ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

回想法

● 介護の仕事13  雨の日の傘談義

 老人介護の仕事の面白さの一つは、昔のことを当事者から聞けることである。
 昔のこと、と言っても明治生まれはもう数えるほどしか日本にはおられないので、大正後期から昭和の初め(戦前)にかけてのことである。
 ソルティが興味を持つのは政治や事件などの社会的出来事ではなく、日常生活のちょっとした雑学である。

 先日もご利用者と一緒にレクリエーションで童謡を歌っていた。今日のような雨の日であった。
 北原白秋作詞、中山晋平作曲の『あめふり』(1925年=大正14年発表)を歌い終わったときに御年89(昭和4年生まれ)の女性が言った。
「蛇の目って、お金持ちがさしていたのよね」
 すると、周囲の女性たちも「そう、そう」といっせいに頷いた。

あめあめ ふれふれ かあさんが
じゃのめで おむかい うれしいな
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

「へえ~。蛇の目ってミシンのことじゃなかったんですか?」とお約束通りボケる。
「あははは。違うわよ。傘よ。じゃ・の・め・がさ」
「それ、どんな傘ですか?」(ここぞとばかり「回想法」による認知機能アップをはかる姑息なソルティ)
「骨組みは竹でできて、そこに和紙を張って油を塗るの」
「ああ、水をはじくために油を塗るんですね」
「そう。傘を開いたとき上から見ると蛇の目模様しているから、蛇の目って言うのよ」


蛇の目傘               
蛇の目傘

和傘はおもに竹を材料として軸と骨を製作し、傘布に柿渋、亜麻仁油、桐油等を塗って防水加工した油紙を使った。和傘には番傘(ばんがさ)や蛇の目傘(じゃのめがさ)、端折傘(つまおれがさ)などの種類があり、蛇の目傘は、傘の中央部と縁に青い紙、その中間に白い紙を張って、開いた傘を上から見た際に蛇の目模様となるようにした物で、外側の輪を黒く塗ったり、渋を塗ったりするなどの変種も見られる。(ウィキペディア「和傘」より)


 会話は続く。
「ふ~ん。それで蛇の目がお金持ち御用達なら、貧乏人は何をさしていたんですか? あっ、わかった! 蓑笠だ!」
「あははは。違うわよ。庶民は番傘を使っていたの」
「へえ~」

 ソルティは蛇の目傘と番傘の違いを知らなかった。
 番傘とはなにか。

和紙を張った粗製の雨傘のこと。江戸時代の中頃から竹製の骨に厚めの油紙を張った雨傘が普及した。上等のものが蛇の目傘であるが,番傘は一般に2尺6寸 (約 80cm) の柄に 54本の骨を糸でくくり,直径は3尺8寸 (約 115cm) 。商家で客に貸したり,使用人が利用するため,紛失を防ぐのに屋号や家紋とともに番号をつけたので,この名が出たといわれる。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「番傘」より)

 時代劇でよく浪人したお侍さんが内職で傘を作っているシーンが出てくるが、あれは番傘を作っているのである。今の感覚で言えば、番傘=ビニール傘ってところか。もちろん使い捨てはしなかっただろうが。

 「じゃあ、この歌に出てくる子供の家は裕福なんですねえ」
 「そうらしいわね。ウチは番傘しかなかったわ~」

番傘
番傘

 傘が出てくる童謡と言えば、ほかに『雨降りお月さん』がある。

雨降りお月さん 雲の蔭
お嫁にゆくときゃ 誰とゆく
ひとりで傘(からかさ) さしてゆく
傘(からかさ)ないときゃ 誰とゆく
シャラシャラ シャンシャン 鈴付けた
お馬にゆられて 濡れてゆく
(野口雨情作詞、中山晋平作曲、1925年=大正14年発表)

 ここに歌われている「からかさ」は唐傘と書き、紙と竹でつくられた和傘一般のことを言う。語源の由来は「唐(中国)から来た傘」という説と「からくり傘」を略したという説がある。上記の歌の「からかさ」は、お嫁入りに使われるのだから番傘ではあるまい。蛇の目を想定しているのだろう。


 蛇の目傘について調べていたら気になる記述があった。

 元禄年間からは柄も短くなり、蛇の目傘がこの頃から僧侶や医者達に使われるようになった。(ウィキペディア「和傘」より抜粋)
 
 なぜ、僧侶や医者から始まったのだろう?
 
