ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

実相寺昭雄

● 映画:『悪徳の栄え』(実相寺昭雄監督)

 1988年にっかつ。

 マルキ・ド・サドの著名な作品の映画化ではあるが、物語をそのままに舞台をフランスから日本に移したというのではない。サド侯爵を気取る不知火(しらぬい)侯爵が主宰する、団員すべてが犯罪者という白縫劇団の演目として『悪徳の栄え』の稽古風景が繰り広げられる。つまり、劇中劇である。
 一方で、不知火侯爵と仲間の貴顕達が日夜溺れる悪徳と退廃の数々が、独特の映像美と陰鬱なライティングによって観る者に供される。
 舞台と日常。虚構と現実。二つの世界は対比されているのではなく、分かちがたく絡まりあっている。虚構(『悪徳の栄え』の舞台)が現実(不知火侯爵の日常)に影響を及ぼし、現実が虚構にオーバーラップする。
 交錯する現実と虚構。グロテスクな映像美。
 まさに実相寺ワールドが展開されている。

 時代は二二六事件の頃だから1936年。軍国主義が席巻し、国際連盟脱退(33年)→盧溝橋事件(37年)→日中戦争→太平洋戦争と、日本が雪崩式に戦争と大いなる破滅へと進んでいった中途である。
 この背景もまたサドが『悪徳の栄え』を書いた背景と重ねてみるべきだろう。
 フランス革命前夜。
  一つの文化が崩壊し、価値観が転換し、世の中が大きく変わるとき。そのための完膚なきまでの破壊と残虐が目の前に迫っているとき。
 そんな時代を予感してか、サド侯爵は出現したのであった。

 サド侯爵が目したものは、まさに道徳や法や宗教や伝統や習俗や階級を超越する‘何か’であり、それが現れるまではひたすらに目の前の共同幻想を破壊しつづけなければならなかった。そのためのエンジンとして使われたのが「悪徳」であり、ガソリンとなったのが「情欲」であった。
 情欲の前には人は、文字通り、すべてをとっぱらって「裸」になるほかないからである。
 
 サド侯爵はともかく、この映画、大がかりな設定と凝った演出のわりには、つまらなかった。
 テーマが今ひとつさばき切れていないためだろう。見終わった後に残るのは、斬新な映像美とアブノーマルな登場人物達とアブノーマルな行為だけである。それだけで何かを訴えるには、平成24年の日本人はもはやイカない。
 たとえば、不知火侯爵が自分の若い妻を劇団の若い男にレイプさせ、その一部始終を覗き見るというシーンがある。1988年では何らかの衝撃なり劣情なり反感なりを観る者にもたらしたかもしれないけれど、現在ではどうだろう?
 「別に・・・・」
 という感じではないだろうか。
 貴顕に限らず、今では一般市民がネットを通じてそこらじゅうで同じことをやっているのを、みんな知っている。
 結局、悪徳もまた古くなるし、退屈なものに変じてしまうのだ。 

いいえ、民衆は道徳に倦きて、貴族の専用だった悪徳を、わがものにしたくなったんですわ。(三島由紀夫『サド侯爵夫人』)

 実相寺にしろ、寺山修司にしろ、三島由紀夫のいくつかの戯曲にしろ、前衛的なものほど古くなるのが早い。そんな逆説を感じさせる映画である。
 これに比べると、公開当時から古くさかった小津映画は、永遠に古くならないから不思議である。



評価:C-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


●  ダーク・ボガード礼讃! 映画:『召使』(ジョセフ・ロージー監督)

 1963年イギリス。

 ず~っと観たいと思っていた『召使』が家の近くのTUTAYAに入荷した。念ずれば通ず。
 ここの店のラインナップはちょっと面白い。溝口健二作品がかなり充実していて10本くらいある。ウルトラマンシリーズの演出で名を馳せた一方で、性をテーマとするエキセントリックな作風で今もカルト的な人気がある実相寺昭雄監督のATG時代の作品『無常』『曼荼羅』『哥(うた)』などもある。誰が入荷担当なのか知らないが、かなりマニアックな、同好の士にはうれしい目利きがいたものである。
 しかも、旧作レンタルはこれから100円と来た。10本借りても1000円である。ますます夜更かししてしまいそう。

