により市の名前が西東京市になったことで、現在の名称に改称しました。(西東京フィルハーモニーオーケストラのホームページより抜粋)


 チャイコのヴァイオリン協奏曲は、独奏の崎谷直人の圧倒的技巧に引き込まれた。背もスラっと高くてカッコいい。あれを目の前でやられて落ちない女性がいるだろうか。
 男っぽい厚みのある音色で、一本造(いちぼくづくり)の彫刻家のように、全体をザクッザクッと大胆に直感的冴えをもってノミで削り、細かいところを繊細な気配りをもって小刀で削るといった印象であった。
 和田は協奏曲もうまい。第1、第2楽章でソリストを引き立てて思う存分遊ばせながら、第3楽章で見事にオケとの対話を演出、最終的に和田一樹ならではのチャイコに仕立てていくあたり、やはり並みの才能ではない。

 和田のマーラーは2度目である。前回の演奏はやや不発で、和田の狙っているところがうまく表現できなかったような中途半端な印象をもった。
 今回は西東京フィルの安定した力強い演奏とソロパートの上手さを伴侶に得て、どうやら「和田のマーラー」の何たるかが見えてきた。
 
 これまでにソルティが数多く聴いてきた5番と「どこか違う」という印象は、第1楽章からずっと感じていた。だが、いったいそれが何なのか言葉にできなかった。分析できない、言葉にできない音楽素人のもどかしさよ。
 ただ、《葬列のように》という指示がついている第1楽章は全然《葬式》を連想させず、《嵐のように激しい》はずの第2楽章は意外に「あっさり」していて、ソロパートの多い第3楽章では「遊び心」をふんだんに感じ、『ベニスに死す』のラストシーンを想起せずに聴くことはもはや困難な第4楽章では指揮者の目線は「彼岸」より「此岸」を向いているように感じた。そして、完全に自己肯定的で喜悦にあふれた第5楽章の祝典ノリ。 
「これはマーラーか?」
「これは5番か?」
と思わず胸の中で呟いた。

 マーラーと言うと「近代的自己の申し子」みたいなイメージがある。
 神が死んだ世界に独りぼっちで投げ出され、孤独と憂愁と自己否定と、それでもなお絶えて止まぬ独立心と自己拡張と自由への希求と、その狭間で生じる他者との関係性という煉獄、永遠に先送りされる愛の成就。マーラーの音楽は、こういった近代的テーマに換言されよう。むろん、本邦の夏目漱石や三島由紀夫同様、時代精神を背負う(あるいは先取る)からこその天才なのである。
 多くの指揮者は、こうした近代的テーマの顕現をいかに深くマーラーの楽譜の中に読み取るか、同じ近代に生きる人間としていかに切迫に自分事としてそれを理解し、いかに巧みに音として再現・表現していくか、に身を砕く。聴衆もまた、己の中に知らず持たされている近代的テーマを、マーラーの音楽を聴くことを通して浮上させ、発見し、確認し、共感するのである。
 ここでは、「創るマーラー✕表現する演奏家✕受け取る聴衆」の近代的テーマをめぐる三位一体は完璧であった。ソルティもその枠組みの中でマーラーを聴いてきた。何と言っても、ソルティもまた近代的価値観の中で生まれ育ち、それをずっと内面化し続けてきた人間だからである。マーラーの5番に「物語」を読みたくなってしまうのはそのせいである。

 だが、日本社会はすでにポストモダン(脱近代)に入っているのやもしれない。上にあげたような近代的テーマを愚直に内面化することから免れた若い世代が、日本社会に続々登場しているのかもしれない。

ポストモダンとは・・・

 現代という時代を、近代が終わった「後」の時代として特徴づけようとする言葉。各人がそれぞれの趣味を生き、人々に共通する大きな価値観が消失してしまった現代的状況を指す。現代フランスの哲学者リオタールが著書のなかで用いて、広く知られるようになった。リオタールによれば、近代においては「人間性と社会とは、理性と学問によって、真理と正義へ向かって進歩していく」「自由がますます広がり、人々は解放されていく」といった「歴史の大きな物語」が信じられていたが、情報が世界規模で流通し人々の価値観も多様化した現在、そのような一方向への歴史の進歩を信ずる者はいなくなった、とされる(『ポスト・モダンの条件』1979年)。
出典:朝日新聞出版発行「知恵蔵」