 ここからはソルティの推測に過ぎない。
 まず江戸時代以前の医者は僧侶も兼ねているのが普通であった。なので、蛇の目傘はなによりまず僧侶の印だったのだろう。傘をさしていると禿頭が見えない。そこで蛇の目の印をあしらうことによって、道行く人に「ここに坊主あり」と知らせる働きがあったのではなかろうか。

蛇の目紋


 なぜ蛇の目か?
 蛇の目はそもそも家紋の一種であった。豊臣秀吉の家臣であった加藤清正が好んで用いたと言われる。加藤清正と僧侶の接点はなにか?

ほかに、蛇の目を使用した人物には、日蓮宗の開祖日蓮がある。これにちなみ、使用者は日蓮宗宗徒であることがあり、南部実長、加藤清正などの使用がある。(ウィキペディア『蛇の目』より)
 
 ビンゴ!

 つまり、最初に日蓮宗の僧侶が宗派(兼所有主)を示す印として「蛇の目」を傘にあしらったのが、時を経て一般の僧侶たち(医者も含む)にも広まり、さらに庶民(裕福な階層)に広まったということではなかろうか。


 ご利用者とのちょっとした会話に端を発した雨の日の探求であった。


P.S. 「ジャノメミシン」の社名の由来についてはこちらを参照。




● 本:『回想法 思い出話が老化をふせぐ』(矢部久美子著、河出書房新社)

 1998年刊行。
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 老人ホームで介護の仕事をしていて面白いことの一つは、利用者から昔の話を聞くことである。
 子供の頃の話――たとえば、住んでいた家の造りや遊び場となった周囲の畑や山や川の風景、どんな家の手伝いをしていたか、どんな風呂に入っていたか、友達とどんな遊びをしたか、日ごろ(またはハレの日に)どんな食べ物を食べたか、どんなものを着ていたかなど――を聞いて、自分の子供時代や現代の子供たちとの違いを比較するのは楽しい。戦中戦後の話――たとえば、徴兵検査、軍隊生活、九死に一生を得た戦場体験、玉音放送をどこで聞いたか、買出しに行った話、大陸からの引き揚げの様子など――を伺うのも興味深い。もちろん、利用者の個人史上のトピック――仕事、結婚、出産、育児、配偶者との死別、転機となった出来事など――を波乱万丈のドラマを見るかのように頭の中で映像化するのも面白い。
 もっと若い頃は年寄りの昔話なぞ聞く耳持たなかった自分であるが、最近はなぜだか聞き惚れてしまう。
 思うに、そういった昔の話を聞くことで自分の中で価値観の相対化がはかれるからなのではないか。今「あたりまえ」に思っていることが昔は全然そんなことなくて、昔の「あたりまえ」が今は時代錯誤のならわしだったりする。その事情をまざまざと知ることで、「すべては移り変わるものだ」「一つのやり方、考え方にこだわるのは無意味だ」と実感する。それが自分を楽にしてくれる。
 もう一つは、昔の話をしているときの利用者=老人の表情が生き生きとして声も弾んでくるのを目にするのが楽しいからである。
 これは本当にそう。どんなレクリエーションより効果がある。

 Yさんという男性利用者がいた。
 Yさんの好んでする昔話は、少年兵として軍隊にいたときのこと、整理整頓をいつもきちんとしていたので他の仲間たちの前で上官に大層褒められた、というものであった。
 その話をするときYさんはいつも同じ言葉を使って、同じ順序で、同じ口調で語るのである。

