1948年松竹。

 溝口健二はフェミニストだろうか?
 社会派だろうか?

 もちろんこの質問は反語である。
 溝口健二はフェミニストでも社会派でもない。


 『祇園囃子』『赤線地帯』そしてこの『夜の女たち』と並べると、どの作品も共通して、(男)社会の中で弱い立場に置かれ虐げられている悲惨な女たち―売春婦―を描いているので、一瞬、溝口は「女の味方」であり、こういった不平等で残酷な社会に対して現実を示すことで一石を投じているのだと思いたくなる。
 しかし、『西鶴一代女』を挙げるまでもなく、溝口はこういった女たち、女性群像を好んで描いているのである。つまり、「転落する女の姿」に対するフェチズムがあるのではないかと思うのだ。
 であるから、これらの映画に出てくる女たちが売春業から足を洗って更正する姿は決して書き込まれることはなく、一等底に落ちた地点で物語は終わるのである。女たちを更正させようと目論む善意の人々のかけ声のなんとしらじらしいことか。溝口は更正を信じていないかのようである。
 しかるに、なぜか不快な印象を与えないのは、溝口がこれらの女たちに向ける視線にはまぎれもない愛情と讃嘆の念が宿っているからである。自分が愛し讃美するものの転落する姿を悦ぶというのは倒錯に違いない。それとも、転落してはじめてその女を愛することが可能となるのか。としたら、溝口の劣等感は強烈である。

 例によって、田中絹代が圧倒的に見事である。
 きまじめな戦争未亡人が、ひょんなことから夜道で客を獲るパンパンに身を落としていく、その変わり様をまったく不自然を感じさせず、いずれの役をもリアリティを持って演じている。これを観ると、小津安二郎が『風の中のめんどり』においていかに田中絹代を生かせなかったかが非常に良くわかる。どちらも普通に暮らしていた未亡人が春を売らざるをえなくなるという設定であるのに、小津には溝口のようなダイナミズムが感じられない。そう、小津が描いたのは「喪失」であって「転落」ではなかった。(→ブログ記事参照http://blog.livedoor.jp/saltyhakata/archives/5091416.html )
 そして、田中絹代はなによりダイナミズムを演じる女優なのである。



評価: B-


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!