死ぬのにいくらかかるのか 2013年刊行。

 30年ほど前にインドを旅していた時、関西から来たある青年と出会った。自分もそいつも二十歳そこそこだった。
 旅行中そいつはバックパックの荷物とは別に、布袋に入った陶器の壺を持ち歩いていた。
 『地球の歩き方』を手にして長期の貧乏旅行をする者なら誰だって、余計な荷物など持ちたくないに決まっている。特に治安の良くない、街角に突っ立っていればすぐ物乞いが群がってくるインドで、重くて大きな手荷物など邪魔なだけである。
 不思議に思って何が入っているか尋ねた。
「これ、おばあちゃんの遺骨なんすよ」
「・・・・・・」
 そいつの話では、祖母は篤信なる仏教徒であった。(宗派は聞かなかった)
「死んだらお骨はお釈迦様が悟りを開いた聖地ブッダガヤに埋めてほしい」と常々言っていた。自分は祖母に大変可愛がられたので、なんとしても遺言を叶えたい。で、卒業旅行をかねてインドに来た。
 今どき珍しく情の篤い律儀な男だなあ~と感心するべきなのだろうが、そのときは「けったいな奴」と思った。乱歩の『押絵と旅する男』ならぬ『遺骨と旅する男』だ。
 すぐに別れてしまったが、あとから疑問が湧いてきた。
 1. 遺骨を海外に持ち出すなんて可能なのか?
 2.どうやって手荷物検査をパスしたのだろう?(インドの空港は「袖の下」でどうにでもなりそうだが)
 3.墓もないところに勝手に骨を埋めてもいいのか?
 4.法に触れないのか?
 ・・・・e.t.c
 事実そいつはそうやって遺骨を持ち運んでいるのだから、1と2はクリアしたのである。(実際にブッダガヤで埋葬できたのかどうかは知らないが)
「人が死んだら坊さんを呼んで葬式をあげ、火葬して、遺骨はお寺の墓の下に納める」という固定観念を持っていた自分には、ちょっとしたショックであった。


 本書によると、 

 葬儀はこうしなければいけないという法律的な制約は何もない。死後24時間経たなければ火葬にしてはいけないということと、遺骨を自宅の庭に埋めたり、そこら辺に勝手に撒いてはまかりならんということになっているだけで、死亡届さえ出せば儀式めいたことはやらなくてもよい。

 火葬した後の遺骨を家で保管しても、何の問題もない。埋葬するときにはじめて墓地埋葬法の規制を受ける。

 結局日本では、決められた墓地以外のところに遺体あるいは火葬した後の遺骨を埋めることが禁じられているだけで、それ以外、葬送に関して「こうしなければならない」「こうしてはいけない」という決まりはないのである。つまり、
 葬式をあげる必要もない。
 戒名をつける必要もない。
 坊さんを呼んでお経をあげてもらう必要もない。
 線香をあげる必要もない。
 お墓を立てる必要もない。
 法要を行う必要もない。

 なんだか肩がすうっと軽くなる。
 知らないうちに慣習というものに如何に縛られているかをつくづくと知る。死のタブーと、遺族の解消されない感情や見栄と、人が死んだばかりのゴタゴタにつけこんで金儲けをたくらむ葬祭村(お寺、墓石業者、葬儀屋等)が結託して作り上げた「葬送のしきたり、これが世間並」にいかに洗脳されてしまっていることか。

 この本は、「棺桶に片足を突っ込んだ貧乏ライターのエンディングノート、終活・葬活報告」である。
 「貧乏」というところがポイントで、著者は信仰や信条や趣味嗜好や世間体や感性より、いかに金をかけずに死んでいくかに焦点を当てている。そこが共感もてるところである。
 自分も死んだ後のことにお金をかけるなんて、実に馬鹿らしいことだと思う。
 金をかけて立派な墓石を作ったり、高額の戒名をもらったりしたところで、何になろうか。成仏できるかどうかとはまったく関係ない。天国があるとして、そこに行きたいのならば、死んだ後に何をやっても遅すぎる。生きているうちに世のため人のため尽くすのが本道だろう。弔いにかけるお金があるのなら、いっそ慈善団体に寄付したほうが故人の往生に役立つだろう。
 それに自分の遺体や遺骨がどうなろうと知ったことか。野ざらしになってカラスに目玉をついばまれようがウジにたかられようがもはや痛くもかゆくも恥ずかしくもない。
 まあ、せめて人の迷惑にならないよう始末してくれればそれで十分。


 では、著者と共に死の値段を探ってみよう。
 最も高くつくのが今でも主流を占める仏式(葬式仏教)である。 

 日本消費者協会が2007年に行った「葬儀についてのアンケート調査」によると葬儀費用の平均は231万円。「日本の葬儀代は世界一高い」と宗教学者の島田裕巳氏が本に書いて話題になった。

 親戚数名くらいの内輪ですませる「家族葬」ならもっと安く済むが、それでも130万円くらいはするらしい。うち火葬料金は1万円ちょっとだが、お布施代が50万円、戒名代が30万~100万円とピンキリ。これに墓地使用量と墓石代が別に200~300万円かかる。
 死ぬのが嫌になる。
 