 みんなで整列させられて、また怒られるんじゃないか、殴られるんじゃないかと、思ったの。そうしたら、上官が「Y、ちょっと前に出ろ」っていうから、「ああ、おれか。何かやらかしたかなあ」と思って、怖くて仕方なかったけれど出ないわけにはいかないもんだから、覚悟を決めて前に出たの。もう、足は震えるし、口の中はカラカラになるし、生きた心地がしなかった。そうしたら、上官がみんなに向かって、「このYはいつも無口で目立たないが、気づいたところを率先して整理整頓している。偉い奴だ。みんなもYを見習うように」
 Yさんはここで話を止めて、こちらの合いの手を待つ。
「すごいですねえ、Yさん。なかなかできることじゃありませんよ」
と、心底感心したような調子で言うと、
「いやあ、それほどたいしたことじゃない。あたりまえのことをしていただけだから」
と謙遜しながらも顔は紅潮し、口元はほころんでいる。心なしか、こちらが手引きする足取りも軽くなる。

 このやりとりが毎日のように、自分がYさんのトイレ介助するたびに繰り返された。
 なかなか席から立たないYさんをどうトイレまで手を引いて誘導するかというのが悩みの種であったのだが、まずこちらから「Yさんはきれい好きですね。いつもお部屋が片付いていて感心します」と繰り出すと、「そうかあ。あたりまえのことをしているだけだから」と返してくる。そこで、「なかなかできることじゃありませんよ。きっと人から褒められたことがおありでしょう?」ときっかけを出す。すると、目に光が点って「そうなの。昔少年兵だったときに・・・」と始まるのである。そこで、チャンスを逃さずに「へえ~、こちらでその話を聞かせてください」と自分の手を差し出すと、Yさんはその手を握ってすっと立ち上がる。トイレ介助が済んで席に戻るまで、くだんのやりとりが続く。それはまるで一連の儀式のようであった。
 利用者の昔話を聞く一番の効能は、話す老人と聞く自分との間に信頼感が生まれるところにあると思う。自分の一番話したいことを熱心に聴いてくれる相手を、誰だって嫌いになれるはずがない。介護一般を受けるのが嫌いな老人でも、「こいつの言うことだけは聞いてやるか」となかば無意識に思っても不思議はないと思う。
 つまり、介助しやすくなるのだ。
 Yさんもそうだったが、認知症老人の多くの場合、自分が話した内容はおろか誰に向かって話したかすら、数分たてば忘れてしまう。(だから、繰り返し同じ手が通用するわけだが)
 だが、よく言われるように認知症でも感情の部分はしっかり残っている。相手に何をされたか、何を言われたかは忘れてしまっても、自分がその人から受けた感じが気持ちよいものであったか、不快なものであったかは、覚えている。その積み重ねが、介助者と利用者との関係の良し悪しを築いていくんじゃないかと感じる。
 それまで帰宅願望が強くて職員を困らせていたYさんであったが、日に数回この儀式をすることで不穏になることが少なくなった。人生で自分が一番輝いた瞬間を人に話すことができて、それを認めてもらえたということが、Yさんが落ち着ついて過ごすのに役立ったのではないかと思う。
 利用者の昔話を聞くのは、面白いだけではなくて、介護の仕事をスムーズにすすめる上で役に立ち、そのうえ利用者自身を気分よくさせる、という一石三鳥の「秘策」(というのも同僚たちはあまりやっていないので)なのである。


 さて、自分がやっていることも回想法なのであろうか。

 本書によると、回想法とは

 アメリカの精神科医Butlerによって確立された高齢者を対象とする心理療法の技法である。従来、否定的にとらえられていた高齢者の過去の回想に、専門家が共感的受容的姿勢をもって意図的に働きかけることによって、高齢者の人生の再評価やアイデンティティの強化を促し、心理的安定やQOLの向上を計ろうとする方法である。(黒川由紀子「痴呆老人に対する回想法グループより)