 和田のマーラー5番を聴いて、「どこかこれまでのマーラーと違う」と感じたのは、この脱近代性ゆえである。その演奏は、「苦悩する近代人マーラー」という物語を次々と裏切っていくのである。痛快なまでに!
 和田の年齢は知らないが、おそらくポストモダンなキャラの主なのではあるまいか。

 ポストモダンなマーラー。
 それすなわち「脱マーラー」でもあるのだけれど、マーラーだっていつまでも「苦悩するボヘミアン」の役柄ばかり押し付けられたくないにちがいない。
 「近代的」解釈を払拭されてもなお、マーラーの音楽は素晴らしい。
 和田一樹はそこを教えてくれたのである。

 すっかり気力充填して、帰りは駅まで歩いた。やっぱ暑かった
 途中でかりんとうの美味しそうな店があったので、つい寄った。
 (究極のポストモダン――それは大阪のおばちゃんノリである)


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かりんとう
いろいろな味が楽しめる小袋
なんと土日セールで100円ぽっきり!





● 夏バテ、あるいはヴィーナスベルクの欠乏 リベラル・アンサンブル・オーケストラ第6回演奏会

日時 2017年8月27日(日)14:00~
会場 ティアラこうとう大ホール
曲目
 R. ワーグナー/歌劇『タンホイザー』序曲
 J. ブラームス/ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲 イ短調
 A. ドヴォルザーク/交響曲第8番 ト長調
指揮 和田 一樹
ヴァイオリン独奏 崎谷 直人
チェロ独奏 門脇 大樹


 常連となりつつあるLiberal Ensemble Orchestra(LEO)の演奏会。今回は和田一樹の『タンホイザー』序曲が一等の楽しみだった。聖と性、信仰(巡礼)と快楽(ヴィーナスの丘)の狭間を彷徨う男の心象風景をどうメリハリつけて見せてくれるか、クライマックスのひたひた押し寄せる感動のうねりをどう焦らしながら盛り上げてくれるか。
 若い人はピンと来ないだろうが、この曲を聴くとジャンボジェットの離陸風景が思い浮かぶのである。逆に、羽田や成田に行って離陸滑走する飛行機を見ると、いまだに『タンホイザー』序曲が頭の中で鳴り出す。あの映像はインパクトあった。90年代の佐川急便のCMだったか。

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 残念なことに、夏バテで家を出るのが遅れ、開演時刻に間に合わなかった。聴けたのは2曲目から。


 ブラームスとドヴォルザークを続けて聴くと、ほぼ同じ時期に活躍した両作曲家の違いが明瞭となって面白い。
 二人は親交があり、8歳年上のブラームスが後輩のドヴォルザークを可愛がり、なにくれとなく支援したと言う。お互いに良きライバルとしても刺激し合い、ブラームスがハンガリー舞曲を書き、ドヴォルザークはスラブ舞曲を書いた。ドヴォルザークのチェロ協奏曲を聴いたブラームスは、「こんなに凄い曲が書けるのか。自分も書けばよかったが、もう遅い」と言ったそうな。(旬報社『小林研一郎とオーケストラへ行こう』参照)
 ブラームスは、管弦楽の様々な手法を駆使した複雑で緻密な曲の構成や完成度の高さでロマン派の中でも群を抜いていよう。玄人好みと言われるゆえんだ。が、ことメロディー作りに関しては苦労したようだ。一方、ドヴォルザークはチャイコフスキーに次ぐと言っていいくらいの才能あふれるメロディーメイカー。その上に管弦楽手法も見事。スラブ的というためでもあろうが、「こじらせていないマーラー」という印象がある。
 どっちが良いかは好みの問題なのだろう。ブラームスは楷書的、ドヴォルザークは草書的。あるいはブラームスは‘森鴎外風’、ドヴォルザークは‘夏目漱石風’という感じがする。(文体的にという意味で。人柄では逆かもしれない。なんとなく鴎外はドヴォルザーク同様‘鉄っちゃん’のような気がする)
 
 和田一樹&LEOの演奏は、上手くてよくまとまっていた。もはや安定感のある上手さ。
 二人の独奏者は実に息が合っていて、目をつぶって聴いていると、ヴァイオリンとチェロの音色の違いさえなければ、一人の独奏者による演奏と勘違いしかねないほどの一体感があった。
 
 夏バテしてなければ、もっと乗れたのに。
 ヴィーナスベルクが足りてないせい?