 キリスト教式(教会)ならもっと安くなる。仏教のように初七日からはじまって四十九日、一周忌・・・とその都度お寺を設けさせる愚かなシステムである法要もない。だいたい仏式の1/3~半分くらいで済むと言う。ただし、教会葬を望むのであれば生前に洗礼を受けておかなければならない。


 むろん、宗教にこだわる必要はない。普段の生活ではほとんど宗教心の欠けている多くの日本人が、死んだときだけ仏教を持ってくるのもおかしな話である。
 死んだら火葬して宗教的儀式をあげずに遺骨を処置する「直葬」なら、火葬費用と埋葬にかかる費用だけですむ。それではあまりにドライすぎると良心が痛むのであれば、故人を偲ぶ何らかのセレモニーを後日開くのもよい。


 埋葬にかかる費用も削ることができる。
 お寺に埋葬しなければよい。墓石を作らなければよい。
 いわゆる自然葬。
 まず、木の下に埋める樹木葬がある。 

 東京都も小平霊園(東村山市)で「樹林墓地」を開発している。その初めての抽選が2012年8月23日に都庁で行なわれた。自然への回帰という方法と低価格が人気を呼んで、500体の募集枠に約8000人が応募し、16.3倍の狭き門となった。使用料は遺骨一体13万4000円、遺骨を粉状にするとぐっと安くなり、4万4000円である。・・・・・


 約800平方メートルの敷地にコブシやヤマボウシ、ネムノキなど8種類の木が植えられ、外観は緑地公園のような雰囲気。お墓は跡継ぎがいることが前提だから、管理費やお布施を払う跡取りがいなければ、いつかは合祀される。小平霊園もそうだが、樹林墓地は跡継ぎを必要としない非継承墓だ。

 そして、最近人気の散骨。


 墓地埋葬法は墓地以外に遺骨を埋めることを禁じているが、遺灰を海や山などに撒いて葬る自然葬は規制の対象外。かつては違法視された時代もあったが、厚生労働省や法務省から「節度ある葬送の行為である限り問題ではない」という見解が出されている。ただし、いまだに散骨を条例で禁止している町もある。
 自然葬を社会に広げる運動を展開するNPO法人「葬送の自由をすすめる会」が1991年、相模湾で散骨を実施して以来、全国の海や山などで実施した自然葬は、2012年11月に取材した時点で1766回(3283人)に上る。自然葬は海だけでなく山や河に撒く人もいるが、現状は8割が海。つまり海洋葬だ。遺骨を細かく粉砕し水溶性の和紙に包んで海に撒く。

 散骨を行う業者もすでにたくさんあるとのこと。上記のNPOが実施する海洋合同葬は10万~15万円かかる。
 火葬した骨を砕いて粉にする(粉骨)のも1万5000円くらいで業者がやってくれる。
 NPOや業者に頼まなくてもかまわない。個人(亡くなった人の親しい者など)がコツコツと骨を砕いて粉にし、海や山に出かけて撒けば運賃だけですむ。
 下記のサイトは良い情報源である。
 http://yasurakaan.jp/
 ちなみに、骨はリン酸カルシウムなので、海洋汚染の心配はない、魚が食べても大丈夫とのこと。大切なポイントである。


 さあ、どんどん安くなってきた。
 が、さすがに火葬費用だけは削れまい。まさか庭の焼却炉で焼いてもらうわけにもいくまいし。そんなことしたら、死体遺棄罪でお縄をちょうだいする羽目になる。
 と思ったら、奥の手があった。
 もっと安い死に方があるのだ。 

 費用をかけずに身の始末をする方法がある。大学医学部に自分の体を提供する献体である。「立つ鳥跡を濁さず」という諺があるが、献体はだれにも迷惑をかけないという意味では最高の身の始末であり、しかも社会貢献になる。解剖実習は医学教育に欠かせない過程の一つ。・・・・・・・
 献体は各大学医学部で組織される「白菊会」が窓口になっている。篤志解剖全国連合会に加盟する87大学の数字を合計すると、20年前は10万人に満たなかった登録者が現在約24万人と倍増している。


 解剖が終わると荼毘に付し、遺骨を骨壺に入れた状態で遺族へ返却する。家族に迷惑をかけることなく、献体をすれば火葬から供養まですべて大学が執り行ってくれる。身寄りがなくお墓がない人は、大学の合祀墓に納骨もしてくれる。


 献体の問題点は、家族や親戚に一人でも反対者がたら解剖できないことと、たとえば孤独死して何日も発見されないような事態になると遺体が腐敗して使い物(笑)にならなくなることである。
 当たり前のことだけど、自分が死んだあとの後始末を自分ですることはできない。
 生前に自分の意志を明確に書類に残して、その通りにやってくれる誰か(個人でも団体でも)に託しておく必要がある。


 「終活」という言葉は2012年の流行語だそうだが、この本を読むと、今やいろいろな「始末のつけ方」が存在することが分かる。多様な選択肢から財力と感性に応じて自らに合ったものを選ぶ時代に入っているのだ。
 いわば、死をデザインする時代。
 葬式仏教に安住してきたお寺さんが瀕死状態に追い込まれるのも時間の問題だ。