鑑賞日 4月3日(日)
会場 SPACE梟門(新宿3丁目)
久しぶりのお芝居。久しぶりのフライングステージ。
今回は、夏目漱石の名作『こころ』を翻案としたオール男性キャストのゲイストーリーということで楽しみにしていた。
それにしても、尾崎俊介の『S先生のこと』を読んで『こころ』を連想した直後に、この芝居を見ることになるとは何というタイミングだろう。むろん、公演チケットは『S先生のこと』の本を図書館で手に取るずっと前に、FSファンの友人に頼んでいた。
シンクロニシティ?
漱石の『こころ』をゲイ小説として読む趣向は、ネットで見る限り結構広く根付いているようである。語り手である「私」と「先生」との関係、若かりし頃の「先生」と親友Kとの関係に同性愛的なものを嗅ぎ取るのは、BL系小説が本屋の一角を占める現在、さして難しいことでも奇抜なことでもない。欧米の書店では『Kokoro』は、三島由紀夫やテネシー・ウィリアムズの作品と共にゲイ文学コーナーに置かれているという(ホントかウソか分らない)話も聞く。
自分が知る限り、一番初めに『こころ』にBL系メスを入れたのは橋本治『蓮と刀』であろう。1982年初出だから今から36年前、漱石が『こころ』を書いてから68年後である。実際に『こころ』の隠されたテーマに同性愛があるのかないのかは別として、そのような読み方を68年間拒んできたあたりに、日本社会の同性愛に対する忌避感や文豪漱石に対する偶像視(=神聖にして侵すべからず)を感じる。それにひきかえ、スポ根アニメも聖徳太子も新撰組もおそ松さんも同性愛的に読み替えてしまう昨今のBL女子たちの何と柔軟なことか!
今回の舞台(再演、初演は2008年)では、「先生」をクローゼット(隠れホモ)に設定し、子供の頃からの親友Kに対する秘めたる恋と独占欲とが描き出されていく。同じ屋根の下で暮らしたいがゆえに学問一辺倒の堅物なKに頭を下げて、自分と同じ下宿に住まわせたことが悲劇の発端となる。ノンケのKは次第に下宿の‘静お嬢さん’に心奪われていく。それを傍で見ている「先生」は気が気でない。Kの口から静への思いを打ち明けられた「先生」は、嫉妬のあまり、Kを出し抜いて下宿のおかみに「静さんを私にください」と頼み込む。おかみは二つ返事で了承する。それを知ったKはある夜、「先生」を責めることなく自害し果てる。
話の設定も筋書きもセリフも基本、原作と大きく変えることなしに、ゲイストーリーに転換させてしまった作・演出の関根信一の手腕が鮮やかである。
要となるのは、主人公「先生」の演技。セリフにはない(言葉にできない)Kへの恋情を、表情や目線やしぐさや呼吸で表現しなければならない。難しい役だと思う。演じたのは、尾崎太郎という若手の俳優&演出家。なかなかのイケメンで、親友への伝えられない思いを秘めたゲイの繊細な心の動きを、見ているこちら側の胸が痛くなるような切なさで表現していた。
Kを演じたのは、劇団「十七戦地」の北川義彦。こちらも文句なしのイケメン。痩せた骨ばった体形に書生の袴姿がよく似合っている。ストイックな求道者であるKが、恋愛などと言う軟弱なものに引き擦り込まれていく、その戸惑いと喜びがそこはかとなく滲み出ていた。
脇を固める役者はフライングステージのおなじみの面々。下宿のおかみを演じる関根信一はじめ、セクシャルマイノリティの占める割合の高い客席との呼吸はもうばっちり。安心して見ていられた。
漱石が『こころ』の中に‘同性愛’を仕込んだのかどうかは定かではないけれど、人の‘心’の動きというものを見事にとらえ、分析し、活写しているのは確かである。だからこそ、こういった質の高い二次創作が可能なのであろう。
やっぱり偉大な作家である。
人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐(ふところ)に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事のできない人――これが先生であった。(夏目漱石『こころ』)