 
 

● アジアン幻想 :豊島区管弦楽団第85回定期演奏会

豊島区オケ

日時 2017年5月6日(土)18:00~
会場 なかのZERO大ホール
曲目
  • マルコム・アーノルド/序曲『ピータールー』
  • ベンジャミン・ブリテン/青少年のための管弦楽入門
  • エリック・コーツ/組曲『ロンドン』
  • レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ/交響曲第2番『ロンドン交響曲』
アンコール
  • ジョージ・バターワース/『緑のしだれ柳の岸辺』
指揮:和田 一樹

 和田一樹は2014年より豊島区管弦楽団の常任指揮者をしている。ほかにもリバティベルオーケストラとアルテ合奏団というオケの常任指揮をしているが、一番長い伝統を持ち(1995年設立)・一番規模が大きく(団員約90名)・一番高い技量を誇るのは豊島区管弦楽団である。ここが和田の現時点のホームベース的オケと言っていいであろう。常任指揮というのがどういうものかよく知らないが、おそらく日常の練習にも付き合っているだろうし、プログラムの選定も和田の意向が強く反映されていることであろう。
 その意味で、今回の演奏は指揮者・和田一樹の本領を知るのにもってこいと思った。

 そのプログラムであるが、ソルティがはじめて聴くものばかり。というかブリテン以外の作曲家を知らなかった。なんともマイナーなラインナップであるが共通項がある。すべて20世紀に活躍したイギリスの作曲家なのだ。
 前世はイギリス人?と思うほどイギリス好きのソルティ。きっと楽しめるだろう。

 マルコム・アーノルド(1921-2006)は、ロンドン・フィルのトランペット奏者としても活躍したそうだ。なんと、映画『戦場にかける橋』で第30回アカデミー賞作曲賞を受賞している。あの「サル・ゴリラ・チンパンジー♪」の替え歌で知られるケネス・アルフォードの行進曲『ボギー大佐』を編曲して、『クワイ河マーチ』として世に広めたのがアーノルドなのだ。
 ピータールーとは、1819年マンチェスターで参政権を求める政治集会中の民衆に政府の騎兵隊が突入、死者15名・負傷者400~700名を出した歴史上の事件である。集会が開かれていたセント・ピーター広場の名をとって「ピータールーの虐殺」と呼ばれている。
 音楽は、事件の始まりから終わりまでを音によって写実的・叙景的に描き出している。騎兵隊の登場や暴動が頂点に達した瞬間などが、目に見えるように分かる。迫力満点で、ドラマチックで、(不謹慎だが)面白い。
 和田一樹、やっぱり‘出だしから調子いい’。
 豊島区管弦楽団の技量はかなりのもの。アマオケのトップレベルと言っていいんじゃなかろうか。 

 ブリテン(1913-1976)の『青少年のための管弦楽入門』は、タイトルどおり、管弦楽にはじめて接する人やソルティのように楽器の音の判別が容易につかない者にとって、とても有難い学習曲である。一つの主題を木管・金管・弦楽・打楽器の順で演奏し、次に各パート独奏で主題の変奏とフーガが提示される。オーケストラを構成する各楽器の音色や特徴や効果を楽しみながら学ぶことができる。
 聴く者も楽しいし、おそらくは演奏する者もそれぞれのパート毎に目立つ部分があるので、ふだんは全体の中に埋没してしまう各々の技量を聴衆――とくにパパやママの晴れ姿を見に来た息子や娘たち――に誇示することができる。やり甲斐あることだろう。(こういったプログラムを選ぶあたりに和田の器量があらわれているのかもしれない。)

