代々木からの富士山 12/18開催、テーラワーダ仏教協会の月例講演会。
 最近は満席続きで、予約必須になっている盛況ぶり。
 代々木のオリンピックセンターの窓から見える夕映えの富士山がきれいであった。

 いくつか心に残った言葉を羅列する。
 
○ 嫉妬は怒りのあまたある顔の一つ。自分の無能に対する怒りが「嫉妬」。一方、自分の失敗に対する反抗が「後悔」。

「枝に座って、その枝を伐採することはできない」
 貪瞋痴(どんじんちー欲、怒り、無知)も煩悩も心の本能(土台、精神的基礎)なので、そもそも「自我」がそれらを無くすことは無理な話。「自分」で「自分」を治そうとすることは誤り。

○ 貪瞋痴は心の本能であっても、常にいっぺんに機能するわけではない。状況によって悪い面が表れる。しかし、繰り返し同じ感情が起こると、心はそれに慣れてしまい、「性格」となる。

○ 欲や怒りが成長や発展の起爆剤となるというのは邪見。

○ 嫉妬の解毒剤は「喜び(ムディター)」
 他人を観察して自分の中に「喜び」が生じるように、敢えて、おのれの見方にバイアスをつけるのがコツ。これは「常に喜びや楽しみを求めている」という生命の法則にかなっているので、「正思惟」である。

○ 嫉妬を解毒する「美徳発見の探検」のやり方
1. 自分が気に入っている相手を何人か選ぶ。(性欲や愛着を起こすような相手は避けること)
2. その生命の善いところ(美徳、長所)を思い浮かべ、心の中で微笑んでみる。
3. その相手がもっと幸せになったらいいなあと思う。
4. 短所は無視する。長所を拡大する。相手が喜びを感じることを調べて共感する。


 いつもながら、明快で、歯切れ良く、ユーモアに縁取られた講演であった。
 不思議なことには、いつも、自分がまさに今抱えている問題や疑問に対する答えが示されるような気がするのである。まるでスマナ長老が自分の状況を透視しているかのように・・・。

 ところで、「生きることは苦」「すべては無常」という鉄壁の法則をとことん悟るためにテーラワーダ仏教徒は修行しているわけであるが、これと上記の「生命は常に喜びや楽しみを求めている」という法則は一見矛盾する。

 この矛盾を解く鍵こそ、「無知」であろう。
 生きることは本来「苦」にほかならないのに、そのことに気づかない、そのことを認めたがらない。それゆえに、生命は喜びや楽しみを求める。そもそも、喜びや楽しみを求めるということ自体が、「生=苦」のまぎれもない証拠であるのだが・・・。

 無知により仮りの喜びや楽しみを求める人々に、あえて共感し、その喜びの成就を願う。自分自身はそれが「苦」であり「無常」であると認識していても・・・。


 それが「慈悲」なのだろうか。