 期待にたがわず、風変わりな面白い作品であった。ジョセフ・ロージーはやっぱり変わっている。
 『緑色の髪の少年』(ブログ記事参照→http://blog.livedoor.jp/saltyhakata/archives/5310636.html)もそうであったが、表面上にあるストーリーの後ろに隠されたテーマやモチーフのあるところが、作品に独特の曖昧さともどかしさと秘密めいた匂いとを与えている。それはともすれば「いかがわしい」と名指されてしまいそうだが、ロージー作品の持つ格調の高さと洗練された映像表現によってきわどいところで汚名を免れている。(「いかがわしい」は汚名か?) 
 観る者は、一つ一つのシーンやショットに隠された意味を、暗号を解読するように探る楽しみに引き込まれるのである。
 もっとも、表面上のストーリーだけで納得してしまうことも可能だ。
 この作品も、たとえば、「他人の世話になることに慣れすぎてしまった青年貴族が、有能で狡猾な召使の手玉に取られて墜落していく物語」と観たとおりに解釈することもできる。そこから、上流階級の腐敗というテーマを引き出すこともできれば、英国の階級社会の歪みとその是正の必要というプロパガンダを導き出すこともできる。ロージー監督が「赤狩り」でアメリカを追われているだけにこの解釈は好まれやすいと思われる。あるいは、虐げられた下層階級による上流階級や階級社会に対する隠微な形での報復と取ることもできよう。あるいは、キリスト教徒ならこう読むかもしれない。悪の化身である召使ヒューゴが、主人であるトニーの善良にして清らかなる魂を穢して、己れと同等の位置すなわち地獄まで引きずり落とす物語、と。
 こんなふうにいろいろな読み方を可能にさせる、見方によっていろいろな解釈ができる余地を残しているところが、この作品の魅力である。(他のロージー作品もたぶん同じだろう)。その点で、ロージーの作品は英国の大作家ヘンリー・ジェイムズに似ていると思うのである。

 『召使』を観ていてどうしても連想してしまうのは、ジェイムズの傑作小説『ねじの回転』である。舞台は同じイギリスの上流階級の屋敷、天使のように美しく純粋な屋敷の子供たちに悪影響を及ぼす邪悪な召使たちの幽霊。女家庭教師の奮闘もむなしく、子供たちはついに悪の手に染まって・・・・。
 『ねじの回転』もまた、その解釈を巡って昔から喧々囂々たる議論がなされてきた作品である。作者の意図はなんなのか? 召使たちはいったい子供たちに何を教えこんだのか? そもそも霊などいなくて、すべては家庭教師の妄想ではないのか。
 ある意味、最後まではっきりと真相を示さず、読者に想像の余地を与えて終わるところに作者のたくらみはあるのだろう。『エヴァンゲリオン』が主人公碇シンジたちが置かれている世界の状況をあえて謎のままにしてストーリーを進めることで「引き」を作っているように、すべてが明るみに出て読み解かれてしまったら、ファンの好奇心も満足して、作品から離れてしまう。(それにしても『エヴァ』は「引き」が長すぎて、かえって「どうでもよくなってしまった」。傑作として終われるタイミングを逸してしまったように思う。)

 『召使』でロージーは何を隠したのか。
 語られない、表だって語ることのできない何が画面に織り込まれているのか。
 手がかりとなるシーンがある。

 それまでうまくいっていたトニーとヒューゴの主従関係が、ある夜の出来事をきっかけに壊れてしまう。トニーが婚約者ヴェラと外出している隙をねらって、ヒューゴは愛人である女中のスーザン(トニーには妹と偽って紹介していた)と、トニーの部屋のベッドで愛し合う。外出を切り上げて帰宅したトニーらは、召使二人の関係を知ってショックを受ける。スーザンと「できて」いたトニーは、そのこともヴェラに知られることになり、二重三重のショックである。
 トニーは怒鳴りつける。
「二人ともこの家から出て行け!」
 ヒューゴが出て行ったあとのトニーは腑抜けになってしまう。家も散らかり放題、酒びたりの日々が続く。ヴェラとの関係もなぜか修復しようとしない。
 酒場から帰ったトニーは、重い足を引きずって屋敷の階段を上り、以前スーザンの使っていた女中部屋に入り、スーザンの使っていたベッドに身を投げて、布団を掻き抱く。まるで恋しい相手を求めるように。
 と、カメラはベッドの脇の壁に貼ってある写真をなめ上げるように映していく。そこには、隆々たる筋肉を誇示している裸の男たちの写真が貼ってある。