 エリック・コーツ(1886-1957)は軽音楽の作曲家として成功をおさめた。
 組曲『ロンドン』もBBCラジオのプログラムのテーマ曲として使用されたことから分かるように、とても耳に馴染むムードあふれる曲。夕食後のひととき、バスローブ姿で窓の外の夜景を見下ろしながらブランデー片手に聴くのにあつらえ向きである――って岡田真澄か!
 第1楽章「コベントガーデン」(オペラ座がある)、第2楽章「ウエストミンスター」(皇室の結婚式や葬儀が行われる寺院がある)、第3楽章「ナイツブリッジ」(ハロッズなどの高級品店がある)と題され、ロンドンの名所が謳われている。ソルティも十数年前に訪ねたロンドンの風物や雑踏、多様性に富む市民たち(ロンドン中心部の7割の住民が移民系)を懐かしく思い出した。
 趣きの異なる3つの楽章を通じてこの曲の底に響いているのは、テムズ河の流れであろう。テムズこそロンドンの大動脈である。

 さて、本日のメインである『ロンドン交響曲』。
 いかにもロンドンらしい風光が上記コーツの曲以上に徹頭徹尾描かれているのかと思いきや、なんとまあこれがメッチャ日本的なのである。タイトルに偽りありだ。
 もっとも、ヴォーン・ウィリアムズ(1872-1958)はこの曲を絶対音楽として作曲したそうで、直接的にロンドンの風景を描いたものではないとのこと。ならば、このタイトルは損をしていると思う。少なくとも現在では。
 あえてタイトルを付けるのなら『アジアン幻想』とでもしたい。そのくらい東洋風、アジア的、和風なのである。おそらく日本人の7割はこの曲を聴けば「日本的」と感じるだろうし、「好き」と答えるだろう。
 第1・2楽章はそれでもまだ中国と日本との間をさまよっている。坂本龍一作曲『ラストエンペラー』のテーマや、プッチーニの『トゥーランドット』と『蝶々夫人』、ホウ・シャオ・シェン監督『非情城市』のテーマあたりが次から次へと想起されてくる。かと思えば、王朝の雅楽のごとき古風な調べが耳朶を震わせる。中国と日本との区別のつかない大方の西洋人の描く‘日本’といった感じである。
 それが進むにつれ徐々に純日本風に傾いてきて、第3楽章は遊郭のお堀の「柳」が目に浮かぶような美しく哀しいメロディー。どこか懐かしくもある。第4楽章はまんま「桜」。京の都の艶やかな桜、吉野の山のごうごうたる桜吹雪、千鳥ヶ淵の無常なる桜、せわしなく川面に散る隅田川の桜、上野の森の賑やかな桜・・・・。日本各地の桜名所と、桜に対する日本人の想念を描き出したよう。
 こんなに幻想的で美しい、日本人好みの交響曲があったとは!
 ウイリアムズの前世はきっと日本人であろう。  
 もっともっとこの曲が上演されていけば、間違いなく日本人の好きな交響曲の上位に入ってくることだろう。和田がそのあたりを意識して指揮したのかどうかわからないが、曲の魅力を十二分に引き出す名演だったのは間違いない。ぜひもう一度聴きたい。
 それにしても、はたしてイギリス人(ロンドンっ子)はこの曲を聴いて「ロンドン、ロンドン、ロンドン!」と思うのだろうか?(このギャクが分かる人はかなり×××)
 
和田一樹&豊島001

 アンコールの『緑のしだれ柳の岸辺』。
 最初主題が流れたとき、宝塚のテーマ曲『すみれの花咲く頃』(原曲はフランツ・デーレ作曲『再び白いライラックが咲いたら』)と思った。たぶん会場の9割はそう思ったに違いない。

 和田一樹&豊島区管弦楽団。
 クラシックファンなら是が非でも聴いておきたい、いま最もホットなアマオケである。




 

● 演歌的 :くにたち市民オーケストラ第39回ファミリーコンサート

くにたち市民オケ 002


日時 2017年4月23日(日)14:00~
会場 一橋大学・兼松講堂
曲目
  • ウェーバー/歌劇《魔弾の射手》序曲
  • チャイコフスキー/バレエ《白鳥の湖》組曲 作品20
  • ドヴォルザーク/交響曲第9番 ホ短調 作品95《新世界より》
  • アンコール1 モーツァルト/交響曲40番 ト単調 第一楽章
  • アンコール2 ヨハン・シュトラウス1世/ラデツキー行進曲
指揮 和田一樹

