2008年発行。
著者は、終末期医療に取り組む医師である。
痴呆老人、いわゆる認知症の老人たちとの日々のつき合いを通じて得られた様々な洞察や知見が出発点となって、著者の思想はいろいろなテーマへとつながり、発展し、深化していく。
認知症に対する欧米人と日本人の受け止め方の違い、認知症の人との関わり方のコツ、彼らの見ている世界を理解しようとする著者の試みは認識論へと読者を誘い、それは「私とは何か」という哲学の究極テーマにつながっていく。「私」に対する考察はまた、欧米と日本(アジア)の世界観、人間観の差異をえぐる文明論を惹起し、認知症老人と「ひきこもり」の若者の生き難さを「世界とのつながり感覚の欠如」という命題でもって結びつける。
200ページたらずの薄い本であるが、示唆するものの多さ、内容の深さは、とどまるところを知らない。熟読玩味すべき本である。
著者のプロフィールとタイトルからは、認知症の高齢者を理解するポイントが書かれている医学書かと早とちりしてしまうが(むろん、それも書かれている)、全体的には思想書と言っていいだろう。
認知症高齢者の介護に携わる者として、心に留め置きたい文章。
「痴呆」になったら延命処置を拒否する理由として、日本では圧倒的多数が「家族や周囲の人に迷惑をかけたくないから」と答える、と述べました(日本尊厳死協会のアンケート調査)。しかし、アメリカを中心とした英語の文献からうかがわれる「痴呆を恐れる理由」は、圧倒的に「自己の自立性が失われるから」でした。
「延命」努力が日本社会でまだ最優先されている情況の底流には、貧しい環境の中で仲間同士がはげましあって生きてきたという倫理意識があるようです。いうなれば、死にゆく者を引きとめようとする周囲の力、つながりの強さの現れでもあります。
認知能力(特に記憶力)が低下することで、現在の環境へのつながりが失われます。自分はどこにいるのか、なぜここにいるのか、今はいつなのか、つながりを築こうとする努力は報われません。つながりが感じられない世界は心象的によそよそしく、混乱し、理解できない様相を示しています。そこに生じる情動は不安が主たるもので、たやすく恐怖へと成長します。不安、恐怖、怒りなど、いのちが脅かされたときに生ずる情動がコントロールできなくなった瞬間、せん妄状態に移行していくように見えます。
痴呆状態にある人と「心を通わす」とは、記憶、見当識の低下などの認知能力の低下によって彼らに生ずる「不安を中核とした情動」を推察し、それをなだめ、心おだやかな、できれば楽しい気分を共有することです。そのためには細かい行動学的観察に基づく個別化された接近方法が必要ですが、しかしまず、自分は彼らと連続した存在であり、彼らは、実は「私」であるということを確信しなくてはなりません。
認知能力の落ちた高齢者にとっての「うまいつながり」とは、・・・・・
1. 周囲が年長者への敬意を常に示すこと、
2. ゆったりした時間を共有すること
3. 彼らの認知機能を試したりしないこと
4. 好きなあるいはできる仕事をしてもらうこと
5. 言語的コミュニケーションではなく情動的コミュニケーションを活用すること、
などによって形成されるものと考えられます。
最後に、「私」とは何かに対する著者の洞察。
今までの「私」や「人格」についての議論を総括すると、「私」「人格」もある現象であって、条件が整っている限り、種々の因子がおたがいに関係しあってその現象を生ぜしめている、ということです。つまり、仏教のいう、すべては「因縁」によって生起しているという法則にまとめることができるように思います。換言すれば、「実体的自我」は、ヒトの発育過程でも、死に近い老いの過程でも観察できないのでした。
そう。認知症の人との関わりの面白さは、構築された「私」の脆弱さを眼前にするところにあると言ったら不謹慎だろうか。