 このシークエンスは一瞬で終わってしまうので、見逃してしまう人、意味に気づかない人が多いだろう。
 だが、これはトニーの秘められたセクシュアリティを指し示す重要な(重要か?)シーンであろう。
 もちろん、関係のあったスーザンの部屋に淋しいトニーの足が向かうのは不自然ではない。スーザンの使っていた部屋の壁に裸の男達の写真が貼ってあるのも、下品で自らの欲望に忠実なスーザンであってみれば別段おかしなことではない。(屋敷を出て行ったあともそのままになっていることをのぞけば。)
 しかし、このシーンでこれらの写真をアップで映し出すロージーの意図はあからさまである。
 ありていに言えば、トニーはバイセクシュアルあるいはかなり色濃いホモセクシュアルであろう。トニーは、美男の召使ヒューゴに世話されること(=自分の意志をあずけること)に何よりの快楽を見出している。だから、ヒューゴを嫌った未来の妻であるヴェラが何を言おうとも、ヒューゴを手放そうとしない。ヒューゴが屋敷を出て行ったあと、ヴェラとよりを戻そうとすればできたはずなのに、そうすれば屋敷も元通りきれいに片付くのに、ヴェラに自分の世話を任せることだってできたはずなのに、トニーはあえてその選択をしようとしなかった。
 トニーは、ヒューゴに恋しているのである。トニーにしてみれば、ヒューゴとスーザンの関係を知ったことは、スーザンの裏切り以上に、ヒューゴに裏切られたことがこたえたと思われる。
 一方、召使のヒューゴはどうか。
 トニーから向けられる恋慕を利用して、屋敷や財産をのっとろうとたくらんでいるのか。トニーを破滅させることにたちの悪い快楽を見出してるのか。たんに自分とスーザンが自由に振舞える居場所をキープしたいだけか。おそらく、他の屋敷に奉公しているときにもスーザンと組んでやってきたように。
 そこはよくわからない。
 しかし、どうもヒューゴ自身もトニーとの異常な(笑)関係にとり憑かれているように見える。それは恋愛感情というよりも、自分より上流の、自分より若い男を思いのままにできるサディスティックな欲望に酔っているのかもしれないが。(そう見えてしまうのは、ダーク・ボガート自身にゲイの噂がつきまとっているためもあるだろう。)

 さて、この解読が正しいのかどうかはわからない。
 自分のセクシュアリティや価値観にひきつけて、かなり偏向しているのは承知している。
 だが、この観点で作品を見直したときに、普通ならば見過ごしてしまうちょっとしたセリフや間合いやシーンが意味深いものとして立ち現れてくるのに気づくだろう。
 たとえば、トニーとヒューゴが最初に出会うシーン。トニーはヒューゴに料理以外の何を頼みたかったのか。あの微妙な間合いの意味は何か?
 たとえば、トニーとヴェラの間を引き裂くようなヒューゴの振る舞いの意味は?
 たとえば、帰ってきたヒューゴとトニーの唐突と思える関係の変化。いきなり、ノックもなしにパジャマ姿のヒューゴの寝所に飛び込むトニー。紳士とはとうてい思えない振る舞いである。(いつからそんなフレンドリーになったのか?)
 たとえば、同じ食卓でまったく同じ服装をしてディナーを取りながら二人が語るシーン。二人ともにあった軍隊での「経験」とは何か?
 たとえば、二人が隠れんぼうしているシーン。猫なで声を出しながら隠れ場所に迫ってくるヒューゴの接近に、官能に打ち震えるようなトニーの表情の意味は?(そもそも大の男が二人、隠れんぼうしていること自体が怪しいけれど・・・。)

 召使を演じるダーク・ボガードは、丁重至極な典型的な英国の召使から、その皮をはいだところに現れるセックスアピールぷんぷんたる野卑な下層の男、トニーを支配しているつもりで自らも快楽の虜となり関係にはまり込んでいく複雑な心理、それらをあますところなく表現している。

 現在ならば、こうした隠喩表現は要らないだろう。主人と召使のゲイセックスは、腐女子もといヤオイちゃんたちの熱狂的に愛好するテーマの一つであり、映像表現においてもなんらタブーは存在しない。日本でもイギリスでも。
 もし、いまロージーがもう一度『召使』を撮ったら、どんな作品になるだろうか。
 秘すべきもの、隠すべきものが存在しないがゆえに、ロージー独特の曖昧さともどかしさと秘密の匂いが失われて、センセーショナルではあるけれど、つまらないもの、味気ないものになるのだろうか。



評価: B+


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!




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