 開演1時間前に国立にある一橋大学に着くと、兼松講堂脇にすでに行列ができていた。
 並んで待つのは好きじゃないが、天気はすこぶる良いし、青葉きらめくキャンパスは気持ちいいし、集中できる本も手元にあったので、最後尾についた。
 開場時には、列は林の中でとぐろを巻く蛇のようにうねっていた。
 メジャー曲ばかり集めたこのラインナップで自由席無料とくれば行列もいたしかたないと思うけれど、実際には1000名の定員に届くことなく、早く来る必要も並ぶ必要もなかった。そんなもんだ。
 ファミリーコンサートと銘打ってあるせいか子供連れが多い。開演前から、客席のあちこちから赤子の泣く声や幼児のはしゃぐ声が上がっていた。「小さい時から良い音楽に触れさせるのは発達上よろしい」という俗信がはびこっているためか。外の芝の上で親子スキンシップしているほうがずっと子供の将来のためになると思うが・・・。
 案の定、登場した和田一樹が指揮台に登り客席に背を向け場内が静まった瞬間、あちこちから幼児の声が響いた。両腕を挙げたまま固まる指揮者。そそくさと客席から我が子を連れ去る親たち。面白い光景とは思ったが、やっぱり「小学生未満はご遠慮ください」の限定は必要なのではなかろうか。国立市から金銭的援助(税金)を受けているからそれができないとかあるのか?

くにたち市民オケ 006


 今回はずばり和田一樹が目的であった。これだけ有名で耳慣れた曲が揃うと、かえって才能が分かりやすいのではないかと思ったのである。
 で、まさしくその通りであった。
 
 《魔弾の射手》序曲では躍動感が漲っていた。オペラ開幕前の観客の心を一気に鷲づかみにして‘日常’から‘物語世界’への移行をスムーズにする「序曲」の働きを見事に遂行していた。それはまた本日のプログラムにおいてこの曲を一発目にもってきた趣旨でもあろう。「出だしから調子がいい」というのが和田の特徴の一つかもしれない。‘つかみ’はバッチリだ!

 一番良かったのは《白鳥の湖》
 ベタなまでにドラマチックな仕立てで客席も盛り上がった。ソルティの隣に並んでいた小学生たち(特に女の子)もすっかり心を奪われているようであった。さすが名曲!
 思い起こせば、ソルティが人生最初に耳にしたのを記憶しているクラシック音楽こそ《白鳥の湖》である。幼稚園の年長の時だ。運動会のお遊戯で近所の女友達が踊っているのを「いいなあ~」と思いながら見ていた記憶がある(笑)。
 くにたち市民オーケストラの演奏は手堅く、綻びも少なく、大人っぽい。地域オーケストラにはやはり市民性が反映されるのだろうか。興味深いところである。

 《新世界より》を聴いて思ったのだが、和田一樹の音楽の特徴を一言で言うなら「演歌的!」ってことになる。
 演歌を演歌たらしめている要素やテクニックは次のように整理できよう。
  1.  人間模様のドラマ=浪花節的情緒世界
  2.  心象風景と自然風景のシンクロ
  3.  こぶし、ビブラート、しゃくり、フォール、ファルセットなどの歌唱テクニック
 たとえば、石川さゆりの名曲『天城越え』を例に取れば、①結ばれてはならない関係にある男女の愛憎や性愛を、②浄蓮の滝や天城隧道など伊豆の自然風景とシンクロさせながら、③石川さゆりの第一級の歌唱テクニックで歌い上げている。
 和田の曲解釈や音づくりに、どうもこれと似たようなアプローチを感じ取るのである。
 ①曲の中に潜んでいるベタな人間ドラマ(歌劇やバレエなどはもろ表面化している)を、②心象風景とも自然風景ともつかぬ、あるいはその双方が入り混じった絶妙なバランスの地点から、③曲の魅力をより効果的に引き出す様々なテクニック(トリックと言ってもいい)を用いて聴衆に提示する。
 他の指揮者だって多かれ少なかれ同じことをしているのだろうが、和田の場合、③のテクニック(あるいはトリック)に対する取り組み方がかなり意識的という気がする。テンポの緩急、音量の強弱、音の入りと切りの微妙なズレなどで全体にメリハリをつけ、いやがおうにもドラマチックに仕立て上げる。曲自体に仕組まれている経絡のツボを発見し利用するのが上手いということである。
 なので、それが上手くいったときは、ツボ押し効果で‘気’の流れが活性化し、曲自体が生きてくる。演奏に生命力がもたらされる。
 一方で、懸念するのは、あまりテクニックに偏りすぎてしまうと、張子の虎のようになってしまわないかという点である。聴衆はそれなりに興奮するし感動するだろうけれど、そこに深さはない。耳肥えた者は「あざとさ」を見るかもしれない。和田はテレビや映画の露出が多いようだが、マスメディアというものは若く才能ある人をそういった不毛な状況に容易に持っていくであろうと思うので、老心ながら気にかかる。
 和田自身が何を目指しているのか知らないので余計なお世話であるが、できたらこの指揮者の手による『アイーダ』や『復活』を聴いてみたいと思うので。
 
