6月の菜園2013 008 1980年刊行。
 2005年河出書房新社より発行。

 傑作SFコメディ小説『銀河ヒッチハイクガイド』の続編。
 今回は宇宙創世の謎を解く、人類誕生の真実に迫る、というまったくもって大がかりなテーマを軸に、元銀河大統領ゼイフォード、ペテルギウス星人フォード・プリーフェクト、元地球人トリリアン♀とアーサー・デント♂、鬱型ロボットマーヴィンの4人と1体が、気の遠くなるほど広大な宇宙を何百万年という時を越えて縦横無尽に駆けめぐる一大活劇。
 冴えたブラックジョークとナンセンスでシュールな展開は前作同様。
 著者アダムスの希有な才能を堪能することができる。
 とりわけ人類誕生の背景をめぐるエピソードが秀逸。
 アダムスが人類をどのように評価していたか伺うことができる。
 「糞の役にも立たないノータリン」
 残念なのは、それがブラックジョークではなくて真実であることだ。

 ところで、別記事「認識と存在のあいだ」で書いたように、「認識=存在」である。
 人類誕生以前の地上の風景を我々は知ることができない。古生物学がやっていることは、「現在の人類がタイムマシーンで人類誕生以前の世界に行ったとしたら、世界はどう見えるか」というアプローチに過ぎない。それは、犯行現場にいなかった人間の証言をもとに実際の犯行を再現するようなものであるから、客観的事実なんてものとはほど遠い。禅の公案に「父母未生以前の本来の面目は如何に?」というのがある。「両親が誕生する前、お前はどこにいた?」という意味らしいが、これと通ずるところがある。
 人類が今持っているような認識システム(見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる、考える)を手にして初めて、この「世界」は生まれたのである。それまで(人類誕生以前)そこにあったのは、「恐竜が認識する世界」であり「鳥類が認識する世界」であり「魚類が認識する世界」である。
 我々人類が見ているこの「世界」は、まさに人類の、人類による、人類のために存在する「世界」なのである。
 
 これを敷衍すると、こうも言える。
 「宇宙の誕生は人類の誕生と同時であり、その終焉は人類の終焉と同時である」
 いま我々が認識している宇宙の姿は、人類にだけ「このように」見えている。「このように」現れている。他の生命体は人類が「宇宙」として認識しているもの(空間、物体、現象)を、まったく違う色彩、形状、運動で認識しているかもしれない。そのどちらが正しいのか、決める手立てはまったくない。
 人類中心主義から脱すれば、すべては相対的である。この「宇宙」もまた、人類の、人類による、人類のための「宇宙」なのである。
 
 では、我々人類が認識している、あるいは他の無数の生命体が各々のやり方で認識している「世界」「宇宙」の素になっているものはあるのだろうか?
 
 ある、と思う。
 たとえば、物理法則などは地球上に棲むどの生命体も無視できないであろう。宇宙でもある程度通用するであろう。
 何らかのルールというか法則は最低限あるはずだ。
 自分はそれが「因果法則」なのではないかと思う。
 
 はじめに「因果の海」ありき。

 広大無辺のその海の一隅に、それぞれの生命が「認識」という名の光を投げかける。スポットされて浮かび上がった部分が、その生命の「宇宙」「世界」として立ち現れる。
 そんなイメージだ。
 
 「宇宙」or「世界」⊂「因果の海」
 
 だから、我々は因果をくまなく知ることはできない。
 ブッダが、「因果法則なんて簡単に理解できます」と口走った弟子のアナンダ尊者を、「そんな簡単なものではありません」とたしなめたように。
 一方、我々の「宇宙」「世界」で瞬間瞬間起こっていることで「因果の海」から漏れる事象はたった一滴すらもない。
 そんなイメージだ。