 はじまりは1963年アメリカというからずいぶん歴史あるものだが、広まったのは80年代イギリスの高齢者介護の現場らしい。政府が「回想援助プロジェクト」に補助金を出したのがきっかけで、回想法のための教材やプログラムが研究され作成され、病院や高齢者専用住宅や地域の集会所などで実施されるようになった。それが高齢者にとって非常に良い影響を与えることが明らかになって、爆発的に広がったのである。
 著者は、イギリスにおける回想法のさまざまな実践例を取材し紹介している。
 それを読むと、回想法は型にはまった堅苦しいものではなく、創意工夫と当意即妙に彩られた、いろいろなアプローチが可能な楽しいレクリエーション、という感じである。高齢者の回想をもとにお芝居したり、昔の家財道具や写真を囲んで地域の小学生と交流したり、自分史を作ったり・・・。
 この文脈でいけば、自分のやっていることも回想法と言えなくはないだろう。
 しかし、この本が出されたのは15年前。ようやっと回想法が日本に紹介された頃であった。
 今はどうか。
 回想法に関する本がたくさん出版され、効果を云々する研究も進められ、心理の専門家によるマニュアルもつくられて、各地で介護職らを対象に講習会が開かれるようになった。回想法は然るべく研修を受けた人間が入念な準備とプログラムをもとに実施する技法として確立した模様である。


 介護職員であると同時に民俗学者でもあり、施設の高齢者の昔話の聞き書きをライフワークとしている六車由美は、著書『驚きの介護民俗学』(医学書院、2012年)の中で、回想法に対する疑念を表明している。自分が驚きをもって楽しんでやっている聞き書きと回想法との共通性に惹かれて地元の回想法の講習会に参加した六車は、回想法の確立した技法ゆえの杓子定規なやり方に失望し、こう述べる。

 高齢者の心を支えるという目的を掲げた回想法は、一方で誰でも活用できるように方法論化が進んでしまったがゆえに、実際の現場で行われる際に、目の前にいる利用者の多様で複雑な人生を見据えるまなざしを曇らせてしまうことにもつながってしまったのではないだろうか。私は、こうしなければならない、こうしてはいけない、と言われたとたんに、面白さを感じられなくなる。だから、「私がしたいのは回想法ではない」と宣言しなければならなくなる。(『介護民俗学』、医学書院)

 この六車の発言に、今の日本における回想法の位置づけを察する。
 どんなに素晴らしい画期的なアイデアも、いったん研究者や専門家の手に渡ると、研究テーマとして分析され数値化され評価され、それをもとに理論化されマニュアル化され素人にはうかつに手出しできない技法になっていく、すなわち専門家による「囲い」が始まる、というのはよくある現象である。そのうちに○○協会なんてものが立ち上がって、技法を広める講師(たいていカタカナ名の肩書きがつく)を育成するための研修や認定試験なんてものができると、「囲い」は完成する。
 素晴らしいアイデアをより多くの人に誤解のないよう効率よく広めるためには、あるいは行政からの補助金を獲得するためには、こうした組織化・システム化はやむを得ないものなのだとは思う。
 しかし、マニュアル化が過ぎて杓子定規に陥ると、えてして目的と手段の転倒が起こる。

 一番の目的は、老人の思い出話を興味を持って楽しんで聞くこと、その耳を得て老人は待ってましたとばかりに生き生きと思い出を語り、両者の間に信頼が生まれること。縁あって触れ合った世代の異なる二人が、できるかぎり対等の立場で、楽しい時間「いま、ここ」を共有すること、である。付随結果として、老人のQOL(生活の質)が高まったり、アイデンティティの強化につながったり、介助がスムーズになったり、ということはあるかもしれない。だがそれはやはり結果であって、目的ではなかろう。

 Yさんに、自分の人生を再評価してもらおうとか、アイデンティティの強化をはかってもらおうとか、Yさんにしてみれば余計なお世話である。そんなことする自分はいったい何様のつもりかと思ってしまう。
 Yさんが笑顔になって穏やかに過ごせれば、おまけとして良い介護につながれば、それで十分である。
 Yさんはその後誤嚥性肺炎で亡くなった。



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