 曲間のMC(トーク)の面白さや人あたりの良さ、開放性、庶民性、オケや観客と一体感をつくる天性の資質。カリスマ的な魅力を発揮する指揮者であるのは間違いない。
 

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●  余計なお世話 リベラル・アンサンブル・オーケストラ第5回演奏会

日時 2017年1月28日18時~
会場 新宿文化センター・大ホール
指揮 和田一樹
曲目
  • R.シュトラウス/歌劇『ばらの騎士』組曲
  • マーラー/交響曲第1番ニ長調『巨人』  

 社会福祉士国家試験の前夜であるが、「もうこの期に及んでしゃかりき知識を詰め込んでも仕方あるまい。むしろ、心身ともにリラックスしてベストの力を出せる状態を作っておくほうが得策だ」と思い、新宿まで出向いた。
 JR新宿駅から花園神社脇のゴールデン街を通って会場に向かう。
 昔ここに『三日月』というべらぼうに美味いステーキを出す飲み屋があったが、今もあるのかな? おじさん(マスター)はよもや現役ってことないよな? 30年近く前の話だ。
 新宿文化センターも久しぶり。昔ここでモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』を観たなあ。二期会だったかな? エルヴィーラのアリアが良かった。すでに20年以上前の話だ。
 なんだかタイムスリップしたような感覚と共に会場入りした。
 
 リベラル・アンサンブル・オーケストラ(LEO)はこれで3回目。結構なファンである。
 前の2回は曽我大介の指揮で、なかなか良かった。
 このオケの顧問指揮者(ミュージックパートナーと言っているが)は曽我大介の弟子に当たる和田一樹である。和田一樹では聴いたことがなかった。
 和田の才能の片鱗は別のコンサートのリハーサルで垣間見る(垣間聴く)ことができた。2015年ブカレスト指揮者コンクールで準優勝するなど才能が国際的に認められている。テレビやCM等でもいろいろ露出して活躍しているらしいが、テレビを見ないソルティには関係ない。
 今回はじめて和田一樹&LEOのコンサートを聴く機会を得た。
 
 和田の才能が評判通りであることを知らしめたのが最初の『ばらの騎士』であった。
 実に素晴らしかった。
 最初から最後まで音が生きていた。賛辞のすべてはそこに尽きる。
 なかなかできることじゃない。
 上手く演奏するのはプロならもちろん、アマでもちゃんと練習しさえすればできる。
 しかし、生きた音を出すことはプロ・アマ問わず難しい。これは技術や練習だけではどうにもならない領分だからである。
 生きた音とはなにか?
 
ソルティ定義・・・・・指揮者の‘気’とオケの‘気’――両者の‘気’の絶妙なブレンドが音符にもたらす‘生命力’。むろん、あるレベルの安定した技術は前提である。

 これができるところが和田一樹のまぎれもない才能の証であり、持って生まれた資質のなせる技だろう。彼の(テレビ)タレント性もこれと関係しているのかもしれない。
 一方、その和田に見事に調教されたLEOの柔軟性も素晴らしい。フレッシュな響きはなによりの持ち味である。見事なタッグという印象を持った。
 
 このまま後半のマーラー『巨人』まで進めば凄いことになると思ったのだが、やはりそうは問屋がおろさない。
 和田もオケも持てる力を最初の『ばらの騎士』に傾注してしまったように感じた。
 おそらく、そのことは演奏している当人たちが一番よく分かっていたはずである。客席からの「ブラボー」が飛び交う中、アンコールがなかったのはそれゆえであろう。
 LEO、いいオケだと思うが、そろそろ練習回数を含めたマネジメントをしっかりする時期に来ているのではないかな?
 余計なお世話か。
 
 
 

● フロイデ雑感3 “ウ・チ・の・ご・はん”

 12/28、いよいよ本番。
 
 久しぶりの式服はいいが、白いワイシャツと蝶ネクタイがない。介護の仕事じゃ、ワイシャツなんか着ないものなあ・・・。ましてや蝶ネクタイなんて、レクの時間に手品の余興でもしない限り、とんと縁がない。
 ワイシャツを購入し、蝶ネクタイは100円ショップで仕入れた。どうせ一回こっきりだから使い捨てで十分。

 今回の公演はオール・ベートーヴェン・プログラムで、午後3時スタートし、終演は午後9時。延々6時間に及ぶ長丁場である。
 曲目と演者は以下の通り(演奏順)。

1.ヴァイオリンと管弦楽のためのロマンス第2番ヘ長調 Op.50
ヴァイオリン:中村太地、指揮:曽我大介
2.ピアノ協奏曲第1番
ピアノ:石井楓子、指揮:曽我大介
3.ピアノ協奏曲第2番
ピアノ:仁田原祐、指揮:碇山隆一郎
4.ピアノ協奏曲第3番
ピアノ:冨永愛子、指揮:和田一樹
5.ピアノ協奏曲第4番
ピアノ:今川裕代、指揮:中島章博
6.ピアノ協奏曲第5番
ピアノ:高橋望、指揮:西谷亮
7.ヴァイオリンと管弦楽のためのロマンス第1番ト長調Op.40
ヴァイオリン:中村太地、指揮:西谷亮
8.交響曲第9番「合唱付き」
指揮:曽我大介、合唱:平和を祈る《第九》特別合唱団

 管弦楽はすべてブロッサムフィルハーモニーオーケストラである。オケの人たちは6時間出ずっぱり。たいへんな労力である。
 ヴァイオリニストやピアニストについてはよく知らないが、上記の指揮者はプロフィールを見ると、すべて曽我大介門下生である。その一人西谷亮(合唱指導をしてくれた)は、ブロッサムフィルハーモニーの音楽監督兼常任指揮者をつとめている。合唱団は公募で集まった有志だが、その中核となるのは、やはり曽我大介が指導するアマチュア合唱団「一音入魂」のメンバーたちである。
 つまり、今回のコンサートは、曽我大介一座総出演による慈善活動という意味合いがあるわけだ。「親分の号令で一族郎党大集結!」って感じか・・・?
 ともあれ、6時間にわたってベートーヴェンの有名な曲ばかり聴けるのだから、ベートーヴェンマニアにはたまらない企画である。出演していなかったら、客席でじっくり聴きたかった。

 ステージリハーサルは午前10時40分に始まった。
 最初が《第九》の第四楽章。4名のソリストと共に歌う。
 ソプラノの辰巳真理恵は、俳優の辰巳琢郎の娘である。今回が《第九》デビューとのこと。ウィキによると1987年生まれの28歳。父親の体格(180cm)からすると、思ったより小柄で可憐な感じであった。が、一声聴いてビックリ。芯のしっかりしたよく通るきれいな声である。今後、あちこちの《第九》に引っ張りだこになるのは間違いあるまい。(本番には父親が応援しに来ていた。)

 《第九》リハーサル終了から本番まで8時間以上ある。
 昼食まで、他の曲のリハーサル風景を客席で見て聴いて過ごした。こういう経験もめったにできないので新鮮である。
 印象に残ったのは、まずヴァイオリニストの中村太地。これまた20代のイケメンである。女性ファンが多いことだろう。リハーサル中の指揮者とのやりとりなど見るに、「曲に対する自分なりの解釈をしっかり持っていて、妥協せずにしっかり共演者と意見を戦わせる人」という感じがした。
 指揮者の和田一樹。小柄で剽軽な雰囲気の持ち主であるが、ひとたび指揮台に立ち演奏が始まるや、「う~ん」と唸った。深いクレパス(谷間)を瞬時に形作る手腕は並みの才能ではない。オケの人たちもどうやら彼の才能には一目置いているようで、安心して心地よく演奏している様子であった。この先、注目したい指揮者である。
 それにしても、生演奏で聴くベートーヴェンの音楽は格別の美しさがある。本番前の緊張も解けて、陶然と聞き惚れていた。

《第九》リハーサル


 午後は人と会う約束があった。いったんホールを出て、用事を済ませ、午後7時前に会場に戻った。

ティアラこうとう

 式服に着替えて会議室に集合。
 最後の発声練習をして、舞台上での細かな段取り(楽譜はどこで開くか、最後にお辞儀はするかe.t.c.)を確認する。曽我流を知悉している一音入魂のメンバーがてきぱきと仕切ってくれる。
 トイレを済ませ、喉を潤し、いざ出陣。
 列を成して、長い通路を舞台袖まで移動する。
 音楽が耳に入った。
 すでに第2楽章の終わりまで来ている。
 のぞき窓から舞台とホールの様子を伺う。
 指揮台の曽我大介氏。
 かっこいい。
 デカい体、長い腕、豊かな表情、まさにからだ全体を使って、自分の意図するところをオケに表現する。見ていて飽きないパフォーマンスである。
 客席は・・・・。
 空席が目立つ。
 チケット代高かったからなあ~。
 それにしても、難民支援に対する日本人の関心の低さが歴然と表れているような気がして残念でならない。寄付先の国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の歴代もっとも有能な弁務官は、日本人の緒方貞子なのになあ~。
 まあ、気を取り直して。
 ここまで来たからには、客の入りなんか気にしまい。ただ、音楽とベートーヴェンに奉仕し、仲間と共に演奏することを楽しみ、そして‘喜び(フロイデ)’を自分なりに表現するだけだ。
 
 合唱団は第4楽章で登場する指示が出ていたので、第3楽章はまるまる舞台袖に立ちながら聴いた。
 なんという甘美さ!
 なんという流麗なタッチ!
 曽我大介の《第九》を聴くのはこれが二度目であるが、前回とはまったく違っていた。
 オケが違うと、ホールが違うと、趣旨が違うと、これほど異なるものなのか。
 またしても本番前の緊張が解けてゆく。
 最後の一音が余韻を引きながら鳴り止む。
 出番だ。

 友よ、この調べではない ♪


 出来が良かったのかどうか、歌っている自分にはなんとも言えない。
 だが、歌っている間、ずっと驚きっぱなしであった。
 合唱団の息がピッタリ合っていた。フレーズの終わり終わりで子音を入れるところなど、ぴたっと揃っていた。練習の時に曽我氏や西谷氏が注意したいずれの箇所も、いずれの音楽記号も、みなきちんと覚えていて、一つ一つ見事にクリアしていた。
 そう、個人的意見かもしれないが、練習よりずっと良かった。
 なんてすごい人たちだろう!(自画自賛)
 演奏終了後に湧き起こった拍手は、来場した客の数に比すれば盛大な、心からの、熱いものであった。


 《第九》の最後は、管弦楽の荒れ狂うような‘Prestissimo(できるだけ速く)’の歓喜の雄たけびで終わる。
 最後の最後は、4分音符の5連打である。
 
 タ・タ・タ・タ・タン

 ここのところが全楽器きれいに歯切れよく揃って5連打し、最後にスパッと断ち切れると効果抜群、圧倒的な感銘を聴く人に与えること間違いなし。
 それを成し遂げるために曽我大介が編み出したのが、なんと

 ウ・チ・の・ご・はん

という森高千里のキッコーマンのCMのフレーズだった。
「そこのところは、《ウ・チ・の・ご・はん》で合わせて」なんていう指示が実際に指揮台から発せられるのを見るとは、よもや思わなかった。
「いまの《ウ・チ・の・ご・はん》はよく出来ていた」なんて、まるで漫才のようではないか。
 しかし、実際にこのフレーズを意識してオケが演奏すると、実に鮮やかにケツが揃うのである。
 使えるものはなんでも使うんだなあ。

 ただ一つ困ったことがある。
 「ウ・チ・の・ご・はん」の衝撃が自分の頭にこびりついてしまったため、今後どの指揮者の《第九》をどこで聴こうが、きっと最後はオケの5連打と一緒に「ウ・チ・の・ご・はん」と頭の中で歌ってしまうだろうという、ほぼ100%確実な未来が生まれてしまったことである。
 《第九》と「ウチのごはん」。
 まあ、どちらも他では味わえない格別な‘喜び’には違いないのだが・・・。
 
 
 《つづく》
 
  

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